鴻巣市(こうのすし)は、埼玉県の東部中央、大宮台地の北端に位置する人口約12万の市である。都心から50キロ圏内にあたる場所に位置し、市の中央には旧中山道が通っており、それを挟むように、国道17号線とJR高崎線が通っている。市の西側には荒川が南流し、川を境に吉見町、東は騎西町、菖蒲町、北は行田市、川里村、南に桶川市、北本市と接していて、昭和30年代以降は住宅地の拡大や工場の誘致、バイパスの開通などにより、都市化が急激に進んでいる。
鴻巣の地名は古来からのものらしい。「コウ(高)・ノ・ス(洲)」で「高台の砂地」の意とする説や、日本書紀に出てくる武蔵国造の乱で鴻巣郷に隣接する埼玉郡笠原郷を拠点としたとされる笠原直使主(かさはらのあたいのおみ)が朝廷から武蔵国造を任命され、一時この地が武蔵の国の国府が置かれたところ「国府の州」が「こうのす」と転じ、後に「鴻(こうのとり)伝説」から「鴻巣」の字を当てるようになったとする伝承もある。
古代から近世までの鴻巣市域は主に武蔵国足立郡に属し、一部の地域は埼玉郡、大里郡に属していた。日本書紀によると504年、安閑天皇より笠原直使主が武蔵国国造を任命され、埼玉郡笠原郷(現在の加須市種足から笠原、久喜市菖蒲町付近)に拠点を持ったとされる。笠原から元荒川の上流10キロほど離れた埼玉郡埼玉(現在の行田市埼玉)にある埼玉古墳群は同時代の古墳であり、何の基盤の無い当地に突如として、関西地方に匹敵する中型古墳群が現れた事、稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣に彫られたヲワケの父の名のカサヒヨがカサハラと読める事から、笠原を本拠としたといわれる武蔵国国造の笠原氏の古墳ではないかという説がある。
また、元荒川を挟んで笠原地区と正対する地域に生出塚古墳群が展開しており、生出塚、新屋敷、両支群の発掘調査により95基の古墳が確認され、未発見の古墳跡を含めると100基を越す元荒川右岸最大の古墳群と想定される。
当社は、子授け・安産祈願の社としても有名で、当社の「木曽檜樹魂塊(きそひのきじゅこんかい)」は、子授け・子育て・安産のご神体とされている。
こうのとり伝説の地、鴻巣総鎮守
所在地 埼玉県鴻巣市本宮町1−9
主祭神 素盞鳴尊 嵐/暴風雨の神、厄除けの神、縁結びの神、安産の守護神
速玉之男命 唾液の誓約力が速く玉の光のごとき霊力をもつ男性
賀茂別雷神 雷神
社 格 旧村社 鴻巣宿鎮守
例 祭 10月14日
鴻神社は国道17号線を熊谷市から鴻巣市方面に向かい、宮地交差点を右折し、直進し約500m位、道路沿い左側に鎮座している。駐車場は境内に駐車スペースがあり、そこに停めることができる。市街地に鎮座する社で交通の便も良く、また社内は開放感があり、境内は掃除が行き届いていて清潔感もあり、平日であったが参拝客も多かった。
江戸時代、鴻巣宿の中心にあった氷川社、熊野社、雷電社を明治6年(1873年)に合祀し鴻三社と号したのが始まりである。その後、明治35年(1902年)に、日枝社、東照宮、大花稲荷社、八幡社を合祀して、社号を現在の鴻神社と改めた。当初は市内宮地5丁目にあったが、後に現在地に移転した。なお、旧社地には現在も八幡、稲荷、氷川の三社の祠が残されている。
大本となった三社のうち
鴻神社の社号標石 一の鳥居
二の鳥居 神楽殿
拝 殿
鴻神社は明治6年にこの地ならびに近くにあった三ヶ所の神社を合祀したもので、もとは鴻三社といった。三社とは次の神社である。 氷川社 鴻巣宿字本宮390番地(宮地5丁目) 鴻ノ宮氷川大明神あるいは端ノ宮(ハジノミヤ・ハタノミヤ)ともいい、鴻巣郷総鎮守として崇敬された古社であった。氷川社の神額は現在も鴻神社に残されている。 熊野社 鴻巣宿字本宮389番地(宮地1丁目) 熊野権現と称していた古社で氷川明神を端ノ宮と称したのに対し中ノ宮と呼んだ。合祀前は社地3000坪を有し、巨木におおわれた森林であったという。 竹ノ森雷電社 鴻巣宿字東側2283番地(現在地) 雷電社は現在地に鎮座していたもので、「竹ノ森」の名があるように付近には竹林が広く存在し、巨木と竹林によって囲まれた古社であり、天明期には遍照寺(瀧馬室常勝寺末)持となり、鴻巣宿の鎮守として崇敬されていた古社であった。 現在の鴻神社社地は竹ノ森雷電社の社地だったもので、合祀決定後、社殿の造営が行われ、明治6年9月24日に社号を鴻三社と定めた。 明治35年から40年にかけてはさらに鴻巣町内に所在した日枝神社、東照宮、大花稲荷社、八幡神社を合祀して明治40年4月8日、社号を鴻神社と改めて現在に至っている。 ここには鴻巣市の文化財に指定されている「香具拾三組御定免」「議定書」「商人講中連名帳並焼印」等貴重な史料が残されている。またここ鴻神社では10月14日の例大祭のほか、ゑんぎ市や酉の市、夏まつりなど様々な行事がおこなわれている。 (境内掲示より) |
