赤城神社は、「赤城」を社名とする神社で、群馬県中央部に位置する赤城山を祀る神社である。赤城山は関東地方の北部、群馬県のほぼ中央に位置し、榛名山、妙義山と並び上毛三山の一つと呼ばれ、また日本百名山、日本百名水にも選ばれている。この山は中央のカルデラの周囲を、円頂を持つ1200mから1800mの峰々が取り囲み、その外側は標高にして約800mまでは広く緩やかな裾野の高原台地をなしている。この赤城山を御神体として祀る神社が赤城神社であり、群馬県内には「赤城神社」という名前の神社が118社、日本全国では334社あったとされる。関東一円に広がり、山岳信仰により自然的に祀られたものと、江戸時代に分祀されたものがある。

 赤城神社は式内社であり名神大の社格があり、上野国の二之宮である。伝承では、本来、一之宮であったが、財の君である、貫前の女神を他国へ渡してはならないと、女神に一之宮を譲ったという。さらに、赤城神が絹機を織っていたが、絹笳が不足したが、貫前の女神から借りて織り上げたとも言う。ここでいう「財の君」はまず貫前神社の祭神である姫大神であり、「他国へ渡してはならない」との他国とは信濃の建御名方刀美神であるという。
 別の伝承もあり、群馬県で有名な三つの神社、赤城神社、榛名神社、貫前神社、実は、この三つの神様が、三姉妹であった、という伝承が残っている。それにまつわるお話が、「一ノ宮伝承」で、上記「三姉妹」の女神様たちが、高天原の神々に対して、本職であるところの「織物」を献上することとなった。三姉妹はそれぞれ織物を織ったのだが、当時「一ノ宮」であった「赤城神社」の「姫大神」さまは、材料が不足していたため、約束の織物を作成することができそうになかった。そこで、赤城神社の姫大神さまは貫前神社の姫大神さまから 「材料」を借りて、約束の織物をつくることができたという。その時の功績に基づいて「これからは貫前神社が上野の国の一ノ宮とする」と決められたというが真相はどうであったろうか。

 この社の正式名称は「赤城神社」であるが、他の赤城神社との区別のため「三夜沢(みよさわ)赤城神社」とも呼ばれる。関東地方を中心として全国に約334社ある赤城神社の本宮と推測されるうちの一社である。



                            三夜沢赤城神社
                                    地図リンク 
                                                                全国334社の赤城神社の総本山と言われる名社

               
         
                                                                         


                                     所在地    群馬県前橋市三夜沢114

                                     御祭神    赤城大神(大己貴命、豊城入彦命)

                                     社  挌    式内社(名神大)論社、上野国二宮論社、旧県社

                                              古くから文武の神として、武将が崇敬した神社で、創建は
                                              祟神天皇朝の頃と言われる

                                     例  祭    元日祭・1月1日、修請会・1月5日、御鎮祭・3月と11月の10日、
                                              御神幸・4月と12月の初辰日、例大祭・5月5日


 三夜沢赤城神社は大胡神社から群馬県道16号大胡赤城線を北上し道なりに真っ直ぐ進み、その突き当たりに鎮座している。筆者は埼玉県北部の熊谷市に在住しているが、そこから見る赤城山は美しい稜線と裾野が広がる雄大な山だが、流石に赤城山南麓となると周りの風景も一変する。それはそれで風情もあり良いものだが。
 正面鳥居の左側には専用駐車場もあり、そこに車を停めて参拝を行う。ちなみに前出の群馬県道16号大胡赤城線をそのまま北上すると赤城山山頂に行き着くが、山頂付近の富士見町には大洞赤城神社が鎮座していて、その丁度南側で、赤城山南麓にこの三夜沢赤城神社が、そしてその南方向には里宮的な位置に二宮赤城神社がほぼ一直線に鎮座している。



                                        

