由緒
出雲伊波比神社由緒
創立
景行天皇53年8月、倭建命が東征凱旋のときおよりになり、平国治安の目的が達成せられたことをおよろこびになられ、天皇から賜った比々羅木の鉾を納め、神宝とし、侍臣武日命に命じて創立された社である。
歴朝御崇敬
成務天皇の代、出雲臣武蔵国造兄多毛比命が殊に崇敬祭祀され、また孝謙天皇の代天平勝宝7年(755)官幣にあずかり、光仁天皇の宝亀3年(772)には勅により幣を奉られ、以後歴代天皇御崇敬厚く御祈願所とされていた。醍醐天皇の御代[延喜7(907)]の頃延喜式内武蔵国入間郡五座の中に列せられた。
武士崇敬
康平6年(1063)源義家が奥州を平定し凱旋の際冑のいただきに鎮め奉った八幡大神の魂を大名牟遅神の御相殿に遷し奉られ、後に別宮を建てて八幡宮と称えられてきたが、現在は本社に合祀されている。義家は鎮定凱旋を祝し、報賽として上古、朝廷で行われた流鏑馬(やぶさめ)騎射の古例を模して神事に流鏑馬騎射を行ったと伝えられる(やぶさめの起こり)。(県指定民俗資料)。それ以後、例年この神事を執行し、山鳥の尾羽の箭一本を慶応3年まで幕府に献上したのである。建久年間(1190ごろ)源頼朝は秩父重忠に奉行させて檜皮葺(ひはだぶき)に造営し、神領をも寄附した。なお重忠も陣太刀・産衣(うぶぎぬ)の甲(よろい)を寄進したと伝える。
後花園天皇の代永享年中(1430ごろ)に足利持氏が社殿を瓦葺に造営、それも大永7年(1527)6月社殿炎上、また文禄年中(1590ごろ)社家が兵火にあい古文書などを失ったのである]大永7年に消失はしたものの翌8年、正しくは享禄元年9月25日に、毛呂三河守顕繁が再建した棟札が現存している点から、再建にすぐ着手されたと考えられ、県内最古の神社建築である(檜皮葺)。天文2年(1533)屋根檜皮葺大破のため瓦葺にし、天正2年(1574)北条氏政は大板葺(柿葺−こけらぶき)に修営、社領十石を附せられた。天正16年北条氏の乞により、鍾を寄進した(文書北条氏鍾証文)。寛永年間、幕府に神符献上の際白銀二枚を寄進せられ、以後七ケ年毎に神符を幕府に献上することを永例とした。寛永10年(1633)三代将軍家光修営、同13年には社殿を筥(はこ)棟造にし、棟上前面に葵の紋を附し、五七の桐の紋と共に現存、また慶安元年(1648)8月社領十石並に境内拾町九反五ほ畝歩を先規により寄進せられ永く祭祀修営の料としたのである。また寛永年中、代官高室喜三郎の時から元禄15年(1702)代官井上甚五右衛門、河野安兵衛にいたるまで毎年御供米一俵ずつ下附され、後、その例にならって毛呂郷中の地頭所から明治2年まで毎年御供米を附せられた。文政8年9月「臥龍山宮伝記」の著者斎藤義彦が神主幼少のため補佐して社殿解体修理。
明治以後
明治4年には社領を奉還し、逓減禄を賜わり明治6年毛呂郷中の惣鎮守の故をもって郷社に列し、明治22年8月20日内務省より保存資金壱百円を下賜され、同38年5月18日上地林壱町九反八畝二十四歩境内編入許可、39年4月勅令により神饌幣帛料供進することを指定され、同41年9月会計法適用指定、大正3年9月建物模様換認可をえて本殿を往古倭建命創立及び武蔵国造崇敬当時の旧地に遷殿し、中門祝詞屋を新築し、拝殿再営、透塀増延、大正5年10月模様換工事落成、千家男爵参向された。昭和13年7月4日当社本殿国宝指定、戦後文化財保護法制定により重要文化財建造物として指定され、昭和25年9月5日境内地譲与、測量、調査等に一年余日を費やして報告書作成大蔵省に提出中央審査を経て、9185坪04勺を譲与許可された。
(以下は由緒書に記載)
本殿昭和重修
当社は国史上顕著な社であり、県内最古の社であるが、腐朽甚しいので昭和32年3月国庫補助金、地元負担金総額290万円の工費をもって工事監督工博田辺泰氏、現場主任北村泰造技官を中心として解体復元工事着工、屋根、鬼板、箱棟、正面扉金具、縁廻り登階段等その痕跡に基き他の室町期の形式手法にならい復元を行なった。解体調査資料に基き現状変更したため総工費358万円を要し、昭和33年3月、一ヵ年の工期をもって完工、貴重な文化遺産として偉彩を放つこととなった。昭和58年拝殴改築。
