常世岐姫神社
社伝によれば、当社は古来八王子権現宮と称し、広く崇敬を受けていたと伝える。江戸期は、真言宗東福寺が別当を務めていたが、神仏分離によりこれを離れた。
八王子権現は、山王七社権現の祭神の一つ国狭槌尊を祀る。また、八王子は天照大神と素盞嗚尊との誓約の時に出現した五男三女の神、天之忍穂耳命、天之穂日命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命・多紀毘売命(沖津島比売命)・市寸島比売命(狭依毘売命)・多岐津比売命である。なぜ八王子権現宮に常世岐姫神社の名を付けたのかは不明である。姫とつくことから後者の三柱の女神(宗像大神)を祀ったのではないかとも考えられる。現在の祭神は、常世岐姫命である。
また、大字渡柳にも同名の社があり、当社から分霊したものと伝えている。
社記によると、寛永一〇年と元禄一三年の棟札があると記されているが、現在、元禄の棟札のみが残されている。
明治六年に村社となったが、当社では合祀は行われなかった。
境内には末社として天神・伊奈荷合殿社と目神社を祀る。末社の祭りとしては、天神社が三月二五日、伊奈荷社が二月二二日となっていたが、これを行わなくなって久しい。(埼玉県神社庁「埼玉の神社より)
当社は忍城主成田下総守親泰が、氏神として大和の春日神社から勧請したもので、成田氏は遠く藤原氏の流れをくむ家柄と伝える。親泰は成田氏15代目で、児玉重行が居斌する忍妹を文明年間に攻め、児玉氏を追い本拠を成田館から忍城に移している。そのため、当社の創建もこのころかと思われる。社の裏の森陰には大樋が設けられ、これを閉めると忍城の堀と沼の水源が断たれ、佐間の天神社の沼尻の樋を開放すれば水は放出されやはり城の回りの水は干上がる。このため、この地には成田氏の重臣正木丹波守が邸宅を構えて、城を守護していたのである。このように春日神社は、成田氏の氏神ばかりでなく忍城の守りの要であった。
祭神は武甕槌命・斎主命・天児屋根命・比売神の四柱である。本殿は一間社流造りで、内陣中央には宮型の厨子があり、向かって右側に木造の神像(表面磨滅のため碑名等不明)、左側に正徳元年10月吉祥日の柴燈護摩供社中安全札がある。これには法王山定院とある。山道院は本山派修験で春日山勝軍寺と号し、神仏分離まで当社の別当を務めていた。
春日の神の神使は鹿で、成田氏が藤原の家筋であることから、当社勧請以来毎年二頭ずつ神鹿が春日から送られてきて、村人は神の使いとして大切に鹿を育てた。この鹿については次のような話が伝わる。ある時、いつものように畔を通り春日様の鹿がやって来た。この時、近くで田を耕していた青木某が鹿を捕らえてやろうと悪戯心を起こして手に持っていた鋤を、走る鹿にめがけて投げつけた。鹿は血を流しながら、神社の杜に逃げ込んだ。翌朝、鹿が杜の中で死んでいるのを発見した村人は、手厚くこれを葬り墓石を立てた。その後、青木家に夜盗が押し入り、乱暴な青木はこれに立ち向かったところ、賊は恐れをなして逃げ出し、青木は刀を抜いて後を追いかけた。この時、小溝を飛んだ拍子にどうしたわけか転び、はずみで持っていた刀で脇腹を刺し落命した。不思議にも鹿の傷ついた所と同じ場所なので、村人は鹿を殺した神罰だと語り合い、奈良からの鹿も来なくなった。現在社殿右手にある鹿社の祠には「御使鹿」とあり、宝暦12年4月と刻まれている。
拝殿の奉納額を見ると、天明6年の柳川儀助奉納の大絵馬「酒造りの図」があり、また、伊勢参宮もよく行われたらしく、嘉永3年と安政4年の「伊勢参宮の図」の大絵馬がある。
明治に入り、当社は山定院より離れ神職が奉仕するようになり、明治5年には村社となった。合祀は明治41年に実施され、堀の内町の愛宕社、上谷町の神明社、飯倉町の白山社、新田町の天神社を境内に合祀した。(埼玉県神社庁「埼玉の神社」より)
所在地 埼玉県行田市荒木5230
主祭神 常世岐姫命
社 格 旧村社
由 緒 荒木常世岐姫神社の創建年代や由緒については不詳
寛永10年(1633)・元禄13年(1700)の棟札があったといい、少なくとも江戸時代初
期には既に鎮座しており、八王子権現社と称していたという。
明治6年村社に列格
例 祭 不明
所在地 埼玉県行田市谷郷395
主祭神 武甕槌命、齋主命、天児屋根命、比売神。 (相殿) 菅原道真
社 格 旧谷之郷村鎮守、旧村社
由 緒 谷郷春日神社は、忍城主成田下総守親泰(天文14年1545年没)が忍城を攻め落として忍領主とな
った際、成田氏の祖藤原氏の氏神大和春日大社を勧請、創建したと伝えられる。当地は忍城の
守りの要であったといい、成田氏の重臣正木丹波守が邸宅を構えていたという。
例 祭 8月19日
拝 殿
戦国時代の忍城 鬼門の守護神
