倭文神社が鎮座する伊勢崎市(いせさきし)は、群馬県の東南部に位置し、市の北部に一部丘陵地があるほか、ほぼ平坦地である。市の南部には利根川が流れ、その支流である広瀬川、粕川、早川などの河川や池沼がある。道路交通網では、北部を横断する北関東自動車道、国道50号、また、市の東北部を通過する国道17号(上武道路)や南部を横断する国道354号、中央部を縦断する国道462号などが整備されており、さらに、鉄道網では、JR両毛線、東武伊勢崎線が結節する交流拠点として更なる発展が期待されている。

 2005年(平成17年)1月1日に行われた1市2町1村の合併によって人口が20万人を突破し、2007年(平成19年)4月1日に東に隣接する太田市とともに特例市に移行した。不思議な事に この市の人口は現在でも増加傾向にあり、群馬県内でも屈指の人口増加が持続する地域であるそうだ。子どもが増えている一方で、高齢化も緩やかに進んでいる。また、就業者は、サービス業の従事者が増加している。

 伊勢崎市の地名の由来は、1561年(永禄4年)に由良成繁が赤石城を攻め落とし、赤石郷の一部を伊勢神宮に寄進して、伊勢宮を守護神として奉った。以来、「伊勢の前(いせのさき)」と呼ばれるようになり、転じて「伊勢の崎」、「伊勢崎」となったとされる。

 また古くから織物の里として栄え、「伊勢崎銘仙」の産地、養蚕の中心地として全国に知られてきた。近年は、電気機器、輸送用機器を中心とする工業都市へと姿を変え、特に工業団地の造成による企業誘致や、市の西部地域への大規模小売業集積などの広域的な商業核の形成、都市近郊型農業の進展等、県内有数の産業都市として着実な発展を遂げている。



 目次
   倭文神社 上野国延喜式内社 九の宮  旧郷社 / 堀口飯玉神社   那波郡総社 
   大国神社
 上野国延喜式内社 五の宮  旧郷社 / 境伊与久雷電神社  旧郷社


                                 倭文神社
                                    地図リンク
                                                                  上野国九の宮で天羽槌雄命を祭神とする式内社
                                                                        

                                         



                                        所在地    群馬県伊勢崎市東上之宮町380

                                        主祭神    天羽槌雄命         
                                                 (配祀)倉稻魂命 菅原道真 豊受姫命 木花咲耶姫命
                                                     大己貴命 大山祇命 誉田別命 素盞嗚命 菊理姫命

                                        社  挌    上野国延喜式内社 九の宮  旧郷社
、那波郡鎮座

                                        例  祭   
4月16日 春季例大祭  10月17日 秋 祭



 伊勢崎市の倭文神社は、伊勢崎市の南西3㎞ほどの利根川と廣瀬川の間に挟まれた地形で、周辺はさほど多くの民家はなく、田園地帯の中に鎮座している。駐車場は境内裏側に数台停められるところがある。意味深にも利根川の対岸に下の宮という地があり、そこには式内社である火雷神社が鎮座している。
 「倭文」と書いて「しとり」と読む。創立年代・由来は一切不詳だが、一説には、垂仁天皇の御宇3年という。社名から倭文部の創祀した神社と思われ。祭神、天羽槌雄命は、倭文部の遠祖で、織物の神。伊勢崎市は周辺の桐生市も含め古くから織物の里として栄えている関係もあるのだろうか。


                                         

                                                      正面入口から入ると朱の両部鳥居

 由緒

 当社の御祭神は天羽槌雄命で天の岩戸開きに功績のあった神としてその子孫の倭文氏が誇りを持って崇め織物・養蚕・農耕の神として崇敬されている往古の名社として貞観元年(860年)に官社に列せられ従五位を授けられる。その後、延長5年(927年)に延喜式神名帳に倭文神社の名が載せられたその創建は11代垂仁天皇の年と伝えられている。その後、戦国時代に兵火にかかり荒廃し江戸時代になり寛永年間(360年前)に再建され真言宗慈眼寺実秀が別当に定められ慶安元年(340年前)朱印地十石を下賜され将軍吉宗の許可を得て江戸府内を始め上野の国内からも浄財の寄進を仰ぎ社殿・鳥居などが再建されたが慶応3年11月19日火災により灰燼となってしまった。現在の社殿は明治13年10月14日に再建されたもの。

◆田遊祭(神事)…中世祭祀のおもかげを残す行事にて、1月14日午後6時ごろより開始される。笹振り四人、長持ち二人、太鼓持ち二人、太鼓打ち一人の人達が、白装束を着て神官は社殿で祝詞を奏上し、その時一同も参列し終ると神官、区長、副区長、総代が提灯を回して、太鼓に合わせて御神歌を歌いながら祭り事を行う。
※田遊神事の神歌…えーとう/えーとう/えーとう/前田の鷺が御代田にぎろり/ぎろぎろめくのは/なんだんぼ/一本植えれば/千本になる/唐々芒子の種//えーとう/えーとう/えーとう/乾のすまの/掃部の長者/つじゅう十石ざらり/ざらざらめくのは/なんだんぼ/一本植えれば/千本になる/唐々芒子の種

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年


 貞観元年(859)に官社に列せられ、従五位下を授けられた。(三代実録) その後、延長5年(927)に撰集された『延喜式』神明帳の中に 倭文神社の名が載せられ、上野神明帳には、『従一位倭文大明神』とあって 上野国の九之宮とも称された由緒ある社だ。倭文氏の氏神を祀った神社なので、奈良県葛城市に鎮座する「葛木倭文坐天羽雷命神社(かつらぎしとりにいますあめのはいかずちのみことじんじゃ)」が本家の神社のようだ。



                    

