古櫃神社が鎮座する深谷市新戒は「新開」とも書き、鎌倉右府の時(源頼朝の時代)、秦河勝の末、新開荒次郎忠氏が、この地に要害を築き、祖神大荒明神を勧請し、伝来の武器を刀櫃に入れ社の下に納めたものという。旧称「明神宮」または「新開神社」という。
 新開氏は秦河勝の後裔といわれ、もとは信濃国が本領で同国佐久郡および近江国新開荘が所領地とされる。佐久を本貫地とするこの新開氏の一派は武蔵国の新戒(榛沢郷大寄郷)に移住し、古櫃神社を創建した。信濃国佐久郡の内友荘田口郷に新開大明神が祭られたとき、松皮菱を紋とし、同様に移住先の古櫃神社の神紋も同じ松皮菱であるという。

 佐久郡と新戒の地名と新開荒次郎忠氏が繋がっていて、しかもそれらは秦河勝、つまり古代朝鮮新羅系
渡来人一族である秦氏とも繋がっている。歴史とはこのように深いものなのか、感慨深いものがあった。

  目次  古櫃神社  /  中瀬神社  /  鹿島神社

                               古櫃神社
                                  地図リンク
                                                                     
古代名族秦氏の血筋の系統の社

                                                


                                             所在地    埼玉県深谷市新戒300

                                             御祭神    大荒明神(大荒彦命)

                                             社  挌    旧村社

                                             例  祭    11月15日 秋祭り  11月23日  新嘗祭 


 古櫃神社は国道17号バイパス線を深谷方向に進み、深谷署前交差点を右折し、そのまままっすぐ進み、小山川を越え新戒交差点を右折し(この道は埼玉県道45号本庄妻沼線)約1km位で到着する。進路方向に対して右側にあり、駐車場もその道路上に数台駐車スペースがある。ただ社殿は南向きなので、駐車場は社殿正面の真逆に位置するため、いったん回るようにしなければ参拝できない。といってもそれ程大きい社ではないので苦にはならないが。

                                   
                              
                                       古櫃神社 一の鳥居と社号標             一の鳥居の左隣にある案内板

 古櫃神社(新戒)

 
全国で唯一の社名をもつ当社は、新戒の鎌倉街道北側に鎮座している。
創建は鎌倉期秦河勝の裔で、新開荒次郎忠氏が肥沃な当地に館を構え、祖神の大荒明神を勧請し、伝来の社器を櫃に入れて社の下に納め、館の守護神としたことによると伝える。
新開荒次郎忠氏は鎌倉時代丹党の旗頭で、源頼朝の重臣なり。
 永禄年中深谷上杉氏に属す。深谷上杉氏は北条氏に協和しており、北条氏が滅ぶと新開氏も深谷上杉氏とともに滅んだが、四国に移った一族は阿南市牛牧城主となり、地域発展に貢献し、城跡には新開神社がある。
 年間の祭事は、春・秋の祭りなどあり、五穀豊穣と奉賽の祭りが行われ、七月の八坂祭は特に盛大に行われ、市内最大の神輿を渡御して健康を祈る。
                                                                                            平成15年9月  深谷上杉顕彰会
                                                                                                       案内板より引用


                                   

                                        拝殿左側手前にある社務所         参道から見た拝殿と両側にある銀杏の大木
                      ちなみに拝殿の両側にある銀杏はどちらも
深谷市指定保存樹木第13号(左側)、14号(右側)で、どちらも平成二年十月二十日に指定されている。

                                   

                                             拝   殿                        本   殿

                                   

                                       
       神輿庫                    手前、奥共に猿田彦大神

                    

                       境内社 左側不詳 右側八坂神社                 稲荷社                           大杉神社

                                                 

                                                             浅間神社

 祭神 木花佐久夜毘売命
 由緒
  源頼朝の富士の巻狩のころ、新開荒次郎忠氏は、駿河の富士山に向かって当地に丘を築き、富士浅間神社を祀って武運長久を祈ってのち、参向したという。明治初年より明治20年頃まで、富士講の盛んだった時代があった。当事3月3日の大祭には、社殿は御篭りと称して参篭する者で溢れたため、富士講先達たちにより篭り堂が建設されたほか、数々の奉納があった


 この古櫃神社は全国的に見ても唯一の名「古櫃」を使用した神社で、名前の由来も新開荒次郎忠氏が、この地に要害を築き、祖神大荒明神を勧請し、伝来の武器を刀櫃に入れ社の下に納めたものと言われているが、真相は違うところにあるのではないだろうか。というのも境内社 浅間神社の石垣の中に奇妙な石碑があるのだ。

                                                