埼玉県神社庁の由来書きでは、常世岐姫について「姫とつくことから後者の三柱の女神(宗像大神)を祀ったのではないかとも考えられる。」と説明されているが、正直非常に苦しい解釈をしている。また本宮が大阪府にありながら、分社が全国的ではなく、埼玉県北部に数社しかないのも少々気になるところだ。一体常世岐姫とは何者なのだろうか。もしかしたら常世岐姫は別名で、本名は我々の知っている有名な女神なのではないだろうか。
久伊豆神社の祭神は、素盞嗚尊の子大己貴命である。
創立は文明年中(1469-1487)で、成田下総守顯泰が忍城築城に際し、城の鬼門の守護神として当神社を祀り、隣接する長久寺を別当とした。これに合わせ、城の裏鬼門の守護神として城の南西大宮口に、やはり久伊豆神社をおいている。
境内には15m四方の枝張りを有する藤があり、市指定天然記念物となっている。
この藤は、境内にある赤飯稲荷を合祀する際に、市内若小玉にある「紫藤庵の野田藤」を根分けして植えたものである。野田藤は、日本原産の藤であるが、花房が1.5mもあるのは珍しい。
なお、本社には市指定書籍の勝海舟書「大幟」原本も保存されている。(境内掲示より)
ところで、行田久伊豆神社内、拝殿の隣には、摂社として赤飯伊奈利大社が鎮座 している。この社の規模が、摂社というにはもったいないような社殿の造り、また奉納燈籠などの数の多さなどから、よほど古来から霊験あらたかで崇敬を地元
で集めているのだろう…と想像できる。神社の歴史でも摂社が偉くなるとこのようになるのかと感じた。
●天然発酵〜武州正藍染〜
羽生や加須、行田、騎西など北埼玉で藍が栽培されるようになったのは、江戸時代後半の天明期の頃とされています。 |
常世岐姫神社の祭神である常世岐姫とはどのような人物だったのだろうか。
大阪府八尾市神宮寺に常世岐姫神社が存在する。どうやらこの社が本宮で、残りの分社が埼玉県北部に数社確認されている。この荒木常世岐姫神社はその分社の一つだそうだが、なぜ埼玉県北部しか分社がないかは不明だ。
本宮のある八尾市神宮寺は古代に赤染部という染色技術者集団がおり、ルーツをたどれば6〜7世紀に南鮮から渡来した人たちだった。『続日本紀』光仁天皇
宝亀八年(777)四月条によれば、彼らの子孫だった河内国大県郡の赤染人足ら13人が、「常世連」姓に賜ったという。当社はこの常世連が氏神を祀った神社とされ、河内国大県郡にある同名の式内社に比定されている。
この常世岐姫という祭神は、女神であったということ以外、ほとんどのことが分からない。従って当社における箒と結びついた安産信仰もこの祭神の性質と結びついたものかどうか不明である。
また常世岐姫神社の正式名称は明治時代以降のものであり、それまでは「八王子神社(はちおうじじんじゃ)」と称していた。現在も正式名称よりも旧名称のほうが知られており、地図や看板・社頭の石標・八尾市教育委員会の説明標にも八王子神社と記されている。
なお赤染氏は、豊前国の式内社・香春神社の神職でもあったという。香春神社は新羅系渡来氏族(秦氏に連なるともいう)が創建した神社で(豊前国風土記に、「昔、新羅の国の神−香春の神−が自ら海を渡って来た」とある)、その渡来氏族が香春の地から東進して宇佐地方に入り、在地氏族(宇佐氏)と一体化して創建したのが宇佐八幡宮という。
彼らは土木・養蚕・機織・採鉱冶金といった先進技術をもって各地に展開したといわれ、当地の赤染氏もその一族として染色・赤染(紅染・茜染)などの特技をもった技術集団であろうといわれ、時代は降るが、鎌倉時代の吾妻鏡(1300頃)には、
「この地の人々は河内国藍御作手(アイミツクテ)奉行に任ぜられ、諸国へ藍作・藍染の技術を指導した」
とあるという。
時代は下るが、常世岐姫神社が鎮座する行田市に隣接する羽生市は江戸時代から藍染生産が盛んで、武州正藍染は地元では有名である。
本殿 このアングルから見ると非常に立派
この大幟は、長さ10m、幅1.2mで、実物大に大書されている。
箱書によると、明治17年11月に氏子総代が中心となって、勝海舟に依頼し、書かれたとのこと。(行田市教育委員会掲示より)
境内社 天神 伊奈荷合殿社
参道正面に社殿
市指定書籍の勝海舟書「大幟」原本も保存されている
谷郷春日神社は、忍城主成田下総守親泰(天文14年、1545年没)が忍城を攻め落として忍領主となった際、成田氏の祖藤原氏の氏神大和春日大社を勧請、創建したと伝えられる。谷郷春日神社は、江戸時代には谷之郷村鎮守になっていた他、明治5年に旧村社に列格、明治41年には堀の内町の愛宕社、上谷町の神明社、飯倉町の白山社、新田町の天神社を合祀している。
県道128号線左側にある常世岐姫神社の社号標
摂社・赤飯赤飯伊奈利大社境内右下に祀られる祠(稲荷社か?)と碑