行田市は埼玉県北西部に位置する人口8万7000人の都市である。この地域は古代「忍庄」と言われ、行田、谷郷、長野、上中条、小曽根、下川上地域が属していた。戦国時代,行田周辺の武蔵武士の中から、現在の熊谷市上之を本拠地とする成田氏が台頭し、忍城(おしじょう)を築城した。文明11年(1479)の古河公方足利成氏の書状に「忍城」、「成田」とでてくることから、このころには築城されていたと考えられる。当時の城主は成田顕泰といい、以後親泰、長泰、氏長と四代にわたり、天正18年(1590)まで、約百年のあいだ成田氏が忍城主であった。

 永正6年(1509)、忍城を訪れた連歌師の宗長は、城の四方は沼にかこまれていて、霜で枯れた葦が幾重にもかさなり、水鳥が多く見え、まことに水郷である、と日記に書いている。

 忍城の築かれた場所は、北は利根川、南は荒川にはさまれた扇状地で、小さな川が乱流するとともに、伏流水が寄り集まって広大な沼地となっていて、そこに残る島や自然堤防をたくみに利用して、忍城が築かれた。別名「浮き城」としてその名を轟かせ、関東七名城に謳われた戦国の世を生き抜いた名城で、行田市各地域に点在する神社も忍城防衛の一拠点として築かれたと考えられる。


 目次
   行田八幡神社 行田総鎮守 / 忍諏訪東照宮 / 佐間天満社
   長野久伊豆神社
 / 谷郷春日神社 / 常世岐姫神社 / 荒木天満天神社



                             行田八幡神社
                                     地図リンク
                                                                      行田総鎮守  西向き八幡

                                                


                                           所在地   埼玉県行田市行田16-23

                                           主祭神   誉田別尊 気長足姫尊 比亮大神 
                                                  大物主神 神素羞鳴尊

                                           社  格   行田総鎮守

                                           通  称   西向き八幡  封じの宮   

                                           例  祭   例祭 9月15日、祈年祭 3月15日

                                                   行田八坂祭7月下旬土・日
愛宕神社祭10月23日等


 
 熊谷市から国道125号線で行田市方向に向い、「行田郵便局入口」の信号を右折し、同左郵便局を通りすぎると左側に当神社がある。駐車場は、参集殿の前の道路沿いにある。よく整備されていて便利である。
行田の市街地の中心部にある神社。かっては忍城のあったところで江戸の北部を守る大事な要衝だった。八幡神社は武門の守り神であり、藩主や藩士の信仰も厚かったという。その面影を残す立派な社殿だ。


                                  

                                        拝殿(左側)と参集殿(同右)             行田八幡神社の案内板
                                     非常に綺麗で整備が行き届いている

 行田八幡神社御由緒

 当神杜は、源頼義・義家が、奥州討伐のためこの地に滞陣した折、戦勝を祈願して勧請されたと伝えられています。
 当初、佐間村田中に鎮座、俗に田中(でんちゅう)八幡と称せられましたが、天文年中に、現在の地に移されました。この時、忍城主成田下総守長泰公は深く当杜を崇敬して社殿を修補し城下総鎮守といたしました。是れより、「城主八幡」また社殿の向きから.「西向き八幡」の名があります。
 応神天皇、神功皇后を主祭神とし、比売神、大物主神素羞鳴尊を配祀神として御祀りしています。
 現在の社殿は、皇紀二千六百五十年を記念して造営が進められ、平成元年十一月の竣功であります。次いで平成十二年には参集殿が竣功いたしました。(中略)

                                                                                                        案内板より引用


                                                

                                                        拝殿 珍しい西向きの配置 
                                                   西の方角に忍城があるためと言われている


 境内は決して広くないが、境内社は数多く鎮座している。


                              

                         瘡守稲荷社と目の神社       三峯社           愛宕神社     大国主神社・恵比寿神社   八坂社(写真右側、
                                                                                    絵馬が一杯ついている社)














                                                
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                              忍諏訪東照宮
                                      地図リンク
                                                                      
忍城北側に鎮座する合祀社

                                      


                                  所在地   埼玉県行田市本丸12-5

                                            主祭神   東照宮   徳川家康命、松平忠明命  八幡大神
                                                    諏訪神社 健御名方命、八坂刀売命

                                            社  格   旧村社  

                                            例  祭   東照宮   5月17日
                                                    諏訪神社 9月27日


