境内は広く開放感がある。また時間がゆっくりしていて居心地がとても良い。熊谷の地で、このような社があったとは正直驚いた。
 また神社の説明書きや由緒等の案内板も多数あり、よく理解できた。神社の近くには遊具等の遊び場もあり、数名の親子連れやお孫さんと一緒に遊んでいるお年寄りもいて微笑ましく思った。
 境内は整理が行き届いていて、参内中不愉快なゴミ等全くなかった。寺院風の煌びやかな神社ではないが、その神社の持つ素朴さや質実さは俗に言う「いい味が出ている神社」なのではないかと参内時間中感じた。ともかく不思議と神社全体の雰囲気が良いのだ。


 上記で紹介したが、「上」は大和言葉で「ウエ、カミ、カサ」と言われていた。この「カサ」は笠族の笠原氏と深い関係が有り、この名称から上之地区は笠原氏の居住地区ではなかったかと推察されるが事の真相はいかがなものだろうか。また和名抄武蔵国賀美郡は「上」郡とも呼ばれていた。都に近い理由から付けられた名称らしいがそれだけだろうか。またこの上之となにか関連性があるのだろうか。


 熊谷市上之地区は熊谷市の東部に位置し、行田市と埼玉県道128号熊谷羽生線が東西を横切る地形となっている。上之は「埼玉苗字辞典」によるとこのような記述である。

上之 カミノ 埼玉郡上之村(熊谷市)あり、上(かさ)ノ村にて、笠族居住地より地名となる。阿部条十一項及びカサ、熊谷条参照。

 「上」は「笠」、「蓋」であり、
「阿部氏」に通じるという。また「埼玉苗字辞典、阿部氏条十二項」には不思議な一文が存在する。

埼玉稲荷山の阿部氏 
 日本書紀・斉明天皇四年(六五八年)条に¬津軽郡の大領馬武に大乙上を授く」と見ゆ。荒吐王は五人の分倉王が交代で王位になっている。王居熊谷は今の埼玉郡上ノ村で、古代は熊谷郷と称し、中世は成田郷と称す。羊後裔の成田氏居住地である。熊谷、成田参照。また、荒吐王は東日流より武蔵豊島に移り君臨すとあり。また、荒吐王は東日流より武蔵豊島に移り君臨すとあり。豊島とは、新羅郡建置以前は豊島郡に属していた志木ノ宮である。志木郷は紀元前より新羅渡来人の居住地で、天平宝字二年新羅人僧俗七十四人を移して新羅郡を置くとあるが、既に多くの住人あり。平成八年に志木市幸町の西原大塚遺跡から縄文時代のピアスと弥生時代のヒスイやガラス玉が出土した。同十一年に同所より四世紀頃の葬祭儀礼に使用された鳥形の土器も出土している。ここは平安時代に至る複合遺跡で、此の付近を志木ノ宮と称していた。



 この記述の根拠となる文献はおそらく「東日流外三郡誌」であると思われるがその真相はどうであろうか。そもそも本当に熊谷地区は荒吐王の武蔵国の王居だったのだろうか。また王居地であったとされる上之村と上之村神社は何か関係があったのだろうか。

鳥居の左手前側に富士嶽大神
本 殿
 鳥居。参道左手側には川南自治会館
川南自治会館脇の末社群
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稲荷社
稲荷社の反対側にある塞神
稲荷社の奥にある祠群
天神社、愛宕社、靖国社

     参道

境内は思ったほど広くない

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富士塚を過ぎてすぐ左側に末社がひとつ
寂しく鎮座していた。社名は解らず。
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上之村神社
雷電神社本殿
上之村神社本殿

