埼玉県旧岡部町、現深谷市岡部地区は、深谷市と本庄市に挟まれ、荒川北岸に広がる櫛挽(くしびき)台地上を占める。緑緑豊かな田園が広がる農業地帯で、ブロッコリーやトウモロコシが特産品だ。伝統の地場産業は「お漬物」が有名で、数十年前岡部地区に近い高校に通っていた当時、部活動で周辺をランニングするとお漬物の匂いが辺りから漂っていた事を今でも思い出す。地域のシンボルは、一年を通じて利用客でにぎわう「道の駅おかべ」と、「コスモス街道」で、このコスモス街道は長さは4qにも及び、秋の風物詩にもなっている。
律令時代この一帯は榛沢郡と呼ばれていた郡域で、古くは榛沢郡岡村)は榛沢郡郡衙跡が発見され、旧榛沢郡の中心であったことが判明した地域である。古墳時代から開けていた所で、郡衙周辺には四十塚古墳群、熊野古墳群、白山古墳群が分布している。
また平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて岡部町を代表する武将として猪俣党の岡部六弥太忠澄がおり、町名にもなっている。
ちなみに岡部町に榛沢の地名が残っていて(榛沢、榛沢新田、後榛沢)、『和名抄』は「伴(波牟)佐波」と訓じている。
目次
岡部神社 / 岡部六弥太忠澄の墓 / 岡廼宮神社 / 寅稲荷神社
寅稲荷古墳 / 白髪神社 / お手長山古墳
所在地 埼玉県深谷市岡部705
主祭神 伊弉諾尊 伊弉冉命 (合祀)大山祇命
建御名方命
創 建 弘仁(こうにん)年間(810〜24年)
社 格 不明
例 祭 3月17日
国道17号を岡部駅方向に進み、その手前岡部北交差点のそばに岡部神社の鳥居があり、その鳥居の奥の参道の突き当り左側に岡部神社が鎮座している。この参道は結構長い。残念ながら駐車スペースは無いので、南側の曹洞宗源勝寺の駐車場をお借りして参拝を行った。
ちなみに岡部神社北下の地は、岡部六弥太忠澄が館を構えた地で、「古城」「本屋敷」などの小字名が残っている。ここから南方の当社まで、幅八間の参道があったという。六弥太忠澄が一の谷の戦功の報賽に社前に植えたといわれる杉は、「鉢杉」と呼ばれて周囲一丈八尺余、高百尺以上の老木となった。
江戸時代の宝永2年(1705)、岡部城の城主となった安部摂津守以来、代々の城主の崇敬があった。明治の居城返還に際し、城主より金馬簾・陣太鼓・保良貝などが奉納された。鎮座地の小字「上」は、もとは「城上」といっていたのが省かれたものである。
旧称は「聖天宮」(聖天様)といい、本殿には歓喜天の本像が安置されている。
国道沿いにある両部鳥居形式の一の鳥居 一の鳥居のすぐ後ろに二の鳥居がある 境内入口左側にある案内板
岡部神社 沿革 従来は聖天宮と称されており、本殿には歓喜天の木像が安置されている。明治十二(1879)年、岡部神社と改称し、現在に至る。祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊という。 岡部六弥太忠澄の祈願所とも言われ、寿永年間(1182-1183)、忠澄は一の谷の戦功を感謝し、記念に杉を植栽したと伝えられている。 後に、徳川家康の関東入国とともに、岡部の地を領地とした岡部藩主安部氏は、当社を崇拝し、代々祈願所として、毎年三月十七日の例祭には参拝した。 祈願者は近郷より集まり、縁結び、家内安全、五穀豊穣、夜盗除等を祈願した。昭和二十年代以前の夏祭りには、神輿が出てたいへん賑やかなものであったと言う。 この神輿は、町指定文化財となっており、現在は、神社境内の倉庫(神輿やどり)に保管されている。神輿は、大中小と三種類あり、いずれも四角形、木製無地で、鉄の金具がつき、屋根は銅板ぶきとなっている。このうち最も大きなものは、屋根の中央に鳳凰がつき、屋根下の欄間四方に、鶴、ひばり、昇り龍等の彫刻が繊細に施され、四隅に獅子二頭ずつが彫刻されており、たいへん豪華なつくりとなっている。 平成三年三月 |
岡部神社拝殿
拝殿の右側、北方向にあたる方向に多くの境内社が存在する。
八坂神社 左から諏訪稲荷神社、不明、額部分に「富士」と彫 馬頭観世音菩薩、三申、二十二夜待塔等
られた石祠、そして社日
諏訪稲荷大明神
