武蔵国榛沢郡は東は幡羅郡、大里郡、南は男衾郡、西側は児玉郡、そして北は利根川を挟んで上毛国と接している。郡域はおおむね深谷市の明戸、原郷以西部分、岡部地区、寄居町寄居、藤田、末野、桜沢、用土地区というが詳細は不明である。有史以前から集落が発達し、深谷市緑ヶ丘にある桜ヶ丘組石遺跡は昭和三十年の発掘調査によって、八基の石組遺構が発見され、極めて珍しい遺跡として注目された。年代的には縄文時代後期と推定され、環状列石(ストーンサークル)のような県内では珍しい配石遺跡だそうだ。

 榛沢郡は古墳時代末には人口も増し、小規模ながら100基を越す古墳が分布する鹿島古墳群など、多数の古墳がある。その一方、延喜式神名帳には社名が載っておらず、平安時代には隣接する男衾郡や幡羅郡よりは小規模だったと見られているようだが、しかし郡衛である深谷市岡部の中宿(または仲宿)遺跡では、正倉と見られる大規模建物の跡が発見されている。武蔵国の郡衙跡として3ヶ所目、県内では初の発見例だそうだ。

 いわゆる小規模といわれる郡という従来の説に対して、大規模で立派な正倉の建物の存在・・・どうもすっきりしない
矛盾を感じる。



                         大寄八幡神社
         
                                 地図リンク
                                                           五領の宮(御霊宮)児玉宮とも言われる由緒不明な社

                                          


                                所在地    埼玉県深谷市榛沢486

                                主祭神    誉田別命(応神天皇)

                                社 格     不明
       

                                由 緒   
  現在の社殿は江戸時代享保十三年第百十四代中御門天皇の御代に建築されたと推定

                                例 祭
    不明


 
 大寄八幡大神社は埼玉県道75号熊谷児玉線で児玉方面に向かい、針ヶ谷西の交差点を右折し、埼玉県道86号花園本庄線を本庄方向に北上する。県道86号線は最終的に352号線にぶつかるのでそこを左折し2kmほど直進すると、やがて右手側に大寄八幡大神社が見えて来る。駐車場はなかったので、周りを散策し神社の近くの公園に車を駐車し参拝した。


                                          

                                     
 個人的には朱の鳥居よりもこのような鳥居の方が好みである。


                   
 

            手水舎 深谷市指定文化財                          神楽殿               鳥居を潜りすぐ左側塚の上に石祠。富士塚なのか不明



                                     

                             拝 殿

         
正直、このような静かな地に鎮座していること自体不思議で立派な社殿         拝殿正面の扉には亀と鳳凰の彫刻が施され、その上には龍の絵が描かれていた。



                                          

                                                 
拝殿左側にある説明板


大寄八幡大神社
 
当社の祭神(誉田別命)は、社名に幾度かの変遷があった。江戸時代後期に編纂された「新編武蔵風土記稿」では、榛沢六郎成清の勧請により、十一面観音を安置すると記載されている。また昭和五年に編纂された大里郡神社誌では、祭神は、誉田別命(応神天皇)とされている。神社名称もはじめ、児玉宮、御霊宮と呼ばれ、次いで大寄大神社となり、現在の大寄八幡大神社と呼称されるようになったのは戦後のことである。
 本殿は、木造銅板葺で、回廊より上部は、内外とも総彫刻で彩色されている。礎石には、享保十三(1728)年八月施主武政郷助の刻銘がある。
 本殿は、破損が著しいため、昭和五八年に三方ガラス張りの覆屋をつくり、保存につとめている。この他に拝殿、水舎等は、江戸時代後期(文久年間頃)の建立と考えられている。
 また、当社は、祭礼の日には、武道の試合が行われ、遠近の武道者が集まったと伝えられている。拝殿内外に掲げられている奉納額は、これを物語っている。特に角力は、さかんに行われ、御霊宮(大寄八幡大神社の旧名)の角力と言えば、遠く秩父地方にまで鳴響いていたという。
                                                                                                           案内板より引用



                                    


                                          
ガラス越しに本殿を撮影。本殿は深谷市指定文化財


                                           