                                     拝     殿                                      本    殿
 
 倭文神社はその後戦国時代の争乱にまきこまれ、一時荒廃したが 徳川氏の江戸入部以来 関東地方も次第に平和をとりもどし、 元和年間(1615~23)から寛永年間(1624~43)に入る頃は、社殿も再建され、 別当寺として、新義真言宗宮川山慈眼寺が定められ、住持実秀が別当となった。 以後近世を通じ倭文神社は慈眼寺の管理下におかれた。
 三代将軍家光の慶安元年(1648)9月には、御朱印地十石を賜わり、 安定した神社経営が行われ、祭事も復興し、神威もいよいよ加わるに至った。享保12年(1727)8月には、八代将軍吉宗から 社殿再建勧進の許可を得て上野国はもとより、江戸府内から浄財の寄進を仰ぎ、旧にまさる荘厳な社殿鳥居などが再建され、大いに隆盛をきわめた。 しかし、この社殿も慶応2年(1866)11月9日再度火災に会い、悉く灰燼に帰してしまった。現在の社殿はその後、明治13年10月24日(上棟)に再建されたものである。

                                   


倭文神社略由緒

鎮座地 伊勢崎市東上之宮町380番地
延喜式内 上野十二社 九之宮
主祭神 天羽槌雄命
配祀神 倉稻魂命 木花咲耶姫命 譽田別命
菅原道眞命 大己貴命 素盞嗚命
豐受姫命 大山祇命 菊理姫命
 当社の御祭神は、天羽槌雄命で、その歴史は古く機織の祖神として、また農耕、養蚕の神として尊崇されてきた。その創建は、人皇第11代垂仁天皇の御宇3年と伝えられているが、これを明らかにする証跡は、現在不明となっている。
 貞観元年(859)に官社に列せられ、従五位下を授けられた。(三代実録)その後、延長5年(927)に撰集された『延喜式』神明帳の中に倭文神社の名が載せられ、上野神明帳には、『従一位倭文大明神』とあって上野国の九之宮とも称された。
 その後、戦国時代の争乱にまきこまれ、一時荒廃したが徳川氏の江戸入部以来 関東地方も次第に平和をとりもどし、元和年間(1615~23)から寛永年間(1624~43)に入る頃は、社殿も再建され、別当寺として、新義真言宗宮川山慈眼寺が定められ、住持実秀が別当となった。以後近世を通じ倭文神社は慈眼寺の管理下におかれた。三代将軍家光のれ慶安元年(1648)9月には、御朱印地十石を賜わり、漸く安定した神社経営が行われ、祭事も復興し、神威もいよいよ加わるに至った。その後約80年を経て、享保12年(1727)8月には、八代将軍吉宗から社殿再建勧進の許可を得て上野国はもとより、江戸府内からも浄財の寄進を仰ぎ、旧にまさる荘厳な社殿鳥居などが再建され、大いに隆盛をきわめた。しかし、この社殿も慶応2年(1866)11月9日再度火災に会い、悉く灰燼に帰してしまった。
 現在の社殿はその後、明治13年10月24四日(上棟)に再建されたものである。なおさきの御朱印地十石の斎田は、明治維新の際上納され、また明治元年の神仏分離令により、別当寺や社僧の制も廃止され、神職によって祭祀される現在の姿となった。その後区内の小社祠の整理合祀も行われ、この間郷社に列せられた。また大正14年には、神饌幣帛料供進社に指定された。
 今次大戦後は、国家神道や社格もなくなり、純粋な上之宮町の鎮守として今日に至っている。

掲示板より引用

 


 

 伊勢崎市指定重要無形民俗文化財  倭文神社の田遊び  平成19年8月17日指定

 倭文(しどり)神社の田遊びは、上之宮町の倭文神社で毎年1月14日に行われる田植えの予祝行事です。
 笹竹を持つ祭員が笹竹を振り、ご神歌を奉唱しながら鳥居と拝殿を三往復した後、町内を巡行します。戻ると再び鳥居に整列し.鳥居と拝殿の間を三往復します。昔は最後に参会者による笹竹の奪い合いがあり、この竹で蚕箸を作ると蚕が当たるとされていました。この田遊びの、ご神歌は中世期まで遡り、貴重です。
御神歌
工ートウ、工ートウ
まえだの鷺が御代田にぎろり
ぎろぎろめくのは なんだんぼ
一本植えれば千本になる
とうとうぼうしの種

工ートウ、工ートウ
乾(いぬい)のすまの掃部(かもん)の長者
つじゅう十石ざらり
ざらざらめくのは なんだんぼ
一本植えれば千本になる
とうとうぼうしの種

 平成20年3月1日  伊勢崎市教育委員会

掲示板より引用


                     

                       社殿の手前左側にある神楽殿      拝殿を左手方向に進むと巨大な岩が祀られている。  神楽殿の近くに記念碑がありそこにも磐座
                                                         磐座の類であろう。                    らしき巨石がある。


                         

 境内右側には道路沿いに鳥居があり(写真左)、そこからも出入りができる。この鳥居を入るとすぐ右側に社日がある(同中央)。その並びには石祠群があり、左から少彦名神、道祖神、双体道祖神、道祖神が一線に並んでいる(同右)。
             
 
 また社殿の奥には多数の境内社が存在する。
          
                     

                       社殿の左側奥にある境内社群              本殿右側奥にある境内社                    蚕霊神社                 
                                                左から八幡神社、天満天神社、天神社、三社神社                                       

 ところで、この倭文神社から真南に約1㎞位、利根川を挟んで式内社、火雷神社が鎮座している。倭文神社が九宮で火雷神社が八宮であり、地名も倭文神社が上之宮町に対して、火雷神社は下之宮町。祭神が倭文神社は天羽槌雄命であるのに対して火雷神社は「神名帳考證」では「香々背男」。この香々背男は「天津甕星」とも言い、星の神という。

 この二神は日本書紀において、とにかく因縁のある神である。天津甕星は日本神話に登場する星神で、「天」姓を冠している歴とした天津神であるにも関わらず、書紀では悪神と明記される異例の存在である。日本書紀の葦原中津国平定の段、卷第二神代下・第九段本文に登場し、経津主神(フツヌシノカミ)と武甕槌神(タケミカヅチノカミ)の二神が葦原中国に住まう邪神と物言う草・木・石の類を全て平定し終えたが、星神香香背男だけは最後まで従わなかった。そこで倭文神(シトリガミ)の建葉槌命(タケハツチノミコト)を遣わしてこれを服従させたという。

