嵐山町は埼玉県中央部に位置する人口約2万人の町である。町の中央部と北部には東松山台地が広がる。北東部は比企丘陵の西端部に位置し、南部は岩殿丘陵の北端に位置する。西部は外秩父山地の外縁となっており、南北に八王子構造線が貫いている。日本の国蝶オオムラサキが生息する地としても有名である。また1928年(昭和3年)に、本多静六が当地を訪れ景観を眺めたところ、京都の嵐山(あらしやま)の風景によく似ていることから、武蔵嵐山と命名され評判になり、多くの観光客が訪れている。町は比企丘陵の一角にあり,自然の美しさを四季折々に見ることが出来き、槻川や都機川は絶好の釣り場や川遊びの場になっている。又,菅谷館跡を始めとして多くの文化財や伝説も残されている町でもある。

 嵐山町の大蔵地区には木曽義仲(1154〜1184)の父源義賢の館跡とされる埼玉県指定史跡大蔵館跡があり、土塁の跡が残されている。義賢は畠山重忠の曽祖父重綱の子である重隆の婿となったが、久寿2年(1155)8月、鎌倉を拠点に関東の制覇を目指していた源義朝の長子義平(頼朝の兄)に急襲されて、ともに討ち取られてしまった。義仲はこのとき2歳だったが、畠山 重能、斉藤実盛の計らいによって信濃へ逃げのびることが出来た。
 この義仲は成人すると、武力を蓄えて平氏打倒に立ちあがり、倶梨伽羅峠の合戦に勝利し、京都から平氏を追い出すことに成功するが、占領軍の乱暴狼藉によって、後白河法皇の怒りを買い、源頼朝の派遣した追討軍によって、近江国(滋賀県)粟津原で戦死した。享年31。太く、短く一直線に生きた人生といってよい。


 鎌形八幡神社には義仲産湯の清水が今も枯れずに湧き出して、いまも水が湧き出ている。その聖なる水で、口や手を清め参拝を行う。

 目次
  鎌形八幡神社 旧郷社 嵐山町鎌形鎮座 / 菅谷神社


                             鎌形八幡神社
                                     地図リンク                     
                                                                   源義賢、義仲、義高三代伝説と神秘的な社

                                                


                                             所在地    埼玉県埼玉県比企郡嵐山町鎌形1993

                                             主祭神    誉田別尊比売大神 ・神功皇后

                                             社  格     旧郷社 嵐山町鎌形鎮座

                                             創  祀     坂上田村麻呂
    
                                             創  建    延暦年間 (782〜806年)



 鎌形八幡神社は、平安時代初期の延暦年間に、坂上田村麻呂が、九州の宇佐八幡宮の御霊をここに迎えて祀ったのが始まりであると伝えられている。所在地は都幾川の左岸、神社は延歴年間の創建と言うから歴史は古い。決して参拝客は多くないが境内は綺麗に整備されていて、歴史的な史実の深みも相まって重厚な雰囲気を醸し出してくる社叢だ。


                                                

                                                         社号標と一の鳥居

                    

 
                         鳥居の近くにある案内板                  参道はかなり長い                     総   門

                                        

                                                    総門を越えると神秘的な空間が広がる

 源義賢、義仲、義高三代に関する伝説がこの地には多く、源氏の氏神として仰がれていたといい、また、武門武将の神として仰がれ、「源頼朝及び尼御前の信仰ことのほか篤く」と、縁起の中にある。なお、「木曽義仲産湯の清水」や、嵐山町指定文化財の二枚の懸仏、徳川歴代将軍の御朱印状他多数の文書等が保存されている。

 
 また鎌形という名の由来として、鎌倉の鶴岡八幡宮に社殿が似ているから鎌倉の形・・・鎌形となったともいう


                                                

                                                    鎌形八幡神社の義仲産湯の清水


 木曽義仲の父は帯刀先生義賢で、鎌形の隣の鎌倉街道上道の通っていた大蔵に館を構えていた。当時、義賢の父、源為義と長男義朝は敵対関係にあって、義賢の関東下向も義朝の勢力削減を狙った戦略だった。しかし義賢は義仲(駒王丸)が2歳の時に義賢の甥の悪源太義平に討たれてしまう。その時、駒王丸は母、小枝御前と共に畠山重能、斉藤実盛らの温情により助けられ信州の木曽に逃れた。

