大宮氷川神社は社伝によれば孝昭天皇3年に創建された。成務天皇の時代に出雲族の兄多毛比命(えたもひのみこと)が武蔵国造となり、当社を崇敬した。この一帯は出雲族が開拓した地であり、武蔵国造は出雲国造と同族とされる。社名の「氷川」も出雲の「簸川」に由来するという説がある。延喜式神名帳では名神大社に列している。

 高鼻台地の上に鎮座。古代この辺りは見沼原と呼ばれ、湖沼が複雑に入り組んでいたと考えられている。その名残りが、社殿背後に広がる池(現大宮公園)であり、神社境内の神池である。古代の武藏国造家は沼池に面した高台に神を祀り、居所を構えた。これが氷川神社であり、又国造の居所であつたと考えられる足立神社(水判土(みつはた))である。

 江戸時代には三の鳥居を入つた玉垣内に、正面に簸王子社(祭神大己貴命)、後方、御手洗池の奥に左に男体社(祭神素戔嗚神)、右に女体社(祭神稲田姫命)が鎭座し、男体・女体社の間に、大祭の時に神輿を安置する仮殿があつた。明治以降はひとつにまとめられた。

 宮司である東角井氏は代々往古より祭祀を司っており、平成10年現在で96代を数えている。




                           大宮氷川神社
                                   地図リンク

                                                         大いなる宮に君臨する官幣大社 武蔵国一宮

                                                楼門1


                                              所在地    埼玉県さいたま市大宮区高鼻町一丁目407

                                              主祭神
    須佐之男命、 稲田姫 大己貴命

                                              社  格    式内社(名神大社,月次/新嘗)、
                                                       武蔵国一宮,旧官幣大社、勅裁社、別表神社


                                              創  建     孝昭天皇3年(紀元前437年)

                                             本殿の様式   本殿銅板葺流造

                                              例  祭     8月1日                                         



 氷川神社はさいたま市大宮区、大宮公園内に鎮座する。一の鳥居は境内から約2キロ南。一直線に伸びる参道は長くて、JR「さいたま新都心駅」の近くにある。今回は大宮駅からの参拝なので二の鳥居からスタートした。

                                                氷川神社 社号標石

                                                   二の鳥居前にある
武蔵国一宮標柱



 平安時代以前の武蔵国の神社は、延喜式神名帳によると大社2座2社・小社42座の計44座が記載されていて、大社は足立郡の氷川神社と児玉郡の金佐奈神社(現 金鑽神社)で、どちらも名神大社に列していた。
 更に、武蔵国の総社は大國魂神社(東京都府中市宮町)で、別名・六所宮と称し、武蔵国内の一宮から六宮までの祭神が祀られていた。

  
一宮 小野神社 (東京都多摩市一ノ宮。主祭神:小野大神=天下春命)
  
二宮 二宮神社 (東京都あきる野市二宮。主祭神:小河大神=国常立尊)
  
三宮 氷川神社 (埼玉県さいたま市大宮区高鼻町。主祭神:氷川大神=須佐之男命、稲田姫命)
  
四宮 秩父神社 (埼玉県秩父市番場町。主祭神:秩父大神=八意思兼命、知知夫彦命)
  
五宮 金鑽神社 (埼玉県神川町二宮。主祭神:金佐奈大神=天照大神、素盞鳴尊)
  
六宮 杉山神社 (比定社が複数あるが、多くは横浜市内に集中する)

 上記のように、一宮は元々は小野神社だったが、氷川神社が一宮と称されるようになってからは、五宮の金鑽神社が二宮とされるようになり、さいたま市緑区宮本の氷川女體神社も元は氷川神社から分かれたもので、江戸時代以降一宮とされるようになったようだ。



                                                二の鳥居

                                   
   参拝客がけっこう多い。参拝日当日(6月30日)は大祓式の行事がある関係か。



 氷川神社は武蔵国延喜式内社、一の宮で、旧官幣大社の格式を誇る。。また、埼玉県・東京都を中心に200社以上数える氷川神社の本宮でもある。ちなみに大宮市は”武蔵国一の宮”である氷川神社の門前町として栄えたところで、その地名は、この神社が「おおいなる宮居」であったことに由来するという。