 この石碑の築造年代は不詳だが、石碑表面の研磨状態等、一見したところ新しく感じた。この石碑には中央に4文字しっかりとした字体で彫られている。1文字目は上部が欠けているので判別できない。また書体が3文字目、4文字目の部首が「しめすへん」でそれぞれ「神」、「社」の篆書体のようにも見える。そして一番難しいのが2文字目だ。
 そこで都合がいいことは承知の上で、この石碑がこの神社の境内にあることから単純に「こひつ(びつ)じんじゃ」と書かれていると仮定した。そしてこの4文字を現代書体で書くとおおよそこのようになると推定した。以下の通りだ。

 ・ @古 +A羊 +B神 +C社



 新開荒次郎忠氏の祖先神である秦河勝は6世紀後半から7世紀半ばにかけて聖徳太子の側近として大和朝廷で活動した秦氏出身の豪族と言われている。そして秦河勝の子孫は信濃国の佐久地方に東国の根拠地を置いてその一派がこの新戒にも移住したというが、その移住ルートは間違いなく東山道だろう。

 対して羊一族といえば多胡羊太夫だが、この人物(人物ではない説もあるがここでは人物としてあえて詮索しない)は養老5年=721年までは生存していた、と言われている。埼玉名字辞典では「羊」について以下の記述をしている。

羊 ヒツジ 中国では北方の羊を飼う異民族を蕃(えびす)、胡(えびす)、羌(えびす)と称し、あごのたれさがった肉、転じて胡髯(あごひげ)と云い、羌(ひつじ)、羊(ひつじ)はその蔑称である。大和朝廷は中華思想により大ノ国(百済、伽耶地方)の渡来人を蕃、羊と蔑称した。オオ条参照。大ノ国の胡(えびす)居住地を大胡(おおご)、多胡(おおご)と称し、タコとも読んだ。百済(くだら)も管羅(くだら、かんら)と称し、甘楽(かんら)、甘良(かんら)と読んだ。上野国多胡郡池村(多野郡吉井町)の多胡碑に「和銅四年三月九日、弁官、上野国に符し、片岡郡緑野郡甘良郡并せて三郡の内三百戸を郡となし、羊に給して多胡郡と成す。左中弁正五位下多治比真人、太政官二品穂積親王、左大臣正二位石上尊(麻呂)、右大臣正二位藤原尊(不比等)」とあり。多胡郡百済庄は吉井町池、片山、長根、神保附近一帯を称し、羊は和銅より数百年前から居住していた百済人を指す。また、和銅四年より五十数年後の天平神護二年五月紀に「上野国に在る新羅人子午足等一百九十三人に、姓を吉井連と賜ふ」とあり。新羅人も入植していた。上毛古墳綜覧に多胡郡黒熊村字塔ノ峰(吉井町)より「羊子三」とへら書した古代の瓦が出土したという。群馬県古城塁址の研究に「黒熊村の延命寺の地域は伝説に羊太夫の臣黒熊太郎の古跡なり」と見ゆ。また、甘楽郡天引村(甘楽町)の天引城は羊太夫の砦と伝へる。緑野郡上落合村(藤岡市)七輿山宗永寺は羊太夫家臣長尾宗永の居所で、羊太夫の死後その婦妾七人が宗永に救助を求めて輿中で自害し、のち墳墓を七輿山宗永寺としたと伝へる。



 少なくとも秦一族が佐久を東国の本拠地として領有していた時期と、羊一族が多胡地方に生活の基盤を構築した時期はそれほど変わらないように感じる。そして秦一族は東山道を通して幡羅郡新戒に移住する。そしてそのルートの途中に多胡が存在し、加えて古櫃神社の境内の片隅にある「古羊(?)神社」の石碑。偶然として関連性がないと断言することはいささか早計なことではあるまいか。







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 古櫃神社から北西方向約2,3km程行くと中瀬神社がある。

                                   中瀬神社 
                                     地図リンク

                                                 


                                             所在地  深谷市中瀬650

                                             御祭神  市杵嶋姫命 外十四柱
                                                    又は弁才天、十五童子

                                             社  挌  旧村社

                                       
      例  祭  11月23日 新嘗祭


 中瀬神社は群馬・埼玉県道14号伊勢崎深谷線の上武大橋(南)交差点を右折した中瀬地区内にある。ただ上武大橋(南)交差点を右折し真っ直ぐな道であるわけではないので注意は必要だ。交差点から真東方向に約1km弱位にこの社は鎮座していると考えてくれれば良いと思う。駐車場は一の鳥居の右側に駐車スペースがあり、そこに停め参拝を行った。

                                   

