東照宮は、東照大権現たる徳川家康を祀る神社である。

 江戸幕府によって建立された栃木県日光、静岡県久能山などをはじめとして、各地の徳川・松平一門大名家、さらには譜代大名や徳川家と縁戚関係がある外様大名家も競って建立し、全国で500社を超える東照宮が造られた。当初は東照社、東照大権現などと称していたが、1645年(正保2年)に宮号の宣下があり、以降は東照宮と称するようになった。その後明治時代以後に廃社や合祀が相次ぎ、現存するのは約130社とされる。

 群馬県にある元新田郡世良田は新田氏の開祖新田義重の居館跡とされ、隣接する長楽寺は義重の供養塔もあり、歴代新田氏本宗家惣領が厚く庇護を与え、大いに栄えていた。関東に入った徳川氏は、新田氏から分立したこの地を発祥地とする世良田氏の末裔を自称していたため、徳川氏ゆかりの地ともされた。

 世良田東照宮は、世良田が徳川氏の発祥の地であることから、先祖の遺徳の高揚と世良田の守護神として、 徳川三代将軍家光公が二代将軍秀忠公の造営による日光東照宮の奥社殿を1644年(寛永21年)に移築、本殿を新築し、東照宮を勧請したものである。

 また太田市内の他の社寺、館跡とともに「新田庄遺跡」として現在国の史跡に指定されている。



                          世良田東照宮
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                                                                        徳川氏発祥の地とされるが詳細は不明
 
                                            


                                        所在地    群馬県太田市世良田町3119番地1 

                                        主祭神    徳川家康公

                                        社  格    郷社

                                        創  建    寛永21年(1644年)

                                        本殿の様式 一間社流造

                                        例  祭    4月17日


 
 世良田東照宮は国道17号を深谷市方向へ進み、深谷署交差点を右折するとその道は群馬県道・埼玉県道14号線となり、道なりに真っ直ぐ行く。上武大橋を通り利根川を越えると群馬県となり、しばらく進むと左側に世良田小学校が見え、その先のT字路を左折し、突き当たりを左方向に行くと世良田東照宮が鎮座している。

 駐車場は神社入り口右側に数台ありそこに駐車する。世良田東照宮の北側並びには長楽寺もあり、そこにも駐車場もあるので比較的駐車スペース確保には苦労をしなくても良さそうだ。


                                           

                                             正面は鳥居ではなく黒門、正式名は御黒門

                

                   黒門の隣にある案内板           黒門を潜るとすぐ左側に移築された当時の東  東照宮の門を潜ってすぐ左側に、『番所』が再現され
                                                    照宮の絵図がある。          ている。徳川家の庇護されていた東照宮は上下二
                                                                          箇所の番所があって警護されていた。       


東照宮                      所在地 太田市世良田町3119−1

 元和二年(1616)徳川家康は駿府(静岡市)で七十五年の生涯を閉じた。遺命により、遺体は一旦駿府郊外の久能山に葬られ、翌年下野国日光に改葬された。それより二十年の後、社殿は三代家光によって全面的に改築され、今日の東照宮が完成した。当時日光輪王寺と長楽寺の住職を兼ねていた天海は、旧社殿の一部を長楽寺元境内に移築して東照宮を勧請した。当地が徳川氏発祥の地であり、当寺が徳川義季開基とする寺だからである。幕府は、長楽寺をその別当寺としてその管理や祭祀に当らせ、二百石の社領を与え、その社殿の修理や祭祀の費用は幕府の財政によって賄われることになった。桁行五間・梁間三間の拝殿は、日光奥社の拝殿を移したものである。家康の最初の墓標として建てられた多宝塔もここに移され、本地堂(俗に塔の薬師)として、明治初年までその豪華な姿をとどめていた。
 東照宮の鎮座により地元世良田の住民はもとより、近隣十数か村の住民は、東照宮の火の番を奉仕することによって道中取郷を免除されたり、幕府によって開削された神領用水の利用を許されたり、種々の恩典に浴することができた。
 寛永二十一年(1644)に遷宮式が行われた。(中略)
                                                                               昭和62年3月    太田市教育委員会
                                                                                世良田東照宮 案内板より抜粋