神社は昔安部藩主陣屋内現在中山栄太郎様屋敷内東郵便局西方に鎮座ましせり。藩主代々二万参千石の安泰と領民の健康、五穀豊穣を祈願?氏神稲荷様なり時の流れにより大正年間当社に合祀。現在に至る。
昭和四十九年壱月吉日
深谷市の「遺跡 データベース」を見ると岡部地区は先史時代から人々が生活していた数多くの遺跡が存在する。約1万4千年前の後期旧石器時代の遺跡である白草遺跡があり、多数の細石刃や彫刻刀形石器が出土している。縄文時代になると、台地上に数多くの遺跡が出現し、土器を用いて定住するようになる。それに対して弥生時代の遺跡が意外と少なく、縄文時代からいきなり古墳時代に移行したような歴史的な流れがある。また榛沢郡の郡衙跡とされる中宿遺跡では郡衙の倉庫が復元されているのに郡庁(郡衙の庁舎)の比定資料が存在しない。榛沢郡は律令時代以前から隣接する幡羅郡と共に豊かな米穀産地で、従事人口も多かったはずであったであろう。古墳は築造当時の地域の豊かさの目安の一つとなるが、古墳の数、規模において榛沢郡内の古墳は幡羅軍郡のそれと遜色ないか、むしろ古墳の単体規模において優っていたと思われる。それが時代が下ると豊かさの形勢は逆転してしまう。例えば幡羅郡は延喜式神名帳において式内社が4社を数えているに対して、榛沢郡には式内社が全く存在しない。東山道武蔵路の開通によって幡羅郡内にその路線が組み込まれたことで幡羅郡の存在が時の権力者にとって大きくクローズアップされたことは大きいだろう。
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この岡部神社の近くに「岡部六弥太忠澄の墓」と言われる墓所がある。墓は、普済寺地区の一角にあり、残りの良い五輪塔が3基並んでいる。このうち最も大きいものが六弥太のものとされている。六弥太の墓石を煎じて飲むと子宝に恵まれるという伝承があり、このため五輪塔が一部削られ変形している。岡部六弥太墓は埼玉県指定史跡に指定されている。
岡部六弥太忠澄之墓
岡部六弥太忠澄の墓は岡部神社から北西方向、国道17号線を岡部駅交差点手前で右折すると左側に見えてくる。岡部六弥太忠澄は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した武将,
御家人。先祖は武蔵七党の一つである猪俣党の庶流で、猪俣野兵衛時範の孫、六太夫忠綱が岡部の地 に館を構えたのを機に岡部氏と称するようになった。忠澄は、忠綱から数え三代目にあたり、保元の乱で源義
朝に仕え、平治の乱では源義平の下で軍功をあげた十七騎の雄将として知られている。また治 承・寿永の乱の際には、源頼朝・源義経にも仕え源氏方につき出兵して、特に一の谷の戦いで、平家方の名将として名高い平忠度を打ち取る軍功を上げた。この場面は「平家物語」にも登場している。
岡部六弥太忠澄の墓 岡部六弥太忠澄は、武蔵七党のひとつ猪俣党の出身で、猪俣野兵衛時範の孫、六太夫忠綱が榛沢郡岡部に居住し、岡部氏と称した。 忠澄は忠綱の孫にあたる。源義朝の家人として、保元・平治の乱に活躍した。六弥太の武勇については、保元・平治物語、源平盛衰記に書かれており、特に待賢門の戦いでは、熊谷次郎直実、斎藤別当実盛、猪俣小平六等源氏十七騎の一人として勇名をはせた。その後、源氏の没落により岡部にいたが治承四(1180)年、頼朝の挙兵とともに出陣し、はじめ木曽義仲を追討し、その後平氏を討った。特に一の谷の合戦では平氏の名将平忠度を討ち、一躍名を挙げた。恩賞として、荘園五ヶ所及び伊勢国の地頭職が与えられた。その後、奥州の藤原氏征討軍や頼朝上洛の際の譜代の家人三一三人の中にも六弥太の名が見える。忠澄は武勇に優れているだけでなく、情深く、自分の領地のうち一番景色のよい清心寺(現深谷市萱場)に平忠度の墓を建てた。 現在地には鎌倉時代の典型的な五輪塔が六基並んで建っているが(県指定史跡)、北側の三基のうち中央の最も大きいものが岡部六弥太忠澄の墓(高さ一・八メートル)、向かって右側が父行忠の墓、左側が夫人玉の井の墓といわれている。 六弥太の墓石の粉を煎じて飲むと、子のない女子には子ができ、乳の出ない女子は乳が出るようになるという迷信が伝わっており、このため現在、六弥太の五輪塔は削られ変形している。 平成三年三月 案内板より引用 |
