椋神社(むくじんじゃ)は延喜式神名帳に掲載された武蔵国秩父郡の式内社で、同名社が秩父郡市内に5社を数え、明治政府はいずれの神社にも式内社と称することを許したという。

 そこで秩父市下吉田の椋神社以外の社をこの項にて紹介したい。

 目次
   皆野椋神社 / 大塚古墳 / 野巻椋神社 / 中蒔田椋神社 / 上蒔田椋神社

                             椋神社(皆野町)
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                                                                     椋宮(倉宮、くらのみや)と称された古社

                                                



                                            所在地    埼玉県秩父郡皆野町皆野238   

                                            主祭神    猿田彦大神・八意思金命 ・大己貴命

                                            社  格     式内社 旧村社


                                            社  紋    三銀杏

                                            例  祭    10月8日



 皆野町皆野に鎮座する。国道140号彩甲斐街道を皆野方向に向かい、大塚交差点手前の十字路を右折しそのまま直進し、秩父鉄道の踏切を越えると正面に椋神社の大きな朱色の鳥居がある。鳥居の左側には駐車場もあるので、そこに停車し参拝を行った。

 もと、椋宮(倉宮)明神と称し、元慶5年(881年)円福寺を建立した真言僧源仁僧都が深く当社を崇敬したという。また秩父別当熊谷重能は厚く当社を尊信し、寿永元年(1182年)この地に居を定めたという。


                                                

                                                       参道の正面にある大鳥居

 椋神社の主祭神猿田彦命は貞観十三年従五位上に叙せられ延喜式神名帳に秩父郡二座とあるうちの一社と伝えられる 椋神社は郡下に同名社五社をかぞえ明治政府はいずれも式内社と称することを許したという その中で平将平・平重能の墓がある円福寺が鎮守として崇敬し 付近に古墳の多いことなどからわが椋宮が本社であるとの説もある
 当社の草創をたずねれば景行天皇四十一年皇子日本武命が東国御巡見の折この地に至り猿田彦命のお導きによっての御創祀と伝えられる 新篇武蔵風土記稿に「村ノ鎮守」と載せられ小作地を持ち氏子から社地参道寄進のあったことからも崇敬の深さが知られ元禄年間以前より舞われている獅子舞を始め神代神楽の奉納が今なお盛んなことにもあらわれている
 爾来氏子一同熱心な奉仕を続けて昭和六十二年十月十九日伊勢本宮参拝を果たし 永代御祈祷御神符拝受を畏み 今年あたかも平成の御大礼を奉祝しこの由緒を誌し後世に伝える  

                                                                                                     境内石碑より引用

 御祭神と由来(社伝より)  

 本社創立ハ人皇十二代景行天皇四十年 皇子日本武尊東夷征討ノ役甲斐國酒折宮ヨリ北轉シテ武蔵上野國ニ至リ給フ 此際國造經營ノ地ヲ巡視セラレ 則チ秩父ノ山路ニ入ル 而シテ當時原野ニ出ツルコトヲ大ニ愛シ給ヒ 御矛ヲ樹テ國造ノ祖神八意思兼命ヲ遥拝シ且ツ當郡ノ山岳ヲ望ミ給フ時ニ御矛忽チ光ヲ放チ 其ノ光飛デ當原野西隅ノ森林ニ止マル 尊怪シミ彼所ニ至リ給フヤ 該森林ノ椋樹ノ下ニ老翁現レ告ゲテ曰ク 吾尊ヲ嚮導シ其ノ行路ヲ守ラント 茲ニ於テ尊其御名ヲ問ヒ給フ 翁對ヘテ吾ハ猿田彦ナリト云フ 畢テ御身ヲ隠シ給フ 故ニ此處ニ神籬ヲ立テ 八意思兼命 猿田彦命 大己貴命ノ三神ヲ鎮祭シテ椋神社ト称ス