                                                     参道手前の木製の大鳥居

                   鳥居の両側には「赤城神社」の社号標。時代が異なるのであろう、左側のそれは新しく、また一際大きく「縣社 赤城神社」と書かれている。

赤城山山頂に鎮座する大洞赤城神社の朱色を基調とした華やかで派手な社殿とは対極に位置する神秘的で、荘厳な社。大鳥居の前に佇むだけでもその神々しい雰囲気に暫し圧倒される。

                                                 

                                                   大鳥居の手前、右側にある案内板

 

赤城神社由緒略記  勢多郡宮城村大字三夜澤鎮座

祭神  赤城神  大己貴命、豊城入彦命 

由緒  赤城神社は東國開拓の神々が 祀られている古来の名社である
東國経営にあたつた上毛野君の創祀 以来 國司 武将が篤く崇敬し朝廷 からも承和六年(西暦八三九年)に従五 位下を贈られ 元慶四年西暦八八〇 年に従四位上にあげられ 延喜  式には名神大社に列せられた 長元九年 (西暦一〇二八年)頃には正一位に叙せ られ次いで上野國の二宮とうやまわれていた。
赤城山は高く 美しく うしろに山 山をひかえて 雄然と聳えている
山頂の小沼から出る粕川を始め各河 川は麓の村〃をひろくうるほしてい る その尊厳と恩恵とはみ山とよは れ親しまれ尊はれ上毛野君の昔から 祀りつかれて来た
分社は群馬県下のみで七十八社その 他を併せると三百余社に及ぶ昭和十 九年(西暦一九四四年)には國幣中社に 昇格の内定があつたが 終戦後は國 土建設 開拓精神発揚のため神威 益々顕著である(以下略)

                                                                                                        案内板より引用


                                

                                     鳥居を入って右手にある神池       池全体から蒸気が立ち上っていた。何と幻想的
                                                                      で神秘的な雰囲気

                                       

                                            圧倒されるくらいの神々しい空間。溢れんばかりの聖域感

 
                                

                                    参道の途中には神代(じんだい、かみよ)文字が掘られた明治3年の石碑がある。

 神代文字の碑(前橋市指定重要文化財)
 
 一般に日本民族は漢字が伝わる以前は、文字というものを知らなかったとされているが、伝説ではそれ以前に神代文字と呼ばれるものがあったといわれ、現在ははっきりしているものだけでも数種類にもなります。
 この碑文は復古神道を体系づけ実践化し、又「神代日文伝(かむなひふみ)」の著作者で神代文字肯定者の一人でもある江戸時代の国学者平田篤胤の養子鐵胤が、上部の神文については、鐵胤の子延胤が撰文し、書は篤胤の門人権田直助によるものです。
 神文については、対馬国「阿比留家」に伝わる神代文字(阿比留文字)で書かれ、復古神道の遺物として重要なもので明治三年三月に建てられました。(案内板より引用)

 神代文字(じんだいもじ、かみよもじ)とは、漢字伝来以前に古代日本で使用されたとされ る日本固有の文字の総称であり、主に神社の御神体や石碑や施設に記載されたり、神事などに使われており、一部の神社では符、礼、お守りなどに使用するほか、神社に奉納される事もあった。機密文書や武術の伝書のほか、忍者など一部の集団で秘密の漏えいを防ぐために暗号として使用されたという。また、江戸時代の藩礼の中には、偽造防止のため意図的に神代文字を使用したものもあるそうだ。

 三夜沢赤城神社のある神代文字は「阿比留文字」と言われる対馬国のト部氏、阿比留氏に伝わったといわれ、江戸時代の国学者である平田篤胤は「日文四十七音」とも呼んだ。太占の兆形から出来たともいわれる。古代の肥後国球磨郡(球磨川流域・球磨盆地)に住んでいた人(肥人、くまびと)が使っていた文字とされる事から「肥人書」とも呼ばれる。

 この赤城神社境内神代文字の碑は昭和53年4月1日前橋市指定文化財に登録された。


                                  