  氷川神社

 所在地 大宮市高鼻町四ノ一ノ一
 氷川神社は、社記によると第五代孝昭天皇の三年四月未の日の創立と伝えられる。
 当社は、古くから歴朝や武将の尊崇をあつめた由緒ある大社としてその歴史を誇っており、「大宮」の地名もこの氷川神社に由来することは衆知のとおりである。
古くは景行天皇のとき、日本武尊が東征のおり当地に足をとめて祈願され、また、成務天皇のとき、武蔵国造となった兄多毛比命が出雲族を引きつれてこの地に移住し、氷川神社を奉崇したと伝えられる。その後、聖武天皇(七二四〜四九年)のとき「武蔵国一の宮」と定められ、ついで称徳天皇の天平神護二年(七六六)には、朝廷から武蔵国では当社だけに封戸(三戸)が寄進された。さらに醍醐天皇の延長五年(九二七)の「延喜式神明帳」には、名神大社として破格の月次新嘗の社格が与えられている。
 このほか、鎌倉時代には、治承四年(一一八〇)に源頼朝によって社殿の再建と社領三千貫が寄進されたといわれ、足利、北条氏も相次いで尊仰した。その後、江戸時代の慶長九年(一六〇四)には、徳川氏より社領三百石が寄進され、また、文禄五年(一五九六)と寛文七年(一六六七)には社頭の整備と社殿の造営が行われている。
その後、明治元年(一八六八)東京遷都に際し、当社を武蔵国の総鎮守「勅祭の社」と定められ、明治天皇みずから親拝になった。同四年官幣大社となり、同十五年に本殿・拝殿などを改造し、さらに昭和十五年に本殿・拝殿・回廊などを造り変え、現在の景観となっている。
 祭神は須佐之男命・稲田姫命・大己貴命。
 例大祭は八月一日。そのほか神事の中で特に有名なのが十二月十日の大湯祭である。

 昭和六十年三月 埼玉県・大宮市


                                                三の鳥居

                                                       三の鳥居 これより境内

                         氷川神社の参拝客の中には鳥居の前で一礼する作法を知っている人を多く見かけた。やはり礼儀は重要だと改めて感じた。


                                                入り口案内板 

                                    境内を入ってすぐ左側に境内の配置図、由緒などの書かれた大きな案内板があり。

由緒 

 氷川神社は今から凡そ二千有余年前、第五代孝昭天皇の御代三年四月未の日の御創立と伝えられます。当神社は、歴朝の御崇敬・武将の尊敬も篤く、景行天皇の御代日本武尊は東夷鎮圧の祈願をなされ、成務天皇の御代には出雲族の兄多毛比命が朝命により武蔵国造となって氷川神社を専ら奉崇し、善政を布かれてから益々神威輝き、格式高く聖武天皇の御代武蔵一宮と定められ、醍醐天皇の御代に制定された延喜式神名帳には名神大社として、月次新嘗案上の官幣に預り又臨時祭にも奉幣に預っています。武家時代になってからは鎌倉、足利、徳川の各将軍家等相継いで尊仰し、奉行に命じて社殿を造営し社領を寄進する等、祭祀も厳重に行われていました。

 明治の御代に至っては明治元年、都を東京に遷され当社を武蔵国の鎮守・勅祭の社と御定めになり天皇御親ら祭儀を執り行われました。次いで明治四年には官幣大社に列せられました。
 昭和九年昭和天皇御親拝、昭和三十八年今上陛下が皇太子時に御参拝になられ、昭和四十二年十月、明治天皇御親祭百年大祭が執り行われ社殿、その他の諸建物の修復工事が完成し、十月二十三日昭和天皇・皇后両陛下御揃いで親しく御参拝になられました。昭和六十二年七月には天皇・皇后両陛下(当時皇太子・同妃殿下)が御参拝になられました。