 
 当社の鎮座は後鳥羽天皇の建久年間(1190)に忍三郎ら忍一族が創建したという。成田親泰が忍城を構築した際に当社を城鎮守とした。
 文政6年(1823)に松平忠堯が伊勢桑名から移封するにあたり東照宮と桑名鎮守の多度・一目連社を勧進。これらは明治6年に当社境内に移されるとともに、その他の社を配祀した。
 社殿は昭和36年の造営。村社。
 照宮祭神: 徳川家康命・松平忠明命・八幡大神
 忍東照宮は家康の娘、亀姫が父の肖像を頂き、それを子の松平忠明に伝え、忠明が大和国郡山城で社殿を造営したことに始まっており、のちに当社に合祀された。


                        

                           忍諏訪神社 東照宮の案内板
     案内板の左隣にあった忍城鳥瞰図

                                
 

                                 鳥居と拝殿          諏訪神社拝殿。こちらは独立した神社
                        徳川家康を祀る「東照宮」も合祀されていて、鳥居も
                                         二社連名になっている。



 境内には多度社・一目蓮社他多数の境内社が鎮座する。

                                  
         

                           多度社・一目蓮社        多度社・一目蓮社の案内板   諏訪神社に隣接した二の丸稲荷社

境内社多度社・一目蓮社

多度社・一目蓮社
御祭神 天津彦根神、天目一固神
現在の場所より西北に200m程の所に文政6年(1823年)、松平忠堯は、伊勢国多度山より城内に勧請。当時の境内は300坪程あり、例祭(5月5日)には神楽殿で「能」が演じられたという。
忍藩は忍宝正の名があり、宝正流の能が盛んだった。
明治6年、現在地に遷座。
折雨や海上の風難、水火の災いに霊験あるとされる。                                                        (境内掲示より)

                   

 利根川と荒川の流れによって形成された沼湿地の中にある台地上に、忍氏は館を築いていたが、成田下総守親春がこれを攻略し、この辺一帯を統一した。成田氏は延徳年間に忍城を構築し、この時、持田村の鎮守諏訪社を城鎮守として移したのが当社であると伝えている。
 そのため持田村は新たに鎮守を勧請したという。現在の持田字竹ノ花の諏訪社がこれである。その後、成田氏代々の崇敬があり、城は、天正18年石田三成の 水攻めにも耐えたが、やがて開城し徳川家康入国後は江戸北方の防衛拠点として親藩や譜代の大名が入った。寛永16年城主となった阿部忠秋は城郭を修築し、 併せて正保2年当社の本殿を再営、寛文一二年拝殿を新たに建立した。
 文政年中松平忠義は伊勢桑名から移封するに当たり、城内字下荒井の地へ東照宮を、更に城内へ多度社と一目連社を勧請した。これらは明治6年城郭取り壊しの 際、当社境内に移される。また、城内各所にあった小祠、科斗社・八幡社・久伊豆社・荒神社・春道稲荷大明神・神明社・二ノ丸稲荷大神・天神社・両棟稲荷大 明神の九社も同時に当社へ合祀された。                                                                                                  (埼玉県神社庁「埼玉の神社」より)



 雨の日だったし、忍諏訪神社 東照宮は午後4時で門が閉まっており参拝できなかった。そこそこに帰ろうとして、神社前の駐車場に戻ったところ、片隅に石碑が立っていた。そこには「諏訪曲輪御門跡」と掘られていた石碑があった。ここも忍城の一部であったことを物語っていた。


                                                


                                          諏訪曲輪御門跡

 




                                                もどる                   toppage





                             佐間天神社
                                  地図リンク
                                                                  正木丹波守が守る「佐間口」に鎮座する社

                                                


                                            所在地   埼玉県行田市佐間1-10-6

                                            主祭神   菅原道真公

                                            社  格   旧佐間村鎮守 行田八幡神社の兼務社

        
                                            *兼務社  神職が本務の神社以外の神社を
                                                            兼務する場合その社を「兼務社」という。
  