 「概略・ヤマトタケルノミコトが東国を巡見され秩父山中に出でられた時のこと。御矛を立ててヤゴコロオモイガネノミコトを遥かに拝されると、たちまち光が放たれ西の隅の森にある椋の木の下に老翁が現れ、「あなたを導き守りましょう」と言われた。その老翁に名を尋ねると、「私はサルタヒコノミコトなり」と言って姿を消された。よって、その地に神籬を立て「サルタヒコノミコト」「オオナムチノミコト」「ヤゴコロオモイガネノミコト」の三神が祀られ椋神社の創始となった。」                   

                                   

                                          境内入口正面より撮影           内入口にある庚申と祭神猿田彦の石碑 


                     境内に入ると正面に立派な社殿があり後方に本殿が立っている。社殿は褐色で落ち着いていて、荘厳な雰囲気のある社だ。


                                 
 

                                         南東に向いている拝殿                    拝殿内部撮影

                                                  

                                                            本    殿                           

 社伝によると、日本武尊東夷征伐のおり、当地を通過される時、御矛を立て、祭神・猿田彦命・八意思金命・大己貴命の三柱の神を拝し給うたのが、当社の創祀。猿田彦命は、日本武尊の巡視をご案内した神。八意思金命は、知知夫国造の祖神。大己貴命は、国土経営の神である。

 元来は、椋宮(倉宮:くらのみや)と称された古社で式内社・椋神社の論社の一つ。




 本殿の後方に境内社が少々狭い空間にズラッと並んでいる。どでも小社だが、立派な構えだ。


                     

                                     
                 産泰大神・愛宕大神・    山之神大神・諏訪大神    中央伏見稲荷大神、右太宰府天満宮          左側祖霊社    右側八坂大神
                 秋葉之大神・八幡大神     摂社末社之大神・
                                 駒形大神・金刀比羅大神・
                                    秩父彦之大神

         
                                                                 

                                             また社殿の右手には護国神社もある。これがまた立派な佇まいだ。

                                                

                                                     境内右側に鎮座する護国神社

                                  本殿の右側には石祠が並んでいる。一部だが、社号や祭神名が記された木の札が掛けられている。

                                                

                                                             石祠群

                 高良玉垂大神、天児屋根神社、斎主大神、神明大神、菊理姫大神、事解男大神、雷電大神、善女龍王大神、句句馳智大神、河菜姫大神、埴山姫大神等、


                                                

 

埼玉県指定無形民俗文化財    皆野椋神社の獅子舞

昭和五四年三月二四日 指定

 明治一五年の大火で記録類が焼失し、詳しい縁起はわかりませんが、児玉町小平の石神神社獅子舞の起源に、「元禄十二年皆野に伝わる獅子頭が小平に分けられ……」と伝えられています。これが皆野椋神社獅子舞に関する、最も古い記録です。
 獅子頭は塗獅子で、狛犬型、龍頭型とがあり、髪は栗毛のたてがみで、大狂い、女獅子、小狂いの三頭を一組として四組一二頭あります。
 演目は一八庭で、神前に子どもたちの舞うお神楽三拍子に始まり、ひきま、わせ、おく、弓掛り、まり掛り、みいれ、ひょうたんまわし、幣掛り、竿掛り、花掛り、お神楽ざさら、輪掛り、橋渡り、下妻、宿割、天狗拍子で終わります。三頭の獅子の足が腰鼓にあわせてぴたりぴたりときまるのが特徴で、師匠ざさらといわれる「宿割」はその特色を最もよく表しています。
 一日の行事の中ほど、中入りには二人立ちの大神楽獅子二頭が勇壮に舞い、道化たちがからみます。また、演目の最終には一二頭の獅子に、中立四人が加わり、一六人ざさらともいわれる天狗拍子が舞われます。
 古くは上郷組、下郷組とに分れ、交代で九曲ずつを受持って演じていました。また、今は行われていませんが、椋神社と土京遥拝所の間にご神幸に供奉した道中または行列といわれた儀式は荘重なものでした。
 実施期日 一〇月七日 土京遥拝所 一〇月八日 椋神社

                                                                                                        案内板より引用


                                                

                                                      専用駐車場から見える武甲山


 皆野町椋神社の西側は荒川が流れ、その台地にこの社が鎮座しているのが来てみると良く分かる。また武甲山がよく見える位置にあるのも何か印象的だった。椋神社にとっても武甲山は神聖の山の対象だったのだろうか、とふと感慨にふけってしまった。