 
日本書紀神代下・第九段本文・一伝

 一云、二神遂誅邪神及草木石類、皆已平了。其所不服者、唯
星神香香背男耳。故加遣倭文神建葉  槌命者則服。故二神登天也。倭文神、此云斯圖梨俄未。(一は云う。二神遂に邪神及び草木石の類を 誅いて、皆すでに平け了りぬ。其の服わぬ者は、唯、星神香香背男のみ。故また倭神健葉槌命を遣わ せば、則ち服いぬ

 群馬県利根川中流域の川を挟んで南北に僅か1km程の狭い地域の中に、日本書紀葦原中国平定の際に登場する正悪相対する2神が鎮座する社が存在するという事はどういう意味があるのだろうか。歴史の大きな謎がこの地には存在する。












                                                 もどる                   toppage








 701年(大宝元年)に制定された大宝令によれば、上野国は13郡が設置された。碓氷(うすい)・片岡(かたおか)・甘楽(かんら)・緑野(みどの)・那波(なは)・群馬(くるま)・吾妻(あがつま)・利根(とね)・勢多(せた)・佐位(さい)・新田(にふた)・山田(やまだ)・邑楽(おはらき)各郡である。その中に那波郡があり、この地域は現佐波郡玉村町、伊勢崎市の約西半分(旧利根川の河道(おおむね広瀬川と桃木川の中間)の西側)、前橋市の南部の一部の区域と推定される。

 伊勢崎市堀口町に鎮座する飯玉神社は、那波郡の総鎮守と言われ、韮川右岸の台地上に鎮座している。但し平安時代中期で延長5年(927年)に編集された延喜式神名帳にはこの社の名称は載っておらず、国内神名帳と言われる神祇官が作成した神名帳に対して、諸国の国主が作成した管国の神社とその神名・神階を記した帳簿の、その中の上野国神名帳・那波郡の中に「従三位 国玉明神」として記載されている。(ちなみに国内神名帳は全国にあったと思われているが、現存しているのは18か国だけであり、武蔵国のものは残されていない。)


                             堀口飯玉神社
                                     

                                         


                                         所在地    群馬県伊勢崎市堀口472

                                         御祭神    保食神・大国魂神
                                                  配祀神・日本武命 火産霊命 大日靈命 菅原道真命

                                         社  格    旧村社

                                         例  祭    10月17日 例大祭


 堀口飯玉神社は倭文神社を北上し群馬県道24号高崎伊勢崎線を伊勢崎市街地方向、つまり東方向に向かい、連取元町交差点を右折し、群馬県道18号伊勢崎本庄線を真っ直ぐ進むと約3㎞弱位で飯玉神社前交差点があり、その手前右側に堀口飯玉神社は県道沿いに鎮座している。神社の北側で裏手にあたる場所には整備されていないが十数台停められる駐車場あり、そこに停めて参拝を行った。

                    

                       社号標石の右わきにある案内板            交差点に面してある社号標石         一の鳥居 県道に沿って細長い社叢

 那波総社 飯玉神社

 祭神は保食命・大国魂命です。社伝によれば、安閑天皇の元年(534)、国主が丹波国(京都府)笹山から神霊を迎えてお祀りしたのが始まりといいます。寛平元年(889)、天災が続いたので国主の室町中将によって、豊年を祈って神社が建てられました。
 応仁(1467~1469)以来、田畑が荒れてしまい、農民が困っているのを憂い、領主那波氏が領地内に当社を総本山として、九十九の飯玉、飯福神社を分祀したといわれています。神社の行事として、ムギマキゴシンジと通称される神集祭があります。
 平成十八年三月
                                                                                                          案内板より引用

 案内板に記されている那波氏とは藤原氏と大江氏の2系統があり、那波郡に先に入ったのは藤原秀郷の子孫の那波氏である。藤原秀郷の子孫で佐貫成綱の子・季弘を祖とする藤原流那波氏で、この一族は平安末期の源平合戦の最中で、元暦元年(1184年)那波広純が木曽義仲に組して戦死し、一族は衰亡する。その後藤原流那波氏に代わって那波郡を領したのが大江氏系の那波氏である。源頼朝の最大の助言者で、鎌倉幕府の重臣であり政所初代別当を務めた大江広元の子、大江宗元(政広)を祖とする。『系図纂要』では、藤姓那波氏の那波弘純の子・宗澄に子が無かったため、政弘は弘澄の娘婿となって那波氏を称したとする。その後宗元(政広)の子政茂は幕府の裁判機構を司る引付衆の四番方として活躍、大江流那波氏は広元以来の行政能力をもって、幕府内に一定の地位を築き上げたたようだ。

 その後鎌倉幕府滅亡から建武の新政における間の那波氏の動向は不明ながら、関東には後醍醐天皇の新政府の出先機関ともいえる鎌倉将軍府が置かれた。鎌倉府には将軍成良親王の身辺警固のために関東廂番が設置されたが、その三番方に那波左近将監政家の名がみえるところから、那波氏は鎌倉幕府滅亡時に際して北条得宗家と共に滅亡することなくうまく立ち回ったようだ。一時的に中先代の乱時に北条時行軍に加担し建武親政権に叛いて没落したが、室町期に入ると那波氏は鎌倉公方に付いて復権した。上杉禅秀の乱で禅秀軍の攻撃を受けた足利持氏の近臣のなかに那波掃部助がみえ、また惣領家6代目の那波上総介宗元は持氏の奉公衆として活動した。

 この那波氏は自身の領有地に飯玉神社を分詞して配置したことが案内板の内容から分かる。飯玉神社が特定地域にのみにある理由がこれによることだろうか。ところでこの案内板に登場する寛平元年の項の室町中将とは何者だろうか。何の脈略もなく突如登場したこの人物は一体何者だろうか。


                    


                  参道を過ぎてから左側にある境内社 稲荷神社       鳥居の先にある稲荷神社拝殿                  拝殿内部
                        正式名 十寸穂国笹稲荷神社

                    

                    稲荷神社の左側にある聖徳太子石碑         参道に戻り進むと右側にある八坂神社                 神楽殿

                                          

