武蔵国埼玉郡は、武蔵国の東北端に位置し、北は利根川を境に上野国邑楽郡に接し、さらに下野国都賀郡にも接し、東から南は下総国葛飾郡、西は元荒川を境として足立郡、さらに幡羅郡、大里郡に接している。おおむね現北埼玉郡に属する町村、行田市、羽生市、加須市、南埼玉郡に属する町、岩槻市、八潮市、越谷市、蓮田市、久喜市、春日部市の広大な地域で、『和名抄』は「佐伊太末」(「郷名は「佐以太末」)と訓じている。
「さいたま」の語源として
1 『古事記』に「前玉(さきたま)比賣命」の名が見え、行田市大字埼玉に前玉神社があつて前玉彦命と前玉姫命が祀られているところから、「幸玉(さきたま)」からの転訛。
2 「サキ(先、前)・タマ(水辺、湿地)」の意または「多摩郡の先」
3 国境または辺境の意などの説
と様々な説があるが真相は不明だ。
この地域は関東平野の中心部にあたる加須低地に位置し北に利根川、西に荒川の本流、支流が数多く存在し、乱流が最も激しかつた地域で、縄文時代から古墳時代まで後背湿地や沼が多く、開発が非常に困難な地域ではなかったかと思われる。
行田市は埼玉県北部の市で、昭和24(1949)年に忍(おし)町が市制を施行して改称した。荒川扇状地東端の湧水地帯から利根川南岸の加須(かぞ)低地にまたがつている。開発の歴史は古く、東部には埼玉(さきたま)古墳群、西部には条里遺構が残っていて、文明年間に成田氏が忍(おし)城を築き、江戸時代には忍藩が置かれ、城下町として栄えた。また県下有数の穀倉地帯でもある。
この「ぎょうだ」は、「(湿地から)田に成つた地」の「行(なり)田」の転とされいる。
目次
前玉神社 式内社 郷社 埼玉郡総社
埼玉古墳群 / 小埼沼
古墳上に鎮座する埼玉郡筆頭の幸魂の社
所在地 埼玉県行田市大字埼玉字宮前5450
主祭神 前玉比売神
前玉彦命
(天之甕主神の子で、甕主日子神の母)
社 格 式内社 旧郷社 埼玉郡総社
例 祭 4月15日 春祭り 例大祭
創立年代 不詳
前玉神社は埼玉県道77号行田蓮田線沿い、さきたま古墳群の外れにあり、浅間塚古墳の頂きに鎮座している。駐車場は一の鳥居からの参道の南側に十数台駐車可能なスペースが確保されており、そこに車を止め参拝を行った。
一の鳥居 総高4.5m、最大幅5.8m、材質 白河石
この前玉神社 一の鳥居は行田市指定文化財で延宝4年(1676)建立の鳥居。
鳥居は明神系の形式で、笠木、島木が一体に作られ、両端に反増を持ち、さらに笠木、島木は二本の石材を中央額束の上で組み合わせている。貫は一本の石材で作られてくさびはなく、柱はややころびを持ち、台石の上に建つ。正面左側の柱の銘文によれば、延宝4年(1676)11月に忍城主阿部正能家臣と忍領内氏子により建立された。
前玉神社は「延喜式」(927年)に載る古社で、幸魂(さいわいのみたま)神社ともいいます。700年代の古代において当神社よりつけられた【前玉郡】は後に【埼玉郡】へと漢字が変化し、現在の埼玉県へとつながります。前玉神社は、埼玉県名の発祥となった神社であると言われています。 武蔵国前玉郡(むさしのくにさきたまのこおり)は、726年(神亀3年)正倉院文書戸籍帳に見える地名だと言われており、1978(昭和53)年に解読された稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文から、471年には大和朝廷の支配する東国領域が、北武蔵国に及んでいたのは確実であると言われています。 前玉神社が最初に祀られた時代については、一説には大化の改新(645年)より一世紀以上さかのぼる安閑天皇、宣化天皇あるいは雄略天皇の頃の古墳時代(400年代後半〜500年代前半)ではないかと考えられています。その名残として社は古墳群に向かって祈願するように建立されています。 前玉神社 ホームページより引用 |
