赤城山は関東地方の北部、群馬県のほぼ中央に位置し、榛名山、妙義山と並び上毛三山の一つと呼ばれ、また日本百名山、日本百名水にも選ばれている。この山は中央のカルデラの周囲を、円頂を持つ1200mから1800mの峰々が取り囲み、その外側は標高にして約800mまでは広く緩やかな裾野の高原台地をなしている。埼玉県北部、熊谷市在住の筆者にとって山といえば「赤城山」であり、また幼少時から北側の風景を見れば赤城山を中心として東は「男体山」、西は「榛名山」、「浅間山」そして「妙義山」に至る大パノラマは、周りの建物の変化、変貌このあれ、変わらない不変的な美しさを今も醸し出している。

 また埼玉県の小学校における林間学校の定番でもある。

 この赤城山を御神体として祀る神社が赤城神社であり、群馬県内には「赤城神社」という名前の神社が118社、日本全国では334社あったとされる。関東一円に広がり、山岳信仰により自然的に祀られたものと、江戸時代に分祀されたものがある。山腹の三夜沢赤城神社(旧県社)または山頂の大洞赤城神社(旧郷社)が総本宮とされている。

 そして埼玉県にも数多くの赤城神社が存在する。


 目次
   赤城久伊豆神社  /  今井赤城神社  /  成沢赤城神社 


                           赤城久伊豆神社
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                                                                 熊谷市石原に鎮座する合祀社

                
        


                                             所在地  埼玉県熊谷市石原1007

                                             御祭神  大己貴命(別名大穴牟遅神)    豊城入彦命

                                             社  挌    不明

                                             例  祭    不明


 赤城久伊豆神社は熊谷駅南口から荒川方向に進み、最初の交差点を右折する。元荒川通りを真っ直ぐ国道140号線方向に向かい秩父鉄道の踏切を越えるとすぐ左側に赤城久伊豆神社の鳥居が見えて来る。駐車場は鳥居を越えた先に広い駐車場があるのでそこへ停め参拝を行った。 


                      

               
                      東側正面にある神明造りの一の鳥居     神明造りの鳥居から撮影、正面に社殿が見える。      参道の先、左側にある手水舎


 神社の案内板によると山の神である赤城神社と水の神である久伊豆神社を合祀したとの事だ。それ故か後で分かったことだが、この社には正面の鳥居が東側と北側の2か所存在する。神明造りで東側に向いてる上の写真は久伊豆神社の鳥居のようで、参道の先には手水舎があり、社殿もこの鳥居の方向に向いているので本来は久伊豆神社が基にあり、その後赤城神社が合祀されたと解釈したほうが自然だと思う。


                                  

                                   よく見ると参道が2方向にあることが分かる。               神楽殿

                                                 

                                                           拝     殿 

                    

                         社殿の左側にある富士塚                社殿の奥にある稲荷社                    同じく合祀社

                                                

                                                            本     殿

 熊谷市赤城久伊豆神社社叢ふるさとの森

   身近な緑が姿を消しつつあるなかで、埼玉らしい豊かな緑を私たちの手で守り、次代に伝えようと、四季 折々の風情に富んだこの赤城久伊豆神社の杜が「ふるさとの森」に指定されました。
  この神社は山の神である赤城神社と水の神である久伊豆神社とを合祀した物で、北面の鳥居は郡(群?)馬県の赤城山に向かい立っています。
  境内にある森はスギ、ケヤキ、クス、エノキなどで構成されており、市街地内にある貴重な鎮守の森として、私たちに、安らぎと潤いを与えてくれています。
  埼玉県熊谷市
                                                                                                                                                               案内板より引用


 この社は赤城神社であると同時に久伊豆神社でもあり、久伊豆神社として説明すると、埼玉県の元荒川流域を中心に100社ほど分布する一地域集中型の神社で、祭神は大己貴命(大国主)。名前の由来である祭神の大己貴命(=大国主命)は出雲大社の祭神で、「出雲」を万葉仮名で書くと「伊豆 久毛」となり、創建当時より(出雲族・多治比真人三宅麿)が故郷を久しみ、久(ひさ)しい出雲(いずも)の大神と呼んだのが転化して「ひさ いず (=久伊豆) 大明神」と呼ぶようになったと考える説もある。この久伊豆神社の分布範囲は、平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党・私市党の勢力範囲と不思議なことにほぼ一致している。

 
この観点から見ると久伊豆神社の最西端である熊谷市石原にこの赤城久伊豆神社は鎮座しているということになる。


                                                 