                                                 
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皆野町椋神社から南東500m位に大塚古墳がある。直径30m、高さ7mの円墳で、秩父地方に現存している古墳の中では大きさは第二位で大規模なものだ。秩父地方でも最も形状が良好な古墳といわれている。墳丘にはちらほらと葺石が見られる。墳頂には小さな石祠がまつられている。現状ではほとんど埋まっているが、墳裾には前庭部を除いて幅4m深さ1mのC形の周堀がある。
 この地域にたくさんみられた古墳群のうちの一つで秩父地方最大の切石古墳だ。



                                 大塚古墳
                                     地図リンク

                                                


                                             所在地      皆野町大字皆野字毛無塚95

                                             築造年代     6世紀後半頃

                                             区  分      埼玉県指定史跡


 大塚古墳は、国道140号と旧道の木毛交差点の近くにあり、道路地図にも記載されているように皆野で最も有名な古墳と思われる。皆野駅から南に約1kmの所にある秩父地方第2位の規模の30mの円墳。ただし、基壇部の径が30mで、墳丘部は径18mである。横穴式石室は江戸時代から開口していて、「新編武蔵風土記稿」にも「氷雨塚」として記されているとされる。羨門部は後世に加工されているという。古墳前の説明板では「7世紀第2四半期」の築造とされているが最近の資料では6世紀後半となっている。


                                   

                                       
旧道側にある大塚古墳の石碑           石碑を過ぎると左側にある案内板

 
 埼玉県指定史跡   円墳大塚古墳

 昭和33年3月20日指定

 所在地 皆野町大字皆野字毛無塚95

 秩父地方の古墳は、現在のところ古墳時代後期になってから築造されたと考えられている。大部分は小規模な円墳が集まって、一つの群れを構成している。大塚古墳は、秩父地方に現存している古墳の中では大規模なもので、直径約33m、高さ約7mである。墳丘は円礫の葺き石で覆われ、周囲には幅約4m、深さ約1mの周溝がめぐっている。
 石室は横穴式で、南南西の方向に開口している。
 羨道(玄室といわれる棺が埋葬されている主体部への通路)の入口である羨門付近は破壊されている可能性があるが、玄室の入口にあたる玄門は東側の門柱、冠石、框石が良好な状態で残されている。
 玄室は胴張り両袖型で、床に比べて天井が狭いドーム状に構成されている。
 石材は、天井と奥壁には巨大な磐石、側壁には下部に大型の割石を縦に、上部では小型の割石を小口積に、いずれも秩父の地域性を反映して片岩が用いられ、積み石の間隙部には小石や石綿が充填されている。また、床にはこぶし大の河原石が敷き込まれている。
 江戸時代にはすでに石室は開口しており、副葬品は発見されていない。また、埴輪も確認されていないが、石室の形から7世紀の第2四半期に築造されたものと推定される。
 平成6年3月31日
 埼玉県教育委員会 皆野町教育委員会

                                                                                                        案内板より引用


  
墳丘に登る石段がありその頂上には小さな祠がある。また石段の左側には石室があり、石室は開口していて、両袖型横穴式で、石室は全長7.80mあり、玄室の面積はおよそ7畳敷ほどあるというが確認はできなかった。古くから開口していたようで、副葬品などは見つかっていない。





 


 
                             椋神社(皆野町野巻)
                                       地図リンク

                                                


                                        
                                            所在地    埼玉県秩父郡皆野町皆野野巻363   

                                            主祭神    猿田彦大神 
                                                    ( 合祀 )菅原道眞  金山彦命 建御名方命
                                                          大日霊貴尊 建御名方命 建御名方命

                                            社  格     式内社 旧村社


                                            社  紋    五七桐

                                       例  祭    10月15日


 
 埼玉県秩父郡皆野町に鎮座する。皆野町椋神社から埼玉県道43号皆野荒川線に移り、荒川を越え皆野橋のT字路の交差点を右折し、埼玉県道44号秩父児玉線を300m位北上すると大渕交差点となるのでそれを左折する。この道は埼玉県道37号皆野両神荒川線で、道なりに約1、5km位進むと約赤平川の支流前のT字路があるのでそこを右折すると左側に椋神社がある。車で来ると、社の裏側へ回り込む形になるので、車を止めて、表に回って参拝を開始する。



