ところで「埼玉苗字辞典」」には「松山」について以下の記述がある。
松山 マツヤマ 古代朝鮮語で山は村の意味。鉱山鍛冶の集落を松山と称す。横見郡流川村松山城(吉見町)は松山郷にあり、同郡根小屋村・柚沢村・土丸村(吉見町)の三ヶ村は松山郷を称す。また、横見郡流川村、大里郡玉作村・甲山村(大里町)、入間郡赤尾村・成願寺村(坂戸市)の五ヶ村は松山庄を称す。松山城下の比企郡松山町(東松山市)は、応永十六年紀州米良文書に武蔵国松山内本郷と見え、小田原役帳に松山本郷之内と見ゆ。本町一丁目曹源寺延宝八年庚申塔にも松山本郷村と見ゆ。
「松山」とは「松」と「山」と二字にどちらも意味があり、「山」とは古代朝鮮語で村という意味があるらしい。では「松」はどのような意味があるのだろうか。
松 マツ 須(まつ、まち)、待(まつ、まち)は鉱山鍛冶の意味で、佳字に松、町を用いる。詳細は町条参照。慶尚南道金海の古名は金官伽耶と云う、金(そ)は鉄(くろがね)の産出する国の意味。素那羅(そなら、すなら)と称し、須那羅(すなら)とも書く。梁山の古名である匝羅(さわら)、多大の古名である蹈鞴(たたら)の一帯を南加羅と称す。中興武家諸系図に「松野・呉太伯の舎弟仲雍十七代呉王夫差の後胤」。姓氏録・右京諸蕃に「松野連。呉王夫差より出づる也」と。漢人坂上氏は応神天皇四十一年紀に「阿知使主等・呉より筑紫に至る。是の女人等の後は、今の呉の衣縫、蚊屋の衣縫、是れ也」と見ゆ。蚊屋(かや)は大伽耶(今の金海)より阿羅伽耶(今の咸安)一帯を称し、阿羅(あら)は阿耶(あや)・漢(あや)とも称し、此の附近に呉あり。呉出身の毛野氏に率いられて鉱山鍛冶集団の松一族(松野、松本等)は上野国・下野国に渡来す。呉(くれ)条、坂上(さかのうえ)条参照。此の地方からの渡来集落を松、松野、松村と称し、二字の制度により松井、松江と称す。倉は銅の意味で鍛冶鋳物師を松倉と称す。坂(ばん)は蕃(ばん)のことで渡来人の蔑称で松坂と称す。沢は匝羅人の意味で松沢と称す。崎、下(もと)は浦の意味で南加羅の海岸地帯の海洋民を松浦、松崎、松下、松本と称す。岡、島、田、永、原、山は全て村・集落の意味で、松岡、松島、松田、松永、松原、松山と称す。是等の集団は須那羅の須田氏・須永氏と同じ渡来地の上野国・下野国に多く、海添の房総より常陸国・磐城国方面、或は出羽方面に渡来し、また鉱山地の信濃国に土着す。
さらに「松」の本来の漢字である「町」については以下の記述である。
町 マチ 日本書紀神代上・素戔鳴尊の八岐大蛇退治に「吾は是国神、脚摩乳(あしなつち)と号す。我が妻は手摩乳(てなつち)と号す」。古事記には「足名椎神、手名椎神」と見ゆ。脚は足無(あしな)、手は手無(てな)のことで、足と手が無い蛇を表し鍛冶神の意味。摩乳(つち)は椎(つち)・鎚(つち)のことで、即ちトンカチを表し鍛冶道具の意味。国神(くにつかみ)夫婦は鍛冶神である。また、鍛冶集団を率いて渡来した物部氏の祖神饒速日尊の子は、古事記に宇麻志麻遅命(うましまちのみこと)、日本書紀に可美真手命(うましまでのみこと)、或は味島乳命(うましまちのみこと)、天孫本紀に宇摩志麻治命(うましまちのみこと)、姓氏録に味真治命(うましまちのみこと)と見ゆ。ウマシは「立派な」の意味。麻遅(まち)、真手(まで)、麻治(まち、まぢ)、真治(まち、まぢ)等は、摩乳(まち)のことで鍛冶道具の鎚(つち)の意味である。鍛冶集団の首領をウマシマチと称す。マチは鉱山鍛冶師のことで町(まち)・待(まち、まつ)の佳字を用いる。須(まつ)は、まちうけるの意味で待(まち、まつ)に同じで松の佳字を用いる。須(まつ)の須(す)は素(す、そ)で金(す、そ)の意味、即ち鉄(くろがね)のことである。スナラ条参照。町田の田は百済語の郡県・村の意味で、鉱山鍛冶師の集落を町田と称す。町氏は各市町村に存す。
