楡山神社が鎮座する武蔵国幡羅郡は、江戸時代の新編武蔵風土記稿によれば、今の深谷市東部(旧幡羅村、明戸村)、熊谷市北西部(旧別府村、三尻村、玉井村、奈良村、大幡村の一部)、妻沼町全域とされる。
 
 武蔵国の利根川と荒川に挟まれ、東の埼玉郡に続く幡羅郡は、『和名抄』によれば七郷一余戸という北武蔵最大規模の郡であり、また交通の要衝であった。 郡の中心部分は、郡の南西部の台地地帯で、櫛引台地と荒川扇状地とが織り重なる地帯である。中でも台地の北側、郡衙跡の確認された深谷市東方・熊谷市西別府を中心に、西の深谷市原郷から、東の熊谷市中奈良あたりまでが、中心地帯だったと思われ、中奈良では、和銅年間に大量の涌泉があり六百余町の壮大な水田を造成させたといい(文徳実録)、西別府祭祀遺跡からは近年まで湧き水が確認され、隣接の別府沼を形成して付近の広大な水田の水源となっていた歴史があり、深谷市原郷根岸沼は今は地名のみ残るがこれも数十年前まで湧き水が確認され、別府沼と同様のことが想定されている。これらの水源は荒川の伏流水である。

 郡衙跡(幡羅遺跡-はらいせき-)は2001年に発見された新しい遺跡で、保存状態がよく規模も大きく、全国の郡衙跡のなかでも非常に貴重なものであるとされる。郡衙跡の東に隣接する西別府廃寺跡とともに、7〜11世紀にかけての幡羅郡の歴史を知る重要な史跡である。

 目次
  
楡山神社 式内社 旧県社 / 熊野大神社 延喜式内社 旧郷社 / 滝宮神社

 


                                   楡山神社
                                      地図リンク                             
                                             
延喜式内社 旧県社 幡羅郡総鎮守

                                 


                                              所在地    深谷市原郷336

                                              主祭神    
伊邪那美命

                                              社  格     延喜式内社 旧県社

                                              社  紋     八咫鏡と八咫烏

                                              例  祭     10月20日 例大祭


 
 楡山神社は埼玉県深谷市にあり、深谷駅の北東2kmほど,埼玉県道127号深谷飯塚線を北上するとすぐ右側に位置する。個人的に親族が深谷市高畑地区に住んでおり、行き帰りには神社を見ることも多く、その際には何度か参拝も行なっており他の神社より親近感がある。
 孝昭天皇の頃に鎮座したというが創建不明。 延喜式内社。境内は東向き。辺り一帯に楡の木が繁茂していたということで、社名の由来と なっている。また境内付近には古墳が散在しており15基ほどを木の本古墳群と総称、楡山神社周辺から南東へほぼ道路沿いに分布しており、観察は比較的容易である。

                     

 
                            楡山神社正面参道         コンクリート製とは違う何か品のある木材製の鳥居  一の鳥居の上部には「八大区総社 楡山神社」
                                                                                      刻まれている。


                          

                      東の入口の一の鳥居横につい近年まで大楡の神木(樹齡約600年・県天然記念物)があったが、今は切り株のみで近くには表札がある。

  楡山神社大ニレ     埼玉県指定天然記念物 昭和二四年二月二二日指定

 楡山神社の御神木となっている古木で、目通り約三・六メートル、樹高約一○メートル、樹齢は約六○○年と推定されています。
 ニレは、山地性の落葉樹で、ハルニレとアキニレがありますが、この木はハルニレです。ハルニレは、皮を剥ぐと脂状にぬるぬるするところから別名ヤニレともいいます。樹皮からは繊維が採れ、縄などが作られました。北海道から本州の山地に自生していますが、この木は関東地方の平野部にあるという点で貴重です。
 楡山神社は、平安時代につくられた「延喜式神名帳」に記載される古社で、幡羅郡の総鎮守です。
「楡山」の由来は、昔からこの地方一帯に、ニレの木が繁っていたことによるといわれています。
 平成六年三月 埼玉県教育委員会

                                                                                                        案内板より引用

                                

                                     

                                    参道の右側、方位では北側に神楽殿がある            拝殿前の二の鳥居


                                                  

