旧江南町、現熊谷市江南地区は、埼玉県北西部の荒川中流域右岸に位置する。地形的に以下の3区分に分かれる。

 @ 南部を東流する和田川以南の丘陵部(比企丘陵)
 A 荒川右岸の中位段丘である江南台地
 B 部分的に下位段丘の残る荒川沖横地

 江南台地は、寄居町金尾付近より江南町を経て大里村箕輪に至る東西17km、南北3kmにわたる幅狭な台地である。北側・東側は荒川及びその沖積地に面し、比高差10〜15mの崖線で画されていて、崖線下には吉野川が流れる。南側は和剛IIを挟んで比企丘陵に接し、台地上は狭小な谷津や埋没谷が複雑に入り組み、その最深部および開口部には溜池が構築されている。

 またこの江南地区は豊かな環境と歴史に育まれた文化財が多くある。これらには、樋番地区にある国指定重要文化財「平山家住宅」・塩地区の埼玉県指定史跡「塩古墳群」・千代地区の権現坂埴輪窯跡等の代表的な文化財・遺跡が荒川に画した場所から台地・丘陵上に広がっていて、古墳時代当時この地帯の隆盛ぶりを感じさせてくれる。


 目次
  出雲乃伊波比神社 / 塩八幡神社 / 塩古墳群
  
須賀広八幡神社 / 
野原八幡神社 / 野原古墳群

                        出雲乃伊波比神社
                                    地図リンク                       
                                            熊谷市板井に静かに鎮座する出雲系式内社


                                        


                                        所在地   埼玉県熊谷市板井718

                                
                                        社  格   旧村社 延喜式内社 武蔵国 男衾郡鎮座

                                        祭  神   武甕槌命
                                               『神名帳考証』『神祇志料』『大日本史』大己貴命
                                               延経『神名帳考証』『武藏の古社』天穂日命

                                        由  緒   創立年代不詳
                                                文明年間鹿島明神を合祀
                                                明治4年10月村社、同28年8月社号を出雲乃伊波比神社改称
                                                同40年10月神饒幣帛料供進指定

                                        例  祭   4月17日 例祭


  
 出雲乃伊波比神社は埼玉県道47号深谷滑川線を滑川、森林公園方面へ進み、小原十字路交差点を右折、県道11号熊谷小川秩父線の坂井南交差点の南に架かる下田橋から和田川に沿って西へ進むと到着する。社前には和田川が流れ中々風情のある佇まいの神社である。神社の参道入口には太鼓橋が架けられ、低い石垣が何段も組まれた境内の周囲は大きな鎮守の杜が形成されている。

  
                     

                
           
   社前には和田川が流れ中々風情のある佇まい(写真左)であり、鳥居の前には八雲橋が架かり(同中央)、橋を渡ると左側に社号標石が建てられている(同右)。

                                                         

                                       
                                                

                                                        
参道左側に由緒書き

出雲乃伊波比神社           所在地  埼玉県熊谷市 板井

 本社は、もとは鹿島神社といわれていたが、明治二十八年に出雲乃伊波比神社と改称された。祭神は、武甕槌命である。
 境内には、氷川神社、八坂神社、龍田神社、稲荷神社、天満神社、神明神社、山神社、富土浅間神社などが合祀されている。
 本社の祭神武甕槌命は、神話時代の高天原で、国土平定役の白羽の矢が、まず経津主命に立てられたとき、力に自信の溢れている武甕槌命もその役を希望して、二神が協力して国土平定の大役を果したという。武勇絶倫しかも協力性に燃えた国づくりの華々しい勲功の神である。
 また、社前の和田川に架けられた太鼓橋は、昔から八雲橋といわれ、この橋をくぐって子供のはしか平癒を祈頼するものが多く、昭和の初め頃まで「はしか参り」が列をなしたものである。
 境内に祀らている神々の祭日のうち、特に七月十五日の八坂祭りは、昔から「板井の天のう様」として近在に知られ、明治四年からば太鼓の「ヒバリバヤシ」を載せた屋台が「みこし」と一緒に板井区内をにぎやかに一巡するようになった
                                                                                                      案内板より引用


