群馬県玉村町は県の南部、利根川と烏川の間にあり、町域は関東平野の北西部に位置する。地形はほぼ平坦。東は伊勢崎市、南は埼玉県、西は高崎市、北は前橋市にそれぞれ隣接している。古代より点在している古墳群に見えるように、東国上毛にあっていち早く開けたところで、江戸時代には日光例幣使街道の主要な宿場であったため、五料宿には関所をはじめ問屋や河岸もあり、交通の要衝として栄えていたという。

 ところでこの玉村町には町名の由来となる「龍の玉伝説」と言われる地名伝説がある。

 天慶(てんぎょう)年間(938〜47)ある土豪が、沼田(のんだ)(現在の伊勢崎市柴町・八斗島町、玉村町五料地域)の庄の美しい娘を平将門に差し出すことを企てた。この企みを知った娘の父親である地頭は、娘を娘と相思相愛の仲にあった錦野の里(現玉村町域)の若者のもとへ走らせた。しかし、娘は土豪の追っ手に錦野の里を流れる矢川のほとりに追い込まれ、ついに矢川に身を投げた。このとき、駆けつけた若者も同じく矢川に身を投げた。

その後、この川に光る二つの碧玉(へきぎょく)が漂うのを見た村人は、娘が「龍人」の化身で、玉は「龍人のあぎと(あご)にある玉の精」と考え、この玉を拾い上げ、近戸(ちかど)大明神(現玉村町福島と南玉の間にあった神社)として祀った。近戸大明神は矢川の氾濫によりたびたび社殿を移していたが、今から500〜600年前、利根川の洪水の中に龍神が現れ、近戸大明神に竜巻を起こし、祀ってあった碧玉を一つ持ち去ってしまった。そこで、村人は「別院 玉龍山」を設け、残った碧玉を二重の箱におさめ祀った。

しかし、その後も洪水がよく起こったため、新たに新田村(上新田・下新田)をつくった。龍の玉によりできた村であるため、玉村と呼ぶようになった。

現在、満福寺(玉村町福島)に碧玉が入っているといわれる黒塗りの二重の箱が伝わるが、見ると失明するといわれ、まだ誰も見たことがない。

 そして龍の玉のために出来た村から玉村と呼ぶようになったとされている。


 目次
   玉村八幡宮 旧県社 / 軍配山古墳 / 梨の木古墳 / 角渕八幡宮
    

                            玉村八幡神社 
                                    地図リンク

                                                                  朱が鮮やかな本殿は国指定重要文化財に指定

            
                                         


                                       所在地    群馬県佐波郡玉村町大字下新田1

                                       御祭神    
誉田別命 気長足比売命 比盗_ 外十五柱

                                       社  挌    旧県社

                                       例  祭    4月15日 春季例祭、太々講祭典  10月16日 例大祭



玉村八幡宮由緒書・玉村八幡宮由緒碑

 当社は鎌倉初期の建久六年(1195)源頼朝公によって、玉村町角淵の地に創建奉斎された角淵八幡宮を本宮とする。口碑によれば、源頼朝公が三原へ赴く途次この地に休息し、鳥川の地形が鎌倉の由比ヶ浜に似ていたために、上野奉行安達藤九郎盛長に命じ、鶴ヶ岡八幡宮の御分霊を勧請奉安せしめたという。以来、関東管領畠山満家・白井城主長尾左衛門尉憲景等による再建修造がなされた。江戸時代の初めには、関東郡代伊奈備前守忠次が当地一帯の新田開発に際して、一大事業の成就を神前に祈り、慶長十五年(1610)無事竣工をみるに及び、神助の報賽と玉村鎮守のため角淵八幡宮本殿を上・下新田境の此地に移築修造した。これが現在の玉村八幡宮である。慶安二年(1649)には幕府より朱印地三十石を寄進され、また歴代の前橋藩主の月詣を得ると共に、数次の修造がなされた。このように武門武将の崇敬を得たばかりでなく、正保三年(1646)日光例幣使街道開設後は、当地が第一の宿場として栄えるにつれ、道中安全や開運招福を願う一般庶民の崇敬をも集めることとなり、以来「玉の里の八幡さま」として親しまれる。また古来より特殊信仰として、いぬ・い年生まれの守り神という戌亥八幡信仰があり、その御神徳は今も尚おおいに発揚されるところである。