                                          改良区設立碑、外宇新築拝殿吹替記念碑、石燈籠


『外宇新築拝殿吹替記念
 大寄八幡大神社の社殿は奥院及び拝殿とによって成り御神体に應神天皇を奉る。
 今より凡そ二百五十四年前江戸時代享保十三年第百十四代中御門天皇の御代に建築されたと推定される。武州榛沢郡時代別名五領の宮とも稱ばれ、地元近隣領民の武運を守り崇拝の神として氏子によって尊厳が保たれ現代に及ぶ。
 しかるに近年に到り社屋の老化はげしく高度技術の粋を集めた建物が風雨に打たれ文化財に損傷のきざし有り。特に彫刻天上絵等無類の宝物保護の必要を感じ総氏子協議の結果奥の院全部に上屋をめぐらし更に観賞の立場から下見はガラス張りとなす。亦拝殿屋根は総吹替をなしいぶし銀の瓦瞳にまぶしく神殿の尊厳益々盛んなり。亦右工事に要した費用は神社の営繕費をこれに当て総工費壱阡壱百五拾参万七百拾五円にして昭和五十八年九月その工事の完成を看る。
 特に総氏子これを祝し祭詞奏上の九月二十五日御遷宮となす。
 昭和五十八年九月二十五日』





                                                

鳥居の左側にひっそりとある祠              流造の境内社 こちらも不明              末社2社 左は三峰社           大寄大神社と呼ばれていた頃の社号標
    由緒は不明




                                          


                                      合祀社と言うにはなかなか立派な社 中に4神祀られている



 大寄八幡大神社は、今でこそ八幡神社だが、この名称は戦後に呼ばれたものである。かつては、児玉宮、御霊宮と呼ばれ、その後大寄大神社となり、現在の名称となったという。では、かつて名乗っていた児玉宮、御霊宮とはどのような神社だったか。少なくとも八幡神社ではない。



                                             

                                              
 手水舎とその奥にある御神木。


 
 
 埼玉県苗字辞典では榛沢に関していくつかの記述がある。

榛沢 ハンザワ 渡来人蕃族の居住地なり。和名抄に榛沢郡榛沢郷を載せ、波牟佐波と註す。
  

一 丹党榛沢氏 榛沢郡後榛沢村(岡部町)より起る。武蔵七党系図に「秩父黒丹五基房―榛沢三郎成房―六郎成清(重忠に属し元久二年六月誅せらる。弟に小太郎、四郎)―平六郎成長―七郎―三郎」。安保氏系図に「秩父黒丹五元房―榛沢三郎光経」と。中興武家諸系図(宮内庁書陵部所蔵)に「榛沢。丹治、本国武蔵」と見ゆ。保元物語に「義朝に相随う手勢の者共は、武蔵国には榛沢六郎成清」。源平盛衰記に「畠山が乳人に半沢六郎成清」と見ゆ。

二 鍛冶師榛沢氏 吾妻鑑文治五年八月条に「頼朝の陸奥国阿津賀志山(福島県国見町)の藤原泰衡攻めに、榛沢六郎成清の智謀によって、畠山重忠は連れて来た人夫八十人を使って、用意の鋤鍬で土石を運ばせ、一夜にして掘を埋め、突撃路を造った」とあり。常に先陣を勤める畠山重忠は工兵部隊であり、鍛冶木工頭領であった。其の配下の丹党は製鉄製錬や土木技術にたけていた集団であり、榛沢氏が率いていた。風土記稿・後榛沢村条に「榛沢六郎成清社、村の中程小名蔵屋敷にあり。東光寺、本尊は薬師にて開基は榛沢六郎成清なり。陣屋蹟、古へ賀美郡安保の領主たりし安保氏の陣屋蹟と云伝ふ」と見ゆ。蔵(くら)は古代朝鮮語で銅を指す。薬師はタタラ師の守護仏である。安保(あを)は下野国佐野天命鍛冶一派の青木氏屋敷跡で古は青木村と称す。安保氏は無関係なり。是等の鍛冶集団支配頭が丹党榛沢氏であった。畠山条参照。


 榛沢の地名に関しては多くは鎌倉時代の由来がほとんどだが、一部「渡来人蕃族の居住地なり。」という記述には興味深い。
 
 また榛沢は地名を分割すると榛+沢となる。沢に関しては@山あいの谷川。源流に近い流れ、A水が浅くたまり、葦(あし)・荻(おぎ)などの草の茂っている所、などある地域の地形の状態を表す助詞だ。すると本来の地名は「榛」ではなかったろうかと考えるのが普通ではないだろうか。「榛」に関して同じく埼玉県苗字辞典では不思議な記述がある。