                                                           拝    殿                    

 楡山神社が鎮座する幡羅郡は、元来「原」であったが、その後「幡羅」に改められた。713年(和同6年)5月、畿内七道諸国郡郷名には「好字」を用いることが命じられた。またこの命令を反映したものと見られる『延喜式』民部省式の規定にも郡や里の名には「二字」の「嘉名」をつけることが決められていた。これらの制度を受け、奈良時代以降は「幡」・「羅」の雅な漢字を当て「幡羅郡」と称したものと見られる。『和名抄』に「ハラ」とあように、古代においては読みは「はたら」ではなく、元来通り「はら」であった。
 郡衙跡(後述)から出土した平安時代初期頃のものと見られる遺物には「原郡」の表記も見られ、奥州多賀城跡から出土した木簡(後述)に見られる通り正式には「幡羅」の表記となっていたものの、なお郡域では「原」の字を用いたこともあったようである。中世以後、漢字表記に引かれる形で「はたら」の読みが広がり、明治時代以後は完全に「はたら」となり現在の地名の読み方に至っている。

 楡山神社由緒

【御祭神】
 伊邪那美命。一柱。
 夫の伊邪那岐命と共に、国土や山川草木の神々をお生みになった神。「国生み」の神。
 末子に火産霊神をお生みになって後、鎮火の法を教え諭した神。

【鎮座地】
 埼玉県深谷市大字原郷三三六番地。
 旧埼玉県大里郡幡羅村大字原郷。
 旧武蔵国幡羅郡幡羅郷原ノ郷村。
 古くは幡羅ノ郡(はらのごほり)といっていたのを、近世に漢字を改めて原郷としたという。

【御社名の由来と御神木・御神紋】
 御社名の由来は、御神域一帯に楡の木が多かったことによる。正面大鳥居の脇の楡の古木一本は、代々御神木と崇められ、樹齢一千年ともいい、現在は埼玉県の文化財(天然記念物)に指定されている。
 当社の御神紋の「八咫烏」は、初代神武天皇の東征の際、南紀の熊野から、翼の大きさ八尺余りの道案内で、大和に入ったという故事から、当社が熊野権現といわれた時代に定まったものといわれる。
【御創立と沿革】
 五代孝昭天皇の御代の御鎮座という言い伝えがあった。
 大字原郷全域から東隣の大字東方の西部にかけて分布する木之本古墳群(木之本は小字名)は、奈良時代ごろのものといわれ、古くからひらけた土地であることをうかがわせる。現在の末社の天満天神社(富士浅間神社)や知知夫神社も、後世の創祀ではあるが、古墳の塚上に祀られていたものである。かつては境内の森の奥にも塚があり、「里人不入の地」といわれた。

 延喜年間(平安時代)、醍醐天皇の御代に朝廷の法規などをまとめた書「延喜式」の「神名帳」の巻に、「武蔵国幡羅郡四座」のうちの一社「楡山神社」とある。すなわち朝廷より幣帛を賜った古社であり、「延喜式内社」といわれる。
 旧原ノ郷村は、平安時代中期の北武蔵の武将・幡羅太郎道宗の再興になる地域である。神社の南西に史跡「幡羅太郎館址」がある。当時から幡羅郡の総鎮守、幡羅郡總社といわれ、御社名を幡羅大神ともいった。
 康平年間(1058〜1065)、源義家の奥州征伐の時、幡羅太郎道宗の長男の成田助高は、当社に立ち寄って戦勝を祈願したという。成田家は後に行田の忍城主となっていったが、当社は成田家代々の崇敬が篤かったという。
 徳川時代には、旧社家の没落と共に別当天台宗東学院の管理する所となり、熊野三社大権現と称したこともあった。当時より節分の日の年越祭は盛大であり、「権現様の豆撒」などともいわれた。
 明治に入り、御社名を楡山神社にもどす。明治五年、旧入間県八大区の郷社に制定される。大正一二年県社に昇格。
 大正二年、中絶していた年越祭を再興。戦中戦後の一時期は中断していたが、戦後に神職氏子の努力によって復興させ、毎年節分当日は巨万の賽客で賑わい、追儺の神事や花火(戦前は「おだまき」と称した地域伝来の花火)などの行事が夜遅くまで続く

                                                                                                楡山神社由緒より引用



                     