平忠度を討ち取った忠澄であったが、忠度の死を惜しみ、その霊を慰めるために所領の岡部原に五輪の塔を建立した。その後、五輪の塔は慶安2年(1649年)に、清心寺(深谷上杉氏家臣岡谷清英創建)に移築された。
所在地 埼玉県深谷市岡3226
主祭神 伊弉諾尊・伊弉冉命・大己貴命・倉稲魂命・建御名方神
創 建 不明
社 格 旧村社
例 祭 岡の獅子舞 11月2日・3日
岡上屋台囃子 「海の日」前の土日曜
埼玉県道259号線と国道17号線が交差する岡部駅入口交差点から17号線を西へ向かって行くとその内に岡廼宮神社が見えて来る。雨覆屋根の付いた鳥居に鳥居に掛けられた額には「聖天宮」の文字が刻まれている
。岡部神社と同じ系統の神社だろうか。
岡廼宮神社 沿革 大正十(1920)年、諏訪神社、久呂多神社、稲荷神社を合祀し、岡上神社を岡廼宮神社と改称した。祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命という。江戸時代の初め、村の鎮守であった聖天社は建物の腐朽甚だしかったが、池田三郎左衛門貞長という武士により改築された。貞長は、高崎城主安藤右京進にお預けの身となった徳川忠長(徳川家光の弟)の側近であったが、何者かの讒言にあい側近役の地位を追われ、岡村に蟄居していた。忠長は、自害する前に、讒言に惑わされ貞長を追放したことを後悔し、「自分の死後、菩提を弔うように」との遺命を貞長に下した。この遺命により、貞長は岡村に全昌寺を建立し、また当社も改築した。落成すると貞長は、神前において主君の後を追い切腹した。 また当社では、獅子舞いが行われており、町指定文化財になっている。獅子舞いの構成は、法眼、女獅子、男獅子の三人と、花笠、笛方、歌方等からなり、舞手は、袴にワラ草履、腰に小太鼓をつけて打ちながら舞う。江戸時代から伝承されている貴重な無形文化財である 境内案内板より引用 岡上屋台囃子 深谷市無形民俗文化財 平成17年10月1日 指定 由来 旧岡村に古来より伝承されている屋台囃子、時代を遡ること十八世紀末、天明・寛政年間と伝えられている。 昔は、毎年のように日照と悪疫に悩まされた里人たちが、雨乞いと病疫消除を祈願するため時の領主や役人に嘆願し、中山道岡村の入り口にある丘陵地に八坂神社を勧請し、祠を建立し、お囃子を奉納したことに始まったと伝えられている。 囃子の構成は、大太鼓1・小太鼓3・摺鉦3〜4・笛3〜4・外につづみ2・三味線1(囃子の曲目により演奏する)。次に囃子の技名は、ぶっつけ・切返し・転がし・ぶっきり等。次に笛の曲目は1.旧ばやし・2.新ばやし・3.靜門・4.通りばやし・5.夜神楽・6.ひょっとこ囃子の曲目がある。特に、岡上・岡下には屋台があり祭りを行っていた。 また、岡上は、熊谷市の本町三丁目・四丁目に頼まれて、教えに行ったりしていた。 現在もなお、八坂神社の夏祭りに演奏し、昔ながらのお囃子を継承しながら、屋台を中心とした保存会が発足されており、伝統文化を後世に伝えるために努力している。 これは、江戸時代から伝承されている貴重な無形文化財である。 |
一の鳥居より撮影 拝 殿
本 殿
岡廼宮神社は決して大きな社ではないが、拝殿には色塗りされた通称岡の聖天さまの龍が彫刻されていた。制作年は新しいようで、小ぶりだが気品がある。龍は聖天信仰の一つの信仰形態と言われているし、その流れだろうか。また本殿も壁には美しい彫刻があり、暫しの時間見入っていた。この社には全体的に品を感じた。
「正一位稲荷大明神」 三郎左衛門稲荷神社と秋葉神社 石祠
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国道17号線深谷市岡廼宮神社を本庄方面に向かい一つ目の交差点(岡交差点)を左折するとすぐ右側に寅稲荷神社が鎮座する。同名の古墳上にある社で6世紀末築造と推定され、全長50mと、お手長山古墳に次ぐ岡部町で第2位の規模の前方後円墳である。町指定史跡で、道路地図にも記載されている。
