井椋神社が鎮座する荒川中流域一体は櫛引台地、江南台地が南北に展開し、荒川南岸の台地上には鹿島古墳群、井椋神社、出雲乃伊波比神社、塩古墳群、小被神社、鉢形城、稲乃比売神社等、多数存在する。荒川は「荒い川」と古来からの呼称だが、この中流域南岸は比較的平穏な場所だったようで、名社、式内社が点在し、古代において発達した地域だったと思われる。
目次 井椋神社 / 畠山重忠公史跡公園 / 本田春日神社 / 鹿島古墳群
大天白神社 / 知形神社 延喜式内社 旧村社
荒川南岸に鎮座する畠山重忠ゆかりの社
所在地 埼玉県深谷市畠山942
主祭神 猿田彦大神他四柱
(武甕槌命 経津主命 天児屋根命 比売神)
社 格 旧村社
例 祭 10月15日 秋祭り 、浦安舞
井椋神社は県道69号深谷嵐山線を嵐山方面に進み、荒川を超え、最初の信号を右折する。そして約500メートル位道なりにまっすぐ進むと、右側に井椋神社の鳥居が見えてくる。駐車場は周辺を見回してもなかったので、鳥居の脇の農道に一時駐車して参拝した。
75代崇徳天皇の天治2年(1125)、畠山重忠の祖父の秩父権守重綱が、畠山村に移り住んだとき、秩父郡吉田郷芦田村の椋神社を勧請し、「井椋五所宮」と称した。もとは
字五所にあった。御神体は、椋神社より遷された石釼だという。
村社井椋神社の社号標 一の鳥居は満福寺の東側にあり、そこから参道が真っ直ぐ
伸びている。ちなみに鳥居の型は神明系の「靖国鳥居」
一の鳥居をまっすぐ進むと井椋神社が見えてくる 二の鳥居の横にある案内板
井椋神社(いぐらじんじゃ) 井椋神社は、畠山氏の先祖である将恒から武基、武綱、重綱、重弘、重能の代に至る間、秩父吉田郷領主として井椋五所宮を敬ってきた。その後、重忠の父重能が畠山庄司となって館を畠山に移した時、祖父重綱が勧請(分祀)したものである。 初めは、井椋御所大明神、井椋五所宮と号していたが後に井椋神社と改称したものである。 祭神は、猿田彦大神のほか四柱である。そのほか境内には近所の各神社が合祀され、蚕の神様である蚕影神社、源氏の白旗を祭った白旗八幡神社等がある。 また、社殿の裏の荒川断崖に鶯の瀬の碑が建立されている。 案内板より引用 |
拝 殿
荒川のすぐ南岸に位置する地形のためか、洪水対策のための石垣が至る所に組まれている。が、拝殿には特に頑丈な土台はない。
拝殿の奥にある幣殿、本殿。よく見ると・・・・ 幣殿の下部は空間がある。洪水対策のものか。
この地帯は昔男衾郡の東側で、荒川南岸には神社、遺跡が東側から、鹿島古墳群、井椋神社、出雲乃伊波比神社、塩古墳群、小被神社、鉢形城、稲乃比売神社等、多数存在する。荒川は「荒い川」と古来からの呼称だが、この中流域南岸は比較的平穏な場所だったのか、神社の配置から読み取れるが実際はどうったのだろうか。
蚕影神社
合祀社5柱
横の小さな石祠は左側が金毘羅大権現。右側は 八坂神社、天神社、日吉神社、諏訪神社、八幡大神
「天」の文字だけ見えるがあとは不明。
白旗八幡神社 社殿裏手左側に荒神社
* 白籏八幡神社
社殿裏手右側にある浅間神社 浅間神社の奥に小御嶽神社と食行身禄霊神の石碑
神社の社殿の裏の荒川断崖には、「鶯の瀬」の碑が建っている。重忠が家臣の元へ出掛けてその帰路、雨に逢い洪水で荒川を渡れずに困っていると、鶯が鳴いて浅瀬を教えてくれて、無事に河を渡ることが出来たと言い伝えられている。その浅瀬がこの辺りで、「鶯の瀬」と呼ばれてきたという。
鶯の瀬 荒川のせせらぎの聞えるこの地を鶯の瀬といい、増水時でも川瀬の変わらぬ浅瀬である。 ここは、畠山重忠公が榛沢六郎成清のもとに行き、帰路豪雨に逢い、洪水で渡れないでいるときに一羽の鶯が鳴いて浅瀬を教えてくれたと言い伝えられており、その故事を詠んだのが次の歌である。 時ならぬ岸の小笹の鶯は 浅瀬たずねて鳴き渡るらん また、この上流には、古くから熊谷市・江南村方面にかんがい用水を送ってきた六堰があり、遠く秩父連山を眺めながら鮎、ウグイ(通称ハヤ、クキ)等の釣り場として親しまれている名所でもある。 案内板より引用 |
名将畠山重忠もこの荒川の流れを見て育ったのだろうか・・・