                                                           拝     殿 

                    

                      拝殿正面左側にある板材の案内板               本     殿              本殿の左側奥にある境内社 浅間神社か     

 
 祭神
 保食命 (別名 豊受大神)
 大國魂命(別名 大國主神)
 配祀神四柱
 境内末社 十四社ナリ
 二十七代安閑天皇元年鎮座せらる。三十七代孝元天皇御代国司奉幣せられる。寛平元巳酉年国司室町中将再建し同年宇多天皇神鏡を下賜給う。六十七代後一条天皇郡司に命じ神殿を改造。那波太郎広純此の地領するに依り氏神とし封内九十九個所に飯玉飯福を分祠す。尚天武天皇白鳳九年勅命に依り神事式を行う。是実に那波の神事又麦播神事と云うは当神社のことなり。式典は中根家を以て執り行うと伊勢崎風土記に有り。
                                                                                                          案内板より引用

 

 那波氏は上野国那波郡に実在した在地豪族だが、鎌倉権五郎と共に有名な伝説上の人物として「那波八郎」がいる。

 「那波八郎」を語るに際してどうしても避けて通れない説話集がある。「神道集」だ。神道集 (しんとうしゅう)は、日本の中世の説話集・神道書。 安居院唱導教団の著作と され、南北朝時代中期の文和・延文年間(1352~1361) に成立したとされている。全10巻で50話を収録。 関東など東国の 神社の縁起を中心としつつ、本地垂迹説に基づいた神仏に関する説話が載っている。その書物の巻八・第四十八には「上野国那波八郎大明神事」という章があって、那波氏の一族である那波八郎の古い 伝説が語られている。

               
第四十八 上野国那波八郎大明神事

 人皇四十九代光仁天皇の御代、上野国群馬郡の地頭は群馬大夫満行といった。 息子が八人いたが、八郎満胤は容貌美麗で才智に優れ、弓馬の術にも長じていたので、父の代理で都に出仕していた。 父満行は八郎を総領に立て、兄七人を脇地頭とした。
 父満行が亡くなり三回忌の後、八郎満胤は上京して三年間宮仕えに精勤し、帝から目代(国司代理)の職を授かった。 七人の兄は弟を妬み、八郎に夜討ちをかけて殺害し、屍骸を石の唐櫃に入れて高井郷にある蛇食池の中島の蛇塚の岩屋に投げ込んだ。それから三年後、満胤は諸の龍王や伊香保沼・赤城沼の龍神と親しくなり、その身は大蛇の姿となった。 神通自在の身となった八郎は七人の兄を殺し、その一族妻子眷属まで生贄に取って殺した。
 帝は大いに驚いて岩屋に宣旨を下し、生贄を一年に一回だけにさせた。 大蛇は帝の宣旨に従い、当国に領地を持つ人々の間の輪番で、九月九日に高井の岩屋に生贄を捧げる事になった。
 それから二十余年が経ち、上野国甘楽郡尾幡庄の地頭・尾幡権守宗岡がその年の生贄の番に当たった。 宗岡には海津姫という十六歳の娘がいた。 宗岡は娘との別れを哀しみ、あてどもなくさまよい歩いていた。
 その頃、奥州に金を求める使者として、宮内判官宗光という人が都から下向して来た。 宗岡は宗光を自分の邸に迎えて歓待し、様々な遊戯を行った。 そして、三日間の酒宴の後に、宮内判官を尾幡姫(海津姫)に引き合わせた。 宗光は尾幡姫と夫婦の契りを深く結んだ。八月になり、尾幡姫が嘆き悲しんでいるので、宗光はその理由を尋ねた。 宗岡は尾幡姫が今年の大蛇の生贄に決められている事を話した。 宗光は姫の身代わりになる事を申し出た。 そして夫婦で持仏堂に籠り、ひたすら法華経を読誦して九月八日になった。宗光は高井の岩屋の贄棚に上ると、北向きに坐って法華経の読誦を始めた。 やがて、石の戸を押し開けて大蛇が恐ろしい姿を現したが、宗光は少しも恐れずに読誦し続けた。宗光が経を読み終わると、大蛇は首を地面につけて 「あなたの読経を聴聞して執念が消え失せました。今後は生贄を求めません。法華経の功徳で神に成る事ができるので、この国の人々に利益を施しましょう」と云い、岩屋の中に入った。
 その夜、震動雷鳴して大雨が降り、大蛇は下村で八郎大明神として顕れた。
 この顛末を帝に奏上したところ、帝は大いに喜び、奥州への使者は別の者を下らせる事にして、宗光を上野の国司に任じた。 宗光は二十六歳で中納言中将、三十一歳で大納言右大将に昇進した。 尾幡権守宗岡は目代となった。(中略)



 群馬県高崎市倉賀野地区に鎮座する倉賀野神社は旧社名を飯玉神社、又の名を国玉神社と言い、飯玉様(いいだまさま)として信仰をあつめている社だが、その社には古くから「飯玉縁起」と言われる巻物が存在し、その内容も大体「上野国那波八郎大明神事」と似通っている。


                   

                 境内社 稲荷神社の左側にある聖徳太子石碑     神武天皇遙拝所          石灯籠             境内に点在している境内社 

   

 ただ群馬県周辺に残る八郎伝説は、細部が『神道集』と異なっている事も事実である。玉村町の火雷神社の八郎伝説や埼玉県本庄市小島地区に鎮座する唐鈴神社では魔物を退治したのが那波八郎であり、ここでは伝承の逆転現象が起きている。また埼玉県本庄市都島地区に鎮座する角折神社の案内板では、魔物を退治したのは都から来た剛毅な公卿と書かれていて、またこの角折神社の境内社である八郎神社の祭神は同じ八郎でも「那波八郎」ではなく「鎮西八郎」つまり源為朝となっている。伝説、伝承が周辺地域に広がるにつれ細部に微妙なズレが生じることは今も昔も変わりはない。いわゆる伝承のドーナツ化現象のひとつであろうか。