蕃 バン 中国は北方の異民俗を蕃(えびす)と蔑称した。大和朝廷は中華思想により朝鮮半島の渡来人を蕃と称し、姓氏録には諸蕃と記した。日本書紀・神功皇后摂政前期に「百済王は、今後末永く西蕃と称して、朝貢を絶やしませんと申しあげた」とあり。多くは百済人を蕃と称す。羊(ひつじ)条参照。佳字に番、伴、坂、半、榛等を用いる。



 
高麗神社の項でも紹介したが

 「北武蔵への渡来人の移住は、6世紀の末頃までさかのぼることができるという。6世紀末、律令制下の武蔵國ができる前、それぞれ壬生吉志が男衾郡、飛鳥吉志が橘樹郡、日下部吉志が横見郡で活躍したと伝えられている。」

 
すべての渡来人が上記の特定の地域しか移住しなかったろうか。とても思えない。一部の人々は榛沢等に住み着いたとも考えられないだろうか。逆に言うと榛沢という地名はそれを証明しているのではなかろうか。









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                         小前田諏訪神社

                                    地図リンク                 

                                                              小前田屋台まつりは市指定有形民俗文化財

                                            


 
                                   所在地    埼玉県深谷市小前田1

                                   主祭神    建御名方命
                                            八坂刀売命
                                            大国主命

                                   社  格    旧村社
 

                                   創  建    応和3年(963)

                                   由  緒    この一帯を支配していた花園城主藤田藤田掃部左衛門氏家が、領地領民の安寧の為に、
                                            信濃の国の諏訪大社より分霊を勧請し、お祀りしたのが始まりとされている。

                                   例  祭
    10月第2土曜日、日曜日 
諏訪神社祭礼(小前田屋台まつり)



 小前田諏訪神社は秩父鉄道・小前田駅の南西約200mの場所に鎮座している。久喜市鷲宮の鷲宮神社と同じく、住所が小前田1ということはこの神社を中心として町が形成されたのではないかと推測する。
 当社は
桓武天皇の御代、坂上田村麻呂の蝦夷征討に際し、当地から徴募された軍士の中には、彼地に永住するものもあった。その子孫が、応和3年(963)、同族と共に当国に戻り、安住するに当り、塚を築き、その上に自ら信仰する諏訪の神を祀ったのが、その始まりであるという。


                              

                           
 鳥居の左側にある立派な社号標                     入口にある靖国鳥居
                                            

              小前田諏訪神社は鳥居を潜ってしばらく参道を歩くが正面には社殿はなく、途中右に90度曲がっている。その曲がった先に社殿が存在する。

                              

                                    拝 殿                            一間社流造の本殿

 文明年中(1469〜87)この一帯を支配していた花園城主十一世藤田藤田掃部左衛門氏家が、領地領民の安寧の為に、信濃の国の諏訪大社、正確には諏訪神社上社より分霊を勧請し、お祀りしたのが始まりとされている。永禄5年(1562)小前田の住人長谷部兵庫吉長が現在地に遷座し、小前田の鎮守となった。安政5年には現在の本殿が造立される。明治15年には蚕影神社が合併されている。

                                             

 小前田諏訪神社には境内社も多数ある。

                              
 
      八衢比賣神、久那斗神、八衢比古神     浅間神社             天手長男神社            和魂神社            八坂、琴平神社、

                          
                                             

            境内社・蚕影神社               境内社・白山神社              境内社・神明社、春日神社          その他本殿の奥の祠群

 当社を支配していた花園城主藤田氏は、武蔵七党の猪股党の出で、猪俣野兵衛尉時範の子政行が武蔵国榛沢郡藤田郷に拠って藤田を称したことに始まる。
 武蔵七党は、武蔵国に本拠をおいた同族的武士団の総称で、坂東八平氏と称される平氏の一門とともに坂東武者と称され、弓馬に通じて武蔵・相模二州の兵は、天下の兵に匹敵すると賞賛された。 七党の数え方は一定しないが、野与党・村山党・横山党・児玉党・西党・丹党・私市党などが挙げられる。猪股党は横山党と同族で、小野篁の後裔で武蔵守として下向土着した小野孝泰の孫時範が児玉郡猪俣に居住したことに始まる。