                                               境内全域に立ち並ぶ杉の木の大木、巨木。         

                                

                                                     石段の上には拝殿が見える。


                                        

                                                 向拝のない神明系の厳かで大きな拝殿
                                               明治年間に火災で焼失した後、再建されたもの。

                                       

                                           拝殿の後方、一段高く中門があり、垣の中に本殿が見える。
                               かつて御本殿は東西に分かれそれぞれ御祭神をお祀りしていたが、明治2年に合祀されたとのこと。

三夜沢赤城神社概要

 三夜沢赤城神社の創建は不詳ですが古代上野国を支配した上毛野君(豐城入彦命子孫)を祀っている事からも古くからの産土神として信仰されてきたと思われます。上野三山である赤城山、妙義山、榛名山は古くから霊山・神山として信仰の対象だった存在で、上野国の象徴的な存在と朝廷の権力を融合させる事でより円滑に支配を固めていったと思われます。赤城山荒山の中腹にある「櫃石」は古墳時代中期の祭祀跡と推定され高さ2.8m、最長4.7mの巨石を中心に自然石や祭祀遺物が発見され群馬県指定史跡に指定されています。赤城神社は承和6年(839)に従五位下、元慶4年(880)に従四位上、長元9年(1028)には正一位の格式を賜り、延喜式神名帳には名神大社に列せられ、上野国十二社の内貫前神社に次いで二ノ宮となっています(当初、赤城神社が一ノ宮だったそうですが機を織っている時に「くだ」が不足になり、貫前神社に借りて織り上げたので、織物が上手で財を持っている貫前神社に一の宮を譲ったといわれています。)。
 赤城神社は早くから神仏習合の形態を取り入れ小沼の神は虚空蔵、大沼の神は千手観音が本地となり、時代が下げって地蔵菩薩が加わったとされます。当初は東西2社に分かれていて、西社に小沼の神と大沼の神が祀られ、東社には地蔵菩薩が祀られていましたが、貞和元年(1345)頃、現在地である東社の境内に西社が遷座し、両社が並存する形態となりました。歴代領主や支配者から崇敬され鎌倉幕府三代将軍源実朝は「上野の勢多の赤城のやしろ やまとにいかで あとをたれけむ」の唄を残し、上杉氏、武田氏、小田原北条氏、大胡氏、由良氏、長野氏など大大名から地元領主まで多くの祈願文や寄進状が残されています。明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され、東西両社が統一、別当神宮寺であった東社の竜赤寺と西社の神光寺が廃寺となり赤城神社として独立します。現在の本殿(神明造:切妻、平入、銅板葺、桁行3間、梁間2間)、宮殿、中門(四脚門:一間一戸、切妻、銅板葺)、明治2年(1872)に建立されたもので、時代背景から復古神道の影響をうけた代表的神社建築として群馬県指定文化財に指定されています(同時期に建てられた拝殿と神楽殿は明治27年に火災により焼失しその後、再建。)。惣門は宝暦元年(1751)に建てられた三夜沢赤城神社境内にある最古の建物として群馬県指定文化財に指定されています。
 赤城神社の本社は赤城山山頂に鎮座する元社と麓にある二宮赤城神社と三社が名乗っていて、記録の散逸などで詳細は不明ですが、元々の本社は二宮赤城神社とされ、戦国時代に北条氏の兵火により衰退したことで、その山宮とされる西社を擁する三夜沢赤城神社東社が本社の地位を確立、江戸時代に入ると前橋藩の藩庁が置かれる前橋城から鬼門に当る為藩主から崇敬された元社が急速に力と権威を付けたという説が有力なようです。赤城神社信仰は広く群馬県118社、埼玉県23社、栃木県9社、茨城県10社、新潟県13社、福島県11社あり合祀されたものを合わせると334社に達するそうです。


                                                  

 