比企地域には、西暦600年前後、6世紀後半から7世紀にかけて、桜山(東松山市)、五厘沼(滑川町)、和名(吉見町)の埴輪窯、須恵器窯で、須恵器が生産がはじまっていた。8世紀になると、南比企丘陵−鳩山町を中心に、嵐山町、玉川村の一部に多くの須恵器窯がつくられて、須恵器と瓦の生産がさかんに行われるようになった。
東松山市にも東松山市高坂の物見山丘陵の南斜面にある桜山埴輪窯跡群や、同市の東北の端の大谷地区にある大谷瓦窯跡(国指定史跡)がある。これらの生産を担っていた集団がこの「松山」の地に多数存在していたのではないかと推測する。
箭弓神社が鎮座する東松山市は、埼玉県のほぼ中央部に位置する人口約9万人の市である。市中央部から西部・南東部にかけて東松山台地、南部には高坂台地が広がり、両台地上には東武東上線の駅があることもあり市街地や住宅地が多いほか、北部は比企丘陵、南西部は岩殿丘陵の東端部に当たりその立地を活かした新興住宅団地が多いようである。また、都畿川や越辺川流域周辺は洪積低地となっており田園風景が広がっているが、近年の土地区画整理事業により宅地化が進んでいる。
また鎌倉街道等、多くの街道が集まる交通の要衝として、古くは鎌倉時代から松山城(現在の行政区域は比企郡吉見町に存在するが、松山城跡自体は当市と隣接している)の城下町、その後は松山陣屋の陣屋町として発展した比企地域の中心都市である。
「やきゅう」という音との縁で、プロ野球をはじめとする野球関係者が多く参拝する事でも知られている。特に、同じ埼玉県内の所沢市に本拠地を構える埼玉西武ライオンズの選手が頻繁に訪れているという。
遡ること七代目市川團十郎は特に厚く当社を崇敬しており、社に籠り芸道精進、大願成就のご祈願をいたし、その当時、江戸の柳盛座の新春歌舞伎興行において「狐忠信」「葛の葉」等の芸題を披露しましたところ毎日札止めの大盛況となりました。
これはひとえにご神威、ご霊験のあらたかなることだと感得した團十郎は、文政四年(1821年)の秋、当社に石造りの祠を建立しました。
以来江戸の役者衆や花柳界をはじめ、芸能・技術の向上を願う方々の信仰が厚く、芸能・商売繁昌の守り神として広く崇敬を集めています。
宇迦之御魂社御由来 掲示板より引用
御祭神 宇迦之御魂神(保食神)豊受比賣神
当社の御創建は和銅五年と伝えられ、規模の雄大さと御社殿の荘厳さと御霊験の灼かさに於いては、関東に比なき稲荷大社と称せられ、創立の当時は野久又は矢久稲荷と称せられ里人の信仰の的となっていた。社記に依れば人皇第六十八代後一条天皇の御宇長元元年下総国(千葉)の城主前上総介平忠常謀反を企て、安房、上総、下総の三カ国を切従へ破竹の如き勢いにて威を八州に震い大軍を起こして武蔵国に押出せし時、冷泉院判官代甲斐守源頼信長元三年忠常追討の倫旨を賜り、当地野久ヶ原に本陣を張りて当社を尊仰し朝敵退治の願書を呈し、一終夜の御祈願ありてその暁白雲俄に起こりて白羽の箭の如く型取りたる雲あらわれると共に一陣の風颯と吹き立ち敵陣の方へ箭を射る如く飛び行けば頼信神明の感応なりと直ちに敵陣に攻め入れば、忠常の陣中麻の如く乱れ三日三夜追討して潰滅せり、頼信御神威を感得、喜悦して直ちに見事なる御社殿を再建建立して箭弓稲荷大明神と称へ奉れりと記され亦後に御社名を箭弓稲荷と呼称す。
又宝徳三年二月の初午に河肥の左金吾持資主の心願成就の法楽を捧げられ文明年中まで年毎の御祭礼は、太田道灌により執行せられ、松山城主上田氏、難波田氏も康正年中より、代々の領主達の尊信最も篤く後川越八代の城主松平大和守は、社地を免租して親筆の献額を捧げ、松平家代々の城主当社を崇敬し御分霊を城内及び邸内に奉斎された。