本 殿
鴻神社には、「こうのとり伝説」と呼ばれる伝承が残っており、かつて、「樹の神」と呼ばれる大樹があり、これを讃え、祀っていたという。そして、それを怠ると祟りが起こるとされ、ある時、一羽のコウノトリが飛来し、この大樹に巣を作り卵を生み育てたという。すると、大蛇が現れ、この卵を飲み込もうとしたところ、コウノトリは果敢にこれを撃退し、以降、祟りが起こることはなかったという。それ以後、「樹の神」が人に害をなすことがなくなったので、人々は木のそばに社を建て、鴻の宮と呼び、いつしか、この地を鴻巣と呼ぶようになったと云い伝えられている。また本殿内部には、雄雌一対のコウノトリのご神像が安置されているとの事だ。
「こうのとり伝説」と関係しているのか鴻神社社殿の両脇には樹齢500年以上と言われている銀杏があり、それぞれ雄木と雌木が対象に屹立している。霊験あらたかな木として知られ、拝めば夫婦円満、健康長寿などにご利益があるとされているようだ。
三狐稲荷神社
三弧とは、天弧・地弧・人弧の三弧と言って、この三弧を祀る稲荷神社である。三孤は、悪い人間関係、悪癖を断ち、良縁を招くご利益があるという。
「なんじゃもんじゃ」の木 鴻神社境内社 鴻神社奥にある富士塚 富士塚の周りに存在する石祠群
鴻神社 旧本殿
「鴻巣」という名前の由来は、古代、武蔵(天邪志)国造(むさしくにのみやつこ)である、笠原直使王(かさはらのあたいおみ)が、現在の鴻巣市笠原のあたりに住み、一時この地が武蔵の国府となったことから、「国府の州(こくふのす)」と呼ばれたのが始まりとされ、それが「こふのす」となり、後に「コウノトリ伝説」から「鴻巣」の字をあてはめるようになったと云われているが、事実はどうであったのだろうか。まず漢字から連想してみると
鴻巣の字体は「鴻」+「巣」で本来の地名は「鴻」ではなかったかと推測する。そしてこの「鴻(コウ)」はいわゆる佳字で本来の名は別ではなかったのではないか。埼玉苗字辞典には次のような記述が掲載してあった。
河野 コウノ 高野(コウノ)の佳字なり。足立郡鴻巣郷周辺に多く存す。元鴻巣村(北本市本宿)より宿場を移して今の鴻巣宿(鴻巣市)となる。当宿の総鎮守氷川社は鴻ノ宮と称し、今は鴻神社と称す。鴻は高(コウ)の佳字で、古代に高ノ一族の奉斎神であったものを氷川に改称したか。(中略)
同郡常光村(鴻巣市) 当村に此氏多く存す。風土記稿常光村条に「旧家七兵衛、河野氏なり。隅切角の内に三の字を紋とす。代々上分の名主を勤む。先祖は五郎左衛門といひ、慶長の頃よりここに土着せしと。古は岩槻太田氏の旗下にて鴻巣七騎の内河野和泉守が裔なりと、五郎左衛門は其子にや。村内氷川社の棟札に河野五郎左衛門の名見えたり、河野氏の来由を書しものを伝へり、何人の書なりや詳ならず」と。氷川社条に「社内に寛永二年の棟札をかく、其文に本願主大旦那河野五郎左衛門・同七郎兵衛・同庄右衛門云々、末に永禄十二己巳年迄百二十六年に至るとあり、是をもて推せば文安元年に及べり、さあらんにや旧き勧請なること知べけれど外に證とすべきものはなし」と見ゆ。此氏は古代以来の居住者なり。
同郡糠田村(鴻巣市) 当村に此氏多く存す。風土記稿糠田村条に「河野権兵衛、代々当村の百姓なり。権兵衛は篤実廉直のものにて多年農耕に勤めて奇特のはからひありしゆへ、里民自ら一和せりかかりければ其善行近郷に聞えたりとぞ。天明三年彼が善行を聞え上て、子孫まで苗字を名乗べく、其身一代は帯刀すべき由いひわたせしなり。今の権兵衛は彼が子なるが、父におとらず貞実のものにて、よく村民と和順して農業に勤め、おこたらずと云り」と見ゆ。
この「鴻巣」という地名の本来の名は「高野(コウノ、タカノ)」であり、「高」一族が古来よりこの地に先住していたという。但し証拠は全くない。地名からの推察に過ぎないが、この鴻巣地方には「河野」姓が非常に多いことをどう説明したらよいのだろうか。
この「鴻巣」地名の由来については別項にて報告したいと思う。
もどる