                                                                                                   玉村八幡宮 案内板より引用


玉村八幡宮は玉村町役場の西側で国道345号、別名日光例幣使街道沿い、玉村高校と玉村小学校の間に鎮座している。国道沿いに一の鳥居があり、そこから北へ参道沿いに駐車場があり、自動車は、数十台分は駐車可能のようだ。ちなみに一の鳥居は番地である下新田と上新田の境目に建てられているとのことだ。


                                                 

                                                             一の鳥居

      一の鳥居を越えてから現れるのが「随神門」で、見上げれば美しい天井絵があった。この随神門は圧巻で一見の価値がある。慶応元年(1865年)の建造で入母屋造楼門。


                                                   
                   
                                                              随神門


                                                                      
 
                                       随神門を潜り、参道を歩くと右側に社務所。左側に猿田彦神社・淡島神社がある。
                                         こちらでは人形神社となぜか加恵瑠(カエル)神社とも称されているようだ。

                            

                           綺麗に整備された参道                    御神木                          力石
                                                   通称「夫婦楠木」と呼ばれ、家内安全・    表題として「玉遊」と刻されたこの力石は、重さ四
                                                   夫婦円満・縁結びまた厄除開運の御利   十八貫(百八十キロ)。これを担ぎ上げた力自慢の
                                                      益が授かると伝えられている。       名を刻し記念として石を神社に奉納したもの                      
                                    

                                              手水舎                       二の鳥居と中門 

                                   

                                                       
    拝    殿

 国指定重要文化財本殿・弊殿と繋がっており、祭典やご祈願などで、氏子崇敬者が参拝する建造物で、建造時代は、建築の各種特徴からみて、十八世紀末ごろと推定される。造りは入母屋造で、以前は、棟札を見る限り、檜皮茸の屋根であったが、現在は銅板一文字茸

                                                

                                                            本    殿

 玉村八幡宮は、建久6年(1195)、鎌倉幕府初代将軍源頼朝が上野奉行安達藤九郎盛長に命じ、鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を玉村町角淵に勧請したことが創始の起源と伝えられている。以来、開運招福、一門繁栄を願う武家の尊崇を集め、江戸時代に至っては日光例幣使街道が開設されると玉村宿の鎮守社として一般庶民からも広く信仰された。玉村八幡神社本殿は室町時代の建築様式を遺す建造物として国指定重要文化財に指定されている。

 現在は幣殿・拝殿が併設され、本殿正面が幣殿に取り込まれ権現造に似た形態をとっているが、もとは独立した本殿だったという。これは向拝柱に残る浜床痕跡や風食跡、本殿正面と幣殿との取り付き仕口などからも明らかで、 幣殿・拝殿の建造に伴い、浜床が撤去され幣殿と一連の床が張られている。明和8年(1771)に内陣の天井を高くし、火燈窓を取り付けたことにより、現状とほぼ同じ形態となった。
 三間社流造、柿(こけら)葺で南向き。建物全体は漆彩色で華麗な造りとなっている。


                                   

                                              神楽殿             社殿の左側側面には稲荷神社、写真には入りきらな
                                                                   かったが右に古峰神社が鎮座している。

                                   

                                      社殿の左側には国魂神社が鎮座     社殿の右側へ進むと小さな朱の橋があり、弁財天が
                                                                           祀られている  

                                                                                        