                                   

                           
      椋神社裏にあった石標 奥にある建物の前に駐車  表に回った先に鳥居があり参拝を開始する。


                                                  

  
 
                                                            拝   殿

                                           

                                         拝殿の右側にある陽石  御神体である大ケヤキ       境内社


                                                

                                                      社殿の左側にある立派な案内板


 野巻椋神社の創立年月等は不詳だが、口碑によると、野巻(牧)は奈良・平安の頃に牧の駒を奉りし地から付けられたと伝えられている。地名に、カリホシバ(刈干場)、クツウチバ(沓打場)、カジヤ(鍛冶屋)、マキハラ(牧原)などが現在も残っているようだ。
 また、当社の創建については、秩父氏が牧場の守り神として奉斎したものではないかとも考えられているようで、当時は『武蔵志』の”倉宮”や鎮座地の字名等から”くらのみや”明神等と呼ばれていたと思われる。

 区域外にも当社への強い信仰があり、隣村の秩父市吉田久長(旧久長村)には遥拝所があったと云われ、古くは、そこに繁っている松の木に鈴を懸け、当地との間の川が増水し参詣できない時には、これを振ってそこに祀られている石宮から当社を拝んだとのことだ。



                                                

                                                  野巻椋神社から見る武甲山もまた美しかった。
                                                                        





                                            

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                            椋神社(中蒔田)
                                   地図リンク

                                                 


                                             所在地    埼玉県秩父市蒔田2167  

                                             主祭神    猿田彦命  大己貴命  天下春命
                                                      (合祀)菅原道眞  大山津見命  素盞嗚命
                                                          大山津見命  武御名方命  大地主命

                                             社  格     式内社 旧村社

                                             社  紋    抱き稲

                                             例  祭    3月3日


 
 中蒔田に鎮座する椋神社は、秩父鉄道大野原駅から、直線で北西2kmほどの場所にある。秩父橋を越えて、299号線を西へ道なりにまっすぐ進むと大きくカーブしている場所があり、蒔田交差点の手前のT字路を右折すると正面に蒔田椋神社のこんもりとした森の空間がそこにある。

 東南向きに小じんまりとした境内があり、中央に社殿がある。また社殿の左右に、二つずつの小祠の境内社がある。

 永禄年間に甲斐国領主武田信玄の進行に遭い兵火に罹り、社殿・古記録を焼失し、社領も没収されたという。その後宝暦十三年に社殿を再建し、明治六年に、熊谷県より、延喜式内と称することを許可された。

                                   

                                           鳥居より拝殿を撮影                     拝   殿

 
 椋神社

 当神社は往古より延喜式内の社と古老の口碑あり。然るに永緑年間の兵火に依り旧殿旧記書類悉皆焼失し、社領没収せらる。社領旧社地は神畑田耕地の字名として現存す。石器時代の遺物石杵は當社の宝物にして今尚存し神宝石と称し來れり。里人愁ひて後年仮宮を造営し古例の如く執行。宝暦13年未本社再建。明治6年7月2日熊谷縣に於て延喜式内の社と可称旨達あり。同7年4月8日同縣に於て祠掌を置かる。明治9年6月10日熊谷縣に於て村社に列せらる。同年10月5日拝殿再建す。

昭和27年神社明細帳より

                                                

                                                            本    殿


 ところで中蒔田椋神社は、秩父地方でも古風の形態の神楽である秩父神社系神楽を今日も百数十年間も継承し、秩父市指定無形文化財に認定されているそうだ。

                                   