                          本殿  春日造、欅桧楡材、造営年不詳。明治以前は屋根は桧皮葺で千木と鰹木があり、柱などに葵の紋金具があったという

本殿の周囲には、幾つかの境内社が鎮座している。(撮影日 24年4月18日

                     

 
                  
                           招魂社と知々夫神社                     八坂神社                         大雷神社

                    

                     

                              手長神社                        大物主神社                       天満天神社

                                   


                                            荒神社 外観                      荒神社 本殿

 元々は根岸にあった荒神社をこちらに移転したもので、同社境内にあった諏訪神社と春日神社が合祀されている。火産霊命、奥津比古命、奥津比売命の三柱を主祭神とし、他に御穂須々美命、天津児屋根命、斎主命、武甕槌命、比売命が祀られているとのこと。春日四神が春日神社の祭神であると見ると、御穂須々美命が諏訪神社の祭神と言うことになるのだろうか。聞き覚えの無い名前だったので調べてみると、建御名方命の妹にあたる神様であるようだ。
 また、石燈籠には享和三癸亥歳九月吉日との文字が刻まれており、1803年に奉納されたものだと判る。


                                                


  
                                      荒神社近くの林の中の道には、「楡山」と刻印された旧拝殿の鬼瓦と説明書がある

拝殿の鬼瓦の由来
 
此の鬼瓦は明治四十三年の拝殿再興以来、平成十一年五月までの八十九年の長い間酷寒酷暑風雪雨に耐えておりました。然しながら屋根全体が歪みと破損等で止得ず平成十一年五月に屋根全体を新規に葺替えし、一対の鬼瓦は後世に残すため氏子総代会で、ここに保存することといたしました。
                                                                                                                                                                                                                        平成十一年五月吉日



                                                 

                                                   寒神社(道祖神)       伊奈利神社 

 武蔵国北部最大の郡である幡羅郡は、地形上でも要衝の地と言われている。その根拠は一体なんだろうか。その理由の一つは東山道武蔵路ではないかと考えている。

 東山道武蔵路
 古代に造られた官道の一つ。当初東山道の本道の一部として開通し、のちに支路となった道であり、上野国・下野国から武蔵国を南北方向に通って武蔵国の国府に至る幅12m程の直線道路であった。(詳しくは武蔵国 概要を参照)

 奥州多賀城跡から出土した木簡に「武蔵国幡羅郡米五斗、部領使□□刑部古□□、大同四年(809年)十□月」とあり、刑部氏の何らかの関連があったような記述が存在する。刑部は第19代允恭天皇の后の忍坂大坂姫の御名代部として設置された部民。また延喜式内社の白髪神社は、郡衙近くに存在し、白髪部の関与が想定されるという説があるそうだ。









                                                 もどる                    toppage






 楡山神社から埼玉県道275号由良深谷線深谷線で東方向に行き、最初の交差点を左折すると約300m程左側に熊野大神社が鎮座する。この神社も延喜式内社の比定社だ。




                                熊野大神社

                                     地図リンク
                                                                  
延喜式内社比定社なれど確証は無し

                 
      


                   
                                       所在地     埼玉県深谷市東方1708

                             
          主祭神     伊弉冉命、事解男命、速玉男命
         
                                     
  社  格      延喜式内社 旧郷社

                             
          創建年代    社伝では、延長五年(927)この地に枇杷の木を棟木にして
                                                
 小社を建て、上野国碓井郡熊野本宮より奉遷し東方と号す
                                                 
る、とある。

                                       
例  祭      10月15日 秋季例大祭



 熊野大神社は高崎線深谷駅下車熊谷方面行きバスに乗車し、幡羅農協下車すると国道17号(中仙道)に面して一の鳥居があり、そこから北に参道が延びている。駐車場は、境内の右側にあり、自動車は駐車可能だ。
 
隣には真言宗智山派の「弥勒院」というお寺があり、熊野大神社の別当寺だったようだ。


                                  

                                             
                                    県道沿いにある熊野大神社一の鳥居    一の鳥居を過ぎてからしばらく歩くと二の鳥居がある。

                                  

