今城青坂稲実池上神社が鎮座する児玉郡上里町は、古代律令時代武蔵国賀美郡と言われた。賀美郡,美しい名称だ。賀美郡は武蔵国の最北端に位置し、東南は児玉郡、西北は利根川を挟んで上野国に接している。おおむね現児玉郡上里町、神川町の地域で、『和名抄』は「上」と訓じている。ちなみにこの「かみ」は、当初武蔵国が東山道に属していたとき、畿内にもっとも近い郡であったことによるとする説があるそうだが真相は不明だ。

 賀美郡は現在の上里町全域と神川町北部が行政区域に相当され、その郡内には式内社が4社存在していたという。地形的にも上野国と利根川、神流川という2大河川を通じて接している関係から、上毛野国の影響下に長期間あったと推測される。また賀美郡は上古代から地理的に恵まれたようで遺跡から出土した様々な土器の豊富さから、当時としては、比較的豊かな生活を送っていたことがうかがえる。

 この地域は不思議なことに縄文時代、弥生時代の遺物が数多く出土しているが、何故か縄文人、弥生人が生活をしていた住居の跡は見つかっていない。古墳時代後期(六世紀)になると、上里町全域に大規模な集落が営まれ、上里町の数々の古墳はこの頃造営された。この地域の古墳は、小さい古墳がまとまって作られているのが特徴である。




                       今城青坂稲実池上神社
                                     地図リンク                       
                                                                  自然と時代に奔走された式内社   

                                           



                                所在地    埼玉県児玉郡上里町忍保225

                                主祭神    気吹戸主命  (合祀)豊受姫命

                                社  格     県社

                                例  祭    
9月29日 例大祭

                                由  緒    和銅4年(711)創立
                                         正慶年中(1332〜34)新田義貞造営
                                         大永年中(1521〜28)齋藤盛光造営
                                         天正10年(1582)神流川合戦で社殿焼失
                                         同年川窪與左衛門尉信俊再造
                                         元禄年中(1688〜1704)同氏の孫信貞丹州に転領となり以後頽破
                                         明治32年2月7日県社

      
                                 明治40年1月12日神饌幣帛料供進神社指定



 神保原駅からは約2キロ北上の地に鎮座する。さすがに埼玉県最北部に位置する場所なので周りは田園風景ばかり。すぐ北は烏川なので氾濫があったらどうなるのだろうと変なところを心配してしまった。(事実元禄7年の大洪水で社殿を流失。本殿だけをかろうじて水中から引き上げ、地盤を高くして改めて鎮座させた、との記録もある。)

 この地域は過去において現在ののどかな田園風景とは別の顔を持っており、有名な神流川の戦い(1582年6月18日〜19日)では、織田信長の家臣である厩橋(うまやばし、前橋の古称)城主の滝川一益と小田原城主北条氏直との戦いにより社殿を焼失した。その後天正19年(1591)に川窪信俊が社殿を再建し、神田が寄進された、とのことだ。


                              

                     
         一ノ鳥居 手前にある橋は御神田橋                   二ノ鳥居

                                           


池上神社(社頭掲示板より

所在地 上里町忍保225
池上神社は、和銅年間(708〜715)の創立で、延喜式内社武蔵国44座の一つで、延喜式内神名帳には、今城青坂稲実池上神社と記されている。
忍保庄の神社と伝えられ、祭神は伊吹戸主神と豊受姫命で、古くは善台寺において別当を兼務し神事を司っていた。
正慶年中(1332−34)には新田義貞、大永年中(1521−28)には斉藤盛光の崇敬が篤く、神殿の修復が行われたといわれている。
また、天正10年(1582)、織田信長の家臣である厩橋(群馬県前橋市)城主の滝川一益と小田原城主北条氏直との神流川合戦の際に社頭を焼失し、その後、川□信俊により再建されたと伝得られ、現在の社殿は明治12年に改築されたものである。
なお、当神社には明治初期に始まった、「忍保の神楽」と呼ばれる神楽の一座がある。
                                                                                           昭和61年3月埼玉県 上里町


                                           

                                                   
拝 殿  南側に鎮座

                                             
洪水対策で地盤基礎部分が高くなっている。


                                           

                                                        本 殿

                                  本殿は土塁等で土盛りをし、拝殿の基礎部分より高くして洪水対策をしているようだ


 今城青坂稲実池上神社の祭神である伊吹戸主命は祓戸四神のひとつで、速開津媛命の飲み込んだ禍事・罪・穢れを確認して根の国・底の国に息吹を放つ神である。ところで祓戸大神の四神とはどのようなの神であろうか。
 この神々は記紀神話に登場せず、大祓詞にその名が記されるその名の通り、穢れを祓ってくれる神様だ。



【祓戸大神】

 祓戸大神(はらえどのおおかみ)とは、神道において祓を司どる神である。祓戸(祓所、祓殿)とは祓を行う場所のことで、そこに祀られる神という意味である。

 神職が祭祀に先立って唱える祝詞である「祓詞」では「伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 禊祓給ひし時に生り坐せる 祓戸大神等」と言っており、祓戸大神とは、日本神話の神産みの段で黄泉から帰還した伊邪那岐が禊をしたときに化成した神々の総称ということになる。

 なお、この時に禍津日神、直毘神、少童三神、住吉三神、三貴子(天照大神・月夜見尊・素戔嗚尊)も誕生しているが、これらは祓戸大神には含めない。「祓詞」ではこの祓戸大神に対し「諸諸の禍事罪穢有らむをば祓へ給ひ清め給へ」と祈っている。

 『延喜式』の「六月晦大祓の祝詞」に記されている
瀬織津比売・速開都比売・気吹戸主・速佐須良比売の四神を祓戸四神といい、これらを指して祓戸大神と言うこともある。これらの神は葦原中国のあらゆる罪・穢を祓い去る神で、「大祓詞」にはそれぞれの神の役割が記されている。

