比企郡は、埼玉県の中央部に位置し、山地から丘陵、そして沖積地へと変化に富んだ地形が特徴だ。郡の範囲は入間川支流越辺川の北、都幾(とき)川、市野(いちの)川の流域一帯で、四囲は、大里・横見・足立・入間・秩父・男衾の各郡に接している。おおむね現在の現東松山市、比企郡に属する町村(吉見町を除く)の地域である。『平安時代に編纂された『延喜式』には武蔵国の郡名として比企が登場するが、「ひき」は日置が語源で、日置部(ひおきべ)という太陽祭祀集団と関係するという説がある。
比企丘陵は外秩父山地から東方に半島状に突き出した丘陵であり、北部は江南台地、南部は東松山台地、東部は吉見丘陵に接している。丘陵内では、高根山(標高105m)、二宮山(標高132m)、大立山(標高113m)など標高100m前後の山が、丘陵の西半分の地域に散在して突出した地形をつくるが、全体的には100m以下の丘陵地形をつくっている。丘陵内部には、市ノ川・滑川およびその支流による開析が進み、広い谷底と小谷が発達している。この開析谷は、北西〜南東あるいは南北の方向をもつものが多く、これらの谷頭は丘陵の北側に極端に偏り、分水嶺は丘陵の北縁近くに偏在する。このため、丘陵北縁を東流する和田川の支谷は、未発達となっている。
江南町域においては、高根山から派生する丘陵と、滑川町和泉地区から派生する二つの尾根筋があり、嵐山町とは西側の谷を流れる滑川で区分されている。
本丘陵は、地質学的には新生代第三紀層に相当し、礫岩・砂岩・泥岩・凝灰岩等の互層によって構成されている。層序は、下位より、前期中新世に属する七郷層(凝灰岩質で緑色変質が特徴。層厚830m以上)、中期中新世に属する小園層(粗粒砂岩を主体とし、礫岩・泥岩・凝灰岩を伴う。層厚300m。)、荒川層(砂岩・泥岩の互層で、下部に礫岩を伴う。層厚350m)、土塩層(砂質泥岩を主体とし、砂岩・凝灰岩を伴う。層厚350m)、後期中新世に属する楊井層(礫岩を主体とし、砂岩・凝灰岩を伴う。層厚300m)となり、これらの中新統を不整合に覆って更新世に属する物見山礫層が分布している。
所在地 埼玉県比企郡滑川町伊古1242
主祭神 気長足姫命(息長帯比売命)
大鞆和気命(誉田別命)
武内宿禰
*本来の祭神は速御玉比売命
社 格 延喜式内 旧郷社
由 緒 仁賢天皇のとき創祀
文明元(1469)年当地に遷座
享保14年(1729)閏9月29日正一位 明治6年郷社
明治40年4月2日神饌幣帛料供進神社指定
例 祭 十月十五日 例大祭
熊谷から県道47号線で滑川町役場(北)交差点より北西2km程にあり、伊古の丘陵地帯に鎮座している。ひっそりと鎮座している、と言う言葉通り、周囲は閑散としていて、参拝日全く人に出会わなかった。ちなみにこの伊古乃速御玉比売神社の周辺には淡洲神社が濃密に分布していて、その特徴は南北方向には広範囲だが、東西方向は狭い。淡洲神社は滑川町土塩、福田、山田に、大雷淡洲神社が滑川町山田に、阿和須神社が滑川町水房にある。
創建当初は二ノ宮山上にあったが、文明元年(1469年)にこちらへ遷座したそうだ。ちなみに二ノ宮山はここから西へ700m程の距離にあり、山頂にはこちらの神社の奥宮があるとのことだ。
一の鳥居横にある案内板
伊古乃速御玉比売神社
滑川町大字伊古
昔は二ノ宮山上にあつたが文明元(1469)年当地に遷座したと伝える。
第60代醍醐天皇は藤原忠平に命じて延喜式を編さん、武蔵国で44座を数えた。その中の一社で県内でも古社の一つで、比企総社となっている。
境内全域に自生する樹水は、南半部にアラガシを主とする暖帯常緑樹、北半部はアカシデ、ソロを主とする温帯落葉樹で両帯樹が相生していて学術上きわめて重要なため、県指定天然記念物である。
段を登りきったところにそびえ立つ御神木「ハラミ松」は箭弓安産の祭神と相まって近年でも広く信仰がなされている。
平成三年 敬白
滑川町観光協会