 藤田氏の祖藤田五郎政行は平安時代末期、保元の乱源氏勢として戦に参加し、その嫡男三郎行康も源平合戦では源氏勢として参加して元暦元年(1184)の一の谷生田森の合戦で先陣をはたし戦死した。頼朝は行康の功を賞し、嫡男の能国に遺跡を安堵している。鎌倉時代を通じて常に藤田氏は時の幕府から信頼を受け、幕府問注所の寄人に召されて幕政にも参加、建治三年(1277)、問注所の寄人に召し出された藤田左衛門尉行盛は奉行人として活躍した。その後元弘元年(1331)、後醍醐天皇による元弘の変が起り、その後の動乱によって鎌倉幕府は倒れ北条氏も滅亡した。元弘三年のことで、後醍醐天皇親政による建武の新政が開始された。その間、藤田氏がどのように行動したのか、その動向は明確ではない。

 南北朝の争乱期に藤田氏がどのように行動したかは史料が少なく、必ずしも明確ではないが当初は新田義貞を大将とする尊氏討伐軍に藤田六郎左衛門、三郎左衛門、四郎左衛門らが従っていたが、尊氏方に属した者もいたようで藤田一族は二派に分かれたようだ。ただし、当時の武士団の一般的な傾向で、その背景には惣領制の崩壊がもたらした嫡庶の対立があり藤田氏もその例外ではなかったのである。その後、関東に幕府の出先機関ともいうべき鎌倉府が置かれ、藤田氏は上杉方として行動したものと見られる。

 応永二十三年(1416)、前関東管領上杉禅秀が関東公方足利持氏に反乱を起した。禅秀の乱で、上野・武蔵の武士の多くが禅秀に味方し、藤田氏一族と思われる藤田修理亮も禅秀方に属して所領を没収されている。関東は永享の乱、結城合戦と戦乱の時代を迎え、翌嘉吉元年(1441)ようやく終結する。

 藤田氏はそれ以降後北條氏の関東進出まで、山内上杉勢の四家老の一家として参加した。その勢力は現在の寄居町の天神山城を拠点として、最盛期には大里・榛沢・男衾・秩父・那珂・児玉・賀美に及ぶ広範囲であり、小前田諏訪神社もその所領内に入る。

                                            

                                             社の風景 静かな時間がゆっくりと経過する。


 戦国期、ついに後北條家の関東進出が顕著になる。北條氏綱・氏康親子による天文六(1537)年の川越城夜戦では、関東管領・山内上杉憲政、扇谷上杉朝定と、古河公方・足利晴氏の軍総勢八万の軍勢の一軍として参加し、敗北を喫する。これにより主家を失った藤田重利は北条氏の軍門に降り、氏康四男・氏邦を養子に迎え、その家督を譲った。同時に名も「康邦」と改めたという。北條氏邦は1560年(永禄3)以降、鉢形城(大里郡寄居町)を整備して天神山城から居城を移し、北関東の最前線の拠点として、また甲斐・信濃からの侵攻への備えとして重要な役割を担った。

 天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、後北条氏の重要な支城として、前田利家・上杉景勝等の北国軍に包囲され、激しい攻防戦を展開した。1ヶ月余りにおよぶ籠城の後、北条氏邦は、6月14日に至り、城兵の助命を条件に開城し北條小田原家は滅亡する。そして同時に藤田氏本流としての400年の歴史が終結することを意味していた。

                                            

                                           諏訪神社の祭り屋台の案内板が道路沿いにある。
      

諏訪神社祭礼(小前田屋台まつり)
 旧花園町小前田地区には3台の屋台があり、いずれも明治初期に造られたもので、その雄大な造りや彫刻により、昭和52年には有形民俗文化財に指定されています。この3台の屋台を毎年10月の第2土曜・日曜日に引き出し、国道140号線の秩父往還で屋台囃子を演じながら曳(ひ)き回します。また、祭礼期間以外でも「道の駅はなぞの」にて、常時屋台を展示しています。

                                                                                        深谷市観光協会より引用


  




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 上野国史によると、武州杉山、新井、都島、山王堂、沼和田、仁手等の数村は、古へ上野国那波郡に属していたが、寛永中の洪水で流路が変わり、武蔵国に編入したと記されている。また武蔵風土記によると横瀬村華蔵寺大日堂天正十一年の棟札に、上野国新田庄勢多郡横瀬郷とあるし、又和名抄賀美郡郷名に載せてある小島は、今の小島村と考えられるから、烏川の流路は寛永年中に賀美郡忍保から現在の八町河原に移ったものと考えられる。

 埼玉県深谷市横瀬の横瀬神社別当寺であった華蔵寺大日堂建立時に記録された棟札は、横瀬がかって上野国(現在の群馬県)であったことを証明する貴重な資料となっている。当時の武蔵国と上野国の境は、豊里中学校裏手あたりと思われる。