・ 
瀬織津比売(せおりつひめ) -- もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す
・ 
速開都比売(はやあきつひめ) -- 海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込む
・ 
気吹戸主(いぶきどぬし) -- 速開津媛命がもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込んだのを確認して根の国・底の国に息吹を放つ
・ 
速佐須良比売(はやさすらひめ) -- 根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れをさすらって失う

 速開都比売を除いてこれらの神の名は『記紀』には見られず、『記紀』のどの神に対応するかについては諸説あるが、上述の伊邪那岐の禊の際に化成した神に当てることが多い。



 祓戸大神の4神の役割には順番があり、@ 世の諸々の過事と罪、穢れを瀬織津比売が川に洗い流して→A
 速開都比売が河口で受け取って海底に沈めて→B 気吹戸主海底から根の国・底の国に禍事・罪・穢れを送り込んで→C 速佐須良比売穢れ等全て一網打尽に浄化し、世の中をリセット(再生)する、という一連のプログラムを実行することによって常に世の中の秩序、道徳等が守られるというものらしい。祓戸の大神のうち三神が生命を育む女神であり、川は飲み水、海は生命の根源として、また、呼吸は人間に不可欠なものであり、霊界はこの世を裏で支える存在として、それぞれが私たちにとって大切なものだ。まさしく人間だけでなく、地球上の生命にとっても根源的なご神徳を備えた神々が祓戸の大神で、いわば自然の自浄作用のようなものを具現化した神なのではないだろうか。

 ところでこの祓戸大神の神性、神格は世界中の神話で登場する洪水伝説に似ているが、このことについては別の項目を設けたい。



 
 

 『延喜式』「神名帳」武蔵國賀美郡四座の三座、「今城青八坂稲実神社」「今城青坂稲実荒御魂(いまきのあおさかいなのみのあらみたま)神社」「今城青坂稲実池上神社」の一座に比定されている。この三座について吉田東伍は『大日本地名辞書』のなかで次のように述べている。


 
「社号に因りて之を考ふるに、一神を三霊に分かちたるにて、青と云ふは地名なるべし、即ち後世アホに訛りアボとも転りたる者とす。八坂は弥栄にて(坂とのみあるは栄なり)稲の実成に係けたる語とする。されば青の弥栄稲実の神なり。また其の荒御魂を本祠に分かちて祭る者一所、又特に池上に祭る者一所、合三所なりし也。而も其今城の名を負ふは詳らかならず。今木は山城國、大和國には地名にもあり。又新墓(ニヒハカ)を今城と云ふことあり。又新帰、新米の蕃人異族を今来と云へりとも想はる」

 今城青八坂稲実神社は現在は埼玉県児玉郡神川村元阿保の地にある。この阿保は青に通じる。そして阿保から西南へ五キロ行くと金鑽神社がある。金山彦命を祀る金鑽神社が銅や鉄の精錬と関係があることはまぎれもない。金鑽神社の東には金屋集落があり、鋳物業をしていた家が今もあるそうだ。今城青八坂稲実神社もまた、銅や鉄の採鉱冶金に関係のある人たちの神社ではなかったろうか。賀美郡一帯にさかえた武蔵国造一族のうち、檜前舎人直の勢力がもっとも抜きんでていたというのは、大和国の檜前の廬入(いおいり)宮に仕えていた舎人の後であることを思わせる。
 近年、神川町大字元阿保字新堀北の金糞遺跡から、金属精錬工房跡が発掘されている。



境内神社


                                           
       
                                                     宮西神社

祭神
 大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)、建御名方命(たけみなかたのみこと)、埴安比売命(はにやすひめのみこと)、熊野久須美神(くまのくすびのみこと)、速玉男命(はやたまのおのみこと

由緒
 明治40年4月20日当社境内社加茂神社(祭神別雷命)、八坂神社(祭神建速須佐之男命)、字一本松諏訪神社(祭神建御名方命 往古は字上忍保に鎮座していたが、度重なる洪水で社地定まらず)、字稲実丹生神社(祭神埴安比売命 祭日9月29日)、字熊野熊野神社を合祀し、社号を「宮西神社」とし、当社境内に移した。




                      

                 八坂神社                                雷電神社                     その他北野神社、総社神社、医祖神社等

祭神 建速須佐之男命                             祭神 別雷命(わけいかづちのみこと)

由緒 昭和21年2月9日当社境内神社宮西神社の祭神建速       由緒 昭和21年2月9日当社境内神社宮西神社の祭神
    
須佐之男命を分祀し、八坂神社を創建                    須佐之男命を分祀し、八坂神社を創建


祭日 7月1日(祇園祭)                              祭日 7月25日(雷電祭)

忍保の神楽      

当社にはかつて「忍保の神楽」と呼ばれる神楽の一座があり、祈年祭、生産倍盛交通安全祈願祭、例祭で上演されていた。特に「投げ餅」の際には多くの見物人を集め、近郷各地の神社の祭りへも出向いたものであったが、後継者不足から昭和六十年代に入り途絶えてしまった。
 「生産倍盛交通安全祈願祭」は従来行ってきた「養蚕倍盛祈願祭」を養蚕の減少に伴って昭和49年にその名称を改めたもので、元は「八十八夜祭」と通称されていた。養蚕が特に盛んであった昭和10年頃までは、この日に氏子は銘々で米の粉でこしらえた繭玉を持ち寄り、当社に供えた。





                                           

                                            当社北側烏川付近を撮影 山脈は榛名山系

                                         古の北武蔵の神々もこの風景を眺めていたのだろうか。

 



                         
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