滑川町教育委員会
社頭掲示板
一の鳥居を超えると石の階段が続く。 階段は長くなく、途中から二の鳥居の先の拝殿が見えてくる。
境内の社叢は埼玉県指定天然記念物。前回は1月の参拝で、今回で2回目、参拝日は9月初めで大変暑く、緑深く覆われており湿気もあり、参道内は薄暗い。しかし丘陵地独特の味のある階段がたまらなく趣があり、この神社にはこの緑の暗さと、湿度、それに日本人の美意識の一つである侘び、寂びの精神が社全体に漂っていた。
ほの暗い参道、そして二の鳥居を抜けると日光を浴びた明るい拝殿が現れる。延喜式内社、比企総社、明治6年に郷社の社格を持った風格ある由緒正しき神社。
一に淡州明神と云、今は専ら伊古乃御玉比賣神社と唱へり、此社地元は村の坤の方小名二ノ宮にありしを、天正四年東北の方今の地に移し祀れり、祭神詳ならず、左右に稲荷・愛宕を相殿とす、当社は郡中の総社にして、【延喜式神名帳】に、比企郡伊古乃速御玉比売神社とあるは、即ち当社のことなり、[中略]
又此社式内の神社と云こと、正き証は得ざれども、村名をも伊古といひ、且此郡中総社とも崇ることなれば、社伝に云る如く式社なるもしるべからず、ともかく旧記等もなければ詳ならず、例祭九月九日なり、別当円光寺 天台宗、東叡山の末、岩曜山明星院と号す、
[中略]
薬師堂 薬師は当社の本地仏なりと云 新編武蔵風土記稿」巻之百九十四(比企郡之九)より
本殿の左奥にある金刀比羅神社 境内社 天満天神社
伊古乃速御玉比売神社から少し西側へ離れたところに鎮座する不明の社
滑川村伊古乃速御玉比売神社社叢
ふるさとの森
昭和55年3月25日指定
身近な緑が、姿を消しつつある中で、貴重な緑を私達の手で守り、次代に伝えようとこの社叢が「ふるさとの森」に指定されました。
社叢は、神社の歴史的遺産と一体となり、本県でも有数のふるさとを象徴する緑です。
アラカシ・アカシデを主とした暖帯林の中に針葉樹のモミが混生しているところに社叢の特徴があります。
境内の西側にはアカシデ・イヌシデ、北側にはモミ、南東にはアラカシが、それぞれ生育しています。
今後も皆様の手でふるさとの森を守り、育ててくださるようお願いいたします。昭和55年10月
埼玉県
社頭掲示板
伊古乃速御玉比売神社の祭神を「淡洲明神」とし、安房国一の宮「安房神社」の祭神・天比理乃当スの異名という説もある。安産の神として比企郡内の「箭弓神社」ともども崇敬されているとのことだが、一体この社と安房国と何の関係があるのだろうか。
*阿波国
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に位置する。別称は阿州(あしゅう)。領域は現在の徳島県にあたる。『延喜式』での格は国力で上国、距離で中国。古代、現在の徳島県の北の地域は粟の生産地だったために「粟国(あわのくに)」、南の地域は「長国(ながのくに)」と呼ばれていたが(長国は現在も「那賀郡」として地名が残り、その名も「長」「那珂」「那賀」などとして、日本各地に広がっている)大化の改新の後に「粟国」に統一された。和同6年(713年)、元明天皇の命により地名を二字で表記するため粟は「阿波」に変更された。
また常総地区の「鷲神社」は通称「鷲宮」とも呼ばれ、阿波の産土神「天日鷲命」が祭られる。
天日鷲命
日本神話に登場する神で、『日本書紀』や『古語拾遺』に登場する神。阿波国を開拓し、穀麻を植えて紡績の業を創始した阿波(あわ)の忌部氏(いんべし)の祖神。
『日本書紀』では天の岩戸の一書に「粟の国の忌部の遠祖天日鷲命の作る木綿(ユフ)を用い」とある。
『古語拾遺』によると、天日鷲神は太玉命に従う四柱の神のうちの1柱である。やはり、天照大神が天岩戸に隠れた際に、穀(カジノキ:楮の一種)・木綿などを植えて白和幣(にきて)を作ったと さ れる。そのため、天日鷲神は「麻植(おえ)の神」とも呼ばれ、紡績業・製糸業の神となる。