当社の最も隆盛を極めたのは、特に享保年間で庶民の崇敬最も篤く、四方遠近の国々貴賤当社に心願をこめて参籠し、社前市をなし人馬の往来繁く江戸より熊谷西上州、また江戸には「箭弓稲荷江戸講中」日本橋小田原町を中心に江戸市中に及び講中の参拝引きもきらず、桶川、鴻巣、吹上の宿より道中して参拝し「従是箭弓いなり道」の道標50余本ありて当時の隆盛を偲ぶことができる。現在も大小百余講社あり。尚当社は、五穀豊穣、商売繁盛。家内安全の守護神であるとともに養蚕倍盛、交通安全、厄除、火難除、開運、学業成就、芸能精進等の神社として信仰を集めております。
重厚な造りで趣のある、箭弓神社 本殿
拝 殿
箭弓神社は東武東上線、東松山駅西口を降りて徒歩5分位の位置にある。「箭弓」という言葉は上古代、「矢久」「野久」「八宮」と呼ばれ、「八宮」とは天照大神が素戔鳴尊と誓約の時に出現したと云う五男三女神を祀る神社を八宮と云う。五男三女神は素戔鳴尊の子ともいわれ、田心姫(たこりひめ)、湍津姫(たぎつひめ)、市杵島姫(いちきしまひめ)の三女、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)、天穂日命(あまのほひのみこと)、天津彦根命(あまつひこねのみこと)、活津彦根命(いくつひこねのみこと)、熊野豫樟日命(くまのくすひのみこと)の五男であったという。
創建は712年(和銅5年)と歴史のある社で、創建当時は単なる小さな祠でしかなかったが、長元3年(1030年)、下総国の城主・平忠常の討伐に出かけた源頼信が、この周辺に一泊し、近くにあった野久稲荷神社に詣でて、太刀一振と馬一頭を奉納したところ、その夜に白羽の矢のような形をした雲が敵陣の方へ飛んでいくのを目撃する。これは神のお告げだと確信し、直ちに敵陣に攻め込んだ頼信は見事に快勝し、当地に、立派な社殿を建造し「箭弓稲荷大明神」と称えられ、その後も松山城主や川越城主の庇護を受け、現在に至っている。
宇迦之御魂社(團十郎稲荷・穴宮)
元 宮
現在の社殿は享保3年(1718年)領主、島田弾正が四方の信徒と図って建築したものであるといわれている。本殿は正面5.43メートル、奥行5.15メートルあり、屋根は切妻単層三重垂木の銅葺でできている。本殿には幾多の彫刻が施されており、また本殿内部は日光廟を模した感じであるという。
綺麗に整備された参道。二の鳥居から撮影
両部鳥居である三の鳥居
三の鳥居近くにある由緒、祭神の紹介した案内板
市指定文化財の案内板
由来を明記した案内板
元のお社として現本殿の真後ろに鎮座し、社殿には彩色ある細やかな彫刻が施されている。毎月1・15日には神饌を供し拝礼する。
1028年(長元元年)に下総国の平忠常が謀反を企て安房・上総・下総の三カ国を制圧し、大軍をもって武蔵国に侵攻した(平忠常の乱)。これを受けて源氏の棟梁多田満仲の子であり、甲斐国守を勤める源頼信は、忠常追討の綸旨を賜り、鎮圧に向かった。しかし、多勢に無勢、武勇の頼信も心を悩ませた。その時、頼信が布陣する松山本陣近くで古い祠を見つけた。問えば、野久原に鎮まる「野久稲荷大明神」で、本地は「十一面観世音」であるという。
これを聞いた頼信は、野久はすなわち箭弓(矢弓)の意で、武門の守護神であると、大いに奮い立ち、神前に怨敵退散の願書、太刀一振、駿馬一頭を奉納し、ついに忠常を撃退することができた。一説には、白狐に乗った神が弓矢を授けたと伝える。この神恩に報いるため、社殿を再建した。以来、野久稲荷は、箭弓稲荷と号せられるようになった。
規模の雄大さと社殿の壮大さは東武線随一の社
境内由緒書
二の鳥居から三の鳥居迄の間に幾つかの案内板がある。
所在地 埼玉県東松山市箭弓町2-5-14
主祭神 保食神(宇迦之御魂神 うがのみたまのかみ)
豊受比賣神
社 格 県社 別表神社
本殿様式 権現造
例 祭 9月21日(例大祭) 他
創立年代 712年(和銅5年)