                                  

                                                            正面の拝殿

                                         目の前に和田川がある関係で、低いが何段もの石段が組まれている。


 ところで出雲乃伊波比神社が鎮座するあたりの小字名は「氷川」という。氷川といえば、さいたま市大宮区に鎮座している武蔵国一の宮氷川神社が思い付く。大宮氷川神社の祭神はスサノオノミコト、イナダヒメノミコト、オオナ
ムチノミコトという出雲系の神様。この三柱の神様をお守りする神主家は明治になるまで三家(岩井家、東角井家、西角井家)で、スサノオの奉齋を担当していたのは岩井家であった。氷川神社の周辺もやはり湧水が涸れることの無い神聖な場所であったという。出雲乃伊波比神社の創建年代は氷川神社より古いのではないか、また出雲系の神々は、出雲〜越国〜信州〜関東という具合に、日本海方面から来たのではないか、と想像を膨らましてしまう。


境内社
は多数存在する

                               

                        富士山浅間神社   左側不明、右側小御嶽神社     合祀社 祭神不明         氷川神社か       この石祠また祭神不明


案内板には氷川神社、八坂神社、龍田神社、稲荷神社、天満神社、神明神社、山神社、富土浅間神社などが合祀、と書かれている。

 出雲乃伊波比神社由緒

○村社出雲乃伊波比神社由緒
 社伝に曰く、当社は延喜式神名帳に載する所にして本郡三社の一なりといふ。中古、神道陵夷仏法隆盛の世に遭遇し、本社もまた本山修験聖護院宮御下正年行事職長命寺開山源阿法印別当たりしより、明治元年に至るまで、四十三世、法嗣継続にて奉仕せり。 その二十七世良恭法印文明の頃、鹿島明神を合祀し、旧幕府時代、旗本 牛奥新五左衛門の采地となり、牛奥氏、鹿島明神を最も信仰し、鹿島の神威高く、出雲乃伊波比神社の名は終に隠滅するに至れり。
 然れども氏子信徒は旧社たる事を確信したるも、『武蔵風土記稿』に載する文書、及び出雲乃伊波比神社の社号を記載せる古板の経巻、及び古文書等、社内別当に所蔵せるも、大政維新 神仏混淆分離の秋、仏に係るを以て悉皆灰燼と為し、現に残れるは、長明寺古記録に「男衾郡三座の内出雲乃伊波比神社」と記載せる一本のみ。また伴信友『神名帳考証土代二式考』に「伊多村に在り」、信友之兼永本朱書入に云ふ「大己貴命也」、また『武蔵風土記稿』に「本村氷川社を出雲乃伊波比神社とせしは本社の誤りにて氷川社は本社の縁故あるを以て摂社に祀りし」といふ。かかる証拠に依り、社号復旧改称を出願し、明治18年8月15日、許可相成りたり。
 本社は遠近信徒多く、殊に痲疹の流行の時は平癒を祈り参詣する者夥しく、社前 和田吉野川の架橋を八雲橋といふ。神詠とて「八雲橋 かけてそたのめ あかもかさ あかき心を 神につくして」この御詠を唱ひつつ架橋の下を潜りまた渡れば、必ず軽症にして平癒すと、参詣者 群をなせり。本社宮殿は、小なりと雖も、壮篭にして本郡中 著名にして並ぶなし。明治4年10月、村社に列せらる。