また下野国鷲宮神社の祭神も天日鷲命であり、常陸国には阿波国との関係を連想させてくれる「那珂川」「那珂郡」が存在する。
阿波にある大杉神社は、関東・東北地方に分布する大杉神社の総本社であり、祭神は倭大物主神で水上交通の神とされるが、祭神のほうはおそらく訛伝か。この神社名に通じる杉山神社が、式内社をはじめとして武蔵の南西部に多く分布し、杉などの木種をわが国に伝えた五十猛神(天孫族の始祖)を主祭神として安房忌部の支族が奉斎した事情があるからである。
利根川下流域の両総・安房あたりから武蔵・下野にかけての地域には、フサ、麻生(常陸国行方郡)、結城(木綿で、木綿を作るカヂの生える地)等々の麻・衣服関係の地名が多く見える。麻生は、『常陸風土記』行方郡条に見える古い地名(現行方市)であり、大麻神社が鎮座する。現在の祭神は天太玉命とも、武甕槌神・経津主神などともするが、おそらく安房忌部の祖・大麻比古命(天日鷲命の子)が本来の祭神ではなかろうか。
阿波国と武蔵国を初めとする関東地方各国との関係は思った以上に根が深い。それと同時に、上古代阿波国はどのような国だったのか、興味は尽きない。それは後日改めて。
また伊古乃速御玉姫神社の祭神である速御玉比売命とはどのような神だろうか。
名前から単純に推測すると、熊野速玉大社と関係があるかと思われるが、そんな単純ではない。では名前を分割するとこのように分かれる。
伊古 + 乃 + 速御玉 + 比売
1 「乃」 「の」の万葉仮名
すなわち〔すなはち〕【▽即ち/▽則ち/×乃ち】前に述べた事を別の言葉で説明しなおすときに用いる。前に述べた事と次に述べる事とが、まったく同じであることを表す。
(連体修飾語に続けて)その時。むかし。あのころ。当時。すぐに。たちまち。もう。すでに。
この語の語源は、いわゆる「時を表す名詞」の一種であり、平安時代以後、「即・則・乃・便」などの字の訓読から接続詞として用いられるようにもなったと考えられ、現在ではその用法に限られるといってよい。
2 「御」 名詞に付く接頭語で尊敬の意、丁寧に、または上品に表現しようとする時に使われる。
「速御玉」の「御」は上記の通り名詞につく接頭語なので、実際の言語は「速玉」である。では「速玉」とはなにか。
「速玉」 神威盛んなりて、神徳映え輝くさま映霊の意なり。また冨栄え冨む、魂の急速なる成長の意。よって富貴隆昌、現世安穏、先祖慰霊、良縁結び、海上安全、病気平癒など、諸願成就の
神格を持ち給う神名なり。
3 「伊古」 「渭後(いご)」、「沼乃之利(ぬのしり)」に通じるとされ、祭神の速御玉比売神は「渭後」に坐す姫神とされる。
つまり「比企郡の渭後(ぬのしり、沼尻)という地名に君臨し、この地の国造りに功績があった神威盛んな魂の姫君」と直訳される。
では、この神は地元出身の神だろうか。それとも有力な外来勢力系列出身の神なのだろうか。現段階では不明だ。
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「アワ=阿波」の名がついた不思議な社
所在地 埼玉県比企郡滑川町山田765
主祭神 品陀和氣命、息長帯比売命
社 格 村社
由 緒 当社は、応永2年(1395年)に、神功皇后の三韓征伐の成功を讃え、当地にご神霊を奉斎したことに始まると伝えられる。
例
祭 記念祭 3月10日
淡州神社は埼玉県道250号線、森林公園停車場武蔵丘陵森林公園線を道なりに北上して行くと、山田交差点の西側、進路に対して左側に淡洲神社が鎮座している。駐車場は一の鳥居前に駐車できるスペースがあり、そこに車を停め参拝を行った。
一の鳥居から撮影 淡州神社の説明板
淡洲神社
滑川村大字山田(上山田)
祭神 誉田和気命 息長足日売命 素盞鳴命
由緒
当社は神功皇后が三韓鎮定に大功があったのを里民尊崇して此の地に神霊を奉斎したと伝承される。神社所蔵の古書によれば創建の年代は応永二(西暦一三九五)年とあり、往古は邑の総鎮守であったと云う。明治四年三月村社の格に列す。境内地五百七十七坪あり老樹うっ蒼と茂り古社の風格を漂わせている。