  鎌形八幡神社にある木曽義仲産湯の清水は、義賢がこの地に下屋敷をもうけて小枝御前に生ませた駒王丸の産湯の清水なのである。社殿前の階段を下りた所にあり今も御手洗槽の竹筒から清らかな水が零れている。また竹筒の根本の石垣の上には「木曽義仲産湯の清水」の石碑が立っている。



                                  

                                           拝殿兼本殿覆屋                  拝殿に近くにある案内板
                         
     (嵐山町指定建造物の本殿は覆屋の中なので見られず)


 

天明五丁巳年八月
   鎌形八幡宮縁起草稿
            周基代改正

 武蔵国比企郡松山荘鎌形山八幡宮ハ人皇五十代桓武天皇朝坂上田村麿勅命を蒙り東奥の夷賊退治として関東に赴れし砌当所塩山の寄景を感し延暦十二年癸酉仮初に宮柱しく立て宇佐宮を勧請し給ひ同十六丁丑陸奥出羽の国司として征夷大将軍に補し再ひ下向ありし時重て修営の功を副られ近隣氏の神と崇めて其の神徳の巍々たるを恭敬す相継て伊予守頼義八幡太郎義家東征の砌は所領を籠られ其後帯刀先生義賢木曽左馬頭義仲右大将頼朝尼御台所に至るまで信向ましまし華構の飾りをなさしめ神田地を寄せられしより代々の臣公造営を加ゑられ霊験日々に新にして道俗の渇仰歳月に弥増けり尊像は応神帝大菩薩にして御餝りを落させ給ひ円頂法服を著せられ左に念珠右に宝顆を持せられ聖徳太子の刻彫秘し伝て開扉する事まれなり毎歳正月二日無汁神事同六日追儺牛王加持同七日神事四月三日大菩薩降誕の会式六月十五日神事八月十二日より十五日に至るまで放生会流鏑馬競馬惣して毎歳朔望月次の神事執行し専天下泰平四民安穏の祈念丹誠を抽て蘋?の饌を闕如せす如在の礼奠更に怠慢なし加旃輔佐の前立■士愛染明王は行基菩薩の作仏にして悪魔降伏衆人愛敬の本誓にして神仏一致の冥鑑世におゐて掲焉也奥院は阿弥陀薬師十二神将末社は竹内臣?神三島若宮御霊松尾稲荷聖天(大聖歓喜天也)諏訪恵比寿(西ノ宮太神)九頭竜王杉尾隠岐院(後鳥羽上皇也)高良長戸等也本社ハ東面にして古代の殿社は無比の大社たりしか乱世に回禄して(応仁文明ヨリ元亀天正ノ比罹兵火数度焼亡ス故殿社衰弊可知也)漸く仮の叢祠を今の地に遷し保り別当坊鎌形山真福寺大行院は顕密兼学道場本山修験の格院たり往昔全盛の遺跡鐘楼等礎趾当時も猶見在す鐘は軍旅に奪れて秩父郡御堂郷浄蓮寺の法器となれり(一行銘曰上州緑野郡板倉郷円光寺鐘正慶二年癸酉三月廿二日願主尼蓮阿大工沙弥浄円又一日敬日武州比企郡釜形郷八幡宮鐘大檀那矢野安芸守文明十一年己亥八月九日聖永運海栄尊栄枯栄金心栄栄俊祥祝栄須俗名戒名等30余人有之也略)
然して神田地も陵夷し御供免灯明免番匠免無計免など僅に神領として抱へ来れるも今は唯名のみを残せり。