 ○氷川神社由緒
 創立年月不詳。里老口碑に曰く、天平年中の創立にして、延喜式神名帳に載する所の本郡三社の内 出雲乃伊波比神社にて、祭神或いは大己貴命といふ。社名は北足立郡官幣大社氷川神社と同神なるを以て誤り伝へらるべし。
 当社旧別当 長命寺の古文書に曰く「往時 本村及び柴、千代、塩等の四村は、篠場、また篠場庄篠場原といふ 畏くも伊波比神の鎮座を以て伊波比村と称せしを 愆て伊多井村と云ふ」とあり、因てこの村名も伊波比神社より起れりといふも、敢て付会の説にはあらず。 また『新編武蔵風土記』 該社別当長命寺の条を閲するに曰く、「別当長命寺 本山修験聖護院末にて正年行事職を勤め 本郡及び上比企郡 幡羅郡内甕尻 榛沢郡田中 菅沼 瀬山等の村村の修験等この配下に属す 開山は法印元阿円長 近衛天皇の御代にて凡七百三十余年<中略>開山塔の傍に古木の桜あり 俗に長命寺桜といふ 樹は枯て今の木は植継したるものなり」といふ。
 また天文・天正・慶長の古文書、今なほ該寺に存在せり。別当長命寺は七百三十余年、世襲して隆盛を極めし事は往古この『新篇風土記』板井の条に「氷川社 村の鎮守なり 延喜式神名帳に載する出雲乃伊波比神社なりといふ 社地老杉の繁茂せるさま神古くしとたしかなる証拠なり 口碑のみ残れり」とあり、また『考証土台』に曰く「出雲乃伊波比神社」、『式考』に「板井村にあり 大己貴命なり」とあり、これを以て考ふれば、延喜式内の古社といふも敢て疑を容れず。社殿は寛永6年10月の造営にして、明治4年村社に列せらる。
    社掌 森本三作
    氏子惣代 飯嶋良七 吉野道之進 吉野昆一郎 宇治川彦次郎 長倉良八 柴崎惣吉



                                                

                                       
熊谷市に在住する自分ではあったが、正直この社の存在を最近まで知らなかった。
                            自分の不明を恥じるとともに、もう少し自治体なり、地域がこの素晴らしい社をアピールすることも必要かとも感じた。


 

 出雲乃伊波比神社は、式内社の比定社の一つで、一般的には、同名である寄居町赤浜の社のほうが有力視されているというが、勝手な推測を許していただくのならば、おそらくはこちらが本当の式内社ではないだろうか。寄居町のほうは元来八幡宮であり、隣村の神社が式内社小被神社とされたのに対抗して、式内社と名乗った可能性がある。当社に関していうと、祭神は、武甕槌は本当の祭神ではない。鹿島の神を勧請した段階で本当の神が封じ込められたようであり、実際は出雲系と思われるので、おそらくは大己貴命ではなかろうか。地名に氷川が残っているため、鹿島神の前は氷川社の時代もあったのであろうと推測する。

                    

                      社殿の左側にある巨木。御神木か。                出雲橋の両側にも立派な大木(写真中央、右)が聳え立つ。



 1,000年以上の歴史を持つ神社だ。現代に至るまでの間にいろいろな事件があり、それらの内乱、外乱が神社を取り巻く環境に影響を与え、神社自体を変化させることなど伝承誤りが起こることを想定して考えなければいけない。安易に考察してはいけないのだ。


                                                                 





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 出雲乃伊波比神社の南側に塩八幡神社が鎮座している。そしてそのまた南側には有名な塩古墳群がある。旧石器時代や縄文時代の遺物が出土し、埼玉県北部の代表的な古式古墳群の所在地となっている。



 塩八幡神社
  
 
  地図リンク

  
所在地     熊谷市塩142-1          
  
祭  神     品陀和氣命(ほんだわけのみこと)(推定)、※[別称]誉田別命
  
社  格     旧村社
  
由  来     不明


 
塩八幡神社は、埼玉県道47号深谷東松山線を東松山市方面に進み、旧江南町の小原十字路交差点を右折すると埼玉県道11号熊谷小川秩父線になる。この道路をまっすぐ進み、約2q弱位、時間にして10分弱で右側にこんもりとした森が見え、塩八幡神社に到着する。駐車場は神社手前に塩集会所があり、そこに駐車して参拝を行った。