                                            例  祭   例大祭9月25日   八坂祭7月中旬の土・日



佐間天満社は、秩父鉄道行田駅から南に徒歩15分、水上公園東側に鎮座する。


境内案内板による佐間天神社の由緒

 佐間天神社の創建は忍城主の成田氏が忍城築城の折、谷郷、春日社、西を城の没沢の取入口とし、天神坊を出口としたと伝えられている。その天神坊を慈眼山安養院の守護神として天神社を勧請した。今から500年前のことである。享保5年12月(1720)京都の唯一神道、吉田殿より「正一位天満天神」の神格を与えられた。その後、文化10年8月25日(1800)本殿が再建された。本殿に安置される天神座像は春日の作と伝えられている。又、境内の欅の樹齢は行田市教育委員会の推定によると400年とされている。
 佐間天神社には学問の神様、菅原道真公が祭神として祀られている。以前は慈眼山安養院が神護神であったが、その様子は今でも白山社、伊奈利社、厳島、明 神・・・等の合祀社が多く両部神道の名残を留めている。神門は安政3年(1850)の大火で類焼したがここで火が止まった為、火防の門と呼ばれた。
 明治22年、佐間村、成田町、行田町が合併し忍町となり、妙音寺にあった温知学校を廃止し、天神社社務所に佐間学校が開校した。正式には忍学校第三教場と言われた。大正4年3月、行田尋常小学校第三校舎(現在の新町会館)が新築されるまでここに存在したのである。

天神社の行事
・大祓式(6月30日、12月31日)
・八坂祭(7月中旬の土、日)
・例大祭(9月25日)
・新嘗祭(11月23日)
・勧学祭(12月初旬)
・元旦祭(1月1日)
・初天神祭(2月25日)
・初午祭(3月第1午の日)
特に八坂祭、元旦祭は大いににぎわいを見せている。この様に、古い歴史を持つ天神社は佐間地区の鎮守として広く人々から信仰されている。(境内掲示より引用)



                                   

                                   水城公園の東南角に佐間天神社が建つ。                神楽殿
                             1491年の忍城築城の際、出口の守護神として勧請されたもの。
                                            写真は神門。
                         1850年の市内大火の時、ここで火が止まったので「火防の門」と呼ばれる。



                                                

                                                             拝   殿

                             1720年に京都神道吉田家より正一位の神格を与えられた格式高い神社。写真の拝殿は1800年の再建。
                               境内には神楽殿、社務所のほか、伊奈利神社、白山、厳島、明神社などの末社が鎮座している。



                                                  

                                                       名称 佐間天神社のケヤキ
                                           
                                               樹高 30m、目通り幹囲 5,0m、推定樹齢 400年以上
                                                 行田市指定天然記念物(1964年1月31日指定)

                                                

 
欅群(けやきぐん)             行田市指定文化財(昭和39年1月31日指定)

 
天神社は、享保5年(1720)12月京都の吉田家より神位を与えられ、正一位天満天神と称するようになった、との記録がある行田市佐間地区の鎮守です。
祭神は学問の神様として信仰されている菅原道真です。その天神社境内に9本の巨木が群生するこの欅群は、いずれも樹齢400年以上と推定される古木群です。樹高は高いもので30m、目通り幹周は最大のもので5.0mを計ります。落雷のため幹に空洞があるものがありますが、樹勢は旺盛で、枝張りもよく繁茂していて、神域の風致を保っています。また、秋には美しい紅葉が見られます。
 平成23年 行田市教育委員会
                                                                                                        案内板より引用









                                                もどる                 toppage   






                            長野久伊豆神社
                                    地図リンク
                                                                   忍城 鬼門に鎮座する守護神

                                                


                                              所在地   埼玉県行田市桜町2-20-35

                                               主祭神   大己貴命、事代主命

                                               社  格   旧村社 行田市桜町鎮座 
       
                                               例  祭   秋祭り9月18・19日


 
 久
伊豆神社は東行田駅の北約100m、埼玉県道7号佐野行田線に面して鎮座している。
 創立は文明年中(1469−1487)とされているが、一説に応永年中(1394−1428)に成田家時が武運長久を祈ったのに始まるともいう。成田顕泰が忍城鬼門の守護神として当社を祀った。隣接する長久寺が別当。村社。境内には赤飯稲荷社が摂社として合祀されている。


                                   

                                             拝    殿                        本    殿

 

長野久伊豆神社

 久伊豆神社の祭神は、素盞嗚尊の子大己貴命である。
 創立は文明年中(1469-1487)で、成田下総守顯泰が忍城築城に際し、城の鬼門の守護神として当神社を祀り、隣接する長久寺を別当とした。これに合わせ、城の裏鬼門の守護神として城の南西大宮口に、やはり久伊豆神社をおいている。
 境内には15m四方の枝張りを有する藤があり、市指定天然記念物となっている。
 この藤は、境内にある赤飯稲荷を合祀する際に、市内若小玉にある「紫藤庵の野田藤」を根分けして植えたものである。野田藤は、日本原産の藤であるが、花房が1.5mもあるのは珍しい。
 なお、本社には市指定書籍の勝海舟書「大幟」原本も保存されている。                                      
                                                                                                 境内案内板より引用