 またこの「神道集」に収められている伝説はなぜか上野国の説話が非常に多い。10巻50話中8話も収録されている。東国中心に記載されているとはいえ、巻6までは日本全国の有名な古社・名社の説話が中心で、末尾の巻7、巻8の説話計13話中上野国6話が集中して収録されている。日本全国には伝承・説話の類の話は多く存在するのに、敢えて上野国の説話を多数編集した「神道集」の編集者たち・・・・・・どのような意図があったのだろうか。










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 境町は群馬県南東部で、伊勢崎市の東側、佐波郡にあった人口 約3万2千の旧町である。利根川中流北岸の沖積低地に位置し、利根川を南北に隔てて埼玉県本庄市、深谷市との県境となっている。中心の境は江戸時代に日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)の宿場町のひとつで繭,生糸の集荷市場として発達した。境町の名前の由来は室町から戦国時代に、上野国那波郡と新田郡の境目であったことから「境」という地名に変わったともいう。2005年(平成17年)1月1日に伊勢崎市と合併し境町は消滅した。





                                  大国神社
                                     地図リンク

                                                                   
上野国五ノ宮、雄大な社殿は圧倒的


                                         


                                        所在地    群馬県伊勢崎市境下淵名2827

                                        主祭神    大国主命         
                                                 (配祀)日葉酢媛命  渟葉田瓊入媛命  真砥野媛命
                                                     竹野媛命  薊瓊入媛命
                                                    
                                        社  挌    上野国延喜式内社 五の宮  旧郷社

                                        例  祭    10月22日 秋季例大祭



 大国神社は伊勢崎市役所の東、国道17号線バイパスと県道が交わる旧境町に鎮座する。駐車場は県道側の道路沿いに専用駐車場があり、数台横並びに停められることができる。(後日参拝したところ、一の鳥居の北側にも駐車スペースがあり、そこのほうがより広い空間があった)この社は第11代垂仁天皇が東国に発生した大干ばつを収めようと勅使を派遣して祈らせたところ、この地に大国主神が現れて雨を降らせ、乾燥した大地が潤って水量豊かな渕ができたという。その伝承が渕名(ふちな)という地名にもなっているようだ。

                                  

                                           朱色の一の鳥居                      二の鳥居
                                      参道の先に二の鳥居がよく見える。

                                               

                                   二の鳥居のすぐ先にある朱色の両部鳥居          参道の左側にある案内板

 
大国神社


上野国式内十二社大国神社縁起
境町大字下渕名字明神鎮座
祭神大国主命
  配祀神 渟葉田瓊入媛命、竹野媛命、日葉酢媛命、垂仁帝皇后、眞砥野媛命、筋瓊入媛命
  外三柱 罔象女旧御手洗神社祭神、素盞嗚命、事代主命旧八坂神社祭神

 延喜式神名帳に上野国大国神社あり上野国神社名帳に従一位大国神社とあるは即ちこの社である。
 縁記に曰く人皇第11代垂仁天皇の9年庚子四月より風雨順ならず、大旱打続いて蓄斃死するもの数を知らず天皇深く之を憂ひ給い諸国の神明に奉幣せられ東国には百済車臨遣はされて車臨この地に来り老松の樹下に宿る之即ち御手洗の亀甲松であった。偶々明旦前池に白頭翁の手洗ふを見たので問ふに叟は何人ぞと翁答いで曰く吾は大国主の命である。汝は誰だと車臨容を正して吾は天皇の勅を奉じて風雨順時疫病平癒の奉幣使百済車臨である願くは国家の為に大難を救助し給へと翁唯々と答ふ言下に雲霧咫尺を辨せず翁の姿は消えて影もなし須叟にして風巽より起り、甘雨澎湃として至り前地忽にして淵となった。
 因ってこの郷の名を渕名と呼ぶ様になり、これから草木は蘇生し悪疫悉く息み五穀豊饒土蒼生安穏となり天皇深く車臨を賞して左臣の位を授け大国神社を此の処に祀らしめ此の地を賜ったと云ふ。仝年15年丙午の年9月丹波国穴太郷より五媛の宮を奉遷して合祀した故に古より当社を五護宮又は五后宮とも書き第五姫大明神とも称した此の時第五媛の神輿に供奉した舎人に松宮内大須賀左内生形権真人石井田右内の四人があり、松宮内の子孫代々当社の祀宮として明治に至ったと伝へられて居る。
 後称徳天皇の神護景雲元年従五位上佐位采女勅に奉して上毛に下り社殿を修造し国造の神として、渕名荘三十六郷の總鎮守として尊崇殊に篤かった。文化元年甲子現在の社殿を改築し、明治七年熊谷縣管下北方十六区佐位郡波両郡四十二ヶ村の郷社に列し仝42年2月神饌幣帛料供進社に指定されたのである。
 世界大戦後は、祭典を止められ神社の財産も開放となったが由緒ある神社で、氏子を始め、四隣からの崇敬は目を追ふて古にかへりつゝある境内は2476坪地は天然の丘陵に位置し、近くは太田の金山遠くは常陸の筑葉山と相対し遥かに西南を望めば上武の連峯は雲烟模糊の間に縹沙として遠近の風光を収めて居る云之。社前は延徳2年庚戌4月16日本願法名清本秀行刻せる石浄手鉢一基あり、本御手洗の社前より移したものといふ。
 祭日 大祭 10月22日
 中祭 3月29日
 小祭 7月25日
  大祭は古来獅子舞の神楽を演じ奉納する習あり
 午時 昭和55庚申年10月22日
 平成9年10月吉日 総代長 新井昭二

案内板より引用


                                                  

                                               参道を抜けるとひろばがあり、拝殿が正面に鎮座する。
                                             寺院のような重量感ある社で、特に屋根部が異常に大きい。


                                         

                                                           拝    殿

                                        

                                                           本    殿
                                                   大国神社は拝殿も本殿も規模が大きい。

                                  
        
                                            拝殿上部             本殿の裏には「大国主命」と書かれた石祠が存在
                                                                   する。本来の本殿だったのだろうか。

 