                             
     
                     
             県道に面して社号標、鳥居がある                 正面参道


                                                

                                                           東向きの拝殿


 
出雲乃伊波比神社−塩八幡神社−塩古墳群のラインは塩八幡神社が若干のずれはあるが、一直線でつながる。一方、出雲乃伊波比神社から北へ1.5km、千代地区には寺内廃寺跡がある。このラインの関係はどういうことか。塩八幡社の現在の社殿の創建は、『新編武蔵風土記稿』塩村の条において、16世紀末に徳川家康の江戸入府の後に召し抱えられた旧武田家臣の伊藤氏が塩村の領主となり、そしてその伊藤氏が館を置いたのがこの塩八幡の北にある丘陵だとされている。そこで新しい領地でも氏神として八幡神社を奉じた、というのは一応筋が通る。だがなぜこの地に創建したのか。創建するに適した土地だったのか、それとも元々この地に由緒らしい痕跡があって創建するのに地元の住民の反発がなかったのか・・・今現在では全くの不明だ。

  

                    

                  

                 
       拝殿と本殿               社殿の周りには数種類の石碑が存在する。      社殿右手にあった境内社と大黒天の石碑


                                                

  埼玉県道11号線に沿って塩八幡神社は鎮座している。この県道は交通量が多いが、それでも出雲乃伊波比神社の雰囲気を維持しながらの参拝だったので、その余韻が残るからかこの神社にも何か懐かしさを感じさせてくれる何かがあった。また塩八幡神社の手前には塩集会所があり、神社の奥にはゲートボール場もあり、地域のコミュニティの場としてこの神社が存在していているようで、そこには今では無くなりつつある日本の古き原風景にも重なる。都会ではなかなか見られない、そう「どこかで見た懐かしい風景」だ。





 そしてこの心地よい空気に触れながら「塩古墳群」にいよいよ向かう。神社から本当に目と鼻の位置にそれはある。






 


                                         
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 塩古墳群       


 地図リンク    
所在地 熊谷市塩
  
  
塩八幡から県道を渡って南に入った丘陵地帯に広がるのが、埼玉県指定史跡の「塩古墳群」で、古墳時代前期(4世紀)のものといわれ、埼玉県内の古墳の中でも最初の時期につくられたもので貴重な古墳遺跡だそうだ。1号墳は全長38m前方後円墳。その他に16基の方墳と円墳がある。



                                         

                                        
           塩古墳群案内板

 埼玉県指定文化財   塩古墳群

 
塩古墳群は滑川沖積地を望む比企丘陵北端の支丘上の山林内に分布しています。
この古墳群は、前方後方墳2基のほか、方墳26基・円墳8基が残されており、古墳時代前期(四世紀中葉〜後半)の土器等の遺物が出土しています。主墳の2基はいずれも、前方後方墳で、北側の第1号墳は、全長約35m、高さは前方部で1.7m後方部で5.9mを測り、長軸北20度西を示しています。南側の第2号墳は、全長約30m高さは前方部で2.2m、後方部で5.5mを測ります。
これらの古墳群は、極めて密集しており、保存状態も良好で、北武蔵地方の代表的な前期古墳群として貴重なものです。
 昭和35年3月1日埼玉県指定文化財となっています。

  平成15年3月  熊谷市教育委員会
                                                                                                       案内板より引用



                 

 向かって右側が1号墳の方墳部分、正面が2号墳(写真左)。塩古墳群は、比企丘陵北端の支丘上の山林内に分布し、保存状態も良好で、近辺にある野原古墳群同様、武蔵国の初期の古墳形態として非常に重要な遺跡であろう。また方墳や前方後方墳の密集は、弥生時代の方形周溝墓の流れを引き継ぐのものと考えられ、埼玉県内の古墳の発生と発展の過程を考える上で非常に重要な古墳群である。(同中央、右)