                                     二の鳥居を過ぎると社殿が見えてくる。            熊野大神社の案内板 

  熊野大神社

 
古くより小さな社があり、東方という地名もこの社から生まれました。天文(1532〜55)の頃、深谷上杉三宿老、皿沼城主岡谷加賀守清英がこの地方を領し、熊野大神社を深く崇拝し、社領を寄進し、今でも熊野免という年貢を免除した土地があります。同じく三宿老の一人、上野台領主秋元但馬守景朝、その子越中守長朝は、当社が上野台の館の東北にあたっているので、城の守りとして崇敬し、天正年間(1573〜92)に当社の社殿を造り、現在本殿正面の桁に家紋が彫刻されてあります。天正18年(1590)徳川家康、江戸入城後、松平丹波守康長が東方城主となりましたが、当社を信仰、社領を免除しています。                      
                                                                                          全国神社祭祀祭礼総合調査より引用

 

この社は街中にある神社としては比較的境内は広く、ゆっくりと散策できる。また、多くの境内社もあり見所も多い。



                                 
 

                                             拝    殿                熊野大神社本殿  深谷市指定文化財


熊野大神社

東方熊野神社碑
従四位子爵秋元興朝篆額
日本武尊之征蝦夷而還也自甲斐北歴武蔵上野西逮于碓日坂日本武尊顧念弟橘媛登碓日嶺東南望三□吾嬬者邪故称山東諸国曰吾嬬国古老伝云東方之名起此時蓋以吾嬬東訓相通也其真偽雖不可知伝而至今有不□然者矣村中有社祀熊野神社記敢逸無所考伝云嶬峩朝自碓日嶺従祀□至足利幕府之時陸奥守上杉憲英為上野守護管領奥州軍務居固庁鼻憲英曾孫右馬助房憲康正年中築城于深谷移焉其孫次郎憲賢其子左兵衛佐憲威皆居深谷当是時称上杉家臣岡谷秋元井草氏曰深谷三宿老東方乃係上舗免城主岡谷加賀守清英所領其同寮上野基城主秋元但馬守景朝祈戦捷於此社軍果有功回再興社殿社傍樹木蔚然成林皆歴数百年矣天正十八年関白秀吉攻小田原憲□子三郎氏憲援北条氏保小田原城降氏憲失地徳川家康徒封関東八国開府於江戸也封松平丹波守康長子此地住東方城慶長七年従封古河夜城廃領賜其地于麾下応永以後□雖換其主非時興威衰神社依然称曰鎮守征清之役郷人応徴者臨発皆□祈其冥護凱旋之後有志者與邑人相謀醵金一千五百余円以銅瓦換茅葺侑華表壊造石旗粋修理社殿奉賽戦捷拝祈五穀豊穣邑土平穏於是神徳□□照光□此地今属埼玉県管下□□□□郡今改大里郡余者清英十二世之孫也□□人来述古老伝略誌熊野社来由云
明治二十九年十二月
従六位岡谷繁実撰文 森東古幹 書

石碑より引用


 由緒書きには、「延長五年に(中略)上野國碓氷郡の熊野本宮より奉遷し(後略)」とある。つまり現在の群馬県と長野県の境にある「熊野神社」からの勧請と考えるのが妥当な話だ。すると不思議な疑問が出てくる。この社は「武蔵國 幡羅郡 延喜式内社 白髭神社」の比定社らしいが、この白髭神社との繋がりはどう考えればいいのだろうか。本当に白髭神社と比定されるのだろうか?


熊野大神社内の境内社


                            

                          雷電社と神明神社    諏訪神社と八坂神社  浅間神社と手長男神社     伊奈利神社     大杉神社とまた八坂神社

                                   

                                    太宰府神社         阿夫利神社          八幡神社        鬼林稲荷神社 


 熊野大神社が鎮座する東方地区の地名「東方」の語源は、十二代景行天皇の御代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征のときに当地を通り、里人に「東の方は何れに当れるや」とたづねたという。醍醐天皇の御代に至り、この地に枇杷の木を棟木として小社を建てて、日本武尊の故事により東方村と名づけられたという。この東方地区から西の原郷東部にかけて、木之本古墳群等の古墳が多くあり、東方地内からも以前は石器や土器がよく発掘された。祝瓶、鉄刀、家屋形の埴輪など、神社に奉納されたものも多い。東方東部からは幡羅遺跡が発掘されている。また鎌倉〜南北朝時代の板碑多数が林中から発見されている。