由緒

延喜式神名帳に上野國大國神社、上野國神名帳に鎮守十二社として従一位大國神社として記される。垂仁天皇の15年9月、丹波国穴太郷より五媛「日葉酢媛命・淳葉田瓊入媛命・真砥野媛命・薊瓊入媛命・竹野媛命」奉遷して配祀神とした。称徳天皇の御代の神護景雲元年(767)、勅を奉じて当地に来た従五位上佐位采女が大国主命を国の造神と號し、渕名荘三十六郷の総鎮守として社殿の修造した。光格天皇の文化元年(1804)、現在の社殿に改築。明治7年には熊谷県北第十六第区の佐位郡那波郡四十二ケ村の郷社に列せられた。明治40年3月25日、無格社御手洗神社・八坂神社を合祀して今日に至る。
                                                                                  全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年

 大国神社の奥には多くの境内社が存在する。浅間神社や天満宮、八坂神社などの境内社の他に、社殿周囲を取り囲むように石祠や石碑がたくさんあって、そぞれに社名の立て札が立っていた。

                                  

                      参道社殿手前左側には渕名天満宮         参道社殿手前右側にある浅間神社           浅間神社の先にある八坂神社

                    

                             八坂神社                    諏訪、住吉、稲荷神社等                  八幡、摩利支天宮

                    

                        少彦名神社と猿田彦大神等            西宮、弥都波能女神と金神等       浅間神社の裏に庚申塔と冨士嶽神社、秋葉神社                     




                                                 

 

 大国神社の石幢

 指定重要文化財  大国神社の石幢
 昭和42年2月10日指定
 村の人たちが、「御手洗の后燈籠」と呼ぶこの石幢は、昔近くの御手洗池畔で出土したと伝えられ、長い間人々の信仰を集めてきた。
 石幢は鎌倉時代に中国から伝えられ、日本では幢身にじかに笠を乗せた単制のものと、当石幢のような石燈籠ふうのものが発達した。石幢は仏教でいう「輪廻応報」「罪業消滅」という人々の願いをこめて建立されたものと考えられ、ガン部と称する部分を火袋として点灯し浄火とした。
 全体では、自然石の芝付の上に大きい角石の台座を置き、その上に竿塔・中座・火袋・屋蓋・相輪と積み重ねられ、台座からの総高は2,38mもある立派なものである。特に中座と火袋がよく安定した感じを出し、屋根の流れと軒反りのはね方は室町時代の作風をよく表わしている。また輪廻車が当石幢にもあったらしく条孔が残っている。
 笠部には磨滅がひどく定かではないが、次の銘文が読みとれる。
 本願主法名 清本秀行
 延徳二年庚戌四月十六日
 願主の清本秀行なる人物については全く不明である。また火袋に日月と梵字があったと考えられる。
                                                                                                        案内板より引用

                                                

                                               二の鳥居付近にある「下渕名の獅子舞」の案内板

 伊勢崎市指定重要無形文化財 下淵名の獅子舞
 平成十八年六月十五日指定
 下淵名大国神社の獅子舞は勇壮活発、かつ格調高い舞と評され、平佐々良・畏まり・橋がかり・雌獅子隠しの四種類が伝承されています。
 流派は火挟流と言われ、栃木県の文挟村(現日光市)に起り、足尾を通り、銅街道沿いに下淵名に伝えられたものと考えられています。一人が一匹の獅子に扮し、法眼・雌獅子・雄獅子の三人一組が連れ舞います。かつて、夕方から盛んに獅子舞を披露したことから、この獅子舞を夕がかりと呼ぶことがあります。
 毎年十月最終の日曜日の大祭には、村回りを行なった後神社に奉納されます。村回りでは所々でシャギリを上演し、神社に奉納する際には祭礼棒が先陣を清めます。
 道具の収納箱には正徳元年(1711)と書かれていることから、この頃には諸道具類が整備されていたことが推測でき、獅子舞の起源はこれを遡るものと考えられます。
 平成二十四年三月
   伊勢崎市教育委員会
                                                                                                          案内板より引用

 

 大国神社が鎮座する下渕名地区は群馬県佐波郡に属する。この佐波郡は元佐位郡と言われ、上野国13郡(701年・大宝令)の一郡でもあった。この地域一帯には嘗て檜前氏一族が一大根拠地を形成していたといわれている。
 檜前氏は応神天皇の時代に渡来した東漢氏の祖・阿智使主の末で、大和国飛鳥の檜前(現奈良県明日香村檜前)を本拠地として、全国に一族が配置されていたようだ。関東では上総(かずさ)国 海郡や上野(こうずけ)国 佐位郡、檜前舎人部は遠江、武蔵、上総などの国に点定している。
 
 続日本紀・神護景雲二年(768)六月六日条に称徳天皇の采女(うねめ)として仕え、従五位下まで出世した檜前部老刀自(ひのくまべのおいとじ、檜前君老刀自)という人物が記されている。断っておくが「采女」の称号を受けているのでこの人物は歴とした女性である。
 *采女   地方豪族である郡司の長官・次官(少領以上の官)の姉妹、娘の美しい女性を天皇のもとに仕えさせる制度。

 この人物は「上毛野佐位朝臣(かみつけのさいのあそん)」を賜姓、のち「本国国造(上毛野国造)」の称号を与えられていることから、檜前一族が佐位郡を中心にかなりの勢力を持ち、また上野国在住の地方豪族でありながら、近畿大和王朝とも太いパイプを保持していたと思われる。
 檜前一族は佐位郡に隣接している那波郡に一例の檜前氏が確認でき、また利根川南岸の武蔵国賀美郡にも檜前舎人直中加麿という人物がいたことは「続日本後紀」承和七年一二月二七日条にも記されている。少なくとも檜前一族が利根川中流域のある特定地域に勢力を張っていた根拠にはなるのではないだろうか。