長い参道が続く 撮影日24年4月14日、当日寒い雨 二の鳥居 右手に手水舎、奥に三の鳥居が見える
前玉神社正面。後方高台が社殿
高台の社殿に向かう途中、右側に二社の境内社がある。
明治神社 高台入口右側に鎮座 摂社 浅間神社
祭神 木花開耶花命
中世に忍城中にまつられていた「浅間神社」を社内に勧進したが、浅間神社の方が盛んになってしまったという。古墳上を「上ノ宮」、中腹を「下ノ宮」としていたが、近世には本社までもが「浅間」の神号におかされ、総じて浅間神社とよばれるようになったという。明治維新の際に「上ノ宮」を「前玉神社」、「下ノ宮」を摂社の「浅間神社」とした
埼玉県名の由来 社頭掲示板より引用 |
高台から見た社殿 古墳の上に鎮座しているので撮影が難しい
社殿は参道に対して直角、南側に向いている
前玉神社へ登る石段の両脇に万葉の歌を刻んだ石灯籠が建っている。説明板によると、元禄10年(1697)に氏子たちが奉納した灯籠とのことだ。今では見にくくなっているが、万葉集の「小埼沼」と「埼玉の津」の歌が、それぞれに刻まれている。万葉歌碑としては最も古いと考えられている。
埼玉(さきたま)の、小埼(をさき)の沼に、鴨(かも)ぞ、羽(はね)霧(き)る、おのが尾に、降り置ける霜を、掃(はら)ふとにあらし 巻9-1744
(意味:埼玉の小埼(の沼の鴨が、羽ばたいて水を飛ばしている。あれは、羽に降り積もった霜を払い落としているのだろうなぁ)
佐吉多万(さきたま)の津におる船の風をいたみ 綱は絶ゆとも音な絶えそね 巻14-3380
(意味:さきたまの津にある船は風が強いので今にも綱が切れそうだ。船の綱は切れようとも、私への言葉は絶やさないでくれ)
「小埼(をさき)の沼」は、現在の埼玉県行田市埼玉(さきたま)にある埼玉古墳群から東に2.5kmほど行ったところにある小さな沼である。古代には、行田市大字埼玉あたりを表す地名として「さきたま」が用いられた。この付近に湖 沼があちこちに散らばり、また利根川や荒川に臨む渡し場も随所にあったとされている。上の万葉歌は、冬のこの付近の風景を的確に表している。
拝 殿 拝殿内部撮影
新編武蔵風土記稿による前玉神社の由緒
新編武蔵風土記稿では、「浅間社」として浅間社遷座にまつわる江戸時代の口承を伝えている。
浅間社
祭神木花開耶姫命にして、「延喜式」に載せたる前玉神社なれば郡中の総鎮守なりと土人いへいり。
されど屈巣村の傳へには、当社は式内の社にはあらず、昔富士の行者己が命の終る時に臨み、当所にのみ雪を降すべしといひしに、六月朔日終穏の日、果たして雪の降りたることあれば、成田下総守氏長奇異の思をなし、此所に塚を築き、家人新井新左衛門に命じて、忍城中にありし浅間社をここに移し、則成田氏の紋をつけて、行者の塚上に建り。されば忍城没落の後、彼新左衛門屈巣村に住せしより、子孫今の五郎左衛門に至り祭礼毎に注連竹を納むるをもて例とすと。
社地の様平地の田圃中より突出せる塚にて、周り二町程、高さ三丈余、四方に喬木生い茂り、頂上は僅に十坪程の平地にして、そこに小社を建つ。これを上ノ宮と云、夫より石階数十級を下り、又社あり。これを下ノ宮と云。
相傳ふ、此塚は天正の頃下総守氏長の築きし塚といへど、其様殊に古く、尋常のものにはあらず。上古の人の墳墓地なるも知るべからず、されば当社の鎮座も古きことにて、彼行者の霊社なりと云は、尤便事にて取べからざつは勿論なり。成田氏の紋を記せるは、天正の頃彼の家より造立してかくせしにや。されど天保天和等の棟札のみを蔵て、余に證すべきこともなければ、詳かなることは知るべからず。
例祭は5月晦日、6月朔日・14日・15日なり。
