本庄市は埼玉県の北西部県境に位置し、北に利根川が位置し、市内中央部にJR高崎線が、南部に関越自動車道と上越新幹線が東西に横断している。市街地は本庄駅付近に集中する。国道17号線(本庄駅北側)より北部は畑が広がり、住宅密集地は本庄駅の南部方面に広がっている。本庄北部は畑が広がっている為、風をさえぎる物がなく、秋冬では西風が強い。内陸の台地で比較的安定した風土を保つ。旧市内域(児玉町合併以前)では、3分の2が台地上に当たる。一方で、児玉南部方面は山麓地帯である為、夏場では山間独特の湿度の高さがあり、土砂崩れも多いようである。
 本庄市の名前の由来として古代から人々が住み、縄文時代の遺跡が多く、平安時代には児玉党の荘氏が登場する。この宗家(本家)が本庄の由来となっているという。

 旧石器などの遺物の出土や縄文期、弥生期、古墳期と、各時代にそれぞれ遺跡がある事からも分かるように原始時代の頃より本庄には人々が暮らしていた。

 本庄の古墳時代の特色として、旧児玉町下浅見の鷺山古墳が4世紀中頃(333年 - 366年)まで遡る県内でも最古級かつ最大(全長約60m)の前方後円墳に当たる事、また、本庄の大久保山古墳群の前山1号墳は県内最大の前期前方後円墳であり、武蔵国北部に顕著な巨大円墳も古墳時代の本庄の特色の一つである。             





                           本庄金鑚神社
                                                            
                                 地図リンク                    
                                                               北関東一「本庄祭り」で有名な本庄市総鎮守

                                                                   
                                                 



                                             所在地      埼玉県本庄市千代田三丁目2-3

                                             主祭神      天照大御神 素戔嗚尊 日本武尊

         
                                             社  格      旧県社

                                             創建年代    欽明天皇2年(541)

                                             例  祭      11月2・3日(本庄祭り)


 

 JR本庄駅から中山道を左折、そのまま真っ直ぐ進むと約2km位で金鑚神社に着く。街中の神社ゆえ、また昼間の参拝の 関係で交通量も多く、(中山道の道幅も決して広くもない)神社までの道のりは決して気分がいいものではなかったが、神社の鳥居を拝むとやはり神妙な感じになる。

 地形的に見ると、JR本庄駅の北西1.2km、国道462号と県道392号の交差点、昔で言うと中山道と下仁田街道(上州姫街道)の分岐点だったそうだが、その手前に金鑚神社は鎮座している。


                                                  

                                                           神社前の大鳥居

                     
                     大鳥居の社号額は江戸時代の老中で有名な松平定信の揮毫とのこと

                                                

                                       
           鳥居を過ぎると左側に神社の案内板がある

 金鑚神社   所在地 本庄市千代田3-1
 金鑚神社の祭神は天照皇大神、素盞鳴尊、日本武尊の三神である。
 社伝によると、創立は欽明天皇の二年(541)と伝えられている。武蔵七党の一つである児玉党の氏神として、また、本庄城主歴代の崇信が厚かった。
 境内は、ケヤキやイチョウなどの老樹に囲まれ、本殿と拝殿を幣殿でつないだ、いわゆる権現造りの社殿のほか、大門、神楽殿、神輿殿などが建っている。本殿は享保九年(1724)、拝殿は安永七年(1778)、幣殿は嘉永三年(1850)の再建で、細部に見事な極彩色の彫刻が施されており、幣殿には、江戸時代に本庄宿の画家により描かれた天井絵がある。
 当社の御神木となっているクスノキの巨木は、県指定の天然記念物で、幹回り五.一メートル、高さ約二十メートル、樹齢約三百年以上と推定される。これは本庄城主小笠原信嶺の孫にあたる忠貴が社殿建立の記念として献木したものと伝えられる。
 このほか、当社には市指定文化財となっているカヤ、モミ、大門、神楽、小笠原忠貴筆建立祈願文がある。
   昭和六十年三月 埼玉県・本庄市

                                                                                                       案内板より引用


                                                