 大神君関東御入国の後往古の由緒を糺れ天正十九年辛卯社領弐拾石御寄進有之継て 大猷院殿 御判物を下されしに寛文四年甲辰十月十日夜別当坊中焼失して 御二代御朱印并往古伝来の神宝記録等不残焼亡せり夫れより二十余年を経て貞享元年甲子本田淡州侯より御代宦近山氏与左衛門に仰て御検地の上御千代今井新七宮ア入右衛門同二年乙丑再び 常憲院殿 御朱印を下され山林竹木諸役免許の蒙 釣命祭次神灯を挑て不退転の洪恩併神仏徳化の寄特と謂つべし抑八幡大神は東方君子国の宋廟 辱も 皇統十六代応神帝の御重迹御本地は西方寂光土本主阿弥陀如来にして外には魔軍征伐怨敵退散の稜威を示し四海安寧万民快楽の衛護を本とし給ひ内には入相成道の形を備て善功方便済度利益の巨多なる事逐一に記し難し孰か信心帰依の思を凝さらんや且は最初鎮座し給処の塩山の勝地を相るに苔蘚滑に巖峨々たる険岨にして東は上原の谷西小倉山南小窪と言麓に月川の水流満蔵ヵ渊前後には称石飛石抔と異なる盤石ならひ列り覩る人目を駭せり昔日潮湧出しとて塩沢と言る温地あり塩山の称号も是れに本つける名とそ山半腹に寄?あり土俗呼んて貉の境と称す此れを擧て杳に峰頭に騰は比類なき四顧の佳景神仙の霊境かと疑る前面を海道馬場と号し其南を木曽殿屋敷と言左馬頭義仲誕生の始め七箇所清泉を?て産湯に用ひしとて此面彼面に木曽殿清水岩清水天井清水照井清水此外二ヶ所の名水当社境内に在之(此所謂ニヤ信州木曽谷義仲古館宮越駅ニ産湯清水若宮有之ト言俗称言武州鎌形産湯清水八幡宮若宮国史云治承四年五月廿八日義仲効外ニ八幡大神ヲ鎮メ祭リ大ニ餅酒ヲ施二民人一ト云)則小倉山の城跡は義賢大蔵堀の根城とそ于今其遺址あり往古八幡宮の神威頻に烈しく凡下の族彼馬場にて馬を奔しむる事恊ひかたかりしと也(故ニ地ヲ遷シテ今ノ土地トスト云)都幾川の下に馬洗と言るい渊あり其頃よりの称号とそ件の義賢は清和源氏前陸奥守義家家嫡六条判宦為義の息男左馬頭義朝の舎弟也然るに義賢当国の豪士秩父次郎太夫平重澄の養子と成て比企郡大蔵堀の要害を居城として小倉山及ひ上野国田胡の荘にも屡居せられし処近衛院の朝久寿二年乙亥八月義賢多胡荘を出て大蔵堀の舘へ来られしに其の娚悪源太義平(義朝嫡子鎌倉悪源太ト云十四歳)宿意を構る事有りて密に狙ひ撃り(為夜軍亡命ト云義賢ノ霊社同郡福田邑ニ在之社号義賢浅間ト云元久元年甲子正月十五日勧請スト云)