本社の外に拝殿、神楽殿あり
ちなみに前玉神社は浅間塚古墳の上に鎮座している。
浅間塚古墳 高さ8.7m、直径58mの円墳であり、市内の八幡山古墳、白山神社古墳と並行する7世紀前半の築造と思われる。最近まで古墳なのか、それとも後世に築造された塚なのか、議論 されていたが、1997年と1998年の発掘調査で幅10mの周濠が確認され、古墳であることが明らかになっている。変形が激しく、元々は新撰武蔵国風土記稿に記されている大きさから、前方後円墳であったという説もある。(現地案内板では円墳説を採っている) 出土品に関しては不明。墳頂には延喜式の式内社である前玉神社(さきたまじんじゃ)が鎮座している。そのため、この古墳の周りには歌碑などが多い。 |
浅間塚古墳 案内板
埼玉苗字辞典には前玉の地名について以下の記述が紹介されている。
前玉 サキタマ 埼玉郡(サイタマ)埼玉郷(サキタマ)は万葉集に前玉と記し、佐吉多万と訓ず。前は浦の意味で海洋民を称す、玉は鉄(くろがね)のことで、海族鍛冶集団なり。延喜式神名帳に埼玉郡前玉神社を載す。埼玉村浅間神社にて、明治維新の時に旧に復し前玉神社と称す。祭神は前玉彦命、前玉姫命なり。此の命は、海神・綿積豊玉彦命―振魂命―天前玉命(別名、天忍人命)―天筑摩命(掃部氏祖)、弟は高倉下命(丹波国造海部氏祖)の一族で海洋民の頭領である。埼玉郡忍庄(行田市)、海上郷(加須市、騎西町、久喜市)、海府郷(場所不明)等は海洋民の忍海(おしのみ)族の居住地なり。伊勢御鎮座本紀に「度相河(わたらいがわ)の辺に一人の漁人あり、名を天忍海人と号く。今、之を掃守氏と謂ふ」と。掃部(かもり、かにもり)氏の祖・天前玉命(あめのさきたまのみこと)は海洋民物部族の鍛冶集団の奉斎神である。先代旧事記に「振魂尊(ふるたまのみこと)の児前玉命は掃部連等の祖」。姓氏録に「掃部連、振魂命四世孫天忍人命の後也。雄略天皇の御代、掃除の事を監し、姓を掃守連と賜ふ」と見ゆ。イチ、ウツミ条参照。
埼玉古墳群の謎で紹介した記述を引用するが、当時の前玉神社周辺地域は内海の津で、その関係で出雲族でもあり、海神(わたつみ、綿津見=安曇氏、海部氏)と尾張氏との関係が深い前玉命(別名、天忍人命)、前玉比売命の一派が水上交通により東進、土着したものと考える。
「かつて万葉時代にはこの地域には「埼玉の津」と呼ばれたように、江戸湾が内陸部に大きく食い込み、水郷であり湿地が多かった。大小の河川が蛇行しながら流れ、東京湾に注ぎ込んでいた時代には、沼と沼を川や水路でつなげ、交通や荷物運搬の手段として舟を使用していたのである。(中略)つまり万葉集に登場する「
前玉神社創建の影に尾張氏が関係していた、というのは正直驚いた。東国尾張氏の関東地方における地位は考えていた以上に深いものかもしれない。
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前玉神社の西側に隣接して国の史跡に指定された「埼玉(さきたま)古墳群」がある。現在8基の前方後円墳と1基の円墳が残っており、全国有数の大型古墳群である。この古墳群は、関東平野の中のなだらかな微高地の先端に位置し、周辺には利根川と荒川に挟まれた肥沃な水田地帯が広がる。東西600m、南北900mのの狭い範囲に、9基の古墳が旧状をよくとどめながら隣接して群れをなしている
。
金錯銘鉄剣で全国的に有名だが未だ埋葬者は不明
国指定史跡の「埼玉(さきたま)古墳群」は県名発祥の地・行田市埼玉にあり、5世紀から7世紀ごろに造られたと推定される9基の大型古墳が群在している。なかでも115の古代文字が記された国宝・金錯銘鉄剣が出土した稲荷山古墳は全国的な注目を集めた。