                                                            
                                            

                                         黒門を通ると正面に鳥居があり、その先に拝殿がある。

                                           

                                                        拝 殿


 寛永二十一年(1644)、三代将軍徳川家光公は、世良田が徳川氏の先祖の地ということから、日光東照宮古宮(元和年間造営の奥宮)を移築し、家康公をお祀りしました。奉斎にあたり家光公から御神領二百石が寄進され、以後、幕府の手厚い保護を受け、徳川家代々礼敬を尽くされました。東照宮の御鎮座は文化・経済の発展を助長し、世に「お江戸見たけりゃ世良田へござれ・・・」と謡われました。
                                                                                    世良田東照宮 由緒書より抜粋

 
                                                           

                      拝殿の前には迫力のある大鉄燈籠があり、高さ5mで国指定重要文化財の附(つけたり)指定になっている。元和4年銘。

附(つけたり)指定とは
  

 現在の文化財保護制度は、昭和25年の文化財保護法の制定と同時にスタートした。

我々の身の回りにはたくさんの数の文化財があるが、そのすべてを守ることは難しい面があり、このため、これらの文化財のうちの特に価値の高いものを選び、後世にそのままの姿で伝えるために、特に法律や条例によって守ることを表明した文化財を「指定文化財」と呼称する。指定文化財には、市町村指定・県指定・国指定など、その価値によっていくつかのランクがあるが、文化財保護法によって国が認めた文化財が国指定文化財で、国指定文化財のうち建物や美術工芸品など、物として指定されたものを重要文化財と呼ぶが、さらに、国は、この中でも特に優れたもので、世界に誇れる価値のあるものを「国宝」として、特別な価値付けをしている。つまり国宝は、まさに数ある文化財の中でも頂点に位置する存在といえる。

  附指定とは、「もとにある国宝や重文の価値を証明したり、その根拠及び比較の対象、又時代背景等深い係わりの認められるもの」という意味。



                                           

                                                        唐 門

                               元々は日光東照宮奥社神廟前にあった唐門で、拝殿を移築する時に一緒に移築されたという。
                                                           

                                            

                                              本殿は拝殿同様に国指定重要文化財。






      


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 世良田地区は上記世良田東照宮が有名だが、すぐ近くには八坂神社が鎮座している。距離もそんなに離れていない。

 創建年代は不詳。だが上野国新田祇園牛頭天王縁起によると、貞観十八年(八七六年)丙申に上野新田のほとりに、社を作らば静まるべしと、当所に鎮め奉った。
 新田氏代々の崇敬社。尾張国津島天王社を分霊したともされる。世良田政義の娘と南朝の尹良親王との御子良王(よしたか)君の次男良新(よしちか)が津島天王社神主となり、尹良親王を若宮として祀ったという。

 古くは牛頭天王を祀る新田の天王社と呼ばれていたという。明治期に郷社となり八坂神社と称した。上州三大祇園である「世良田祇園」が有名である。




                              八坂神社
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                                    所在地   群馬県太田市世良田町1497

                                    主祭神   素戔鳴尊 他

                                    社  格   旧郷社  新田総鎮守

                                    創  建   貞観十八年(八七六年)か

                                    例  祭   春祭 4月15日  秋祭 10月15日   世良田祗園 7月第4土、日


 
  世良田八坂神社は太田市の南部、旧尾島町世良田、国道354号線から世良田駅へ向かう県道から一本西に入ったところに鎮座している。大体世良田東照宮から北に1km弱くらいか。駐車場は、鳥居手前に「参拝者用駐車場が」あり、自動車は、5〜6台くらいは停められるスペースがある。


