埼玉県には時に不思議な名の付く地名や神社が数多く存在する。これは各都道府県にも共通することかもせれないが、その由来はほとんどと言って正直詳らかでない。ここの項でいう「殿」のつく地名や神社はほぼ埼玉県全域に分布し、その数は80にも及び、とりわけ河川(荒川水系)の近傍、特に熊谷市と坂戸市の周辺に顕著であるとの事だ。

 埼玉県熊谷市中曽根には通殿川がある。川自体はいたって小さい川で延長3.7km、流域面積 7.9km2の荒川水系の一級河川で、現在は起点から県道257号線に沿って南下し、熊谷市津田で和田吉野川の左岸へ合流する。流路は荒川と和田吉野川の間の沖積低地に位置し、旧大里町内の中央部を流れていて通殿川の周辺地域には、頭殿や通殿といった地名や神社が意外に多く分布している。なお、地元の人々は通殿川を[づうどの]ではなく、[つうどの]や[づどの]と呼んでいるそうだ。荒川は寛永年間(1630年頃)の瀬替えによって、熊谷市久下から大里町玉作の方へ向かって新水路が開削され(開削ではないとする説もある)、和田吉野川へ繋ぎ替えられたわけだが、それ以前から荒川と和田吉野川は、通殿川を経由して繋がっていたという。


 川の近くにこれらの名を関した神社が鎮座する場合、それは生産神として水を司ったり、川の氾濫を鎮める神(女神)、あるいは舟運の安全祈願として祀られているのだろうか。一方でこれらの地名の周辺には、古代の製鉄遺跡や金属の精錬を生業とする人々が信仰した神社も多く分布している。通殿地名は鍛冶、鋳物師などとの関連性もありそうである。

 目次
   
湯殿神社  /  玉井大神社  /  近殿神社


                               湯殿神社
                                 地図リンク
                                                                       湯殿神社の本来の祭神は何者か                              
                                         


                                              所在地  熊谷市西別府1577
  
                                              御祭神  大山祇神 

                                              社  挌  旧村社

                                              例  祭  不明


 湯殿神社が鎮座する西別府には7世紀以前の古代古墳時代からその地域にとって重要な祭祀施設が存在していた。西別府祭祀遺跡は湯殿神社の北側の裏、湧き水があった場所で行われた祭祀に関連する遺跡で、出土遺物は、土師器・須恵器・土師質土器、当時の高級食器である緑釉陶器や灰釉陶器などの土器のほか、隣接する西別府廃寺に使われた軒丸瓦・軒平瓦などが確認されて、その他にも馬形や櫛形などの滑石製模造品が数多く発見された。

 またこの湯殿神社を取り囲むように南から西方向で発見された幡羅遺跡や、真南にある幡羅郡衙(郡の役所)跡である西別府遺跡、南東近郊で発見された西別府廃寺等、祭祀・古代寺院・郡衙の跡がそろって確認されている遺跡は全国でも例が少なく、注目されている。なお、出土遺物は、平成23年に県指定文化財に指定された。


 湯殿神社の北北東には別府沼公園があり、古くから深谷市と熊谷市の境界にあった、自然の湧き水を源流とする「別府沼」を中心に作られた公園で、東西に約1kmもある細長い公園で、北側にはゴミ処理場である「大里広域市町村圏組合 熊谷衛生センター」、東側には別府小学校、南側には別府中学校がある。

 現在では近郊の人々にとっては憩いの場所となってはいるが、古代は湧水と沼地の多い起伏に富んだ鬱蒼とした複雑な地形だったのではないかと想像を膨らましてくれる、そんな空間の中に湯殿神社は静かに鎮座しているのだ。


                    

                     社殿から少し離れた東側にある社号標    社号標から西に行くと右側に参道入り口が見える。   参道入口には「史跡 西別府祭祀遺跡」と
                                                                                      書かれた柱が立っている。



 
この湯殿神社は籠原駅から行くと埼玉県道276号新堀尾島線を北上して行くと右側に別府沼公園が見えて来るので、反対側の西駐車場に車を置いて公園南西に鎮座する湯殿神社に向かった。但し別府沼公園の西駐車場から湯殿神社は参拝ルートとしては丁度神社の奥からのスタートとなるので、回り込んで行くしかなく、暑い中での参拝は少々きつかった。