群馬県指定天然記念物  三夜沢赤城神社のたわら杉
昭和四八年四月二五日指定

 赤城神社の境内には杉の大木が多数あり、ヒノキやアスナロ などもみられます。中でも目を引くのが中門南側とその西隣に ある三本の杉の大木「たわら杉」です。東側のものから、目通 り周五・一m、六・一m、四・七m、根元周六・〇m、九・六 m、五・六mとなっており、樹高は各々約六〇mです。これら 三本の杉は群馬県内でも最大級のものといえるでしょう。
 たわら杉には、「藤原秀郷(俵藤太)が平将門について上野 国府(前橋市)に来る途中、赤城神社の前を通りかかった際に 献木したものである」という伝説が伝えられています。藤原秀 郷は藤原鎌足八代の後裔と伝えられ、平将門の乱を平定し、武 蔵守・下野守・鎮守府将軍をつとめたとされる平安時代の武将 ですが、その実像はあまりわかっていません。
 一方、秀郷に関する伝説としては、大ムカデを退治して琵琶 湖の龍神を助けた、弓矢の名手にして神仏への崇敬篤い英雄と して描く御伽草子「俵藤太物語」が有名です。鎌倉時代、上野 国(群馬県)東部から下野国(栃木県)南部にかけての地域は、 幕府の弓馬の家として一目を置かれた大武士団の拠点でした。 彼らはともに「秀郷流」を称していましたので、おそらく秀郷 がムカデ退治の弓矢の名手「俵藤太」として説話の世界で活躍 を始めるのはこのころからです。秀郷流武士団のなかでも赤城 神社への信仰が篤かったのは大胡氏でしたが、富岡市一之宮貫 前神社境内にある「藤太杉」にも同様な伝説が伝わっているこ とから、弓矢の名手秀郷へのあこがれは、中世の武将たちに共 通する意識だったのかもしれません。
 ところで、日光の二荒山神社の縁起では、日光神と戦った赤 城神がムカデの姿で表されており、起源を異にする秀郷とムカ デと赤城神社が様々な伝承や説話を受け入れながら結びついて きた様子がうかがえます。このように、「たわら杉」とその伝 説は、名も無き多くの人々の交流の歴史を伝える遺産であり、 赤城神社に対する時代と地域を越えた篤い信仰を象徴していま す。

                                                                                                      境内案内板より引用




                                 
 

                                      拝殿の西側にある神楽殿           本殿の東側の斜面に多数ある石祠群

                                       

                                                    拝殿から一の鳥居方向を撮影

 三夜沢赤城神社は社全体が赤城山の空間というか自然の中に包まれているようで、群馬県指定天然記念物に認定されている中門南側とその西隣にある三本の大木であるたわら杉だけでなく境内に多数ある古木、巨木に囲まれた神秘的な神社である。この社には「幽玄の美」が存在する。


 日本には古来から「わび・さび侘・寂)」という日本の美意識、伝統文化があり、これは西洋文化には全く存在しない概念であり日本独自の発想かもしれない。一般的に 「わび」は質素な佇まい、「さび」は人のいない静かな情景であり、本来は別々の意味を成していたものが現代ではひとまとめにされて語られることが多く、またこのようなものを「嫌なもの」ではなく「良いもの」であると評価し好む感情である。

 「わび」とは、漢字では「侘び」と書き、動詞「わぶ」の名詞形で、その意味は、形容詞「わびしい」から容易に理解されるように「立派な状態に対する劣った状態」となる。転じては「粗末な様子」、あるいは「簡素な様子」を意味している。もっと端的にいえば「貧しい様子」「貧乏」ということになろう。本来は良い概念ではなかったが、禅宗の影響などもあってこれが積極的に評価され、美意識の中にとりこまれていていった。現代風にいえば、時流の社会の価値観に囚われることなく (世間的な事物…富・力・名に頼っていないこと) その人の心中に、時代や社会的地位を超えた、最高の価値を追求することであろうか。