と感慨に耽ってしばらく時間を忘れ眺めていた。
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井椋神社から南西方向に約300m行ったところに畠山重忠公史跡公園がある。ここは現在畠山重忠公史跡公園となっていて重忠とその家臣の墓といわれる五輪塔と板碑があり、他に重忠産湯の井戸と伝えられる井戸や重忠公の銅像などがある。
畠山重忠公の墓 所在地 大里郡川本町(現深谷市川本)大字本田 鎌倉時代の関東を代表する武将畠山重忠(秩父氏の出)は長寛2年(1164)父重能の二男としてこの地、畠山館に生まれ、幼名を氏王丸といい、長して畠山庄司郎重忠となる。剛勇にして文武両道に勝れ、源頼朝に従って礼節の誉高く、県北一帯の支配のみならず伊勢国沼田御厨の地頭職も兼ねた。鎌倉武士の鏡として尊敬されたが頼朝亡き後、諫言により北条氏の為横浜市二俣川にて一族と共に討たれた。時に重忠42才、子重秀は23才であった。後にこの畠山館跡に重忠主従六基の五輪塔を建て暮碑として祀った。又北方に重忠産湯の井戸がある。又北方300mの荒川の嶮崖に鶯の瀬という浅瀬がある。ここは重忠が岡部六弥太(棒沢成清説もある)のもとに行く帰路雨に逢い洪水で渡川するとき鶯が鳴いて浅瀬を教えてくれたという所である。その時詠んだと伝えられる「時ならぬ岸のおささの うぐいすにあさせやたづねて鳴き渡るらん」との歌碑がある。 昭和45年11月吉日 川本町教育委員会 畠山重忠公史跡保存会 案内板より引用 |
重忠の父 畠山重能の墓
重忠の先祖は埼玉県の秩父地方に大きな勢力を持っていた秩父氏で、父・畠山重能(しげよし)の代に畠山へ移り住んだため、その地名を姓として名乗ったという。畠山氏は板東八平氏の一つ秩父氏の嫡流で秩父権守重綱の孫重能が畠山荘の開発領主となり、畠山と称したという。同氏族の河越・江戸氏と供に武蔵国留守所総検校職を世襲した氏族だ。
畠山重忠の墓
重忠とその主従の墓として、館のあった地に6基の五輪塔が建てられた。畠山重忠公墓は埼玉県指定史跡で、周囲を史跡公園として整備されている。
源頼朝の挙兵に際して当初は敵対するが、のちに臣従して治承・寿永の乱(源平合戦)で活躍。知勇兼備の武将として常に先陣を務め、幕府創業の功臣として重きをなした。しかし、頼朝の没後に実権を握った初代執権・北條時政の謀略によって謀反の疑いをかけられ、一族とともに滅ぼされた。
存命中から武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称された。
畠山重忠公産湯ノ井戸の碑
史跡公園の入り口近くにある重忠の像で、有名な一ノ谷合戦の「ひよどりごえ」で愛馬三日月を背負っている姿だが、史実では重忠の郎党の活躍は重忠が義経の搦手の別働隊に加わっていなかったといわれ、よって鵯越の逆落としの隊に重忠はいなかったという説もある。真相はどうであったのだろうか。
鹿島古墳群の一族とは一体どのような関係だったのか
所在地 埼玉県深谷市本田2025
社 格 旧村社
祭 神 武甕槌命、経津主命
由 緒 天平20年第四十五代聖武天皇の御代748年の
昔より下本田の鎮守として氏子の信仰の篤い神社。
例 祭 不明
春日神社は埼玉県道69号線を嵐山方向へと進み、本畠駐在所交差点を左折、そこから約1km先に鎮座する。
社号標 参拝日平成24年4月25日 社殿や境内社も良く手入れされている
拝 殿
本 殿
拝殿も本殿も比較的新しい。つい最近再建したのではないのか。
境内社紹介
左より鹿島神宮、稲荷大明神、社日神社 八坂神社 天満天神社(右)と天満自在天神碑 合祀社、左から古峯神社、八幡神社
雷電神社、山之神社、冨士浅間神社
この社は、道路沿いから一本細い路地に入った場所に鎮座していた。決して目立たない位置にありながら、境内はきちんと整備されていていた。このような地域に根付いた社が、これからも地方の文化財として後世に長く伝えられることを参拝中感じさせてくれる、趣のある良い神社だった。