                                 参道 風景1 神橋

                                      三の鳥居から長く広い参道が続く                 神   橋


 当日(参拝日 平成24年6月30日)氷川神社では、その年の無病息災を祈願する「茅の輪くぐり」が行われ、子どもたちや家族連れなどでにぎわった。武蔵一宮氷川神社の「茅の輪くぐり」は、別名「大祓い」又は「夏越しの祓い」とも言われており、これから迎える暑さを乗り切り、その年の無病息災を祈願するものといわれている。神橋に設けられた「茅で作られた輪」を「八の字」にくぐり、輪に下げられた人形(ひとがた)をさわって穢れを人形に移すらしい。


                                 楼門2 楼門2

                                  神橋を越えるとそこには鮮やかな朱の楼門
    舞殿から見た楼門。 昭和15年に築造したとあり 


                                舞殿1 舞殿2

                               
    楼門を過ぎると拝殿ではなく舞殿がある       楼門と拝殿の真ん中に舞殿がある配置 


                                                 本殿1

                        
                         華麗な楼門とは趣を異なる重量感のある本殿


 
かつての見沼の畔にはこの大宮の氷川神社、中川の中氷川神社(現在の中山神社)、そして三室の氷川女体神社が一直線に並んでいて、この三社が男体社・女体社・簸王子社としてこのあたり一体の氷川神社を象っており、この三社を総称して氷川神社と考える説もあるようだ。また確認してはいないが氷川神社、所沢山口の中氷川神社、奥多摩氷川の奥氷川神社がそれぞれ、本社・中社・奥社の関係で一直線に並んでいるという。

 
氷川神社は全国に二百二十八社あり、埼玉県に百六十二社、東京都に五十九社、茨城県・栃木県に各二社、神奈川県・千葉県・北海道に各一社ずつある。そのほとんどが関東の地に集まっており、その中心が埼玉県大宮の氷川神社である。その多くは東方の元荒川と西方の多摩川とに囲まれた武蔵国に九十八パーセントの氷川神社が集中している。現代風の言い方をすれば「地域密着型社」となろうか。
                                     
                                                   

                                 稲荷神社 猿田彦の石碑

                                       稲荷神社  祭神 倉稲魂命         稲荷神社拝殿近くにあった猿田彦の石碑


                                                宗像神社

                                                            宗像神社

御祭神の宗像三女神(むなかたさんじょじん)は、宗像大社(福岡県宗像市)に祀られている三柱の女神の総称である。記紀など日本神話においては、『アマテラスとスサノオの誓約』において、アマテラスがスサノオの十拳剣を譲り受けて生んだとされており、スサノオの物実(ものざね)から化生したので、スサノオの子とされている。


                                                天津神社

                                              境内入って右側に鎮座 天津神社  祭神  少彦名命 


                                                松尾神社

                                                     松尾神社  祭神 大山咋命


                                                境内社

                                                  天津神社の北側に並んで鎮座する六社 
            山祇神社(大山祇命)・石上神社(布都御魂命)・愛宕神社(カグツチ命)・雷神社(大雷命)・住吉神社(墨前三神)・神明神社(天照御神)・天満宮(菅原 道真)

 

また東門を出ると摂社門客人神社と末社御獄神社が鎮座している。
 

                                 摂社門客人神社 末社御獄神社 

                                           摂社門客人神社            末社御獄神社 祭神 大己貴命、少彦名命
                                       祭神 足魔乳命、手魔乳命


摂社門客人神社は『新編武蔵風土記稿』にて次のような記述がある。

摂社 門客人社

 男体社ノ東ニアリ 祭神ハ豊盤窓命櫛盤窓命ノ二座ニテ古ハ、荒脛巾神社ト号セシヲ氷川内記神職タリシ時神祇伯吉田家ヘ告シテ門客人社ト改号シ手摩乳脚摩乳二座ヲ配祀スト云 按ニ出雲国杵築ノ摂社ニ門客人社ト云モノ二宇アリテ東ハ櫛磐間戸命西ハ豊盤間戸命ヲ祀ル由ナレハ門客人号ハ全クコレニモトツキシナラン 又脚摩乳手摩乳ノ二神ハ同所天神社ノ祭神ナレハ爰ヘ配祀セシナルヘシ コレ等ニ拠テモ当所氷川社ノ簸川上杵築社ヲ移シ祀リシコト○スヘシ