 行田久伊豆神社、拝殿の隣には、摂社として赤飯伊奈利大社が鎮座 している。この社の規模が、摂社というにはもったいないような社殿の造り、また奉納燈籠などの数の多さなどから、よほど古来から霊験あらたかで崇敬を地元で集めているのだろう…と想像できる。神社の歴史でも摂社が偉くなるとこのようになるのかと感じた。
                             

                                    
              
                                      摂社・赤飯赤飯伊奈利大社 拝殿              勝海舟閣下書記念


 この勝海舟書大幟原本は行田市指定文化財に認定されている。この大幟は、長さ10m、幅1.2mで、実物大に大書されている。箱書によると、明治17年11月に氏子総代が中心となって、勝海舟に依頼し、書かれたとのことだ。



 久伊豆社のあとはさらに2キロほど東に進むと富士見工業団地があり、そこには周りの工場とはあまりにもミスマッチな風景が存在している。古墳群だ。その中に考古学世界では「関東の石舞台」と呼称されている不思議な古墳があり、名前は「八幡山古墳」という。この古墳と久伊豆神社は微妙に距離が近く、何か関連性があるのではないかと漠然と感じてしまった今日この頃である。

   
                                                                                                  




                                        

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                           谷郷春日神社
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                                                                         正木丹波守が邸宅を構えていた地
                                 忍城の守りの要


                                               


                                            所在地   埼玉県行田市谷郷395

                                             主祭神   武甕槌命、齋主命、天児屋根命、比売神。 
                                                   (相殿) 菅原道真

                                            社  格  旧谷之郷村鎮守、旧村社  

                                            例  祭   8月19日



 谷郷春日神社は、忍城主成田下総守親泰(天文14年、1545年没)が忍城を攻め落として忍領主となった際、成田氏の祖藤原氏の氏神大和春日大社を勧請、創建したと伝えられる。当地は忍城の守りの要であったといい、成田氏の重臣正木丹波守が邸宅を構えていたという。ちなみに「谷郷」は「たにごう」ではなく「やごう」と読む。「熊谷、深谷」をそれぞれ「くまがや、ふかや」と読むようにこの「谷」は東日本では「や」と読み、関西等西日本では「たに」と読み方が違うそうだ。
 谷郷春日神社は、江戸時代には谷之郷村鎮守になっていた他、明治5年に旧村社に列格、明治41年には堀の内町の愛宕社、上谷町の神明社、飯倉町の白山社、新田町の天神社を合祀している。


                                    

                                           谷郷春日神社遠景                  鳥居の前にある神橋

                                                

 

埼玉県神社庁「埼玉の神社」による谷郷春日神社の由緒

 当社は忍城主成田下総守親泰が、氏神として大和の春日神社から勧請したもので、成田氏は遠く藤原氏の流れをくむ家柄と伝える。親泰は成田氏15代目で、児玉重行が居斌する忍妹を文明年間に攻め、児玉氏を追い本拠を成田館から忍城に移している。そのため、当社の創建もこのころかと思われる。社の裏の森陰には大樋が設けられ、これを閉めると忍城の堀と沼の水源が断たれ、佐間の天神社の沼尻の樋を開放すれば水は放出されやはり城の回りの水は干上がる。このため、この地には成田氏の重臣正木丹波守が邸宅を構えて、城を守護していたのである。このように春日神社は、成田氏の氏神ばかりでなく忍城の守りの要であった。

 祭神は武甕槌命・斎主命・天児屋根命・比売神の四柱である。本殿は一間社流造りで、内陣中央には宮型の厨子があり、向かって右側に木造の神像(表面磨滅のため碑名等不明)、左側に正徳元年10月吉祥日の柴燈護摩供社中安全札がある。これには法王山定院とある。山道院は本山派修験で春日山勝軍寺と号し、神仏分離まで当社の別当を務めていた。