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春日神社から県道81号熊谷寄居線で熊谷方面に約1km強進むと、左側に鹿島古墳群がある。
鹿島古墳群
所在地 大里郡川本町鹿島
荒川中流域における古墳群で、分布は川本町鹿島、本田、江南町押切の範囲に及び河岸段丘上約二キロメートルにわたっている。
現存する古墳五十六基は、小円墳がほとんどで荒川に近い古墳には埴輪を持っているものがある。
昭和四十五年に圃場整備事業に伴い県教育委員会により二十七基の古墳が発掘調査されている。主体部は荒川系の河原石を用いた若干胴の張る横穴式石室で玄室には棺座を設けたものも見られた。天井、奥壁は緑泥片岩を使用していた。玄室と羨道の比は、二対一となり三十センチメートル(漢尺)の定尺となるものが認められている。
出土遺物には、玉類が少なく、鉄鏃、直刀、刀子、耳環などが多く出土している。
古墳の年代は奈良時代初期の住居跡の上に古墳が構築されているものがあり、七世紀初頭から八世紀初頭にかけてつくられたものと推定される。
古墳の埋葬者は、在地において先進的な役割を果たした豪族であろうと思われる。
荒川旧流域を代表する最も保存の良い古墳群で、埼玉県古墳文化の地域研究の上で貴重なものである。昭和四十七年三月二十日、県の史跡として指定されている。
平成十一年九月 埼玉県
鹿島古墳群は、荒川右岸の河岸段丘上に東西約一キロに渡って帯状に分布しています。古墳は径十メートル〜三十メートル程の円墳で、荒川よりに密集して分布し、大水によって流された古墳も数多くあったと伝えられています。
現在、県指定地の中には五十六基の円墳が保存され、指定地南側で発掘された二十七基の古墳やすでに失われた古墳を合わせると百基を越す大古墳群であったと推定されます。埴輪が立てられた古墳は少なく、七世紀を中心に八世紀初頭に至るまで次から次に築造された古墳時代最終末の古墳群と考えられています。
川本町には、鹿島古墳群のほかにも箱崎古墳群・塚原古墳群島が分布し、合計二百基近い古墳が確認されています。また、奈良時代には周辺に古代寺院や集落遺跡が発見され、古墳時代から奈良時代にかけて、この地域(男衾群)の中心地として栄えていたようです。
鹿島古墳群は、この地域の歴史を代表する貴重な遺跡として、昭和四十七年に埼玉県指定史跡に指定され、現在広く活用していただくために古墳公園として整備を進めています。
埼玉県教育委員会
川本町教育委員会
古墳とは今から千七百年前から千四百年前頃にこの地域の有力者を埋葬するために造られた墓で、土を高く盛り上げて、その内部に遺骸を埋葬する場所が設けられています。
古墳の形は、平面形から前方後円墳や円墳、方墳などと様々な形がありますが、鹿島古墳群は円墳だけで構成されています。この様に小さな円墳が密集する古墳群を特に「群集墳」と呼び、鹿島古墳群はその規模から県内を代表する群集墳です。
鹿島古墳群では、遺骸を埋葬する施設として荒川の河原石を積み上げた長さ四メートル、幅二メートル前後の楕円形の石室が築かれています。また、出入りできる入り口が設けられ、こうした石室を横穴式石室と呼びます。この石室には遺骸とともに生前使用していた太刀や弓矢、刀子などが副葬されました。鹿島古墳群では太刀などの武器具が多く出土しています。
また、墳丘の表面は河原石で飾られており、築造された当時は草や木に覆われた現在のイメージとは異なった、白く輝く荘厳な姿であったようです。
埼玉県教育委員会
川本町教育委員会
鹿島古墳群は、今を遡ること千七百年前から千四百年前頃にこの地域の有力者を埋葬するために造られた墓という。ではその豪族はどのような氏族だったのだろう。今までの古墳の調査により以下のことがわかっている
1 この古墳群は少なくとも6世紀中頃〜8世紀初頭まで一貫して同じ敷地内に建造されている。
2 古墳の形態が変わっておらず、全て円墳なこと。大きさも径10m〜30mくらいで、古墳には葺石を敷き詰めている。
3 古墳の周りに埴輪等など立てられた形跡のあるものが極端に少なく、逆に太刀などの武器具が多く出土している。