                                           正面一の鳥居              一の鳥居を越えるとすぐ先に二の鳥居あり                        

 由  緒

 当社は、古くは十五社大明神と称し、吉祥寺の持であった。祭神は弁才天と、その眷属である十五童子を祀っている。弁才天は古代インドの神話に出てくる神で、河を神格化し豊穣をもたらす神である。十五童子は、後世、弁才天を弁財天とも書き、福徳の神と信じられるようになった時、その神徳を表現したものである。才天が水辺や池中の小島に祀られている例が多いのは、
  河の神格化の考えが残っているためであり、当社の場合も、文亀年間(1501−04)、河田義光による開発と共に、利根川辺りに祀られたと考えられる。
 大正二年に村内の神社を合祀し、社名を中瀬神社と改めた。
                                                 「埼玉の神社・埼玉県神社庁発行」より引用


                                  

                                          拝    殿                   拝殿の彫刻もなかなか見事

                                                

                                                   拝殿の奥にある本殿
 本殿は深谷市の文化財に指定されており、木造銅板葺平屋建で「天保十一年(1840)五月一日上棟 宮大工河田主計千豊」の書付が有るという。残念ながら現在覆い屋があり見ることはできない。
 中瀬神社の創立年代は不詳だが、古く中瀬村の鎮守と崇め、弁財天と十五童子がまつられた。元は「十五社大神社」(十五社様)の名で、字西原に鎮座していたが、大正2年に現在地に遷された。社宝の十五童子木像は、もとは十五社神社の神体だったという。
 明治41年、村長及び氏子惣代が、忠魂碑と征露記念碑の揮毫御礼のために、乃木大将邸を訪問した折りに、静子令夫人から寄贈された硯箱を、宝物として保存する。

                    

 この社が鎮座する中瀬地区はすぐ北に利根川があり、過去何度も洪水による被害を受けたであろうことは想像に難くない(写真左側)。社殿の基礎が数十センチ高く積まれているのも洪水対策用に造られたものだろう。のどかな田園風景の陰に隠れている歴史の別の一面も感じずにいられない。写真中央は忠魂碑。社殿右側奥には石祠がある。


 また中瀬神社の御祭神は市杵嶋姫命といい、日本神話に登場する水の神で、『古事記』では市寸島比売命、『日本書紀』では市杵嶋姫命(さよりびめのみこと)とされており、スサノオの剣から生まれた五男三女神(うち、三女神宗像三女神という)の一柱とされている。市杵島姫命は天照大神の子で、皇孫邇邇芸命が降臨に際し、養育係として付き添い、邇邇芸命を立派に生育させたことから、子守の神さま、子供の守護神として、崇敬されている。後に仏教の弁才天と習合し、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えられている。







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 下手計地区に鎮座する鹿島神社は中瀬神社の南西方向にあり、下手計の鎮守の社である。当社の創建については。二つの経緯が考えられる。まず、第一は、当地に隣接する中瀬の地は、利根川に臨み、かって鎌倉古道である北越街道の通路に当たる渡船場があり、また利根川の舟運にかかわる河岸場が置かれていたことから、古くから要衝であったことがわかる。このような背景から、利根川の舟運にかかわる村人が、日ごろから航海安全の神として信仰する常陸国一ノ宮の鹿島神宮の神を当地に分霊したとする説である。
 第二は、かって隣村の大塚島に鎮座する鹿島大神社の社領であったと伝える下手計・沖・戸森・内ヶ島・田中(伊勢方の小字)などの村々などには「鹿島社」が祀られている。このことから、当社は往時、この鹿島大神社から分霊を受けたとする説である。
 いずれにせよ、鎌倉公方足利基氏御教書に、貞治二年(1363年)に安保信濃入道所領の跡、下手計の地を岩松直国に与えるとあるところから、この時期既に上下に分村していたことがわかり、社の創建もこの時代までさかのぼるのであろうか。
                                                                                       
 「埼玉の神社・埼玉県神社庁発行」より引用     

                                  鹿島神社
                                    地図リンク
                                                                   
武蔵国北部に鎮座する鹿島様

                                                  


                                             所在地   埼玉県深谷市下手計1143

                                             御祭神   武甕槌尊

                                             社  挌   旧村社

                                             例  祭   11月15日 秋祭り


 
 鹿島神社は中瀬神社から群馬・埼玉県道14号伊勢崎深谷線に戻り南下し、下手計交差点を右折すると約500m位で右側に鹿島神社の社号標石が見えてくる。駐車場は鳥居を潜ると社の広い空間があり、車両の轍の様子から可能とは思ったが、やはりここは思い直して社号標石の近くに車を停めて参拝を行った。


                     