幡羅遺跡
 幡羅遺跡は、西別府遺跡西側に位置する深谷市の遺跡で、深谷市教育委員会により、平成13年度より34次にわたる発掘調査が行われている。調査の結果、東西500m、南北400m程の範囲に広がる、7世紀後半から11世紀前半まで機能していた、古代幡羅家(郡役所)跡であることが確認されている。
 遺跡の中央には、路面幅8m程の道路が北東−南西方向に走り、その北西に正倉院、南東に実務的な官衙施設が確認されている。

 正倉と推定される建物跡は、7世紀末頃に掘立柱建の建物として造営が行われ、8世紀末頃に礎石建の建物へと建て替えが行われ、10世紀中頃には廃絶したと考えられている。この建物はほとんどが高床式倉庫跡で、屋(おく)と呼ばれる収納施設も確認されている。
 実務的官衙施設には、幾つもの建物群が存在していて、館(たち)や厨家(くりや)、その他各種の行政実務を行う曹司であったと推定される。館と考えられる建物は四面に庇を持つ建物で、掘立柱塀で囲まれています。その北側には、廃棄土坑が掘られており、多量の土器や焼土、炭化物の他、シカ・イノシシ・カモ・タイ・カツオ・サバ・フナ・アユ等の骨、ハマグリ・アカニシ等の貝殻が出土している。
 道路は、路面幅6〜8mで両側に側溝を持つ大規模なもので、7世紀末には造られていたものと考えられ、北東に向かう先には、西別府祭祀遺跡が位置し、台地崖線下には湧水点があり、水路の存在も想定されている。
 実務官衙域の東には西別府廃寺跡があり、寺院は郡家が整備されるのとほぼ同じ時期に造営されている。郡家近くに寺院が造営される例は各地で見られるが、公的な寺院ではなく、郡領層の氏寺的な性格を持っていたと考えられる。 9世紀後半になると、建物ブロックが複数あった実務官衙域には、二重溝と土塁による区画施設が造られ、郡家の構造が大きく変化する。この区画施設は、正倉廃絶後の11世紀前半まで存続していたと推定される。



 この東方地域の伝説として、鎮守の神はその昔、黍の斬り柄に眼を突かれたので、氏子は黍を植えなかったという。この伝説は俗にいう「片目伝説」の類であろう。
片目片足・巨人伝説(ダイダラボッチ)は産鉄民が持ち歩いたものであり、古代鍛冶職人伝承に関わる「一つ目小僧」「片目の魚」「片葉の葦」「鎌倉権五郎」「鬼(ダイダラボッチ)」「おかめひょっとこ」の伝承の一例がこの東方地区にも存在していたということには重要な意味を持つ。

 この「片足伝承=片輪の足=片葉の葦」伝承は三日三晩製鉄の火を起こすために足でフイゴを踏み風を送る作業のため、足が萎えて足腰を悪くする事が多いと言う。またタタラは送風を必要とするために、いつも強風がある場所に造ることになり、生えている葦も強風のため片葉になると言う伝承が形を変えて後世に語られたものであると思われる。


 埼玉県には「片目、片目の魚、片側の植物等」の伝承が多く存在する。(詳しくは片目伝説と古代鍛冶集団を参照) その後熊谷市妻沼にある聖天院にもこの片目伝説と思われる伝承も存在していて、「太田の呑龍様と喧嘩をした際に、聖天様は松葉で目をつつかれた。また聖天様は松の葉で目をつつかれたとか、松葉の燻しにあったという理由でとても毛嫌いしていて、その関係でか妻沼十二郷の人たちは松を忌んでいるという。」この伝承の言わんとするところは、この妻沼地方にも利根川の砂鉄を利用したタタラ製鉄を行っていたのではないかと考えられる。

 妻沼聖天と熊野大神社とが「片目伝説」で共通しているといって、同じ一族であったかどうかの選別はそれだけでは難しい。熊野大神社の「鎮守の神」が現在の社の御祭神と同じであるかどうかは不明であるが、考えてみると不審極まりない説話の類のもので、現在の御祭神が「鎮守の神」と同一ならば前出の伝説の意味が全く理解できないものとなってしまう。少なくとも筆者にはそのように感じる。それよりもこの伝説は、熊野神が勧請される以前の遠い昔の有力豪族の一人が金属精錬の一族で、それが後世形を変えて伝承されたものではなかったのだろうか。