                                            竹内勇水句碑                      石燈籠の案内板

 町文化財 竹内勇水句碑

 啼きすてて 思いなげなる雉かな
 句意は、けんけんという雉子の短い鳴き声のさらりとしたようなさっぱりした心境を、この声に託したものであります。
 竹内勇水は、江戸時代中期より後期の俳人。享保十三年(1728)生まれ、下新田の人です。名は徳往(のりあき)、通称源右衛門、屋号を岸屋と云い代々宿役人でした。江戸時代の涼袋と交渉をもち子弟も多く那波俳壇を代表する俳人でした。また、書にも巧みで玉村八幡宮境内の芭蕉十六夜塚や自句の碑にも彼の筆跡が見られます。
 文化九年(1812)没、八十五才、墓は神楽寺東墓地にあります。
 平成八年十二月
                                                                                                           案内板より引用


 玉村八幡宮が鎮座する玉村町は国道354号線が町の南北を分けるように走っているが、この国道354号線は江戸時代には日光例幣使街道という名称の街道であり、宿場町として当時大変賑わいのある町だったようだ。

 

日光例幣使街道

 
日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)は、徳川家康の没後、徳川幕府は朝廷に幣帛(へいはく)の奉納を要求。そこで朝廷は正保3年(1646年)から日光東照宮に勅使 (例幣使) を派遣するようになった。このために整備された道が日光東照宮に幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道を日光例幣使街道と言い、中山道の倉賀野町を起点として、楡木(にれぎ)宿にて壬生通り(日光西街道)と合流して日光坊中へと至る。なお、楡木より今市(栃木県日光市)までは壬生通り(日光西街道)と共通である。最初に行った正保3年(1646年)以降、毎年奉幣使が派遣されるようになり、日光例幣使の制度が定着。慶応3年(1867)まで221回、一度も途切れることなく続いていた。

 現在、栃木県日光市から鹿沼市、栃木市、佐野市、下都賀郡岩倉町、佐野市、足利市、群馬県太田市、伊勢崎市、高崎市に至る路線が「日光例幣使街道」または「例幣使街道」と呼ばれている。特に日光市から鹿沼市にかけての区間には日光杉並木が現存する。







                                                もどる                   






 玉村八幡宮から南東方向に車を進めると、辺り一面田園風景が続き、その中に軍配山古墳と梨の木古墳が遠くない位置で存在している。



                             軍配山古墳
                                  地図リンク
                                                                神流川の戦いで滝川一益が本陣を置いた古墳

                                                 


                                             所在地       群馬県佐波郡玉村町角渕

                                             形  態       円墳   

                                             築造時期      4世紀後半

                                             区分         町指定史跡



 軍配山古墳は玉村八幡宮から国道354号線で伊勢崎方向に向かい、下新田交差点を右折、群馬県道40号線に移り、真っ直ぐ進み、最初の交差点(上之手交差点)を左折すると玉村町立南中学校にぶつかるのでそこを右折すると田園風景が広がり、左手方向にこんもりとした山が見え、すぐにそれがお目当ての古墳であることが解る。この古墳は地形的には利根川と烏川に挟まれた台地上に築かれているというが、一見したところ一面に広がる平地にて判別できなかった。
 軍配山古墳の接する道路は畦道を舗装した程度の道幅しかないので路上駐車ができず、また近くに駐車場も特になく、古墳の南側、案内板がある所に1台分くらいの駐車スペースしかないのでそこに停め、急いで撮影を開始する。


                                  