 東京都浅草にはあの有名な金龍山浅草寺(せんそうじ)があるがすぐ隣には浅草神社が鎮座している。この浅草神社の御祭神は土師真中知(はじのあたいなかとも)、檜前浜成(ひのくまはまなり)・武成(たけなり)で、この三人の霊をもって「三社権現」と称されるようになったという。合祀で徳川家康、大国主命を祀っている。
 社伝によれば、推古天皇36年(628年)、檜前浜成・武成の兄弟が宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていたところ、網に人形の像がかかった。兄弟がこの地域で物知りだった土師真中知に相談した所、これは観音像であると教えられ、二人は毎日観音像に祈念するようになった。その後、土師真中知は剃髪して僧となり、自宅を寺とした。これが浅草寺の始まりである。土師真中知の歿後、真中知の子の夢に観音菩薩が現れ、そのお告げに従って真中知・浜成・武成を神として祀ったのが当社の起源であるとしている。

 
 この説話から解る事実とはなんであろうか。ヒントは土師氏と桧前氏だ。土師氏は有名な野見宿禰の後裔とされ出雲臣系である(天穂日命→建比良鳥命→野見宿禰)し、桧前氏は続日本後紀では武蔵国の「桧前舎人」は土師氏と祖を同じくしとある。檜熊浜成と武成も桧前氏と同族かもしれないし、土師真中知とも同族、もしくはかなり近い親戚関係であった可能性が高い。つまりこの浅草神社の伝承からある時期土師氏と桧前氏はこの関東地域では同族関係にあったと推測される。

 土師氏と桧前氏が利根川(この場合現在の太平洋に注ぐ現利根川ではなく、荒川と合流して東京湾に注ぐ流路をとっていた江戸時代以前の本来の利根川)流域を共に根拠地としていた氏族である。同族関係、もしくは同盟関係であったならばこの一族同士の交流はあったろう。この場合舟運ネットワークとして利根川は格好の河川ではなかったろうか。



                                       


             






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 群馬県伊勢崎市境伊与久地区には十三宝塚遺跡(じゅうさんぼうつかいせき)と言われる奈良~平安時代の地方官衙 (役所)か古代寺院跡がある。利根川支流の早川と粕川の中間の伊勢崎台地上にある。この伊勢崎台地は地形的には赤城山麓の南方末端に形成された台地と言われている。遺跡は、北・西・南を大溝で画した東西約180m、南北約250mの範囲をもち、全体に不整形の方形を呈するようで、奈良時代から平安時代におよぶ佐位郡衙と推定する説がある。十三宝塚遺跡は昭和63年1月11日国指定史跡に指定された。

 この十三宝塚遺跡の南側には境伊与久雷電神社が鎮座する。


                             境伊与久雷電神社


                                         


                                         所在地    群馬県伊勢崎市境伊与久3581

                                         御祭神    大雷命
                                         (配 祀)   高於加美命 火産霊命 菅原道真命 天照大神 保食神 他

                                         社  格    旧郷社

                                         例  祭    3月25日 例大祭  10月25日秋季例祭



 境伊与久雷電神社は、下渕名大国神社から国道17号上武バイパス、大国神社東交差点を西方向、つまり左折して群馬県道292号伊勢崎新田上江田線に入りそのまままっすぐ進み、約2㎞先右側にあるコンビニエンスの交差点を右折し、そのまままっすぐ進むと左側に一面緑に囲まれた社叢が見える。ちなみに社殿の北から西に掛けては「伊与久の森」として整備され、中には遊歩道などがあり、散策も楽しめる。参道の右側には社務所があり、そこには舗装された駐車場もあり、数台駐車可能だ。

                    

                       道路沿いにある鳥居と社号標石      鳥居正面から参道を撮影。鳥居がやたらと多い。 社号標石の左側にある「雷電神社古墳」の案内板

 境町指定史跡 雷電神社古墳

 昭和五十二年三月十一日指定
 雷電神社古墳は伊与久地区の北方に位置し粕川と早川の支流である中掘に挟まれた低台地上に築造された古墳であり、本古墳北側には十三宝塚遺跡が広がる。「上毛古墳綜覧」によれば、本古墳の周辺には多数の古墳があったとされるが、現在では殆ど消滅している。従って伊与久地区の古墳を知る上で貴重な古墳である。
 本古墳の形態は主軸を東西にとり、前方部を東に向ける全長約五十メートル程の前方後円墳と考えられる。現在ではくびれ部なども明確でない程に削平・変形されてしまっているが、西側には後円部の名残がわずかに認められる。遺骸を葬った主体部は南に開口する両袖型横穴式石室であり、現在の神社本殿の真下あたりと考えられる。現在では補修が著しいが、比較的旧状をとどめているのは玄室部で、長さ四・七メートル、奥壁下幅一・三五メートル、中央部幅二・一二メートル、入口幅一・一五メートルとやや胴部の張った形である。この石室を構成する石材は榛名山系の二ツ岳が噴火した際に噴出したとされる安山岩の一種であり、その加工技術・石材の積み方は精巧である。
 明治年間に発掘されたとされるが、遺物は殆ど残っておらず、石室の形態、石材の加工技術などから七世紀後半の築造と考えられる。
                                                                                                          案内板より引用

                    

                          参道左側には神楽殿             参道右側には御神木の銀杏の大木          参道石段上に社殿は鎮座している。

 境伊与久雷電神社は鎌倉時代、源頼朝の重臣で当地に領地を持っていた三浦義澄が建保6年(1215年)に創建したと伝えられているが、上野国神名帳に「従四位上高於神明神」がこの社とも言われていて、どちらが本当の創建時期なのか判別しづらい。しかし上野国神名帳のほうが事実ならば10世紀前の創建となり、かなりの歴史のある古社となろう。また元弘3年(1333年)には、新田義貞が鎌倉攻を祈念して社殿の改築を行ったと伝えられている。また境内には七世紀後半の築造とされる雷電神社古墳(案内板では50m程の前方後円墳)があり、社殿はその上に建てられている。


                                         

                                                            拝    殿

                                         

                                                            本    殿

 