そのほか、国内市規模の円墳・丸墓山古墳、県内最大規模の前方後円墳・二子山古墳などがある。
県はここを史跡公園「さきたま風土記の丘」えおして整備。県内の県立さきたま資料館には、金錯銘鉄剣をはじめとする貴重な出土品が展示してある。また、1997(平成9)年には将軍山古墳展示館がオープン、復元された古墳内部の石室が実物大で見学できる。
丸墓山古墳
直径105m、高さ18.9mで日本最大規模の円墳。
遺骸を納めた石室など埋葬施設の主体部は未調査だが、墳丘表面を覆っていた葺石や、円筒埴輪、人物埴輪などの埴輪類が出土しており、これらの出土遺物の形式から築造年代は6世紀前半と推定される。その後豊臣秀吉が天下統一を進める1590年、家臣の石田三成は、秀吉の備中高松城水攻めにならい忍城を水攻めにする。その際、城がよくみえるこの古墳の上に陣を張ったと言う。現在駐車場から古墳へと続く道は、その際築かれた堤防の跡といわれている。。いわゆる「石田堤」である。
稲荷山古墳
墳丘長120m、後円部径62m・高さ11.7m、 前方部幅74m・高さ10.7m 後円部西側の裾部に(左くびれ部分に)は造り出しがある。
1968年の発掘調査で稲荷山鉄剣が後円部分から発掘される。その後偶然だが1978年この鉄剣に115文字の金象嵌の銘文が表されていることが判明。それがあの有名な金錯銘鉄剣である。
日本書紀によると、534年、安閑天皇より笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が武蔵国国造を任命され、埼玉郡笠原に拠点を持ったことが分かる。何の基盤も
無い当地に、突如として畿内に匹敵する中型前方後円墳が出現したこと、鉄剣に彫られたヲワケの父の名のカサヒヨがカサハラとも読めることから、笠原を本拠
としたとされる武蔵国国造の墓であるとする説もある。
将軍山古墳
墳丘長90m、後円部径39m・高さ8.4m(復元)、前方部幅68m・高さ9.4m(復元)、二重の方形をした周濠を持ち、埼玉県下で8番目の規模の前方後円墳である。造営年代は、古墳時代後期の6世紀末と推定されている。
埼玉古墳群の北東部にある将軍山古墳は、6世紀後半に築かれた全長90mの前方後円墳です。明治時代に後円部にあった横穴式石室が発掘され、馬具(ばぐ)や環頭太刀(かんとうたち)など豊富な副葬品(ふくそうひん)が出土しました。
しかし、墳丘東側が削平(さくへい)されており、石室の一部が露出(ろしゅつ)するなど崩壊(ほうかい)の危険が迫っていました。そこで、埼玉県では1991(平3)年から墳丘と周堀の復原や墳丘に埴輪の複製品を並べるなどの整備を進めてきました。
崩落した墳丘部分をドームで覆い、古墳の内部に入って複製の石室や遺物の出土状況を見学できるガイダンス施設を建設し、1997(平9)年に将軍山古墳展示館としてオープンしました。
古墳の頂上部と中段の平坦な部分には埴輪が並べられ、墳丘のまわりには二重の堀が巡っており、外堀には通路のような土橋(どばし)が見つかっています。将
軍山古墳は、主体部の発掘調査が行われ出土遺物も豊富なことから、埼玉古墳群の中では古墳の構造や時代が最もよく分かる古墳でもあります。
(埼玉県立さきたま史跡の博物館案内板)
二子山古墳
主軸長138m、後円部径70m、高さ13m、前方部幅90m、高さ15m。
武蔵国で最大の古墳で、丸墓山・鉄砲山古墳とともに昭10年(1935年)いち早く史跡名勝天然記念物として仮指定された。
古墳名 | 形式 | 製造年代 | 全長 | 備考 |
稲荷山古墳 | 前方後円墳 | 5世紀終 | 120m | 鉄剣の出土 |
丸墓山古墳 | 円墳 | 6世紀初 | 105m | 日本で最大の円墳 |