                                          軍配山古墳 全景                       案内板

 御幣山<軍配山>古墳

 所在地 玉村町大字角渕

 当古墳は、昭和五年(1930)二月に発掘された。出土品は墳丘上の碑文に記されているが、中国渡来の
白銅製内行花文鏡二面をはじめ、勾玉管玉鉄鏃その他鉄器類がある。それらは東京上野の国立博物館に保存されている。中国渡来の内行花文鏡の出土は、当古墳の被葬者が、かなりの豪族であったことを推定させる。
 附近の烏川段丘上には相当数の古墳が存在していたが、それからの出土品には、本墳のようなすぐれたものがないことからすると、本墳の被葬者が、この附近近一帯の有力な支配者的存在であったと推定できる。
 古墳の形式は円墳、主体部の形式は不明。
 後藤守一氏は築造年代を碑文に示されているが、いずれにしても古墳時代初期に属するものであろう。
 一名軍配山と呼ぶが、それは天正十年(1582)神流川合戦の折、滝川一益が本古墳を本陣として軍配をふるって全軍を指揮したために名付けられたものと伝えられている。
 
 昭和五十一年四月
  玉村町教育委員会   
                                                                                                          案内板より引用


 軍配山古墳は見ての通り、一面の広い平地に墳が造られている。築造時期は4世紀末,葺石も埴輪もない古い型の古墳で、この時期に他地域では丘陵地に古墳や生活住居を造り、平地は主に田畑に使用されている。珍しい、と一言でかたずけられることであろうか。軍配山古墳の被葬者は何を思い、考えてこのような平地に古墳を築造したのか。小さな古墳ではあるが何か釈然としないものを感じつつ、時間の都合で次の古墳探索を行った。


                                                

                                                       軍配山古墳 北側から撮影



 

                             梨の木古墳
                                  地図リンク 

                                                


                                            所在地       群馬県佐波郡玉村町下茂木

                                            形  態       前方後円墳 南北42m東西45m高さ7m 

                                            築造時期      5世紀〜6世紀(5世紀半)

                                            区分         町指定史跡



 梨の木古墳は軍配山古墳から南東へ800mほどの距離で、玉村ゴルフ場すぐ北の農地内に保存されてる古墳であり、軍配山古墳から目視できるほど近くに存在する前方後円墳だ。



                                                

                                                         道沿いにある案内板

                                       

  町指定史跡 梨の木古墳

 当古墳は二段構造の円墳として残存していますが、これはもと前方後円墳の後円部であったものと推測されます。築造年代は5〜6世紀と推定され、昭和41年の発掘調査では二重の堀をめぐらせた広大な墓であることがわかり、滑石製模造品・円筒埴輪破片等が出土しました。上記の軍配山古墳と並んで地方の支配者の墓であったものと思われます。

 古代の遺跡からは住居跡だけでなく集落や畔を伴った水田遺構の発見も著しく、奈良時代の条里制に先行するものとして注目されています。この条里制地割は現在の東西、南北に直行する道路としても窺うことができます。また、砂町遺跡からは古代道が発掘され、これは東山道と推定されています。天仁元年(1108)の浅間山の噴火によって火山灰が堆積し、このため保存された古代水田が、町内各地で発掘されており、畔や溝、人間の足跡などが検出されています。



 


                           角渕八幡神社
                                   地図リンク
                                                                 
鎌倉時代初期の創建、玉村八幡宮の元宮

                                                                 
                                                 


                                            所在地    群馬県佐波郡玉村町角渕2075

                                            御祭神    誉田別命

                                            社  挌    不明

                                            例  祭    4月15日(春季例祭) 7月第2土・日曜日(夏祭り)    
                                                     10月15日(例大祭)



 群馬県道40号線角渕交差点から東に入るとすぐに角渕八幡宮が鎮座している。当社は玉村八幡宮の元宮で、その創建は建久6年(1195)8月、源頼朝の家臣で上野奉行安達藤九郎盛長が鎌倉鶴岡八幡大神の別御霊(わけみたま)を勧請し奉斎したのに始まるという。元来角渕地域は水陸交通の要地で早くから開け、その地域の支配御家人に盛長が指示し、そこに勧請したものと考えられる。


                                  