参道 思った以上に長い。古の神社の風情を感じる。

社前の堤の案内板
在地    埼玉県熊谷市上之16

主祭神    上之村神社・大己貴命 事代主命

        
摂社 雷電神社・火大雷大神 大雷大神 別雷大神

社 格     旧郷社 
    

由 緒     當社創立ノ年度詳カナラズ應永年中忍ノ城主成田左京亮家時神威ヲ

        
崇メ社殿ヲ再建シ爾来奕葉崇敬シテ神田若干ヲ附ス其後天正十八年
        
成田家忍退城ノ翌年東照公巡狩トシテ通路アリ社木森々トシテ生茂
        
リ煩ル幽境ノ景況ヲ覧セラレテ時ノ侯人伊奈備前守ヲシテ神社ノ来
        
由ヲ諮問セラル従テ翌慶長九年ニ及ンテ社領三十石境内数町諸役免
        
許神供祭禮修造等不可懈怠ノ?朱印ヲ寄附セラレタリ明治六年郷村
        
社々格選定ノ際當社ヲ以テ旧第十五区拾九ケ村ノ郷社ニ列セラル明
        
治四十年四月二日神饌幣帛料供進指定神社トス

例 祭     七月廿何、廿八日両日 例大祭

拝 殿
上之村神社本殿・雷電神社本殿
 
上之村神社は、古くは久伊豆神社と称し、室町時代、城主成田氏の崇敬が厚く、応永年間(1394〜1418)に成田家時が社殿を再建したと伝えられています。
 江戸時代に入り、慶長九年(1604)に徳川家康から三十石の朱印地を与えられ、明治二年(1869)には村名をとって上之村神社と改称しています。
 本殿の構造は一間社流造(いっけんしゃながれづくり)で、屋根は銅板葺(もと茅葺)です。軒回りの蟇股(かえるまた)・手挟(てばさき)などに十二支の彫刻が彫られていて、木割は雄大です。
 雷電神社は上之村神社の摂社で、本殿の構造は蟇股の彫刻など一部を除き、上之村神社とほとんど同じです。木割は上之村神社に比べて繊細で、規模もやや小さなつくりです。
 社務所に保存されている旧本殿の扉には、「(観音)奉修造雷電宮御宝前戸扉大壇那藤原朝臣長泰 武州崎西郡忍保宮山之内※年戊午五月吉日願主※」という 銘文が記されています。戊午の年は永禄元年(1558)と推定され、この年に忍城主成田長泰が、雷電神社の内陣の扉を修理し寄進したことが考えられます。
 指定名称は歴史的な背景から考えて雷電神社となっていますが、現在は、大雷神社と称されています。
 両本殿の建築年代については、上之村神社本殿は、江戸時代初期と推定され、雷電神社本殿は彫刻類の絵の様式から、それよりやや古いと推定されています。
 両本殿とも建築当初の姿をよく残し、桃山末期から江戸初期の建築様式を伝える貴重な建造物です。
 平成九年三月
   埼玉県教育委員会
   熊谷市教育委員会
 社前の堤 遠景を撮影

     県北の古社、かつては久伊豆神社と呼ばれた社

 国道17号線の上之(雷電神社)交差点から入ったところに鎮座する。駐車場は神社の境内手前右側にある。ただし17号線からは摂社である「大雷神社」と大きく書かれて、その下に上之村神社と申し訳なさそうに案内板に明記されている。ネームバリューの関係からだろうか。ところで、上之村神社の読みは「うえのむら」と全国神社名鑑などにあるが、氏子の方に聞くと「かみのむら」だそうだ。
 
 上之村神社の社叢の前には「社前の堤」と言われる堤が存在する。
 
 社傳に當社は紀伊國日前國懸神宮より石凝姥命を勧請し長寛二年はじめて社殿を造立す 當初岩倉社と稱し文安二年少彦名命武甕槌命を相殿に祀り拝殿を建立 江戸期に入り京都吉田家より古社の故を以て古宮神社の社號を賜はる 古来婦人守護子育守護の信仰あり
   拝殿。由緒等など全く不明

社号標

所在地    埼玉県熊谷市熊谷市上中条1283

社 格
     旧村社      

三幸神社

県道83号熊谷館林線を東へ進み、上中条交差点から北へ入るととすぐに三幸神社が鎮座している。

 古宮神社は埼玉県熊谷市、国道17号線上之の交差点を左折し、行田方面に進行する。道なりに直進すると5分位で到着する。上記 上之村神社から北方向で2分位の場所に鎮座している。