 一方寂(さび、寂びとも)は動詞「さぶ(錆ぶ・荒ぶ)」の名詞形で、本来は時間の経過によって劣化した様子を意味している。漢字の「寂」が当てられ、転じて「寂れる」というように人がいなくなって静かな状態も表すようになった。金属の表面に現れた「さび」には、漢字の「錆」が当てられている。英語ではpatina(緑青)の美が類似のものとして挙げられ、緑青などが醸し出す雰囲気についてもpatinaと表現される。本来は良い概念ではなかったが、『徒然草』などには古くなった冊子を味わい深いと見る記述があり、この頃には古びた様子に美を見出す意識が生まれていたことが確認される。室町時代には特に俳諧の世界で重要視されるようになり、能楽などにも取り入れられて理論化されてゆく。さらに松尾芭蕉以降の俳句では中心的な美意識となり、「孤独」や「孤絶」を意味し、限りなく変わりゆく無情さの中に、価値を見出すことだろう。


 この「わび・さび侘・寂)」と同じ概念で「幽玄」という文化も存在する。

 幽玄とは、「心にあって言葉には言うことができないもの」。たとえば、「月に薄雲がかかっている状態」であり、「山の紅葉に霧がかかっている状態」で、風情のある素晴らしいものがはっきりそこにあるのだが、それがぼんやりとしか見えない状態。だから、幽玄とは何かと問われても、幽玄であるがゆえにはっきり言うことができないものという。それがわからない人は、「空が隅々まで晴れて月がキラキラと見えている状態」が素晴らしいと言うだろう。幽玄とは、「どこが趣深いとも、どこが優れているとも言えないもの」なのだ。
 