寅稲荷神社 榛沢郡最大の古墳上に鎮座する古社
所在地 深谷市岡1685
御祭神 倉稲魂命
社 挌 旧村社
例 祭 4月10日 春祭り、10月3日 秋祭り
嵯峨天皇の弘仁の頃(810〜824)、坂上田村麿将軍が、東国平定のとき、当地に陣を構え、皇運の隆昌を祈願されたのが、当社の始りであるという。近くには、要塞を築いたとされる旧跡や、四十八塚といわれる古墳があり、将軍の古戦場との伝承もあった。古く伝来する扁額の裏面に「寛平五年二月初寅祭」とある。
一の鳥居からの参道を撮影。よく見ると参道は途 寅稲荷古墳の案内板が一の鳥居左側にある。
中曲がっていて、正面には御神木である銀杏の
木が見える。
寅稲荷古墳 高崎線岡部駅の北北西一・六キロメートルに位置し、櫛引台地北端部近くに存する。古墳付近の標高は約五一メートルで台地北側の低地水田面との比高は、約一○メートルである。 本古墳の周囲は、かつて多数の古墳が群れを成して存在していたといわれているが、その多くは、昭和初期の開拓により消滅しており、現在存在するものは、二から三基を数えるにすぎない。 本古墳は、ほぼ東西に五一メートルの主軸をもつ前方後円墳で、後円部径二六メートル、同高三メートル、前方部幅三四メートル、同高三・五メートルである。前方部の方が若干大きく高くなっており、終末期の前方後円墳の典型例と言うことができる。埴輪の有無は明確ではなく、埋葬施設は、角閃石安山岩を石材として使用した横穴式石室と考えられている。建造時期は、主体部が未調査であるため明らかではないが、墳丘等の形状からして、六世紀末ごろと考えることができる。 また、前方部から後円部にかけては、寅稲荷神社が鎮座している。祭神は倉稲魂命という。当社には古獅子頭三基が伝えられており、町指定文化財となっている 掲示板より引用 |
この地域では最大規模の古墳。6世紀後半の築造と推定され、当時の榛沢郡で最有力の首長の墓と考えられているようだ。
拝 殿 本 殿
本殿の奥にある祠 霊神追悼碑
古獅子頭三基があり、町指定文
詳細は不明
化財となっている。
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白髪神社
所在地 深谷市岡1324
御祭神 猿田彦大神
社挌,例祭 不明
白髪神社は寅稲荷神社から南西方向で約400mから500m位の場所に鎮座している。広くない境内だが開放的で明るく、社殿も綺麗なこじんまりとした神社である。掲示板等由緒書きしているものがないので詳しい経緯は不明だ。
規模は小さいが趣のある両部鳥居 拝 殿 本
殿
境内社 菅原神社 境内社 八坂神社 八坂神社の右側にある大黒天の石碑
この白髪神社は寅稲荷神社(寅稲荷古墳)を頂角として底角である白髪神社とお手長山古墳の距離が等しいようで、丁度二等辺三角形を形成する。不思議な関係である。
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お手長山古墳
県内では最も最期の頃に作られた前方後円墳のひとつ
所在地 深谷市岡
墳 形 帆立貝式古墳
築造時期 6世紀末葉〜7世紀初頭
区 分 深谷市指定史跡
白鬚神社から東へ真っ直ぐ向かって行くと、岡部西小学校の北側にお手長山古墳がある。墳頂に天手長男神社が鎮座している。
東側正面にある案内板 墳頂に鎮座する天手長男神社、その奥
左側にある石祠は何神社なのか不明。
深谷市指定文化財 お手長山古墳は、深谷市岡に所在する。所在地の標高は、約五四メートルであり、櫛挽台地北西部にあたる。古墳の頂部には、天手長男神社が鎮座し、古墳名称の由来ともなっている。現存する墳丘は、長軸四三・五メートル、短軸二二・五メートル、高さ三・五メートルを測る。 |
古墳の南側に熊野神社遺跡があり、古墳時代から平安時代の集落跡が発掘調査されている。土師器・須恵器・紡錘車・鉄器・銅製帯金具・掘立柱建物跡が出土し、当時の面影を思い抱かせる。そういう意味では当時の榛沢郡は豊な米穀産地で、従事人口も多かった事を意味するのではないだろうか。
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