                   
    鳥居をくぐるとすぐ右側に巨大なクスノキがある。「金鑚神社のクスノキ」として埼玉県の県指定天然記念物に認定されている。

 埼玉県指定天然記念物 金鑚神社のクスノキ  昭和44年3月31日指定

 クスノキは、元来暖帯地方に自生し、わが国では主に九州地方、近畿地方南部及び東海道関東地方の太平洋沿岸地方に生育する植物で北関東ではこのような巨木になったのは珍しい
目通り5.1メートル、根回り9.8メートル、枝張りは東へ14.2メートル、西へ15.6メートル、南へ15.0メートル、北へ13.8メートルと四方へ平均して伸び樹齢、およそ350年と推定され樹勢盛んである、このクスノキは寛永16年(1639)金鑚神社社殿改修のおり小笠原忠貴が献木したものと伝えられ、金鑚神社の御神木として今日にいたる。
 埼玉県教育委員会
 本庄市教育委員会
                                                                                                       案内板より引用


                                   

                                   鳥居の正面にある大門 本庄市指定文化財      
旧別当の威徳院の総門であったという

                                   

                               
       拝殿前の階段近くにある手水舎      階段を上ると左側に神楽殿 文政4年(1823)建立
 

 江戸神楽という神楽がある。金鑚神楽には、本庄組・宮崎組・杉田組・根岸組・太駄組の5組の神楽組がある。
 本庄では、地方では珍しい「免許」を持つ神楽として有名で、本庄組は、1825(文政8)年に出された免許状が保存されており、金鑚神社の大祭で奉納舞を行うそうだ。また、1716(正徳6)年の免許を持つ宮崎組は、牧西八幡大神社に奉納され。そして杉田組は西富田金鑚神社等で奉納するという、一社相伝の由緒深いこの江戸神楽は、専門の神楽師ではなく、神社の氏子によって代々伝承されているそうだ。           

 なおこの江戸神楽は現在本庄市無形文化財に指定。


                                   

                                         
           拝 殿 「丸に尻合せ三つ蔦」の神紋        

                                   

                                         配色豊かで豪華な本殿                市指定文化財の社殿
                                         

 市指定文化財の社殿は、本殿、拝殿、幣殿からなり、奥の本殿は一間社流造りで享保9年棟梁花輪の甚八が建築したものとされ、幣殿には郷土画家が奉納した天井絵が描かれている。


                                
   



                                                


 筆者のわがままな意見を言わせていただくと、基本的に神社の社は木目調で落ち着いた重厚な色が好みであり、ほとんどの神社の形態はこれである。だが時として見せてくれる朱色を基調とした社を見たときのこの胸のざわめきはどうだろうか。
 神社に使われる「朱塗り」にはいろんな意味が込められていて、見た目に鮮やかな「朱色」は、生命の躍動の色という意味がある。また、昔から「朱色」、魔力に強い色、災厄を防ぐ色、穢れを祓う色とされていたり、神様にお近づきになる前に、災厄を防ぐ「朱色」の鳥居をくぐり、そして神聖な場所に入る…といった意味があるのだとも言う。
また、秋の紅葉を表したり、黄金色にたわわに実った稲を例え五穀豊穣(豊かに実る)の色ともいわれているし、科学的にも朱の原材料となっている水銀は、昔から木材の防腐剤として使われてきたことから、管理の面からも理にかなった色ということのようだ。 

 ところで縄文時代の遺跡からは朱色に彩られた土器がたくさん出てくる。これらを概観し,朱色をどのように捉え使っていたのかを考えると,命あることの象徴,そして再生の祈りを朱色に託したと思われてならないのである。太陽は一日の内に生まれ,消えていく。光の消え去った暗闇の世界は,人に静寂と休息を与える。又,太陽は一年の間に力溢れる時と,衰える時がある。四季の恵みに感謝しながら暮らしを営んでいた人々にとって,太陽の力が弱くなった時,再生を祈り続けたであろう。縄文人は,朱(命の色)で黒を塗り込める事により,次の時代への命の再生を願ったのではないだろうか。漆に見る朱色と黒色は,太古に生きた人々の細やかな心の動きを,我々に静かに語りかけていると思われてならない。





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