                                  

                                        参道の先にある一の鳥居         鳥居を越えると左側に宮城遥拝所、末社があり、
                                                                  右側には伊勢神宮遥拝所の石柱がある。

                                  

                                             拝    殿                         本殿覆屋

                                                   

                                                           拝殿内部撮影

                     

 末社には三峯神社、日枝神社、八坂神社、琴平神社、天神社の五社が祀られて、合祀記念碑には裏面に湯殿神社、諏訪神社、雷電神社、冨士嶽太神の名が記され、明治四十二年十月五日に合祀されたとある。写真右側の石碑には國常立尊・圀狭槌尊・豊斟渟尊の3柱が斜めに彫られている。

                                   

                                
          社殿左奥にある富士嶽太神と食行霊神、左下には小御嶽太神もある。


                        
 社殿の奥にある石碑の近くには「西別府 祭祀遺跡」と書かれた案内板があり、その先には神社裏の堀へ下りる階段があり、そこにはまた「祭祀遺跡出土場所」と記された石柱が立てられている。またその先右側には別府沼公園側に続く裏参道に鎮座する水神の石祠がある。

                              

 西別府祭祀遺跡
 西別府遺跡北側の台地縁辺部に位置し、7世紀中頃から11世紀に至るまで連綿と行われた水辺の祭祀の遺跡です。
 昭和38年に大場磐雄・小沢国平氏らによって第1次発掘調査が行われています(大場他:1963、熊谷市:2011)。その後、熊谷市により平成4年度に第2次調査(熊谷市:2000)、平成17年度に第3次調査(熊谷市2009)、平成19年度に第4次調査(熊谷市:2009)を実施しています。
 調査の結果、湯殿神社裏の湧水地点を中心に7世紀後半に属する石製模造品と、7世紀末以降の土師器・須恵器等が多数出土しています。
 水の恵みを願う7世紀後半の石製模造品を中心に用いた祭祀が、7世紀末から8世紀初頭にかけて郡家が成立したことにより郡家に所属する公の祭祀へと変化し、願文や吉祥文字を墨書した土器等を用いた祭祀へと変化していったことが推測されます。

 
                    

                     「西別府 祭祀遺跡」と書かれた案内板              
水神の石祠                水神の石祠の先にある不思議な石柱
                                                                               何かのご神体か?祭祀施設の一部なのだろうか。


                                  

 神社から別府沼公園側に行く間には写真左のような遊歩道があり、御手洗池と書かれた湧水の源泉池もあるようだ。但しこの御手洗池の湧水量は近年極端に少なくなっているという。


 この西別府地区は、別府沼公園の存在でもわかる通り、古来より沼地が多く、また地形的にも利根川、荒川の間にあり、河川の氾濫地域であったはずである。であるにも拘らず、ここに鎮座している神社は山岳信仰の「湯殿山神社」。どう考えても地形と祭神には矛盾を感じる。

 埼玉県には不思議と「殿」が最後尾に着く地名が多く存在する。通澱、十澱、蔵澱、頭澱、井澱、水澱等だ。特に河川(荒川水系)の近傍、しかもこの地名は熊谷市と坂戸市周辺に特に多いという。「湯殿神社」の本社は出羽三山の一つである「湯殿山神社」と説明する書物等多数存在しているし、自分も「湯殿神社」はこの系統の神社と疑わずにいたが、考えてみるとこの「湯殿神社」には「山」と書かれていない。「湯殿山神社」と同系統と考える理由は何一つないのだ。
 またこの「湯殿神社」の北には「近殿神社」が鎮座しているし、一方でこれらの地名の周辺には、古代の製鉄遺跡や金属の精錬を生業とする人々が信仰した神社も多く分布している。ちなみに湯殿神社の「湯」に関してだが、埼玉名字辞典ではこのように説明している。