 明治維新の時慶応4年(1868年)太政官布告「神仏分離令」から起こった廃仏毀釈運動が各地でおきた。仏事の廃止、仏具の破壊、僧侶の神職転向等の嵐が吹き荒れた。横瀬では新田公ゆかりの古刹を保護するために、他所から神社を山門の前に移築して、村社 横瀬神社として華蔵寺は寺院の一部だとごまかした。「横瀬神社は以前別なところに在った」「無住の時があった」との伝承はその証明であろう。



                              横瀬神社
                                   地図リンク
                                                                  
利根川河南に鎮座する新田氏ゆかりの社

                            


                            所在地    埼玉県深谷市横瀬1358

                                         社  格    村社

                                         主祭神    伊弉諾命、伊弉冉命二座。 (配祀)豐受姫命

                                         例  祭    4月10日


 
 横瀬神社は国道17号深谷バイパスを岡部方向に進み、道の駅おかべを越えた岡東交差点を右折する。群馬・埼玉県道259号新野岡部停車場線を道なりに真っ直ぐに北上し約2km進むと右側にこんもりとした林と道沿いに沢山の墓地、そして大日堂が見え、そこを右折してそのまま進むと左手に華蔵寺の駐車場があるのでそこにとめることが出来る
横瀬神社は前記華蔵寺敷地内南側に静かに鎮座し、一見すると寺院の一施設の様に感じるくらい目立たない位置にある。まるで華蔵寺側がこの社を隠しているような印象だ


                                           

                                     横瀬神社参道 東西に長く伸びていて正面に小さく一の鳥居が見える。

                              

                                右側に手水舎、左側には社務所がある。       一の鳥居正面には拝殿が鎮座する。 


                                           


                      立派な拝殿 屋根瓦には五七の桐が浮き彫りにされているが、これは横瀬氏及びその子孫である由良氏の家紋という。
                                   またよく見ると狛犬が異様に高い位置にある。洪水対策用に作られたものか。

 当社は、後深草天皇の御代の建長年中(1249〜56)に、土地の豪族・横瀬三郎為清の勧請によるもので、「聖天宮」の名で、横瀬七郷(横瀬、新戒、古市、大塚、中瀬、高島、石塚)の総鎮守として崇敬された。

 一説に、建武年間(1334〜)、武蔵守新田義宗の子の国寿丸が、難を避けて、僧となり密かに横瀬村に移住し、二体の尊体を安置して聖天宮を勧請したという。国寿丸は、当社神前において還俗し、横瀬新六郎貞氏と名のり、後に上野国金山城主となって近地を領した。以来七代にわたる城主の厚い崇敬があった。
 
 徳川幕府時代に至り、横瀬三郎の後裔たる横瀬信濃守は、幕府の高家衆となって江戸神田於玉ヶ池に住んだが、祖先の縁故により、同家からは毎年初穂料として金百疋づつの奉納があり、代々の慣わしとなった。別当の華蔵寺の住僧は、毎年正月元旦に神前に於て横瀬家の武運長久の御祈祷を修行した神札・神供を、利根川の便船を使って届けた。
 明治維新の後、土地の名により横瀬神社と改称した。


                              

                                  拝殿とその奥には本殿鞘殿         鞘殿内には彩色豊かで見事な壁面彫刻の本殿
                                                                    深谷市指定文化財


                              

                                本殿の左側には境内社 稲荷社          明治43年大洪水の水標が拝殿前にある。



 自分自身、この地域には思い入れがある。世良田八坂神社でも紹介したが、この横瀬地域は母方の実家があり、華蔵寺には先祖代々の墓所が実際にある。母方の姓は「三友」と言い、幼少の時期、新田氏についてよく話を聞いていた。この地域は鎌倉時代末期、清和源氏新田氏の所領であlったという。横瀬地域は通称「横瀬六騎」と呼ばれる新田家家臣団が存在していたという。