平成4年8月
全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年
入間郡正倉神火事件
事件のあらまし
二枚の太政官符が残されていて、次のように内容を語ります。
正倉が火事になった 769(神護景雲3)年《あるいは、772(宝亀3)年》9月のこと。入間郡(埼玉県)で、国家の正倉4軒が火事になり、備蓄していた糒穀(米)が10、513石焼けた。その上、百姓10人が重病に臥し、2人が頓死した。
神の祟りだった 原因を占ってみると、それは神の祟りで、郡家(=郡衙)西北角の出雲伊波比(いずもいわひ)神が云うには、朝廷からいつも幣帛(へいはく)を受けているのに、このところ滞っている。そのため、郡家内外の雷神を引き連れて、火災を発生させた。ということである。
そこで、祝(ほうり=神職)の長谷部広麿(外大初位下小)を呼んで訊ねると、出雲伊波比神は常に朝廷が幣帛を奉る神であるが、最近は給わっていない。と云う。
関係文書を調べると、武蔵国で、幣帛を受ける社は、多摩郡・小野社、加美郡・今城青八尺稲実(いまきのあおやさかいなみ)社、横見郡・高負比古乃(たけふひこの)社、入間郡・出雲伊波比社である。それが最近、幣帛を奉ることが漏れ落ちている。よって、前例によってこれを実施せよ。(宝亀3年12月19日太政官符)
郡司が処罰された もう一枚の太政官符は、事件の内容はほぼ同じで、「郡司を処罰する。しかし、郡司の譜第を絶つことなかれ」と郡司職について言及するものです。(宝亀4年2月14日太政官符)
◎幣帛というのは神にたてまつるものすべてを云うらしく、玉串が思い浮かびますが、延喜式では、制(あしぎぬ=粗製の絹布)、五色薄制(いついろのうすぎぬ)、木綿、麻、庸布、刀、楯、戈(ほこ)、弓、鹿角(しかのつの)、鍬(すき)、酒、アワビ、堅魚(かつお)、干物、海藻、塩、・・・など多数を挙げています。
◎769(神護景雲3)年《あるいは、772(宝亀3)》と3年の差がある年号は、二つの太政官符の間に神火が発生した年の記載に違いがあるためです。その解釈を巡って、学者の間では議論が交わされています。私は解決するすべを持ちませんので、併記します。詳細は次の文献に記載されています。
土田直鎮 古代の武蔵を読む 吉川弘文館
森田悌 古代の武蔵 吉川弘文館
出雲伊波比神社が鎮座する毛呂山町は、律令時代入間郡と言われた。入間郡は武蔵国のほぼ中央部、入間川の支流、越辺(おっぺ)川と多摩丘陵に挟まれた地域で、四囲を足立・新座・多摩・秩父・高麗・比企の各郡に接している。おおむね現入間郡に属する町村(名栗村を除く)、川越市、坂戸市、鶴ヶ島市、狭山市、入間市、所沢市、富士見市、上福岡市の地域で、『和名抄』は「伊留末」と訓じている。
7世紀ごろに武蔵国の郡として成立。交通路として古代の官道東山道武蔵路の枝道「入間路」が整備されていたほか、入間川及びその支流の水運も使用していた模様である。『万葉集』巻14東歌(あずまうた)・3778番に「伊利麻治能 於保屋我波良能 伊波為都良 此可婆奴流奴流 和尓奈多要曽称」(入間道の 於保屋が原の いはゐつら 引かばぬるぬる 吾にな絶えそね)がある。現在「入間」は「いるま」と読むが、古くは「いりま」と発音していたことが知られる。郡衙は現在の川越市にあったものと見られ、同市大字的場字地蔵堂の霞ヶ関遺跡が郡衙跡であろうと考えられている(所沢市・坂戸市内の別の遺跡を郡衙跡に比定する説もある)
例祭(11月3日)には、町内の家の長男(小・中学生)が乗り子を務める流鏑馬(やぶさめ)神事があり、一の馬・二の馬・三の馬に別れ、白(源氏)・紫(藤原氏)・赤(平氏)に色分けし奉納される。因にこの流鏑馬が埼玉で見られるのは当社だけとなっている
流造一間社という所謂ポピュラーな建築様式で、こじんまりとしているが、享禄元年(1528)9月25日再建という埼玉県最古の神社建築で、国の重要文化財に指定されている。
本 殿
二の鳥居から社殿を見る
所在地 埼玉県入間郡毛呂山町岩井西5丁目17-1