二子山古墳 | 前方後円墳 | 6世紀中 | 138m | 武蔵国最大の前方後円墳 |
瓦塚古墳 | 前方後円墳 | 6世紀中 | 73m | |
奥の山古墳 | 前方後円墳 | 6世紀中 | 70m | |
愛宕山古墳 | 前方後円墳 | 6世紀中 | 53m | |
鉄砲山古墳 | 前方後円墳 | 6世紀終 | 109m | |
将軍山古墳 | 前方後円墳 | 6世紀終 | 90m | 馬具や環頭太刀など豊富な副葬品が出土 |
中の山古墳 | 前方後円墳 | 7世紀初 | 79m |
埼玉古墳群には幾つかの謎がある。
1 大型古墳(丸墓山古墳は除く)はなぜか後円墳の方向が全て主軸が同じ方向を向いているのは何故か。
2 丸墓山古墳だけ円墳なのはなぜか。
3 埼玉古墳群の埋葬者は本当に笠原氏一族なのか。
4 埼玉古墳群は5世紀から7世紀にかけて成立していた、と考えられているが、狭い地域に大型古墳が周濠を接するような近さで、一貫した計画性をもって次々と築造されたのはなぜか。
5 大和地方の天皇陵クラスの大古墳にしか見られない二重周濠が、一地方の古墳にすぎない前方後円墳のほとんどに巡らされているのはなぜか
これらは別講で論じたい。
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さきたま古墳群から東へ2.5Km、川里町との境界付近に小埼沼は位置している。小埼沼の北500mには旧忍川が流れ、現在あたり一面には水田が広がりのどかな田園風景が続くが、かつてこの周辺は沼の多い湿地で、旧忍川の対岸には昭和50年代まで、小針沼(別名:埼玉沼)と呼ばれる広大な沼が存在していたらしい。
約6000年前の縄文時代この辺りは縄文海進の関係でこの地方まで東京湾が入り込んでいたといわれる。その後の関東造盆地運動により陸地が上がり、海域が後進して現在の関東平野ができたらしい。が元々荒川、利根川、多摩川、入間川などの河川が狭い東京湾に集中して排出されたため、陸地も湿地帯が広域に広がっていたと思われ、また弥生、古墳時代の3〜7世紀頃までは十分に陸地化されず、現在の東京都心部は武蔵野台地付近以外は内海の一部ではなかったかと考えられる。
現在の河川の流路は江戸時代、徳川家康の江戸転封により、人工的に流路を変えたもので、これを瀬替えという。利根川は元々東京湾に流れていたものを、鬼怒川の流路を利用し合流させ太平洋に瀬替えした。また利根川と同じく大宮台地の右側を流れていた荒川を、埼玉県の熊谷でせき止め、比企丘陵から流れてくる和田吉野川や市野川の河道に移したことにより、入間川と合流させることによって、台風で大水が発生した場合、荒川中流域である吉見地方でわざと氾濫させ、下流域の江戸の町を水害から守ったと言われその結果、江戸時代の江戸の町は大きな台風がきても意外と安全な場所となったといわれている。
それ故に、瀬替えする前の古墳時代の河川の流路がどのような経路だったか断片的でほとんど解っていないのが実情である。そのな中小埼沼は、上代の東京湾の入江の名残りともいわれ、「埼玉の津」万葉集の遺跡とされている。
学術的には実証されていない内陸の津の跡
所在地 埼玉県行田市埼玉2636−3
区 分 埼玉県指定記念物 旧跡
指定年月日
昭和36年9月1日
かつて『万葉集』に詠まれ、利根川と荒川の氾濫によって水路が発達し、船着場があったであろうと推測される「小埼沼」は、埼玉県行田市の東南部、埼玉古墳群より東方向で2〜3kmの場所に存在する。現在は広い田畑の一角にポツンと樹木が生い茂り、その中に「武蔵小埼沼」と彫られた石碑がある。
田んぼと畑が広がる中に、小埼沼だけ林になって存在する。 すぐ近くには案内板がある。