 今回参拝の目的地はあくまでも世良田東照宮で、道すがら近くに八坂神社があることをナビで知ってなにげなく立ち寄ってみた神社だった。しかし古風な鳥居の門構えを見てびっくり、その先の重厚な威厳ある拝殿、その奥の様々な彫刻に飾られた煌びやかな本殿を惚れ惚れしながら見るうちに、ワクワクしている自分がそこにいた。広い境内に配置されるのは神楽殿に神輿舎、額を奉納した舞台の横には芭蕉の句碑があり、さらに杉林の合間に赤城山を望む本殿裏には、どのくらいあるのか検討もできない位の境内社。案内板も多く、丁寧に説明され、見所がたっぷり詰まった侮れない社だった。


                              

                                国道354号線沿いにある社号石標        社号石標から北方向真っ直ぐ先に社がある。


                                           

                                             木製の重厚な両部鳥居の先に社殿がある。
                          鳥居の稚児柱(稚児鳥居)右側には「天王宮」左側には「新田厄除明神」と書かれた木札が付いていた。

                              

                                  鳥居を潜るとすぐ左側に手水舎               右側には神楽殿

                              

                                神楽殿の奥には額殿があり。              その奥にある松尾芭蕉の句碑
                                                                太田市指定重要文化財[石造文化財]

 
八坂神社の芭蕉句碑

 この芭蕉句碑は、八坂神社の本殿東側に建てられており、仁井田碓嶺<安永9年(1780)?弘化3年(1846)>の筆によるもので、仁井田碓嶺は上州碓氷郡坂本宿出身の江戸時代の俳人で、当時の俳諧史に名前を残した人物である。碓嶺による芭蕉句碑は県内に4基あるが、文政9年(1826)建立のこの句碑は、最も早い時期のものと言われている。また、「春秋三世碓嶺書」の刻字があるところから、碓嶺が白雄、長翠の後に春秋庵を継いだと見られる貴重な句碑である。

 句碑には、「はせを翁 しはらくは花の色なる月夜かな」が刻まれている。

                                           

                                                    八坂神社 案内板


八坂神社

 所在地 群馬県太田市世良田町1497
 祭  神 素戔鳴尊 他

 八坂神社の創建は明らかでないが、縁起によれば新田氏代々の崇敬社であり、織田信長も同社を崇拝し社殿を修造したという。また尾張国(愛知県)津島天王社の分霊を移したとも伝える。これは世良田政義の娘と南朝の王子尹良親王との間に出生した良王が、津島天王社の神主となったという故事によるものであろう。
 「永禄日記」(長楽寺蔵)の永禄八年(1565)六月七日の条に、「天王祭ヲイタス」とあり、古くは「牛頭天王」を祀る天王社であった。江戸時代は神宮寺(大正二年普門寺へ合併)が奉仕し、世良田・女塚・境・三ツ木・粕川村など五ヶ村の鎮守であったが、明治初年さらに平塚・村田村・木崎宿などが加わり、二十四ヶ村の郷社とされ、八坂神社と称した。
 当社は、農業・疫病除けの神として広く信仰されている。特に夏祭は「世良田祇園」として知られ、かって十一台の屋台が繰り出して競う祇園ばやしは、夜空にこだまして絢爛幻想の世界を現出し、関東の三大祭の一つに数えられた。近年は交通事情により祭りの規模は縮小されているものの、村人により祭り屋台・囃子が良く保存されており、神輿の渡御などに「世良田祇園」の伝統が受け継がれている。(中略)

                                                                                   昭和63年3月        太田市教育委員会
                                                                                      世良田八坂神社 案内板より抜粋

                                           

                                                        拝 殿

                                           

                                                        本 殿

                                           

                                                 社殿の左側にある神輿舎

 また社殿の左側にある社務所に手前には「熊杉」という大きな切り株がある。樹齢は約700年で世良田八坂神社のシンボル的な神木だったそうだが、今回撮影しなかった。非常に残念だ。


 社殿の裏側へ行くと境内社が並んでいる。その数が半端でなく、正直驚愕だ。




                                      

           縁結神                  琴平神社           御嶽山、三笠山、鳥海山(?)          境内社群              左側に猿田彦太神

                                      

         出羽三山石碑              庚申の石碑                永寿大明神           永寿大明神の隣にある石碑     社の土地のはずれにある末社群     




                                                                
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