 7世紀に律令制が確立されるとそれに伴って行政区画の整備も行われ、「五畿七道」が設立された際に造られたという東山道武蔵路という古代官道が幡羅郡を2分割するかのように南北に走っている。妻沼聖天はほぼその官道沿いに鎮座しているが、南には奈良地区、そして南西側で東山道武蔵路の近隣には玉井、別府、そして幡羅遺跡のある東方地区がある。この奈良、玉井、別府地区はどれも「鉄」に関係する地名である。(その他にも、増田、永井、太田、八木田、田島等)

 妻沼聖天から東山道武蔵路を通して、奈良之神社、玉井大神社、東別府神社、湯殿神社、そして熊野大神社と、共に古代金属精錬一族という共通項目でここに成立する。偶然といえばそれまでだが、それでも不思議なラインだ。
 
  
 





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 幡羅郡の範囲は、江戸時代の新編武蔵風土記稿によれば、今の深谷市東部(旧幡羅村、明戸村)、熊谷市北西部(旧別府村、三尻村、玉井村、奈良村、大幡村の一部)、妻沼町全域とされる。しかし西の榛沢郡との境界にかんしては、深谷市大字国済寺の国済寺の梵鐘(康応二年、1390年)に刻まれた「幡羅郡深谷庄」の文字から、時代によっては旧深谷町も幡羅郡に含まれていたようだ。

 滝宮神社の鎮座する西島地区は櫛引台地と妻沼低地の境目に位置し、その豊富な湧水から唐沢川の谷に流れ落つるが如く瀧に因んで、 いつしか「瀧の宮」と称して神社を祀ったという。



                                滝宮神社
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                                                                深谷の郷に鎮守する緑豊かな 霊泉の杜

                                                


                                             所在地    埼玉県深谷市西島5ー6−1

                                             主祭神    天照大神
                                                      豊受大御神
                                                      彦火火出見尊


                                             社  格    不明

                                             例  祭    11月3日 例大祭   12月5日 新嘗祭



 深谷駅のすぐ南側に鎮座する瀧宮神社。境内は駅南口の立地にありながら広く静寂な空間が広がる。駐車場も数台止めることができるスペースが道を隔てた向かい側にある。


                                  

                                     唐沢川をはさんで南側に鎮座する。    春の唐沢堤は桜で満開になる。深谷市では有名だ。
                                        実は北向き社殿でもある。

 由  緒    
 古くは滝宮大明神といわれ、御祭神は天照大神、豊受媛命、彦火々出見命です。康正二年(1456)、上杉房憲が深谷城を築いてより代々この神社を崇敬し、江戸期になっても代々の城主が尊信しました。 西土手にあった八幡神社、豊受神社、侍町にあった天神社も合祀されています。
御嶽神社
 旧城内越中曲輪になった御嶽神社を近郷近在の信者の協力によって奉遷されています。
八坂神社
 旧城内の三社天王を天和元年(1681)宿民の総意で市神様として中山道上に奉祀されていましたが、時勢の変遷により御遷宮。昭和二十七年小学校庭より現在地に奉安。旧来の通り毎年七月二十七日深谷のぎおんと称され盛大な神輿の渡御が行なわれています.      
                                                                                                        案内板より掲載


                                                  

                                                          拝殿に続く参道   

                                    

                                          鳥居より拝殿を臨む                     拝   殿


 創立年代は不詳。北武蔵を支配していた庁鼻和上杉氏が古河公方の度々の攻撃に本拠を移転させ康正2年(1456)に4代目の上杉房憲が深谷城を築城して以来、城の裏鬼門の守護神として深谷上杉氏が代々信仰されたという。
 境内には瀧宮神社のほかに深谷城内に鎮座していた御獄神社・深谷祭りで有名な八坂神社などが両側に祀られている。



                    