この地域は最近まで大きな沼が存在していたという。古墳時代当時はもっと多くの沼地や湿地地帯ではなかっただろうか。
あぜ道の正面に鎮座する尾崎沼神社
尾崎沼神社(別名 宇賀神社)
所在地 行田市埼玉2739
祭神 宇賀御魂神(倉稲魂神)
当社の創始についての言い伝えに、「いつのころかこの村に、おさきという娘がいた。ある時おさきが、かんざしを沼に落とし、これを拾おうとして葦で目を突いたあげく、沼にはまって死んでしまったため、村人たちは、おさきの霊を小祠に祀った」また「おさきという娘が、ある年日照りが続き百姓が嘆くのを見て、雨を願い自ら沼に身を投じたところ、にわかに雨が降り地を潤し百姓たちはおおいに助かり、石祠を立て霊を祀った」とある。このことから見て当初は霊力の強い神霊を祀ったものが時代が下がるに従いこの地が水田地帯であるところから農耕神としての稲荷信仰と神使のミサキ狐の信仰が習合し現在の祭神宇賀御魂神が祀られたと考えられる。
また一方ではこのような伝説も残っている。この付近に住む、おさきという娘が沼で遊んでいた時に、葦が目に刺さり、それが原因で片方の目が見えなくなってしまったそうだ。その後、沼には片目のドジョウが棲みつき、水辺には片葉の葦が茂るようになってしまったと言い伝えがある。小埼沼の西側には、片原(地元の人はカタラと呼んでいます)という地名があるが、それも片目の伝説と関係があるのだろうか。
行田市には似たような伝承が他にもあり、例えば埼玉県伝説集成中には行田市谷郷の春日神社に関して、”春日様は幼少の時、芋の葉で目をつかれ片目を傷つけた。そのため谷郷の人の片目は細い”と記されている。
林の中にある「武蔵小崎沼」石碑 天気が良い日でもこの地は何か雰囲気が違う
宝暦3年(1753年)忍城主阿部正允(まさちか)によって建てられた万葉歌碑であり、正面に「武蔵小埼沼」の文字、側面にこの碑を建てた目的をあらわした文章、裏面に小埼沼と埼玉の津の万葉歌2首が万葉がなで彫られている。碑文では武蔵小埼沼はここだと断定しており、そのことを後世に残すことが、この碑を建てた理由だったようだ。
「埼玉の 津に居る船の 風をいたみ 綱は絶ゆとも 言な絶えそね」
(さきたまの つにおるふねの かぜをいたみ つなはたゆとも ことなたえそね)
歌の意味は、津は船着場・河岸のことであり、埼玉の津に帆を降ろしている船が、激しい風のために綱が切れても、大切なあの人からの便りが絶えないように、と考えられている。冷たい北よりの季節風にゆさぶられる船の風景と、男女のゆれ動く恋の感情とを重ね合わせて詠み込んだ歌で、東歌(あずまうた)の中の相聞歌(そうもんか)に分類されるもの。
「埼玉の 小埼の沼に 鴨ぞ翼きる 己が尾に 零り置ける霜を 掃ふとにあらし」
(さきたまの おさきのぬまに かもぞはねきる おのがおに ふりおけるしもを はらうとにあらし)
この歌は、埼玉の小埼沼にいる鴨がはばたいて、自分の尾に降り積もった霜を掃っている寒い冬の早朝の風景を歌ったもので、この歌は、上の句が五・七・七、下の句も五・七・七の繰り返す形式で旋頭歌(せどうか)と呼ばれている。作者は、常陸国(ひたちのくに:今の茨城県)の下級役人であった高橋虫麻呂(むしまろ)と言われている。
ところで万葉集に詠まれた小埼沼の候補地として、この行田市埼玉の場所のほかに例えば羽生市尾崎(利根川右岸)、岩槻市尾ヶ崎新田(綾瀬川左岸)が挙げられる。共に[おさき]または[おざき]と読める地区名である。オザキという名前に重要なヒントが隠されているようだ。
水神社の石碑
弁財天の石碑
また周囲には水神社や弁財天などの石碑もあり、ここでも水、沼地に関係した神々が祀られている。伝説は抜きにしても確かに、小埼沼の周辺には神秘的な雰囲気が未だに残っている。