                                       鳥居から正面の社殿を撮影               鳥居の左隣にある案内板

 角渕八幡宮

 鎌倉時代の初め、建久4年(1193)源頼朝が那須野で狩りをした帰りに角渕で休み、烏川の風景が鎌倉の由比ヶ浜に似ているというので、後に奉行として上野国に入った足立盛長に命じて鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮の分霊を勧請せしめたのが、角渕八幡宮のはじめといわれ、中世の戦火に焼かれるまでは、薬師堂をはじめ塔楼数棟、栄華をほこったといわれている。
 その後に建てられた社殿は、応永18年(1411)に関東管領畠山満家、永正4年(1507)に白井城主永尾憲景の家来対島入道が修理をした。
 後に、江戸時代の初め、関東郡代伊奈備前守忠次が滝川用水をひいて新田開発に成功し、慶長15年(1610)に荒廃した角渕八幡宮の社殿を玉村の上新田を下新田の境に移築修造し玉村八幡宮と名を改めまつった。
 現在の角渕八幡宮の本殿は、一間社流れ造りで、江戸時代後期の建造である。
                                                                                                        掲示板より引用


                                  

                                       拝殿の手前左側にある大神宮      大神宮の奥にある石祠二基、その右側にも八坂
                                                                        社の石祠がある。



                                                

                                                            拝    殿

                                                

                                                            本    殿

 角淵八幡宮が鎮座する「角淵」という地名の由来は、貞観(じょうがん)4年(862)の10月から翌11月にかけて天災や不吉なことが続いていた。そこで、国司は神官に命じて火雷神社(玉村町下之宮)において神事を執り行わせようとし、その際、副使としてこの地を治めていた武士那波八郎廣純(なわはちろうひろずみ)を同行させた。神官が、斎戒し注連を結んで四方を祈祷し、神前に幣帛を奉り、神鏡を捧げて祈祷を行っていた7日目、怪物が姿を現し、神鏡を奪おうとした。那波八郎廣純は刀を振ってその首を切り落とした。このとき、怪物の折れた角を川に投げ、後に淵になったところが、現在の玉村町「角渕」であり、切った手を捨てたところが玉村町「上之手」(神の手)であるという。


 この地域には蛇神伝説や龍神伝説が数多く存在する。「角淵」の「淵」も河川に関連する地名であることは明白で、利根川流域に存在する玉村町の地形から多くの河川に関係する伝承・伝説が作られたのだろう。

                                 
 

                                角渕八幡宮には庚申塚や水神や猿田彦大神等          社殿奥にある境内社
                                石塔が非常に多い。写真左側には角渕八幡神社  左から古峯神社(倭建命)、戸隠神社(天手力雄  
                                本殿修復記念碑がある。                命)、熊野神社(伊邪那岐命、伊邪那美命、櫛御
                                                              気野命)、石神社(布都御魂命)、稲荷神社(倉稲魂命)

 角渕八幡神社(角渕八幡宮)本殿修復記念碑

 当神社は玉村八幡宮の元宮です。元来角渕地区は水陸交通の要地で早くから開け、源頼朝が狩をして那須野から鎌倉へ帰る途中、角渕に休み、烏川の風景が鎌倉の由比ヶ浜に似ていた為、建久六年(1195)、上野奉行安達藤九郎盛長に命じ、鶴岡八幡宮の別御霊を勧請したと伝えられています。
 八○○年以上の歴史の中で盛衰を繰り返して来ましたが村人は鎮守様として敬い、親しみ、守って来ました。
 現在の本殿は、氏子と近郷の崇敬者が発起人となり、天保二年(1831)に改築が為され、その後幾度か修復してきましたが近年、特に老朽化が進み調査の結果、歴史ある本殿を、末永く後世に伝える為には、銅板葺きの屋根や回廊等の大修理が必要で、工事を行うことが決定しました。
 玉村八幡宮の御力添えと、氏子(二○○世帯)を中心に角渕村民一同協力し、力を合わせ、平成二十二年十二月十五日無事竣工しました。
 平成二十三年十月吉日

                                                                                                 記念碑より引用



                                                 

                                                          角渕八幡神社 遠景





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