  
                                         
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 出雲乃伊波比神社の南に流れる和田川は延長9Km、流域面積 12.6Km2の荒川水系の一級河川である。源流は比企郡嵐山町古里の農業用溜池のようであり、直接的な山地水源は持たない。和田川の河川管理上の起点は、江南町板井に設置されていて、管理起点からは比企丘陵の狭間を農業排水を集めながら東へと流れ、大里郡江南町、比企郡滑川町、熊谷市、東松山市を経由し、大里町下恩田で和田吉野川の右岸へ合流する。

 和田川の南側(写真右)の丘陵には塩古墳群(約100基)が存在することから、この付近では4世紀頃から集落が成立していたことになる。和田川周辺の平坦地(標高50m程度)には水田が広がっていて、和田川が形成した沖積地は古代から、水田として開発されてきた。人々が生産活動を営んできた証しである。

 この和田川流域には不思議と八幡神社が多数存在する。



 須賀広八幡神社

     地図リンク   
                                                


                                              所在地     熊谷市須賀広237

                                              御祭神     誉田別命

                                              社  格     旧村社

                                              例  祭     大祭・10月14日に近い土・日曜日



 須賀広八幡神社は埼玉県道47号深谷滑川線をを滑川、森林公園方面へ進み、南小西交差点で左に折れ、そのまま東へ1km程走ると左手側に八幡神社が見えて来る。この道沿いには駐車場は無いが、神社の鳥居の手前のT字路を左折して神社裏の集落センターには駐車場があるのでそこに車を停め、参拝を行った。


                                
 

                                          道沿いにある社号標               社号標の先には両部鳥居がある

                                  

                                     参道は南向きで社殿が小さく見える。            参道もいよいよ終点
                                                              二の鳥居(明神鳥居)とその左側には案内板がある。

                                           



八幡神社      所在地 熊谷市(元大里郡江南町)須賀広

 八幡神社の祭神は誉田別命で、神体は神鏡である。
 社伝によれば、創建は延喜17年(917)醍醐天皇の代である。武家の崇敬が極めて篤く11世紀末、八幡太郎義家が奥州征伐(後三年の役)の赴く途中、侍人を代参させ戦勝祈願したといわれている。
 江戸時代初め、稲垣若狭守重太の長臣田村茂兵衛が当地に陣屋を築き、以後この地を治めた。その後、寛永11年(1634)稲垣氏から御供米、土地が寄付され、以後も累代崇敬されていた。また、明和3年(1766)本殿再建遷宮式のとき、時の若狭守が自ら参拝し多額の幣帛料を寄進した。それからは須賀広、野原、小江川地区等稲垣氏所領の村民の崇敬益々篤くなったと伝えられる。
 大祭は毎年10月14日夜と15日で、獅子舞が奉納される。この獅子舞子は三人で長男に限られ、当日は氏子一同社頭に集まり舞を奉納披露し、その後地区内を一巡するきまりとなっている。

                                                                                                         掲示板より引用

                                  

                                             拝   殿                         本殿鞘堂 


                                      

                              社殿左側にある神楽殿 社殿左側にある天満天神社       境内社        境内社 祭神は不詳 


 合社に関しては、左から白山社、厳島神社、天満社、御嶽神社、阿夫利神社、榛名神社、稲荷神社、三峯神社の各社。 


 須賀広八幡神社は現在の祭神は誉田別命であるが、案内板で紹介している創建時期と八幡太郎義家の時代との間には100年以上もの空白の時期がある。その時期の祭神は一体誰だったのか。この鎮座している「須賀」という地名は何か意味深い地名だ。「須賀」は「素賀(スガ、ソガ)」であり、須佐之男命、いわゆる「出雲系」に通じているのではないだろうか。