 関東の大平野の北に並んでいる山々の最前列にそびえているのが赤城山であり、その何面の中腹に群馬県勢多郡宮城村大字三夜沢の地がある。赤城神社の鎮座地である。
 赤城山中央、荒山の下方山麓の景勝の地にあたる。海抜五七〇メートルである。
 赤城山は背後の諸山を従えて、長く裾を引き、雄然とあたかも王者のように大平野にのぞんでいる。頂には黒桧岳、駒ケ岳、地蔵岳、荒山、鍋割等の峰が東から西にかけて見えていて王冠のようである。その間に大沼、小沼があり、小沼からは粕川が流れ出して、滝や渓谷をつくり、裾野をうるおし、また粕川、荒砥川とともに、平野の潅がいに利用されている。その流域には御分社が多い。平坦地では赤城山を「御山」(おやま)とよんでいる。神山と仰ぎ尊んでいたものである。
 神社のうしろの荒山から下だってくる尾根の端には神跡「ひつ石」がある。古代祭シの遺跡で、ここからは関東平野が一望のうちにおさめられ、その間を流れる利根川の末は雲煙の彼方太平洋をしのばせ、南方はるかに秩父山脈を越えて富士の霊峰を望むことができる。
 赤城神社の名が歴史書に見え始めたのは、今からおよそ一千百年余り前の仁明天皇の承和六年(西紀八三九年)のことである。その時に従五位下の神位を授けられているので、それ以前に既に朝廷から祭祀を受けられ、官社となっていたのである。延喜式の神名帳では、名神、大社に列せられ、神位は次第に昇叙されて、九条家本廷喜式裏文書には正一位と記してある。
 このように古くから著名な神であったのは、古代の上毛野国(群馬県全体)を支配していた上毛野君という一族がまつっていたからである。上毛野君は豊城入彦命の子孫と伝えられていて、上毛野国の国造となり、東国を治め、蝦夷を同化させることを任務としていた。日本書記に、「崇神天皇は豊城、活目の二皇子の夢を占って、後嗣を決めようとされた。二皇子は体を清め、神に祈って夢をみた。兄の豊城命の夢は御諸山に登って東に向かって八たび槍を振り、八たび刀を振ったというのであり、弟の活目尊の夢は御諸山に登って縄を四方に張り、粟を食う雀を追い払ったというのである。天皇は夢占いをして、兄は東国を治め、弟は天皇の位を継ぐことを決められた。豊城命は東国を治めることになり、上毛野君、下毛野国の始祖である。」という意味のことが記してあり、また同書に「景行天皇は豊城命の孫彦狭島王を東山道十五国の都督に任命された。ところが王は春日の穴昨邑というところで病死した。その時東国の人々は王が任地においでにならないことを悲しんで、王の屍をとって上野国に葬ったとあり」次いで「景行天皇は彦狭島王の子御諸別王に父の業を継いで、東国を治めしめられた。蝦夷の首領が降参して、東国は永く平和になり御諸別王の子孫が後までも栄えている。」という意味のこともしるしている。
 つまり上毛野君の氏族が東国を開拓して、東北地方へまで発展していたので、その基地である上毛野国に赤城神をまつったもので、そこで平野に臨んで、他の山々を後ろに従えたこの赤城山の神、小沼から流れでる粕川が潅がいに利用されたのでその農業の神とが、赤城神の起源と考えられる。
 鎌倉時代になると、三代将軍源実朝の歌に、「上野の勢多の赤城のからやしろ やまとにいかであとをたれけむ」とあるように、将軍をはじめ武将たちが崇敬したばかりでなく、赤城神社は上野国の二宮と呼ばれて、一般の人々の信仰のまとになった。神道集という吉野時代に伝説などから作りあげられた物語の本には「もと赤城神は一宮であったが、機を織っている時に、「くだ」が不足し、貫前神に借りて織りあげたので、織物が上手で、財持ちである貫前神に一宮をゆずり自分は二宮になった。」ということが見えている。その頃は一宮の貫前神よりも二宮の赤城神の方が一般の信仰をあつめていたから、このような伝説が起こったのである。
 神道集が作られた頃は、本地垂迹説によって、神と仏とが一つにして拝まれていたので、赤城神ははじめ小沼の神に虚空蔵、大沼の神に千手観音があてられ、吉野時代頃には地蔵が加わって三神とされた。小沼及び大沼の神は粕川の上流の勢多郡粕川村大字室沢字御殿(元三夜沢)にまつられ、後に粕川の上流の神社が現在の三夜沢の地に移り、西宮と呼ばれ、今までこの三夜沢にあった神社は東宮となり、江戸時代には東西両宮が並んでいた。このように一地に神社が移されたのは、戦国の世と呼ばれる頃であろう。
 しかし、戦国の頃には各武将の信仰が特に篤く、上杉、北条、武田の三氏をはじめ、由良、長野、大胡などの国内の諸将士の願文や寄進状等が神社に蔵されている。殊に由良成繁奉納の宮殿はその寄進銘が扉にあって珍しいものである。また大胡氏はまず大胡に、次いで江戸に移ると牛込に赤城神社を分祀した。大胡氏の後に大胡城主となった牧野氏も土地を寄進している。
 参道は大胡(中央)、市之関(西)、苗ケ島(東)の三方から一の鳥居に集まっている。年代記には慶長年間に各参道に松を植えたとあって、現在中央の松並木のみが残っている。稀な松並木であり、由緒の明らかなものであるから、特に保存されるべきものである。現在の社殿は明治初年に東宮の位置に建て替えられて、東西両宮を併せて一社とされた。昭和十七年に国幣中社に昇格の内定があったので、社域整備に着手したが、終戦と共に官祭が消滅し、それ以後は専ら氏子及び信仰者によって維持されてきている。
 分社は赤城山南麓地は勿論関東平野の全般から、新潟、福島、宮城の諸県に及んでいる。現在のもののみで、群馬県に一一八社、埼玉県に二十三社、栃木県に九社、茨城県に十社、新潟県に十三社、福島県に十一社、その他を合せて計一九一社であり、合併または廃社を合せると三三四社に達している。四季を通じて、各分社からの参拝も多い。


                                                                                                   平成祭データーより引用








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