 于時息男駒王丸三歳の嬰児たりしか母君と倶に当社の境外に居給ひしに(其ノ旧跡于今顕然タリ木曽殿屋敷トナル前見)義平上京するとて次郎重能(重畠山荘司重忠ノ父ニテ同郡菅谷在城也)に諭して曰彼の孤は健士子也生先き心にくし尋捜て亡きものにすべしと強に含られしを重能情ありて長井の齋藤別当実盛に(永井郷鎌形ヨリ七里余数通行シテ好テ衆徒ニ結ト云)嘱へ是れ養之とて与へけれは実盛思案して東国は義平の属士多く中々■育し難からんと信州へ送り乳母の夫仲三権守兼遠に預しめたり駒王丸成長の後元服して木曽冠者義仲と名謂二十余年の春秋を経て治承四年庚辰高倉宮奉令旨義兵を挙んと上州多胡郡及ひ当所の旧地に徘徊して亡父旧好の武士を語はるといへ共東国は過半頼朝郷に属して義仲の催促に応するもの寡を以て信州へ馳帰り逐に軍旄を挙て北陸道より皇都へ責入平氏の諸将を追払ひ朝日将軍と呼れて猶を関西を伐靡ん趣なりしに家運怯して元暦元年正月廿一日江州志賀郡粟津におゐて討死(時ニ禅定門大公宜三十一歳義仲ト言也)息男義高(清水冠者ト言)是より嚮頼朝義仲疑心を懐て矛盾に及んとせし時土肥の実平をして義高を鎌倉へ質とし迎へて和順し則嫡女大姫君に娶せ斜ならす持なされしに父義仲亡命の遺恨心底に夾れんの是も又刑戮(?)に処せられ可然と内議區の首尾あるを聞て同年四月廿日の暁義高鎌倉を秡落して当所へ立越んとせられけるに頼朝卿の命を奉て親堀藤次家討手として入間川原に馳著敢なくも生害し■ぬ霊廟此社大社也鎮守也于時大姫君愁傷の余り永く漿水を断て日夜紅涙に沈み追慕の念須臾も止す文治三年丁未二月亡夫菩提として義高所持の本尊弥陀の一躯を随身し給ひ当社の宝匱へ籠られ旧舘に姑く滞座して比企観音所々の霊堀へ詣し給ひとそ猶干亦義高の舎弟義綱も(母桜木局ト云文治三年ニ卒義綱ハ木曽義治郎ト云後苗改二馬場一十九代裔栗木備前守義高小田原属北条家天正年中於豆州山中要害討死)も旧地を慕ひて信州より下向し当社の隣村に居して今猶安続せり是供併鎮守の冥契なるのみ猶亦木曽の後胤として清水氏を称して当時も(清水権之助ト云采地一線余石也)幕府の麾下に奉仕せらる(元禄ノ頃由緒ヲ慕テ武器ヲ奉納セラル也)凡そ草創の延暦十二年より是年辛卯に至て星霜九百三十年宮所巍然として神徳更ニ顕然たり末世■漓に及といへ共信力堅固の輩なとか哀愍納受の示現を蒙らざらんや仰くべし祟ぬべし于時正徳改元の秋別当大行院秀繁寛文四年老父秀栄の代焼亡せる古記の趣を拾ひ古老の伝説を証し見在の名称にまかせて千百カ十一を揚る而已
桜木房法諱 徳音院殿木曽桜后妙照大禅定尼
  信州木曽宮ノ越駅徳音寺有之彼境外産湯清水八幡若宮有之
義仲法諱 木曽朝日将軍義仲宣公大禅定門
  廟社 南宮法照大明神古舘遺址鎮坐
齋藤実盛 篠原院前左余吾従五位下徳山覚道真阿大居士

天明五年丁巳八月従勧請至一千年諸堂社惣開帳十余日勤行之畢因以古縁記之補闕如略考国司註之而已当山周基記
            周基印 大行院印

                                                                                                 鎌形・八幡神社文書より引用                                           


                                         

                                                       本殿から見た境内の様子

 不思議な感動だった。総門をくぐった瞬間から何か異次元に入り込んだような不思議な世界がこの社には確かに存在していた。
 決して知名度がある神社ではない。郷社ではあるが参拝客も例祭以外訪れる人もそう多くはないはずだ。それでいて境内はちゃんと整備されている。何百年の歳月により時の権力者によって変貌していく神社が多いのに対して、この神社にはそれがあんまり感じない。

 源氏3代の悲劇を公表できないためかなんとなく、人目を忍ぶような地味さ加減がこの一体には漂う。



 嵐山町大蔵には源義賢の墓や屋敷あとと伝えられている場所(大蔵神社)もある。源義仲の父である源義賢はもともとは上野国を本拠としていたが、源義朝と内訌があり、久寿2年(1155)源義朝長子の当時15歳であった悪源太義平によって大蔵の地で討たれている。

 のちに征夷大将軍ともなった悲劇の武将である木曽義仲は義賢が大蔵館に移り住んだ仁平年間(1153)に鎌形館で産まれたと伝えられており、鎌形の清水を産湯としたとされている。

 木曽義仲長子の清水冠者義高は源頼朝の婿であったが、元暦元年(1184)に入間河原で殺された、とされている。
                                                                                                         境内看板より引用



                                    

                                   白和瀬神社           天満宮            山の神           八坂神社

                                          

                                                            護国神社          金比羅神社 


                                          
                                            

                                                

                                                         鎌形神社境内の様子

                                         奥ゆかしさと素朴さのあるこの鎌形八幡神社がなんとなく好きになった。








                                                もどる                   toppage    


                                          







 鎌形八幡神社から北東方向、約3km嵐山町内には菅谷神社がある。この神社で注目したいところは、祭神に「畠山重忠」が祀られているということだ。嵐山町は歴史上有名な人物を2名輩出していていて、平安末期から鎌倉時代にかけて日本史に名をとどめた坂東武者ゆかりの地でもある。