須賀 スガ 
 崇神六十五年紀に「任那国の蘇那曷叱知(ソナカシチ)」と見ゆ。蘇は金(ソ、ス)で鉄(くろがね)、那は国、曷は邑、叱知は邑長で、鉄の産出する国の邑長を蘇那曷叱知と云う。島根県大原郡大東町須賀に須賀神社あり、須佐之男命と稲田姫命の夫婦を祭る。古事記に「かれ是を以ちて其の速須佐之男命、宮造作るべき地を出雲国に求ぎたまいき。爾に須賀の地に到り坐して詔りたまいしく、『吾此地に来て我が御心須賀須賀し』とのりたまいて、其地に宮を作りて坐しき。故、其地をば今に須賀と云う」とあり。須賀は素賀(スガ、ソガ)とも書く。
須は金(ス、ソ)の意味で鉄(くろがね)のこと、賀は村の意味で、鍛冶師の集落を称す。武蔵国の須賀村は利根川流域に多く、砂鉄を求めた鍛冶師の居住地より名づく。埼玉郡百間領須賀村(宮代町)は寛喜二年小山文書に武蔵国上須賀郷、延文六年市場祭文写に太田庄須賀市祭と見ゆ。同郡岩槻領須賀村(岩槻市)は新方庄西川須賀村と唱へ、今は新方須賀村と称す。同郡忍領須賀村(行田市)は太田庄を唱へ、須加村と書く。同郡羽生領小須賀村(羽生市)は太田庄須賀郷を唱へる。同郡備後村字須賀組(春日部市)、琴寄村字須賀組(大利根町)、飯積村字須賀(北川辺町)等は古の村名なり。葛飾郡二郷半領須賀村(吉川市)あり。また、入間郡菅間村(川越市)は寛文七年地蔵尊に入間郡須賀村と見ゆ。男衾郡須賀広村(江南町)あり。此氏は武蔵国に多く存す。

          

 出雲系の出雲乃伊波比神社のほぼ東側で、和田川下流域に位置するこの須賀広八幡神社の権力者は誰であったろうか。が、少なくとも出雲乃伊波比神社と敵対していた勢力ではなかったことは確かである。地形上でも和田川周辺の狭い平坦地(標高50m程度)には水田が広がっていて、和田川が形成した沖積地は古代から、水田として開発されてきた。水は全てにおいて非常に重要な資源である。この河川を共有して行かなければ「須賀」の生活は成り立たなかったろう。故に出雲伊波比神社の勢力と須賀広神社の勢力は同じではなかったか、または同盟関係の間柄ではなかったか、というのが今の筆者の推測である。







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 須賀広八幡神社から東に1km弱行くと左手に野原八幡神社が見える。この社のすぐ西側には野原古墳群もあり、あの有名な「踊る埴輪」が出土した古墳群で推定年代は古墳時代終末期〜奈良時代(6世紀末〜8世紀前半)という。


                          野原八幡神社
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野原古墳群の埋葬者との関係は

                     

                                 


                                   所在地     熊谷市野原66

                                                御祭神     誉田別命

                                                社  格     旧村社

                                                例  祭     不明


 
 野原八幡神社は野原西部集会所に隣接して鎮座している。平成9年に再建した新しい社殿は一面に玉砂利の敷かれており境内は非常に綺麗に整備され、神社自体は決して広くはないが開放感があり、鎮守の杜の中に白壁の拝殿が映える、すっきりとして清潔感のある神社である。社殿の左側には境内社や庚申塔も多数祀られている。


                                                 

          和田川が東西に流れている関係か、出雲乃伊波比神社、須賀広八幡神社同様野原八幡神社も和田川北岸の台地上に鎮座し、社殿は南向きである。

                    
   