遊座・湯座(ゆざ)
 金属が熱に溶けた状態を湯(ゆえ)と云う。鍛冶師湯座(ゆえ)の集落を遊佐と称す



 筆者の個人的な意見としてこの社は「湯殿山神社」とは関係のない、むしろ河川、及び古代の製鉄遺跡や金属の精錬を生業とする人々が信仰した神に関係した社ではないかと考えている。ただあくまで仮説である。この社には何の説明版もなくこのことに関して説明できる資料もない。どなたかこの矛盾をうまく説明してくれる方はいないだろうか。








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 埼玉苗字辞典には「玉井神社」に関して以下の記述をしている。それによれば玉井大神社の前身は「玉井明神」であり、その古は「井殿明神」だったという。

井殿 イドノ 幡羅郡西野村に井殿権現社あり。玉井村の玉井明神社は、古は井殿明神と呼べりと云う。大里郡神社誌に「幡羅郡玉井村の玉井大神社の別当吉祥院は明治維新復飾して井殿敏実と改め神主となれり」と見ゆ。此氏現存す。

 その昔、奈良の興福寺の僧“賢景”がこの地に来たとき、眼病を患ったという。すると、夢の中で「井戸を掘れ」というお告げがあった。そこで賢景は井戸を掘る。滾々と水が湧き出てきたかと思うと、中から現れたのは宝玉だった。賢景はこの水で目をすすぐ。すると不思議なことに、眼病はすっかり治ったという。そこで賢景は井戸の神様を祀って井殿明神(玉井大神社)とし、宝玉を寺宝にして“玉井寺”(ぎょくせいじ)を創建した。「玉井」という地名も、賢景のこのエピソードに由来しているという。



                             玉井大神社
                                  地図リンク
                                                                    オビシャの神事のある古の井殿明神社

                                                


                                             所在地    埼玉県熊谷市玉井1911

                                             主祭神    天津日高彦火火出見命  

                                             社  格     旧村社    

                                             例  祭     3月15日 例大祭 


 
 玉井大神社は国道17号バイパス線、熊谷方面上りで上奈良交差点で右折し、300m先の三叉路を左折すると右側に見えてくる。湯殿神社から大体3q位で、東別府神社にも近く、約1km弱で東南方向に鎮座している。適当な駐車場が見当たらなかったため、一の鳥居、社号標付近の適当なスペースに車を停めて参拝を行った。



                                  

                                        玉井大神社の社号標                  参道より社殿を撮影

                                                


                                        手水舎の横にある掲示板。左側に「オビシャ」についての説明が書かれている。

 ・・・延暦十三年(794)賢憬という僧が當地に滞在中両眼を病んだ。このとき夢の中で告げられた地点に掘った井戸の霊水で眼を洗うと直ちに眼病が治ったという。この井戸の神を祭ったのだ神社の始まりと伝えられる。毎年三月十五日この神社で「オビシヤ」が行われる。これは豊作占いの神事の変化したものといわれすべて謡曲によって進行する祝宴に特徴がある


オビシャ
 
 主として関東地方の各村落で行われる春の行事で、なかでも千葉県北・中部はオビシャ行事が最も盛んに行われる地域の一つである。いずれも年の始めの1月から2月にかけて行うところが多く、元来は弓を射てその年1年の作物の作柄など、神意を占う予祝行事であったと思われる。



                                
 

                            
            拝    殿                     朱色の鮮やかな本殿


                                                       

                                     拝殿の手前左側に八坂神社が鎮座              社殿脇に並ぶ末社

 玉井大神社は延暦年中遷都の折即ち第五十代桓武天皇の御代藤原小黒丸左大辨紀古佐美南都興福寺僧賢憬等に内命を伝えようと四神相応の地を巡視していたとき僧某東国に下り当地に滞在中両眼をひどく病みその折偶々霊夢に感じ里人を鼓舞して井を掘らせその湧水を以て眼を洗い平癒したと伝えられる。その井の神を祭って井殿明神と称し里名の玉の井とはこれから生れたといはれる後社名を改め玉井大神社と称する様になった。御祭神は天津彦火火出見命を主神として十五柱を奉斉する。            
                                                                                              玉井大神社造営記念碑より引用