 嵐山地方は鎌倉街道上道上の交通の要衝で、中世に比企地方が光彩を放ったのは、当時の幹線道路である鎌倉街道上道(かみつみち)によるところが大きいといわれている。この道は比企郡内を縦貫していて、南下すれば武蔵国府、さらに進めば鎌倉、逆に北上すれば、児玉、藤岡から信州または越後へ達することが出来た。つまり、比企は当時の交通の要衝に発展したということになり、戦国時代に城郭が多数築かれた理由も、この鎌倉街道を監視または支配するためであったと考えられている。

 そういう意味で、嵐山町に源義仲、畠山重忠という歴史的に見ても重要な人物を同時期に2名も輩出したことの意味は大変大きい。埼玉県民はこのことをどのくらい知っているのだろうか。






                                  菅谷神社
                                     地図リンク                    
                                                                       鎌倉武者の鏡 畠山重忠を祀る社

                                                


                                            所在地     埼玉県埼玉県比企郡嵐山町菅谷608

                               
         主祭神    大山咋命,保食命亦名稲倉魂命 
                                       
         素盞鳴尊,市杵島姫大神,畠山重忠命

                               
         社  格    旧村社 

 
                                  
     例  祭    10月17日 


 菅谷神社は埼玉県道69号深谷嵐山線を嵐山方向に進み、国道254号と接する1つ手前の交差点を左折すると、右側約100m位先に社が鎮座する。 入口の手前に若干車が駐車できるスペースがあったのでそこに駐車し、参拝を行った。地理的には武蔵嵐山駅の南方向、菅谷小学校の北西に位置している。 


                              

                         
        菅谷神社の入口付近を撮影      境内に建つ鳥居。畠山重忠の舘、菅谷館の北方にある

                                               


由 緒

 祭神 大山咋命 保食命 菅原朝臣道真公命 須佐之男命 畠山重忠命

 由緒 本社大山咋命は元日枝神社なり是は畠山重忠年十七才にして治承四年十月武蔵国長井の渡しの頼朝の御陣所に参し頼朝公に属して先鋒の将となり各地の戦争に大に軍功あって此の菅谷の地を賜り依て此に新城を築き居住となし武運長久の守護神として近江国日吉山に鎮座なす(現今滋賀県滋賀郡坂本村官幣大社日吉神社此の御分霊は日本国中即ち三府弐拾県の内に五百社之あり其の一社の内の御分社)日吉山王権現の御分霊を畠山重忠請願に依建久元年九月十九日に奉遷勧請す故に日吉山王大権現と称せしを明治四年神社取調の節村社に列せられ社号を日枝神社と改称す是より本社境内に須賀神社及秩父神社の二社ありしを以て左に列記す須佐之男命は須賀神社と称して創立不詳なれども本村成立と同時に勧請せしものと伝う

 菅谷神社祭日

歳旦祭 一月三日  例大祭 十月十七日
祈年祭 四月十五日  境内社手長男神社秋祭 十二月三日
境内社手長男神社春祭 七月十三十四日  新嘗祭(秋祭) 十一月二十三日
境内社津島神社夏祭 四月三日  大祓 十二月三十一日


                                         

 嵐山町菅谷信者社叢ふるさとの森
    
  平成四年三月三十日指定

  身近な緑が姿を消しつつあるなかで、埼玉らしい豊かな緑を私たちの手で守り、次代に伝えようと、四季折々の風情に富んだ菅谷神社の杜が「ふるさとの森」に指定されました。
 この神社は、源頼朝公に菅谷の地を賜った畠山重忠公が、武運長久の守護神として近江国日吉山の日吉山王権現の御分霊を請願して建久元年(一一九○年)に、日吉山王大権現として奉還勧請し、明治期になって日枝神社、さらには、菅谷神社と改称されたものです。
 社の周囲はスギ林で、四季をとおして人々の憩いの場として親しまれていますが、この中でもひときわ大きなスギの御神木は、町の保護樹木にも指定されています


                                                

 
 
                                                           参道の風景


                                  

                                             拝    殿                        本    殿


 当社は畠山重忠が、武運長久の守護神として建久元年(1190年)に近江の日枝神社から勧進し「日吉山王大権現」と称していた。明治4年に村社に列格すると、日枝神社、さらには菅谷神社と名称変更したという。

                                                

                                        神社向い側に菅谷公園があり、その中の池に厳島神社が祀られている。








                                                もどる                   toppage