鹿島古墳群は荒川中流域における古墳群で、分布は川本町鹿島、本田、江南町押切の範囲に及び 河岸段丘上約二キロメートルにわたっている。この分布は何を物語っているか。およそ約200年間という長きに渡る統治期間は、一地方豪族とは言え古墳時代から奈良時代にかけて、この地域(男衾群)の中心地として栄えていたことが推測される。また、奈良時代には周辺に古代寺院や集落遺跡が発見されていることでも、この勢力の大きさを推し量ることができるのではないだろうか。
またこの古墳の石室の内部には、遺骸とともに生前使用していた太刀や弓矢、刀子などが副葬された。鹿島古墳群では太刀などの武器具が多く出土している。従って、武装集団として割拠していたとも想像できるのである。
鹿島古墳群が築造された当時の地形上の状況も考慮しなければならない。この地域は平野部と台地との境界に位置していて、北側、東側は平野部、西側、南側は台地である。北側は荒川が天然の境界線となっており、その先には田中神社や三ヶ尻八幡神社のような式内社が鎮座している。この神社の祭神はそれぞれ武御雷神、ホムタワケ神(応神天皇)だが本来の祭神は違っていたのではないか。出雲乃伊波比神社の項でもいったように元は出雲族の一族ではなかったかと考えるが詳しいところは不明だ。
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鹿島古墳群の南東約400mほどの場所に大天白神社がある。残念ながらこの社に案内は無く、御祭神・勧請年月・縁起・沿革等は全て不明。
大天白神社 河川の神瀬織津姫命が祭神か
大天白神社 拝殿
拝殿内にある本殿
祭神は北に荒川、西に吉野川が流れていることから水神なり河川神なりであるのではないか。すると瀬織津姫命など祓戸神あたりか。
合祀社 詳細不明 遠景より撮影
チカタと言う名前の由来
所在地 埼玉県深谷市田中612‐1
社 格 旧村社 式内社 武蔵国幡羅郡鎮座
祭 神 瓊々杵尊、思兼命
由 緒 由緒不明
例 祭 10月15日 秋祭り
国道140号線秩父街道から武川交差点で県道69号深谷嵐山線を南下すると、応正寺の西側に知形神社が鎮座している。境内の殆どはゲートボール場になっており、日中は地域の方々に親しまれている神社なのだろう。
境内周囲には木々が茂り、社殿左側には沢山の末社が纏められている。無形民俗文化財指定の「知形囃子」が奉納される神社として知られている。
社号標 境内の様子 鳥居の形式は明神鳥居
例祭では、享保年間から氏子により始められたと伝わる、無形民俗文化財指定・知形囃子が奏されている。
知形囃子(昭和三十七年十二月二十五日指定)
享保九年(1794年)頃知形神社の氏子により受け継がれたものである。毎年七月十五日夏祭りに十一の廊を神輿の渡御の先導になって奏でられたもので知形の囃子、馬鹿囃子、街道下り三曲よりなっている。秩父囃子の源流といわれ、よく似ている
拝 殿
拝殿に向かって左側に境内社がある。
左手前から八坂神社、諏訪神社、琴平宮、雷電神社、見目神社、(?)、手長神社、稲荷神社、八幡神社、荒川神社、金山神社、天満宮、愛宕神社。
また反対側には御神木の幹に2つ石祠があったが、カメラの容量の関係で撮影できなかった。
歴史学者、民俗学者で有名な柳田國男の著書「定本 柳田國男集」によると、「ちかた」とは、門神、門を守護する神のことであるという。古語拾遺に「豊磐間戸命・櫛磐間戸命の二柱の神をして、殿門を守衛らしむ。是並、太玉命の子也」とある。深谷市本住町に鎮座する富士浅間神社、旧名智形神社の祭神(配祀)が天太玉命であるというのは、このことと関連するのだろう。また天太玉命は、主神の瓊瓊杵命が天降ったときの伴の五柱の神の一柱でもある。
川本町田中の地は、東西に熊谷と秩父、南北に深谷と嵐山を結び、さらに荒川水流を臨む交通の要所という。この地に知形神社が鎮座しているということは、何か深い意味があることなのだろうが現状それ以上は不明だ。
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