                         拝殿の左側にある演舞台                    御嶽神社                         八坂神社
           

 今から五百有余年前の康正二年上杉房憲氏が深谷城を築造するにあたり、重臣秋元越中守の進言により城地鎮護の守護神として天地開闢の尊神、国常立尊を奉斎して城内に御嶽社を祀る。その尊厳神域はいつか城跡と共に、人々の念頭から去り荒廃その極みに達し年度の祭祀をすることさえ能わず、明治三十八年勅命により之を瀧宮神社の末社に遷座する。昭和九年深谷小学校新築敷地になり現在小学校東端の塚はこの所である。昭和二十六年GHQの神道指令により「ツゲ」の古木に神秘を留めた御嶽神社を百日潔斎の修法の下に、瀧宮神域に本殿拝殿を建設し奉斎遷座して五十一年。以来信奉者は日に日に増し霊験次々と顕れ普く御神徳を浴するものが多くありました。しかし平成十四年一月二十六日、心無い何者かによる不祥事で神社を焼失してしまいました。火災の折には、瀧宮神社、近隣の皆様をはじめ信奉者各位に多大のご迷惑をおかけしましたが、温かくその後の再建に物心両面でご協力を頂きましたことが再建の励みとなりました。以来信奉者の方々から早く再建をとの声が高まり、御嶽神社再興の主旨をご理解いただき多くの方々に過分なる御浄財の奉納を賜りました。お蔭様で茲に立派な本殿、拝殿を完成することが出来ましたので皆様の御篤心に感謝申し上げ記念碑を建立致します。
 平成十七年五月吉日
                                                                                               御嶽神社完成記念碑より引用

 
 

  
                       

 
 
                   大山阿夫利大神     八意思兼命ほか       富士浅間大神   稲荷神ほか多数の祠が並ぶ    豊受神社     左八幡神社、同右天神社 




 滝宮神社が鎮座する深谷市西島は利根川が運んだ土砂等でできた肥沃な低地(妻沼低地)と、荒川が運んだ土砂等でできた乾燥した台地(櫛引台地)との境界に位置していて、低地と台地の境界付近にJR高崎線が東西に走っている。滝宮神社はJR高崎駅のすぐ南にあり、この櫛引台地の北端部に位置していて古来から湧水が豊富な地として「霊泉の社」、そして「瀧の宮」と言われるようになったという。


                                                

                                           
 
 この櫛引台地は、構造的には武蔵野面に比定される櫛引面(櫛引段丘)と、南東側の立川面に比定される寄居面(御稜威ヶ原(みいずがはら)段丘)とで段丘状に形成されている。

 櫛引面は、JR高崎線沿いの崖線で比高差5〜10mをもって妻沼低地と接しているが、寄居面は高崎線より北へ1.5〜1.8mほど延びていて、比高差2〜5mをもって妻沼低地と接している。接線付近での標高は櫛引面が40〜50m、寄居面が32〜36m、妻沼低地が30〜31mである。
櫛引面は標高70m付近より発する上唐沢川、押切川、戸田川、唐沢川あんどが北に向かって流れしていて、櫛引面北端部は南北に台地を開析する浅い谷が発達したものと考えられる。


                                            
 その一方滝宮神社は櫛引台地と妻沼低地との境界線、つまり言い方を変えると「活断層」の境界線上に鎮座しているとも言える。事実この一帯は有名な「深谷断層」、正式名称では「関東平野北西縁断層帯」が存在し、その断層帯の一つがこの深谷断層であるとのことだ。深谷市による地震ハザードマップには「関東平野北西縁断層帯主部」において、全体が1つの区間として活動する場合、マグニチュード8.0程度の地震が発生する可能性があり、また、その際には南西側が北東側に対して相対的に5〜6m程度高まる段差や撓みが生じる可能性も指摘されている。

 またこれも関東平野北西縁断層帯のうちの一つの断層帯である平井−櫛挽断層帯では、全体が1つの区間として活動する場合、マグニチュード7.1程度の地震が発生する可能性があり、またその際には2m程度の左横ずれを生じ、北東側が南西側に対して相対的に高まる段差や撓みを伴う可能性があるとのこと。

 本断層帯の最新活動後の経過率及び将来このような地震が発生する長期確率は不明という。日本は温泉や湧水など自然の恩恵を受ける利点だけでなく、火山大国であり、地震大国であるマイナスファクターもこの社を散策するによって学ぶことができる。なんとも複雑な気持ちだ。




                                                                            

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