                                                  北側にある両部鳥居、赤城神社側の鳥居か
                                            参道の先には神楽殿が見える。この社は神社の配置が妙に面白い。







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 熊谷市には他にも今井、成沢地区にも赤城神社は鎮座している。

 今井赤城神社

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                                              所在地   埼玉県熊谷市今井282−1

                                              御祭神   大己貴命、豊城入彦命(推定)

                                              社  挌   旧指定村社

                                              例  祭   不詳


 今井赤城神社は熊谷市街地内にあり、国道17号バイパスを肥塚交差点を左折し、埼玉県道83号熊谷館林線、通称さいたま博通りを北上して2,3分真っ直ぐ進むと右側に赤城神社が見えてくる。丁度運動公園のT字路の交差点手前右側にあるので解りやすい位置にある。駐車場はさいたま博通り沿いにはないので、約500m位手前のコンビニに車を停めて参拝を行った。

                          

                        さいたま博通り沿いにある社号石標   南側へ回るとこちらにも鳥居があり、赤城神社の   一の鳥居を過ぎるとすぐに二の鳥居、社殿が
                                                         一の鳥居と思われる。                    見えてくる。      


                                
 

                                             拝   殿                        本    殿
                        境内、特に拝殿前には松の木が多く、拝殿を撮影する時少し邪魔になる。


 社殿の左側には社殿修復記念碑があった。残念ながら撮影はしなかったがこのように記載されている。

 社殿修復記念碑

 平成十六年十月第五十九回国民体育大会秋季大会が熊谷市で開催されることになり、会場周辺整備のため当社赤城神社も土地の一部を割譲し大会成功のため協力をした。
 当社の創建は明らかではないが、造営記録としては、元和元年(西暦一六八一年)本殿再建の棟札がありその後の本殿修理の記録はない。
 再建後三百年以上を経過し老朽化したので、国民体育大会記念事業として本殿・諏訪社・天神社の修復をし、境内の整理・玉垣の整備等を行い十五年十月工事が完了した。
 本事業が滞りなく完遂できた事は、尊き御神威の賜物であり深く感謝し、今井地区の安寧を祈念し慈に記念碑を建立する。
  平成十五年十月十四日

                                  

                                        拝殿左手側には八坂神社があり、裏手には天神宮と諏訪社が納められている。







                                        

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 成沢赤城神社

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                                             所在地     熊谷市成沢346-2

                                             御祭神     大己貴命、豊城入彦命

                                             社  挌     旧村社

                                             例  祭     7月第3土曜日


 埼玉県道47号深谷東松山線を東松山方向に進み、荒川を越え最初の交差点(押切交差点)を左折、埼玉県道81号熊谷寄居線に変わり、この道を5分弱位真っ直ぐ進み成沢交差点を右折すると右手側に赤城神社が鎮座している。駐車場は社の隣に集会所があり、そこに停め参拝を行った。

                                   

                                  赤城神社正面、南向きで境内は明るく開放的          鳥居の隣にある案内板

 赤城神社      所在地 熊谷市成沢

 赤城神社の祭神は大己貴命、豊城入彦命であるが、いい伝えによると大山祇命と称したこともある。
 当社の神体は、金箔の木造である。本殿は大破風向千鳥軒唐破風欅材屋根鱗葺の造りで、末社にはクマに神社、天神社、稲荷神社、津島神社がある。
 古老の説によると、「創建は不詳であるが鎌倉時代以前といわれ、武州深谷の城主上杉左兵衛憲盛の信仰少なからず、当時は相応の社領を有し社頭の風致等見るものが多かった。」といわれている。なお、末社の熊野神社は根岸に、天神社は字宿浦に鎮座し、稲荷神社は神力寺境内に鎮座していたところ、明治維新の際、赤城神社境内に移転したものである。
 末社の津島神社の大祭は毎年7月24日「天のう様」で、みこし、屋台などが出て大変賑やかである。

 平成11年12月        埼玉県
                                                                                                        案内板より引


                                  

                                            拝    殿                        本殿覆屋

                     

                           境内社 三峰神社                    境内社 左から                     境内社 津島神社
                                                     天満神社、山口神社、愛宕神社
                                                     熊野神社、琴平神社、大雷神社


                                                                                       

 神社の隣に集会所があり、またその敷地内には児童用の遊具もあり、その一角に石塔が2基存在する。この社には他にも毘沙門天碑や地蔵像などがあり、神仏混淆時代の痕跡が残る神社だった。






                                       

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