主祭神 大名牟遅神
天穂日神
品陀和気命(応神天皇)・息長帯比売命 他16柱
社 格 旧郷社 延喜式内社武蔵国入間郡五座筆頭
創建年代 景行天皇53年(123年)に倭建命が東征凱旋の際侍臣武日命(大伴武日)に命じて社殿創設、神宝
として比々羅木の矛をおさめられたと伝えられ、現に東北を向いて鎮まり坐す。
由 緒 出雲伊波比の神名初見は宝亀3年(772年)の太政官符においてで当社はそれによってその論拠を
えたのである。それによると当社は天平勝宝7年(755年)には官幣に預かる「預幣社」となり、延喜式
神名帳にも記載される。
例 祭 11月3日 県無形文化財民俗資料選択の「古式流鏑馬」が奉納
流鏑馬の案内板
社殿の西側にある流鏑馬の道
拝 殿
昭和三十八年・五十八年に修復・改築されたもの
拝殿 後方から撮影
日本人のDNAをくすぐるような渋い社
埼玉県の誇れる文化遺産をまた一つ発見したような気分だった。
三の鳥居より拝殿を撮影
参道 雨交じりの風景もまた良い
神楽殿 やや小ぶり
埼玉県内最古の神社建築と千年の伝統を誇る流鏑馬
品陀和気命が祀られる八幡宮。瑞垣内にはないが、形式上本殿と並列配置となっている。
国賓出雲伊波比神社 本殿 社号標
拝殿横にある案内板
全国的な知名度は決してないけれども、このような郷土に根づく伝統を守るという地元の方々の厚い思いと日頃の努力には敬意を感じずにいられない。
決して流鏑馬の維持する環境は良いものではないと思う。有名な神社で催される流鏑馬とは違い、地方の神社は地元、氏子がどうしても中心となる。それでも920年という長きにわたって面々と続く伝統を保持、そして子孫に継承させる地元の方々の思いが根底にあるのではないか、と深く感じた。
埼玉県民の一人として、このような素晴らしく他県に誇れる文化に対し、今後何かしらの協力をしなければいけない、と強い使命感を感じさせてくれるくらいの素晴らしい社であった。
出雲伊波比神社はJR八高線毛呂駅から徒歩で5分、毛呂山町のほぼ中央に位置し、毛呂小学校北接、臥龍山の頂に鎮座する。毛呂山町の中央に位置していることでもわかる通り、神社を中心に町が形成された、と言っても過言ではない。
この社の歴史は古い。社格は郷社ながら延喜式内社武蔵国入間郡五座筆頭を誇り、本殿は享禄元年(1528)9月25日毛呂三河守顕繁が再建したもので、埼玉県内最古の室町期の神社建築であり、棟札二面とともに国指定重要文化財建造物・旧国宝である。
また埼玉県内で唯一、毎年奉納される流鏑馬は埼玉県指定無形民俗文化財。900余年の伝統を絶やさず行なっていることにも頭が下がる。県内で流鏑馬を行なっている社は当社と萩日吉神社(都幾川村)のみか。萩日吉神社は三年に一度の奉納であり、県内では唯一の通年奉納の流鏑馬である。
毛呂の流鏑馬
出雲伊波比神社の流鏑馬(やぶさめ)の神事は、毎年11月3日・文化の日に行われている。その起源は康平6年(1063)に奥州平定をした源頼義、義家父子が凱旋の際に奉納した事によるといわれ、以前、埼玉県内各地で行われていた流鏑馬も、毎年行われているのは毛呂山町だけとなっている。毛呂山町の流鏑馬では一の馬・二の馬・三の馬によって奉納され、それぞれ色分けされ、白は源氏を、紫は藤原氏を、そして赤は平氏をあらわしているという。
神事までは10月上旬から準備され、当日は午前0時のもちつきから始まり、朝的(あさまとう)、野陣、夕的(ゆうまとう)と続く。夕的の神事では願的、矢的、扇子、のろし、みかん、鞭などがあり、これは戦国時代の武士の鍛錬・出陣から凱旋までを表現しているといわれ、乗り子は町内の家の長男(小・中学生)が務めている。乗り子の服装は陣笠、陣羽織、袴で騎射の際に烏帽子をかぶり、そして花笠に馬印や母衣を背負い、帯刀した正装は夕的の出陣の時に見ることが出来る。
毛呂山町の流鏑馬神事は昭和33年に県の選択選択無形民族文化財に指定されている。
出雲伊波比神社は古代では結構乱暴な神だったようだ。
一般的には拝殿と幣殿で繋がっているものがほとんどだが、こちらは拝殿とは距離があり、瑞垣で囲われている。それはそれで違和感が全くなかった。