 「新編武蔵風土記稿」によると、この神社の元々の祭神は櫛磐間戸命、豊盤間戸命であったらしい。「客人神」というと、あとからやってきた神を祀るイメージがあるが、実際は以前からの土着神である地主神荒脛巾神を客神として祀っている。



ウィキペディアではこのことについてこのような説明をしている。

 アラハバキが「客人神」として祀られているケースは、埼玉県大宮の氷川神社で見られる。この摂社は「門客人神社」と呼ばれるが、元々は「荒脛巾(あらはばき)神社」と呼ばれていた。アラハバキ社は氷川神社の地主神である。現在祀られている出雲系の神は、武蔵国造一族とともにこの地に乗り込んできたもので、先住の神がアラハバキとみられる。

氷川神社は、出雲の斐伊川にあった杵築神社から移ったと伝わり、出雲の流れを汲む。出雲といえば日本の製鉄発祥の地である。氷川神社の祀官は鍛冶氏族である物部の流れを組むとのことである。氷川神社のある埼玉県は古代製鉄産業の中心地でもあるという。但し、音韻的に斐川は「シカワ」から転訛したものであり、氷川は「ピカワ」から転訛したものであることから、全く繋がりはないとの説もある。


 この大宮を中心とする氷川神社群(三ツ星である氷川神社、中氷川神社、女氷川神社に調神社、宗像神社、越谷の久伊豆神社まで含めたもの)はオリオン座の形、つまりカムド(神門)の形に並んでおり、脇を流れる荒川を天の川とすれば、ちょうど天を映した形になっている点は注目に値する。さらにこの氷川神社群は秩父神社群(北斗七星(=アメノトリフネ、ウケフネ)の形に並んでいる)と比企郡ときがわ町の萩日吉神社において一点で交わり一対一で対応していることは、あるいは(その測量技術の精度の高さもあることから)古代朝鮮道教との強いつながりを窺わせる。


 ところで「江戸名所図会」という絵物がある。ここには大宮郷、氷川神社の当時の様子を克明に描写している。下の絵がそうだ。

                               江戸名所図会


 寛政から天保年間の風俗や行事を記している絵物であるが、これによると、大宮氷川神社の項に【摂社:荒波々幾の社、本社の傍らに在り。テナヅチ、アシナヅチ二神を祀る。『武蔵国風土記』に観松彦香殖稲天皇(孝昭天皇)御字三年所祭とあるは、この社をいえるにや】、とある。江戸名所図会は江戸神田の名主・斉藤家父子三代が三十年にわたる歳月をかけて、天保五年(1834)および七年(1836)に刊行したもので、絵師・長谷川雪旦の素晴らしい写実によって、当時の江戸を知ることのできる第一級の史料である。

                                                

 天保の頃は荒波々幾社として社号が残っていたようだが、そうなると次の問題点が発生する。

@ 氷川神社は上古代において武蔵国三ノ宮として延喜式神名帳に記載される古社で、なおかつ名神大社として格式もあったはずである。延喜式当時「氷川神社」の名称で当時の最高機関であ る朝廷や幕府が認め、認識していたということは当時の資料を見れば明らかである。

A 荒波々幾の神は、先住の神で、出雲族の神が武蔵国造一族とともにこの地に乗り込んだ際に、氷川神社と自称(公称でも構わないが)したのだから、この江戸名所図会を信じるならば、ある時期に荒波々幾社と名前を変えたことになる。だがそのような記述はない。