 玉井大神社は前身名「玉井明神」そしてそれより古い名前である「井殿明神」と言う名称を使用していたという。言い伝えが正しければ時は桓武天皇の時代、つまり8世紀の後半から9世紀前半に当たる。幡羅郡は湧き水の宝庫と言われ、中奈良では、和銅年間に大量の涌泉があり六百余町の壮大な水田を造成させたと「文徳実録」に記されている。実際近年まで西別府祭祀施設跡では湧き水が確認されている。 玉井大神社はまさに大量に湧き水が湧き出ていた中奈良地方と西別府祭祀施設跡の中間に位置していることから豊富な湧き水の存在が想像される。「井殿」という地名の存在こそなによりの証明だろう。 


                                                  

                                                     社殿方向から御神木の銀杏を撮影
                                                この御神木は何百年の歳月を静かに見守っている。

                                      



 地名は生きた化石と云われ、地名の起原や由来を調べれば当時の歴史がおぼろげながら見えてくる。いわば地名とは「歴史の生き証人」と言えないだろうか。
 そもそも地名とは人類が言語を使用するようになってから現在まで、特定の地表面を表現するものとして、何らかの意義を有して命名され、伝えられてきたものである。それは言語の成立とほぼ同時に発生し、生活の場の拡大とともに増加し、時代とともにより表現方法も多彩なものとなって、日本国中の隅々にいたるまで残されてきた。往時の人びとの生活・歴史や精神・文化が、地名には凝縮されていると言っても過言ではない。
 そういう意味で地名は無形の遺物である。資・史料を証明するものであり、資・史料の表現しきれていない隙間を埋める一つの重要なファクター的存在であろうと考えることは愚かな事だろうか。








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  西別府に鎮座する湯殿神社、玉井に鎮座する玉井大神社(古の井殿明神社)の北方向、さほど遠くない位置に同じ「殿」の地名を持つ社が存在する。それが近殿神社だ。旧熊谷市の市域の最北端、深谷市と妻沼町との境界付近、福川の右岸に鎮座する。この近殿神社は同名で熊谷市にもう一社あり、下増田地区の福川を挟んだ北部、飯塚地区に太田神社があり、その社に合祀されているという。



  
近殿神社

                         
   地図リンク                                                    「ちかつさま」と呼ばれる不思議な社                               
                                                


                                              所在地   埼玉県熊谷市下増田749

                                              御祭神   稲田姫命 須佐之男命

                                              社  挌   旧村社

                                              例  祭   不詳


 熊谷市下増田の近殿神社は埼玉県道276号新堀尾島線を北上して17号バイパスを越えて北上し、下増田北交差点を左折する。そして道なりに真っ直ぐ進むと2,3分くらいで到着する。駐車場はないようなので手前の営農施設に車を停め参拝を行った。この社は祭神が稲田姫命、須佐之男命で、通称「ちかつさま」と地元の人からこう呼ばれているそうだ。「大里郡神社誌」によると、水害を逃れて、浄地を相して祀ったとある。


                                   

                                 近殿神社が接するこの道路は埼玉県道263号線で         鳥居から社叢を撮影
                                       これでも県道だが狭路である。 
             

  村社近殿神社は祭神稲田姫命祀?古く當所の鎮守と仰ぎ御稜威いちこに郷人の敬い又いと厚しされは御氏子達事議?て明治二十三年御拜殿修理をし仝三十九年共有田畑四反六畝十九歩を寄せて御社の財産に充仝四十三年公許を得て字新田に坐す稲荷大神及八境内末社とを本社に合祀?ぬ次て仝四十五年初穂組合を設けて資金の積立を圖?更に大正二年御拜殿再建の工を竣い仝三年一月七日神饌幣帛料供進神社に進ませ給ふ又仝六年社務所を新築し仝十一年旗枠を建て昭和三年大禮紀念として敷地四畝十七歩を購い表参道を新設した〜かくて大神の大神徳は清明心と共に普く増田の里に榮え給ふへし
 昭和三年十一月十日


                                   

                                            
拝    殿                        本    殿




                                                                                                
                            
  

                                
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