                                        「蒔田椋神社の神楽」の掲示板                   神楽殿

 市指定無形文化財

 中蒔田椋神社の神楽
 秩父地方に数多い神楽も、その由来や舞の型態等によって、いくつかの系統に分かれます。なかでも古風な舞をもち、盆地内に広く分布し、その主流をなしているものは秩父神社系神楽です。
 この秩父神社の神楽も幕末から明治の一時期にかけて、後継者不足から休止のやむなきに至ったといわれ、その断絶を憂えた秩父神社の神楽師佐野宗五郎は、蒔田椋神社祠掌設楽一貫と計り、椋神社氏子に伝授したと伝えられています。
 明治7年3月の「太々神楽装束勧進録」には、「天朝庚平区内安全五穀成就氏子一統開化進歩へ時勢二不渡戸々家々為繁栄祈念年々祭日永代太々神楽を奏する事」。とみえることから明治7年には既に伝授されていたものと考えられます。その後座や舞の変革はほとんど行われていないので、当時の秩父神社神楽の形態を伝えるものといえます。
 昭和47年4月6日 指定
 秩父市教育委員会
                                                                                                        案内板より引用

 また社殿の左右に、二つずつの小祠の境内社がある。

                                   

                                        社殿右側に八坂・産泰神社              社殿右側には稲荷・八幡神社








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                            椋神社(上蒔田)
                                   地図リンク  

                                                 


                                              所在地    埼玉県秩父市蒔田2842  

                                              主祭神    大己貴命 (配祀)猿田彦命

                                              社  格     式内社 旧村社

                                              社  紋    葵

                                              例  祭    3月3日



 上蒔田に鎮座する椋神社は、中蒔田椋神社より南西に約2q弱、国道299号を小鹿野町方向に進むと道路の北側にあり、参道入口の鳥居が見える。小さな丘を背負う立地条件で拝殿の奥は山林が続くがこれはこれで大変趣がありなんともいえない気持ちの良い時間が流れる。天気も良く、また開放的な空間にこの社は鎮座しているため、なんとなく長居をしてしまった。
 社地の500メートル手前には蒔田川がながれる。この蒔田川は荒川水系の一支流で、丁度皆野町の椋神社や大塚古墳あたりで荒川と合流する河川であり、この皆野地方の椋神社が河川にも関係があるのではないかと想像を膨らましてしまうところだ。


 創立年代は不詳。景行天皇の時、日本武尊東征の際、矛を杖にして山路を越えると、矛が光を放って飛んでいった。尊は不思議に思って光が止まったところまで行ってみると、井の辺のムクの木陰から猿田彦命が現れ道案内をしたという伝説から、尊は持っていた矛を神体として猿田彦命を祀ったことに始まるという。
 永禄12年(1569)に武田信玄によって焼き払われ、その後は衰退し、江戸期は秩父神社によって管理されていた。




                                   

                                     国道沿いに一の鳥居と社号標がある。      鳥居の先に二の鳥居、社殿が見えてくる。

                                   

                                             拝    殿                        本    殿

                                 拝殿の家紋は葵の紋が付けられていた。


                                                

                                              拝殿手前で左側にある「蒔田椋神社御田植神事」の案内板

 市指定民族資料

  蒔田椋神社御田植神事

 この社は遠く「延喜式」に載る古社で、ここに伝わる御田植神事は春の農作業に先がけた三月三日(旧暦の頃は二月三日)今年の稲作の豊穣を願って行われます。境内にしめ縄を張りめぐらして御田代に見立て、鳥居の外には、わらで龍を形どった水口が設けられます。
 毎年氏子の中から十二人の神部が選ばれ、その中の二人が作家老となって神事の主役となりますが、神部のいでたちは、烏帽子に白装束で、手には鍬を模した竹製の農具をもって演じます。
 祭典ののち坪割り(四方固め)つづいて水乞い神事に丹生神社までまいり、水ぬさと呼ぶ御幣をいただき御田代水口に立て、田仕事が始まります。苗代つくりから種子播き、本田の耕起から田植までの実際の農耕順序にしたがい「御代の永田に手に手をそろえて、いそげや早苗手に手をそろえて」と田植唄をうたいながら演じる所作は、多くの古風な習俗を伝承している貴重な民族資料です。

 
秩父市教育委員会
                                                                                                        案内板より引用







                                           
 

                                                  もどる                   toppage