B 氷川神社は時代ごとに武将、将軍家の信仰が篤かったことが由緒等に記載されている。

 
 武家時代になってからは鎌倉、足利、徳川の各将軍家等相継いで尊仰し、奉行に命じて社殿を造営し社領を寄進する等、祭祀も厳重に行われていました。(由緒より)

 
 鎌倉時代には、治承四年(一一八〇)に源頼朝によって社殿の再建と社領三千貫が寄進されたといわれ、足利、北条氏も相次いで尊仰した。その後、江戸時代の慶長九年(一六〇四)には、  徳川氏より社領三百石が寄進され、また、文禄五年(一五九六)と寛文七年(一六六七)には社頭の整備と社殿の造営が行われている。(社頭掲示板より)

  少なくとも天保年間には荒波々幾社となっていたのだから、この名称にて祭祀も厳重に行われた、ということになる・・・・が、これは絶対あり得ない。


 
 つまりこういう事だ。この江戸名所図会は地誌とはいえ、時の幕府の許可し刊行したものではなく、浮世絵と同じく風俗画であることだ。一般大衆のための作られたものであり、一般大衆が広く愛好された絵物であったということだ

 名所図会は当時相当なブームであったようで、各地の名所案内的な絵物として多くの類書が作られていた。
 この名所図会は事物の来歴などを客観的に記す点に特徴があり、江戸時代初期に刊行された名所記に比べて挿絵の比重が高く、浮画の影響もあってか鳥瞰図風の写生画をしばしば用いる。名所図会の挿絵は、地理的説明の機能を果たすだけでなく、鑑賞用途にも堪えるものである。また、編集においても、地域別・方面別の構成を取るなどの工夫が見られ、近世における巡礼の盛行による需要に応じて、名所案内としての実用性を備えている書物である。

 絵を見ると、当時「大宮郷 氷川明神社」」と呼ばれていたにも関わらず、神社の名前は「荒波々幾社」と書かれている。つまり、一般の大衆はその当時「荒波々幾社」という愛称、ニックネームで呼ばれていたということだ。現代でもよく同じことがしばしば見かけられる。男衾郡にある「子被神社」のことを周辺の住民の方は「おぶすま神社」とは言わず「こひ神社」「こひ様」挙句の果てには「コーヒー様」と呼んでいるのと同じだ。一般大衆向けに刊行された書物には実地踏査に基づいくとはいえ、民間伝承の事項を挿入することはありえることで、代表的な名所だけではなく、隠れた名所や伝説・名物などについても詳細な解説を施し、更に豊富な鳥瞰図や風俗図などの挿絵が広い支持を受け、当時の各種名所図会のブームになったと思われる。

 ということはこの「荒波々幾社」と書かれた社の正式の名称は「氷川明神社」であったが、その周辺に住む地元の長老方は、この社のことを親しみをこめて愛称でこう言っていたのかもしれない。「荒波々幾社」と。

 
                                 神楽殿(手前)と額殿(奥) 神楽殿

                           
      三の鳥居の右側にある神楽殿(手前)と額殿(奥)       三の鳥居の左側にある神楽殿




 古代には、大宮台地を中心に、周囲の低地を含めた領域に足立郡が設置された。大宮台地は荒川と元荒川との間に広がる台地で、表面は数メートルの関東ローム層で覆われている。北西から南東に長軸をもち、高度は北部の北本市付近で30メートル、南部の鳩ヶ谷市付近で20メートルであるが、中央部は低い。台地の南半部は鴨川、芝川、綾瀬川によって刻まれ、南―北方向の細長い谷をつくる。沖積低地との間は、5〜10メートルの崖をなすが、北東部には崖はない。当時の足立郡は現在の埼玉県鴻巣市から東京都足立郡までの広い地域で、概ね荒川の左岸(東側)、元荒川と綾瀬川の右岸(西側)にあたる。郡衙は、さいたま市の「大久保領家遺跡」と「氷川神社東遺跡」にあったと推定されている。
 