雷電神社
 当社は順徳天皇の建保六年(1215)三月二十五日に、赤石城主(伊勢崎)三浦之介義澄が創建したと伝えられる。上野国神名帳に「従四位上高於神明神」と記されるのが当社である。後醍醐天皇の元弘三年(1333)三月、新田三衛門佐義貞が鎌倉追討の際に社殿を修理し、戦勝祈願祭を行った。正親町天皇の永禄三年(1560)には、赤石左衛門尉・同又次郎の領有となるや領土の安全を祈り、祭供料と神領を寄進した。明正天皇の寛永十四年(1637)、伊勢崎城主河内守忠行は社殿を修覆し祭米を奉り、霊元天皇の延宝九年(1681)には酒井下野守忠寛が領主となるや社殿を修理した。また後桜町天皇の明和四年(1767)にいたり、酒井駿河守忠温が社殿を修覆して祈雨の祭典を行った。このように江戸時代にあっては領主酒井家の崇敬とくに篤く、累世修理や祭米・奉幣を得てきたが、明治維新後は郷土の鎮守神として氏子の尊崇するところとなり、明治四年には村社に列せられ、同四十年には境内諸末社を合祀して今日に至る。
                                                                                                           案内書より引用

雷電神社
 建保三年赤石城主三浦之介義澄の創建。新田義貞社殿を修繕し戦勝祈願を行ない代々崇敬厚く、永禄三年赤石又次郎領土の安全を祈り、祭供料・神領を寄進。のち代々の領主社殿を修理し祈雨の祭典を行い奉幣があった。明治以後郷土の氏神として氏子の崇敬厚く、雷災除の神として信仰が厚い。

                                                                                                   佐波郡神社誌由緒より引用

                    

                      社殿の左側にある「おみこし古墳」              社殿の奥にある石祠群             社殿の右側に並んでいる石祠群
                中を覗くと穴が開いていて社殿方向に続いている様子。

                    

                  社殿の右側にある英霊社とその隣にある境内社  社務所の左側にはガラス越しに神興を展示している。  社務所の西側にある「伊与久の森」

神興が展示している手前には伊与久雷電神社の鎮座地、祭神、御開帳、由緒、雷除け信仰、祭日、境内神社等が記載されている掲示板がある。

雷電神社

一 鎮座地   佐波郡境町大字伊与久三、五八一番地(現伊勢崎市境伊与久3581)
二 祭神     主祭神  大雷命      
          配祀神  高於加美命  火産霊命  罔象女命  建御名方命  大日孁命  保食命  倉稲魂命  菅原道真命  誉田別命  櫛御気野命
                 最上命   大物主命  素盞鳴命  日本武命
【御開帳】
 六十年に一度行われる大祭で、以前は四十年に一度、御神体を親しく信者に拝観させる祭事である。大祭は正月と四月に行なうが、御開帳は正月二十五日より数日間行なうのを例とした。この日に備えて、各地区総出で趣向を凝らした飾りものを準備する。ちなみに大正十五年(1926)一月二十五日から二月三日までの十日間執行された御開帳では、飾りものを納めた小屋の間口十間(約18.2m)、奥行七間(約12.7m)、高さ五丈五尺(約16.7m)の巨大な竜虎が人の目を奪ったと伝えられている。最近の御開帳は、昭和六十一年(1986)正月に執行されている。

三 由緒
 当社は順徳天皇の建保六年(1215)三月二十五日に、赤石城主(伊勢崎)三浦之介義澄が創建したと伝えられる。上野国神名帳に「従四位上高於神明神」と記されるのが当社である。後醍醐天皇の元弘三年(1333)三月、新田三衛門佐義貞が鎌倉追討の際に社殿を修理し、戦勝祈願祭を行った。正親町天皇の永禄三年(1560)には、赤石左衛門尉・同又次郎の領有となるや領土の安全を祈り、祭供料と神領を寄進した。明正天皇の寛永十四年(1637)、伊勢崎城主河内守忠行は社殿を修覆し祭米を奉り、霊元天皇の延宝九年(1681)には酒井下野守忠寛が領主となるや社殿を修理した。また後桜町天皇の明和四年(1767)にいたり、酒井駿河守忠温が社殿を修覆して祈雨の祭典を行った。このように江戸時代にあっては領主酒井家の崇敬とくに篤く、累世修理や祭米・奉幣を得てきたが、明治維新後は郷土の鎮守神として氏子の尊崇するところとなり、明治四年(1871)には村社に列せられ、同四十年(1907)には境内諸末社を合祀して今日に至る。

【雷除け信仰】
 天正元年(1573)正月二十五日の午の刻(正午)、雷鳴の激しく天地も揺らぐかと思う折から、境内の神木に落雷があった。その破裂した神木の中央から一条の光を発していたので、村民がひどく狼狽恐怖し、村の修験者須田峯ノ坊がこれを窺うと一寸八分(約5.45cm)の黄金像が現れた。この像は、地頭五十久弾正の守り神として祭られ、神徳弘く悪疫災難を救済し、殊に雷鳴を恐怖する者がこの神を信じれば恐怖の念が無くなるといわれた。また、これ以来は境内の老杉の樹皮をはぎ取り、雷除けの護符とする風が生じたという。この信仰に関連して、夕立除けの信仰に基づいた太々講という講組織が現在もある。果たしていつごろから始まったのかは定かでは無いが、遠くは埼玉県朝霞市や群馬県利根郡にも構員がおり、各地で三人講・五人講と称し、三月二十五日の例大祭の日には今でも多数の構員が参詣する。当日は専用の受け付けが設けられ、記名を済ませた順に御神札や御守を受けていかれる。この講とは別に、時世を反映してか、十年程前から電力関係者やゴルフ場関係の人々が参拝し、雷除けの祈祷を受けていかれるようになった
四 祭日
  一月二十五日……新年祭
  二月二十五日……祈年祭
  三月二十五日……例大祭
  七月二十五日……夏祭り
  十月二十五日……秋季例祭
五 境内神社
   衣笠神社 八幡神社 秋葉神社 飯福神社 神明神社 熊野神社 琴平神社 阿夫利神社 八坂神社 水神社 三峯神社 天神社 疱瘡神社 諏訪神社(中略)




                                                  

                                                社殿が古墳の上に鎮座している様子がよくわかる。


                                  

                               伊与久の森を南側に向かうとその先にある朱色の鳥居      それと南側にもう一基の鳥居。


                                                

                                                   鳥居のすぐ脇にある見事な杉の大木。








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