 池上にある古宮神社に伝わる獅子舞は、室町時代に神主の茂木大膳が、京都石清水八幡宮で目にした獅子舞に感銘を受け、当地に伝えたものといわれています。

 この獅子舞は、三頭の獅子と「めんか」が一組となる勇壮な舞いで、神社の祭り行事として、「悪疫退散」「五穀豊穣」「家内安全」などの祈願のほか、「雨乞い神事」にも舞われてきました。
                                                                                          熊谷市 ホームページより
ところで古宮神社には市指定無形民俗文化財である池上の獅子舞「疫神祭」が行われ、室町時代からの伝統である舞を披露しているという。
 当地は、荒川の扇状地先端に位置し、伏流水の湧き出る地域で、地名の池上はその遊水池に由来する。創始の時期は、詳らかでないが、当初は社殿を造らず長寛二 年(1164)に初めて社殿を造営したと伝える。社伝によれば紀伊国日前國懸神宮より石凝姥命を勧請し、岩倉社と称した。その後、寛喜二年(1230)成 田助広こと池上藤兵衛が当地に居住し、当社を深く崇敬して、池上郷総鎮守と仰がれた。
文安二年(1445)相殿に少彦名命、武甕槌命を祀り、拝殿を造立した。幕末に神祇管領吉田家より、由緒の古きを以て、古宮神社の社名を賜り、岩倉大明神・古宮神社とと称している。
二の鳥居の社額には「岩倉大明神」と明記してある。

二の鳥居から撮影


所在地    埼玉県熊谷市池上606

主祭神    
石凝姥命(いしこりどめのみこと)  天孫降臨の五部神で八咫鏡を造った神
          少名彦命  醸造の神、高皇産霊神の子、協力神、常世の神、医薬・石・穀物霊
          武御雷命  雷神、刀剣の神、弓術の神、武神、軍神、武道・競技の必勝、事業の創始、旅行安全の神

社 格     
旧村社 池上郷総鎮守     

由 緒   
  紀伊国の日前國懸神宮より石凝姥命のご分霊を勧請したことに始まるとされるが、具体的創建時期は不
          明となっている。当初は、岩倉社と称し、寛喜 2年(1230年)に、成田助広こと池上藤兵衛が当地に居住し、
          当社を深く崇敬して、池上郷総鎮守と仰がれたという。その後、文安 2年(1445年)に、相殿に少彦名命、武
          甕槌命を祀り、拝殿を造立。幕末には、神祇管領吉田家より由緒の古きを以て、古宮神社の社名を賜り、
          岩倉大明神・古宮神社と称し、現在に至る。


例 祭  
  八月二十八日、二十九日  例大祭

古宮神社

鳥居の左側にある富士塚

 塚の頂には富士嶽神社が鎮座し、他に醫薬大神や道了山、高尾山、小御嶽神社、猿田彦大神、食行霊神・角行霊神などの名が見える。

              熊谷市指定文化財建造物 上之村神社鳥居
                        指定年月日  平成九年十一月三日
                        所 在 地   熊谷市大字上之十九番地

 この鳥居は、上之村神社正面にあって、木造の両部鳥居形式のものです。
 平成七年の解体修理の際に、柱のほぞから、願主と大工の名前とともに、寛文四年(1664)六月十二日の建造を示す墨書が発見されています。
 建造以来すでに三三○年以上も経っている当鳥居は、笠木や控柱の上に板屋根を設けるなど耐久性にも充分考慮された、市内最古の木造鳥居として重要です』

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諏訪社
諏訪社の奥にある合祀社祭神は不明
       合祀殿
 夷神社と荒神社、事任神社、天神社、住吉神社が祀られている。
上之村神社本殿と雷電神社の周囲は瑞垣に囲われており、正面には立派な門が取り付けられている。

上之村神社本殿、雷電神社本殿は埼玉県の指定有形文化財、建造物に昭和41年3月に指定されている。

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神輿庫
拝殿でもあるし神門でもある
社前の堤を過ぎると、江戸時代の両部鳥居が見える
  応永年中(1394-1428)成田郷の領主成田家時が従者と館の東にある森の小祠の前を芦毛の馬に乗って通った時、何に驚いたか馬がハネ上り家時は落馬 してしまった。何んの神様の祟りかと、附近の老人に聞いてみると、この社は久伊豆神社と雷電権現で、この神様は芦毛の馬に乗ることから、神前を芦毛の馬に 乗って通る者は必ず神罰を蒙る伝えがあり、そのためだったという。
 家時はこの神威に驚き乗馬の芦毛を神馬として奉納以来当社を崇敬し直接神前を通るのは勿体ないとこの堤を築かせたという。