 春日の神の神使は鹿で、成田氏が藤原の家筋であることから、当社勧請以来毎年二頭ずつ神鹿が春日から送られてきて、村人は神の使いとして大切に鹿を育てた。この鹿については次のような話が伝わる。ある時、いつものように畔を通り春日様の鹿がやって来た。この時、近くで田を耕していた青木某が鹿を捕らえてやろうと悪戯心を起こして手に持っていた鋤を、走る鹿にめがけて投げつけた。鹿は血を流しながら、神社の杜に逃げ込んだ。翌朝、鹿が杜の中で死んでいるのを発見した村人は、手厚くこれを葬り墓石を立てた。その後、青木家に夜盗が押し入り、乱暴な青木はこれに立ち向かったところ、賊は恐れをなして逃げ出し、青木は刀を抜いて後を追いかけた。この時、小溝を飛んだ拍子にどうしたわけか転び、はずみで持っていた刀で脇腹を刺し落命した。不思議にも鹿の傷ついた所と同じ場所なので、村人は鹿を殺した神罰だと語り合い、奈良からの鹿も来なくなった。現在社殿右手にある鹿社の祠には「御使鹿」とあり、宝暦12年4月と刻まれている。

 拝殿の奉納額を見ると、天明6年の柳川儀助奉納の大絵馬「酒造りの図」があり、また、伊勢参宮もよく行われたらしく、嘉永3年と安政4年の「伊勢参宮の図」の大絵馬がある。

 明治に入り、当社は山定院より離れ神職が奉仕するようになり、明治5年には村社となった。合祀は明治41年に実施され、堀の内町の愛宕社、上谷町の神明社、飯倉町の白山社、新田町の天神社を境内に合祀した。                                                           埼玉県神社庁「埼玉の神社」より引用

                                                 
                                                

                                                        谷郷春日神社の御使鹿
 
                          地方にある春日神社の中でも格式が高く、明治前まで『御使鹿』が、奈良の春日神社から贈られ、放牧されていた。


                                
 

                                             神楽殿 脇障子には、雄雌一対の鹿が彫刻されていた。


                                                

                                                            拝    殿

                                                


                                    綺麗に修復された谷郷春日神社 境内社 八幡社、天神社、白山社、神明社、愛宕社等









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  常世岐姫神社                      常世岐姫の実名はいかに

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                                              所在地   埼玉県行田市荒木5230

                                               主祭神   常世岐姫命

                                               社  格  旧村社

                                               例  祭  不明


       

 常世岐姫神社は埼玉県道128号線行田羽生線を熊谷から進み、上之村神社、古宮神社を左手に見ながら更に道沿いに数キロ直進すると、左側に社標が見える。そこを左折すると、正面に鳥居が見え、その先に常世岐姫神社が鎮座している。一の鳥居を車で潜るのは失礼と思い、その脇に車を止め参拝した。


                                    

                                  県道128号線左側にある常世岐姫神社の社号標     社号標の先に一の鳥居が見えてるくる


                                                

                                                           参道正面に社殿

 常世岐姫神社

 社伝によれば、当社は古来八王子権現宮と称し、広く崇敬を受けていたと伝える。江戸期は、真言宗東福寺が別当を務めていたが、神仏分離によりこれを離れた。
 八王子権現は、山王七社権現の祭神の一つ国狭槌尊を祀る。また、八王子は天照大神と素盞嗚尊との誓約の時に出現した五男三女の神、天之忍穂耳命、天之穂日命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命・多紀毘売命(沖津島比売命)・市寸島比売命(狭依毘売命)・多岐津比売命である。なぜ八王子権現宮に常世岐姫神社の名を付けたのかは不明である。姫とつくことから後者の三柱の女神(宗像大神)を祀ったのではないかとも考えられる。現在の祭神は、常世岐姫命である。
 また、大字渡柳にも同名の社があり、当社から分霊したものと伝えている。
 社記によると、寛永一〇年と元禄一三年の棟札があると記されているが、現在、元禄の棟札のみが残されている。
 明治六年に村社となったが、当社では合祀は行われなかった。
 境内には末社として天神・伊奈荷合殿社と目神社を祀る。末社の祭りとしては、天神社が三月二五日、伊奈荷社が二月二二日となっていたが、これを行わなくなって久しい。
                                                                                            埼玉県神社庁「埼玉の神社より引用


      
                                       

                                   

                                          常世岐姫神社 拝殿            本殿 このアングルから見ると非常に立派
                                    ゆるやかな交配のある丘の上に鎮座する。



常世岐姫神社の祭神である常世岐姫とはどのような人物だったのだろうか。

 大阪府八尾市神宮寺に常世岐姫神社が存在する。どうやらこの社が本宮で、残りの分社が埼玉県北部に数社確認されている。この荒木常世岐姫神社はその分社の一つだそうだが、なぜ埼玉県北部しか分社がないかは不明だ。
 本宮のある八尾市神宮寺は古代に赤染部という染色技術者集団がおり、ルーツをたどれば6〜7世紀に南鮮から渡来した人たちだった。『続日本紀』光仁天皇 宝亀八年(777)四月条によれば、彼らの子孫だった河内国大県郡の赤染人足ら13人が、
「常世連」姓に賜ったという。当社はこの常世連が氏神を祀った神社とされ、河内国大県郡にある同名の式内社に比定されている。