横瀬六騎
 
 金山城主横瀬氏の出身地である横瀬郷の富田・栗田・須長・荻野・古氷・三供(三友)の六氏は、宗悦の一門に加へられ横瀬氏を名乗り、宗虎が金山城主として安定した頃に全員本名に復姓した。
 新田正伝或問に「○富田左京兼昌(応永九年卒)―横瀬右近大夫時昌(永享五年卒)―大次郎信昌―左膳重昌―左近之助清昌―左近太郎清宗―大次郎清信(天文九年卒)―富田大三郎清定(天正二年卒)。○栗田平蔵吉久(応永三年卒)―横瀬平七吉勝(永享六年卒)―平馬常吉―助之進常友―孫四郎常記―新次郎常周(弘治元年卒)―栗田孫三郎繁常(元亀二年卒)。○須長幸三郎行幸(応永十一年卒)―横瀬隼人孝棟(嘉吉二年卒)―内蔵助孝林―隼人孝敬―兵庫助孝至―隼人孝泰―内蔵助孝美(天文十五年卒)―須長隼人助繁孝(天正九年卒)。○荻野伊三郎道朝(応永十五年卒)―横瀬掃部道春(永享十二年卒)―織之助道定―縫之助道村―縫之助道吉―枩之助道忠―七三郎道隆(天文十年卒)―荻野丹下道種(天正五年卒)。○古氷図書之助行直(応永七年卒)―横瀬治部行忠(嘉吉三年卒)―半十郎行温―七郎左衛門行恒―図書之助政恒―久米之助道政―古郡丹後政方(永禄十年卒)。○三供右太郎村房(応永十二卒)―横瀬加賀房利(文安二年卒)―新右衛門房保―主計房教―新太郎房茂―新右衛門房次―彦右衛門房賀(弘治元年卒)―三供新右衛門繁房(元亀二年卒)」と見ゆ。金山城主横瀬氏の本名はわからず。



 新田氏ゆかりの地は圧倒的に上野国、特に太田市周辺に多い。が武蔵国北部にも関係していた地は少なからず点在している。この地横瀬も新田の地の一つであるのだ。



                                            
                                                     
 




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 生品神社は太田市周辺に七社ある。新田の関係の所にだけしかない。 新田義貞(よしさだ)が鎌倉幕府倒幕のため挙兵し、神前において護良親王(もりよししんのう )に賜った北条氏討伐の令旨(りょうじ)を読み上げたと伝えられる。

 生品神社には何故か平将門の弟が祀られている。氏子は成田山新勝寺には参拝しないと云う言い伝えがあり、今でもお参りしない人がいる。

 朝廷が下総国公津ヶ原(こうづがはら)に不動明王を安置し朝敵降伏を祈願し、満願日に平将門が討死した。 その不動明王は現在、成田山新勝寺に安置されている。



 生品神社                  深谷市高島に鎮座する新田氏ゆかりの社                

  地図リンク
              


                                      所在地    埼玉県深谷市高島209

                               
 社  格     村社

                               
 祭  神     大己貴命 御厨三郎将ョ



 埼玉県道45号線を東へ走って行くと、小山川の西側に生品神社が鎮座している。


                                                  

                  渋沢栄一が91歳の時に書いた、とされている社号標      鳥居から参道へ続く                  同左


                                           

                                                        拝 殿

                                       様式は神明系なのだが祭神は大己貴命 御厨三郎将ョの2神という


                                           

                                                        本 殿


                                           

                                                    社殿脇にある祠群









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 御獄大神社                    深谷市成塚に鎮座する元蔵王社

  地図リンク 
            


                                        所在地   埼玉県深谷市成塚208

                                        主祭神   大山祇命・大己貴命・少彦名命 (配祀) 大物主命

                                        社  格   旧村社

                                        例  祭   4月10日 例大祭



 御獄大神社は横瀬神社から一旦南下して滝瀬交差点を左折する。埼玉県道45号線を道なりに真っ直ぐ進み、新戒交差点の先に群馬県道・埼玉県道356号成塚中瀬線と交わる交差点があるのでそこを右折すると左側に御獄大神社が見える。

 のどかな村の鎮守様というイメージがピッタリと合うような社。『新編武蔵風土記』に「蔵王社、村の鎮守なり」とある。                                              明治七年、御嶽大神社に改称したという。 
                            

                                            

                                                    のどかな社の風景

 寛永三年(1626)成塚村の宝蔵寺の創立に当り、吉野の蔵王権現を勧請したものいう。当時の地頭 遠山半左衛門は、蔵王権現を深く信仰し、自から不動尊像を描きて奉納したものが、今に寺宝として伝わる。「蔵王大権現」ともいった。

                                            

                                                        拝 殿 

                                            

                                                        本 殿

                            近くに小山川がある為か、この社も川石か葺石らしい基礎で土台を固定し、本殿部分を高く積み上げている。 


                                          

                              本殿左側にある境内社      本殿右側奥にある境内社       境内社 稲荷社他 



                     



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