                
       神社敷地内と林との境界にある案内板     拝殿前には野原八幡神社災害復興記念碑

 八幡神社と野原古墳群    所在地 熊谷市 野原

 八幡神社の祭神は
誉田別命で、御神体は神鏡と奇石である。創立年代は不明であるが、寛永20年(1643年)、時の領主稲垣安芸守の崇敬厚く、侍臣田村茂兵衛に命じて社殿の造営に当たらせたことが社殿の棟札に残っている。また、宝暦11年(1761年)、時の領主前田半十郎が家臣、内貴与左衛門をして本殿(内宮)の工事を監督させたことも別の棟札に記されている。前田氏からは、明治維新に至るまで毎年神社への御供米一斗二升が献納されていたという。(中略)
 なお、八幡神社裏から西方にかけて、野原古墳群と呼ばれる古墳群が分布している。(中略)これらの古墳の築造は、6世紀後半から7世紀前半にかけて行われていたといわれ、この地方にかなりの勢力を持った豪族が居住していたことを物語っている。
                                                                                        平成11年12月    埼玉県
                                                                                            案内板より引用


                                  

                                             拝    殿                      拝殿、奥に本殿

 野原八幡神社の左側、正確には西側には境内社が多数祀られている。(鹿島神社と合社との間に小さな石祠があったがこちらは詳細不明)

                          

                              三峯神社(左)と雷電神社(右)      三峯神社の左側に鹿島神社 左から天満天神社、稲荷神社、山之神社、愛宕神社


 ところでこの野原八幡神社の社殿の裏山の西方に野原古墳群がある。この遺跡は埼玉県選定重要遺跡に指定されている。神社西側にある庚申塔や青面金剛像の奥にあるようだ。


                                  

                                             庚申塔群               埼玉県選定重要遺跡に指定されている割に
                                                                      放置されているような状態だ。


 野原八幡神社が鎮座する「野原」という地名はいかにも抽象的であるが、考えてみたら不思議な地名だ。「大辞泉」にてその意味を調べると

 野原(の−はら) (「のばら」とも)あたり一面に草が生えている、広い平地。原。のっぱら。

 この地域は確かに「あたり一面草が生えている」場所であり、「原、のっぱら」ではあるが「広い平地」」ではない。和田川が形成した沖積地は両側には丘陵地によって遮られ、幅が狭く、細長い平地が続いているのであり、「野原」という地名は決して適当ではない。つまり、地形上からついた名前ではないということだ。ではこの「野原」とはどんな意味があるのか。

 野原は野+原の組み合わせでできた地名であり、本来の地名は「野」であったのではないか。

野 ノ 
 奈良・奈羅・那曷(なか)のナは国の意味で韓国(辛国)渡来人集落を称す。ナカ参照。奈は乃(な)と書き、古事記仁徳天皇条に「あをによし乃楽の谷に」と。日本書紀天武天皇元年条に壬申の乱に際して、吉野方の将軍大伴吹負は「乃楽山」に陣を置いたとあり。大和国奈良は乃楽と記した。乃(な)は野(な)とも書き、日本書紀継体天皇二十一年条に「近江の毛野臣(けなのおみ)」とあり。和名抄伊勢国度会郡田部郷を多乃倍(たのべ)と訓ず。後の田辺村なり。乃(な)は、ノに転訛して佳字の野(の)を用いる。埼玉郡野村(行田市野)は、当村のみ渡庄を唱え、韓人の渡来地より名付く。


野原 ノハラ 
 乃(な)、野(な)は古代朝鮮語で国の意味、ノに転訛して野(の)の佳字を用いる。豊前国風土記逸文に「田河郡鹿春郷。河原村を、今、鹿春(かはる)の郷と謂ふ。昔は、新羅の国の神、自から渡り来たりてこの河原に住みき。すなわち名づけ鹿春の神と曰ひき」と見ゆ。新羅渡来人の多い九州地方では、原(はら)をハル、バルと云い、村・集落の意味なり。韓国(辛国)渡来人集落を野原と称す。男衾郡野原村(江南町)あり

                                 

読者の皆さんの考えはいかがだろうか。





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