 埼玉苗字辞典では「足立」について以下の記載がある。

 足立

 此の氏は、豊後国及び出雲・但馬・丹波の山陰地方、また美濃国に多く存す。平安時代の貴族達は百済僧を豊国僧と呼んでいた。豊ノ国から渡来した人々の居住地を豊国(福岡、大分の両県)と称す。神武東征以前の神代の時代に渡来する。大ノ国(後の百済)のオオ・オウ・オホの原語はウと称し、鵜のことをアタと云う。大ノ国は安羅(あら)とも称し、其の渡来集団を安部・阿部と称した。豊前国企救郡足立村(福岡県小倉北区)、大和国宇陀郡足立村(榛原村大字足立)は阿部集団の阿陀族が渡来土着し地名となる。また、近江国浅井郡大井郷(和名抄に於保井と註す)あり、今の虎姫町なり。古代は於保を鵜と呼び、阿陀と云い、大井郷付近を別名足立郡大井郷と称す。当国佐々木氏系図に¬西条貞成(観応勲功・給足立郡大井江地頭)」とあり。また、大ノ国の渡来地を意宇(オウ)と称す、出雲国意宇郡出雲郷の出雲郷は阿陀迦耶(アダカヤ)と称し、イヅモとは読まない。此の地に阿陀加夜社あり、迦耶人の阿陀族の氏神なり。
 此の地方の出雲族阿陀集団は神武東征に追われ、武蔵国へ移住して、其の住地を足立郡と称した。其の一部は陸奥国安達郡に土着する。日本霊異記下巻七に¬賊地(あたち)に毛人(えみし)を打ちに遣さる」と見え、大和朝廷は東国の阿陀族を蔑視していた。阿部、安羅、アラハバキ、大、出雲、宇津味、武蔵等参照せよ。和名抄に武蔵国足立郡を阿太知と註す。また、川越行伝寺過去帳に¬法信・アタチ村・辰年四月とあり。秩父郡奥沢村(東秩父村)の足立氏居住地付近を別称足立村と呼んだ。


 足立郡には式内社が4座ある。

 
 足立郡 四座 大一座 小三座
   
足立神社
    
・ 足立神社   埼玉県さいたま市浦和区上木崎5-11-1
      ・ 加茂神社   埼玉県さいたま市北区宮原町4-8-1
      ・ 久伊豆社   埼玉県鴻巣市笠原1755

   
氷川神社 名神大 月次新嘗
    
・ 氷川神社   埼玉県さいたま市大宮区高鼻町1-407
     調神社
      ・ 調神社    埼玉県さいたま市浦和区岸町3-17-25
     多氣比賣神社
      ・ 多気比賣神社 埼玉県桶川市篠津58
      ・ 氷川女體神社 埼玉県さいたま市緑区宮本2-17-1

 氷川神社は延喜式には名神大、月次新嘗の官幣に預かった由緒正しい神社のはずだ。、近世から現代に至るまで武蔵国随一の大社であったこの氷川神社が、式内社とはいえ小社の小野神社や式外社の二宮神社の下位に置かれたというのは不思議の一つである。

 また氷川神社には2,000年以上の歴史のある社だから当然神社保有の自慢の文化財の一つや二つは歴史と格式のある神社ならば存在するし、それが神社の風格、重みに繋がるものだ。しかしこの社にはそれがまったく存在しない。正確にいうと埼玉県指定有形文化財として氷川神社行幸絵巻(附 原本、下絵)があるのみだ。鹿島神宮には国宝の布都御魂を保有しているし、氷川女体神社は、鎌倉〜室町期の文化財を社宝として多く蔵することから「埼玉の正倉院」と称されることに対してあまりにも対照的だ。

 一体氷川神社の中で、また今に至る過去において何が起こったのだろうか。
 

 神社の境内は見沼(江戸時代中期まで存在した広大な沼)の畔に立っている。氷川神社も元々は見沼の水神を祀ったことから始まったと考えられているが、そこからどのような過程があって延喜式時代に名神大、月次新嘗まで格式を上げたのだろうか。この社も謎が多く存在する。



                 

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