祭事
元旦祭 | 一月一日 | 祈念祭 | 三月十日 |
塞祭 | 五月一日 | 夏祭 | 七月十四日 |
秋祭 | 十月十六日 | 新嘗祭 | 十二月十五日 |
大祓 | 十二月二十七日 |
拝 殿 淡州神社と書かれた額
淡州神社の祭神が品陀和氣命というのも不思議な感じだ。八幡神社でよさそうなものだが、元々の御祭神は淡洲明神で、水の神様だったのだろう。伊古乃速御玉姫神社の項でも書いたが、埼玉県で溜池がとても多い比企郡滑川地方で、明治の明神号使用禁止で御祭神が差し替えられたのかも知れない。
拝殿の左側に向かうと左奥に天満天神社、石段を上って行くと御嶽山大神の石碑がある。
境内社 天満天神社 御嶽山大神の石碑がある石段が正面にある。
正面は御嶽山大神。八海山大神、覚明霊神、清龍祓戸大神、十二大神、毘古那神、火産霊神、塞三柱大神、一心霊神等神々の石碑が立ち並ぶ。
埼玉県は北に利根川、中川、元荒川等の利根川水系、西部、中央部には荒川、入間川・高麗川・都幾川等の荒川水系とその支流河川の流域は多く、また流域面積も豊富だが、この比企郡滑川地区は溜池がやたらに多く、その歴史的経過等調べてみたら以下のことであった。
*比企丘陵の溜池
埼玉県は他県に比べて溜池(ためいけ、農業用水の水源)の総数は少ないが、県の中央部から北部にかけての比企郡、大里郡、児玉郡に局所的に集中して、小規模な溜池が数多く分布している。なかでも比企郡は傑出しており、約600箇所もの溜池が存在し、これは埼玉県全体の約80%に相当する。
これらは平地に設けられた皿池(野池)ではなく、丘陵の谷地(谷津)の開口部を堰堤(土手)で塞いで造成したもので、名称は池ではなく沼となっているものが多い。谷地を封鎖して造り出された新たな空間だが、意外なことに開放的な景観を形成している。またため池は用水を安定して水田へ供給する目的で造られてきたので、ため池が多く分布する地域は、もともと水不足が深刻な問題であったことが想像できる。
滑川町には約200ものため池があり、この数は埼玉県の市町村では最も多く、埼玉県全体の1/4に相当するという。おそらく、関東地方の市町村で、ため池の数が最も多いのは滑川町であろう。
ため池がいつ頃から存在するのかは、歴史的資料が現存しないので不明だが、付近に存在する古墳群との関係から、古いものは古墳時代に築かれたと思われる。古墳の存在は人々がその周辺に居住していたことを示し、そのためには何らかの生産活動が必要であり、そこで、ため池を造成して、その水を利用して稲作が展開されていたと考えるのが妥当であろう。土木技術的には古墳の築造とため池の造成は、難易度に大差はない。
境内社 天神天満社の奥にひっそりとあった石物。磐座かなにかと考えたがそれにしてはあまりに寂しい状態で放置されていた。この淡州神社にはこのような石物がよく見ると多数存在しているようだ。人類の祖先が道具として、石を利用し始めたことは太古のことであり、人類の歴史が石器時代で幕を開けたように、石は人類と深い関わりを持ちながら共に歩んできた。日本でも多数のおびただしい旧石器時代からの石器が発掘されている。日本のみならず世界の文化の出発点として石は無くてはならない存在だった。現代でも石臼や漬け物石などの生活の道具として、あるいは石仏や墓石などの信仰の対象として、または伝説の素材としての巨石や奇石、建築土木においては礎石や石積みなど、あらゆる場で根強く信頼され利用されている。
残念ながら、時代の急速な変化によって、石の文化は生活の場から急激に姿を消しつつある。特に近年は神仏に対する畏敬の念が喪失し、信仰の対象となっていた様々な石造物は人々の記憶から消失されようとしている。時代の変化と言ってしまえばそれまでだが、寂しいことである。