                           道路沿いにある社号標石                 鹿島神社の参道              一の鳥居、ちなみに鳥居は鹿島鳥居


 参道を通ると拝殿の手前に今はすでに朽木となった大欅の大木がある。この大欅は大正13年埼玉県の天然記念物に指定されていた。

                                   

 深谷市の偉人として江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した「渋沢栄一」翁がまず最初に思い浮かぶが、この翁が生まれ育った場所がこの下手計だ。この鹿島神社にも翁に関係した逸話があり、渋沢栄一翁の母「えい」はたいへん慈悲深い人で、鹿島神社の境内に設けられた共同浴場で、当時人々から嫌がられた病気の人の背中を流したという。この共同浴場に使われた井戸の跡が、境内の大欅の根元に残っているという。真近で実見すると歴史を感じさせてくれるある種の威圧感があった。


 この大欅のすぐ近くに鹿島神社の案内板がある。
                                                    

 鹿島神社

 創立年代は不明だが、天慶年代(十世紀)平将門追討の際、六孫王源経基の臣、竹幌太郎がこの地に陣し、当社を祀ったと伝えられる。以降武門の守とされ、源平時代に竹幌合戦に神の助けがあったという。享徳年代(十五世紀)には上杉憲清(深谷上杉氏)など七千余騎が当地周辺から手計河原、瀧瀬牧西などに陣をとり、当社に祈願した。祭神は武甕槌尊で本殿は文化七年(1810)に建てられ千鳥破風向拝付であり、拝殿は明治十四年で軒唐破風向拝付でともに入母屋造りである。境内の欅は空洞で底に井戸があり、天然記念物に指定されていたが、現在枯凋した。尾高惇忠の偉業をたたえた頌徳碑が明治四十一年境内に建立された。
                                                                                            昭和六十年三月 深谷上杉顕彰会
                                                                                                        案内板より引用


                                    

                                             拝    殿              黒が基調の重厚感のある鹿島神社 本殿

                                                

                                         拝殿には渋沢栄一が揮毫になる「鹿島神社」の扁額が掲げられている。



 境内は思ったより広大で、多くの境内社、石碑等存在する。 

                    

                         社殿の裏手には三峯講社                    神楽殿                     本殿裏にある香取神社

                                   

                                      鹿島神社の右隣にある八坂神社     八坂神社の奥に手計不動尊。奥に見えるのは納札所

 
 鹿島神社が鎮座する下手計地区は前述の渋沢栄一翁の生家があるが、境内にはこの翁の論語の師匠と言われる尾高藍香(らんこう)の頌徳碑がある。

 
尾高惇忠                               
生年: 天保1.7.27 (1830.9.13)
没年: 明治34.1.2 (1901)
 官営富岡製糸場の初代所長、明治前期の殖産興業推進者。武蔵国榛沢郡手計村(深谷市)の名手尾高保孝の子。幼名新五郎,字は子行,後に藍香と号した。明治1(1868)年彰義隊に参加するが脱退,その後振武軍に加わり官軍と戦って敗退。維新後は明治2年静岡藩勧業付属,3年民部省監督権少佑,次で大蔵省製糸場の計画を担当した渋沢栄一の漢学の師であり、義兄に当たる(妹千代が栄一の最初の婦人)ことから,同省勧業寮富岡製糸場掛(のち勧業大属)となり,同製糸場の建設、経営に尽力。長女勇は伝習工女に志願してこれに協力した。また秋蚕の飼育法を研究し,その普及に努力した。9年末同製糸場を辞し、翌年から第一国立銀行仙台支店長等に勤めるかたわら,製藍法の改良、普及にも尽くし、著書に『蚕桑長策』(1889),『藍作指要』(1890),がある。
<参考文献)塚原蓼洲『藍香翁』

                
                                  

藍香尾高翁頌徳碑について

 尾高惇忠を敬慕する有志によって建てられたこの碑の除幕式は、明治四十二年(1909)四月十八日に挙行されました。
 おりから桜花満開の当日、澁澤栄一はじめ穂積陳重、阪谷芳郎、島田埼玉県知事など、建設協賛者である名士多数が臨席されました。その際、尾高惇忠の伝記「藍香翁伝」が参列者一同に配布されたのです。
 碑の高さは役四・五メートル、幅は役一・九メートル、まさに北関東における名碑の一つです。石碑の上部の題字は、澁澤栄一が最も尊敬する最後の将軍、徳川慶喜によるものです。碑文は三島毅、書は日下部東作、碑面に文字を刻む細工は東京の石工・吉川黄雲がそれぞれ当たりました。
 郷土の宝物であるこの名碑を大切にし、藍香翁はじめ先人の遺徳を偲び、共に感激を新たにいたしましょう。
                                                                                                        平成十七年十月
                                                                                                         案内板より引用

                                 





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