 この常世岐姫という祭神は、女神であったということ以外、ほとんどのことが分からない。従って当社における箒と結びついた安産信仰もこの祭神の性質と結びついたものかどうか不明である。

 また常世岐姫神社の正式名称は明治時代以降のものであり、それまでは「八王子神社(はちおうじじんじゃ)」と称していた。現在も正式名称よりも旧名称のほうが知られており、地図や看板・社頭の石標・八尾市教育委員会の説明標にも八王子神社と記されている。


 なお赤染氏は、豊前国の式内社・香春神社の神職でもあったという。香春神社は新羅系渡来氏族(秦氏に連なるともいう)が創建した神社で(豊前国風土記に、「昔、新羅の国の神−香春の神−が自ら海を渡って来た」とある)、その渡来氏族が香春の地から東進して宇佐地方に入り、在地氏族(宇佐氏)と一体化して創建したのが宇佐八幡宮という。
 彼らは土木・養蚕・機織・採鉱冶金といった先進技術をもって各地に展開したといわれ、当地の赤染氏もその一族として染色・赤染
(紅染・茜染)などの特技をもった技術集団であろうといわれ、時代は降るが、鎌倉時代の吾妻鏡(1300頃)には、
 「この地の人々は河内国藍御作手
(アイミツクテ)奉行に任ぜられ、諸国へ藍作・藍染の技術を指導した」
とあるという



 時代は下るが、常世岐姫神社が鎮座する行田市に隣接する羽生市は江戸時代から藍染生産が盛んで、武州正藍染は地元では有名である。


   

 ●天然発酵〜武州正藍染〜

     羽生や加須、行田、騎西など北埼玉で藍が栽培されるようになったのは、江戸時代後半の天明期の頃とされています。
     もともと農家の主婦が農閑期を利用して、家族の衣服をつくったのが始まりといわれ、明治40年代の最盛期には武州(羽生、加須、行田、騎西)の一大産業となりました。
     藍染めの職人を紺屋(こうや)職人と呼び、当時200件以上の紺屋があったほどです。
      武州の正藍染めは、藍の葉から自然発酵建てでとった染料により染めるのが特徴です。手染めなので微妙な風合いがあり、さめるほどに美しい色合いになっていきます。
     手法としては糸の段階で染める糸染めと、布にしてから染める型染めの2方法があります。武州では全体の7割が糸染めで、型染めは民芸調などの柄が出せます。



                                                  

                                             境内社 天神 伊奈荷合殿社    境内社 目神社


 埼玉県神社庁の由来書きでは、常世岐姫について「姫とつくことから後者の三柱の女神(宗像大神)を祀ったのではないかとも考えられる。」と説明されているが、正直非常に苦しい解釈をしている。また本宮が大阪府にありながら、分社が全国的ではなく、埼玉県北部に数社しかないのも少々気になるところだ。一体常世岐姫とは何者なのだろうか。もしかしたら常世岐姫は別名で、本名は我々の知っている有名な女神なのではないだろうか。





                                        

 

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   荒木天満天神社

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                                             所在地   埼玉県行田市荒木2091  

                                             主祭神   菅原道真公

                                             社  格   旧荒木村鎮守



 荒木天満天神社は熊谷市から国道125号バイパスを羽生市方面に向かい、途中小見(南)交差点を左折、道なりに真っ直ぐ直進すると5分足らずで鎮座地に到着する。神社の入口はやや狭いので出入りの際には注意が必要だが神社の境内は広く、駐車場の関係を除けば、開放的な空間でもあり、そこそこ立派な神社ではないかと思った。


                                    

                                両部鳥居からみた拝殿。左側が道路。社殿は南向き   拝殿の右側にはこんもりとした丘があり、
                                                                  その頂上部には浅間神社の石碑があった。

                                   

                                             拝    殿                       本    殿

由緒
 荒木天満天神社の創建年代や由緒については不詳だが、新編武蔵風土記稿に記載があり、
旧荒木村鎮守で、東福寺が別当を務めていたという。

                                          

                                         本殿奥にある稲荷社    拝殿横にある塞神      由緒等不明








                                        


                                                もどる                   toppage