東山道武蔵路(とうさんどうむさしみち)は、古代に造られた官道の一つ。当初東山道の 本道の一部として開通し、のちに支路となった道であり、上野国・下野国から武蔵国を南北方向に通って武蔵国の国府に至る幅12m程の直線道路であった。現在のどこのルートを走っていたかハッキリ分かっていないが、国道409号線ではなかったかと言われている。本来武蔵国は相模国と隣接し、東海道に編入されるべき国であったが、地形上の制約等の理由により、近江国を起点に美濃国、飛騨国、信濃国、上野国、下野国、陸奥国(当時はまだ出羽国はなかった)と本州の内陸国が属する東山道に属することになった。このため、道としての東山道にもこれらの国々から大きく外れたところにある武蔵国の国府を結ぶ必要が生じた。

 普通官道は地理的制約から特定の国の国府を通れない場合、支道を出して対処するのが定石であり(例*東海道の甲斐国・山陽道の美作国)、武蔵国の場合も上野国府と下野国府との間で本道を曲げて、上野国邑楽郡から5駅を経て武蔵国府に至るルートが設置された。

その結果、上野国府〜新田駅(上野国)〜武蔵国府〜足利駅(下野国)〜下野国府というルートが採用されることになり、新田駅〜足利駅間は直進ではなく南北にわたってY字形に突き出る格好となった。この突き出した部分が東山道武蔵路である。

 幡羅郡の延喜式内社は4社で、そのうち東山道武蔵路に接している、あるいはその近隣に鎮座している式内社、及びその論社は数社にのぼる。以下の社がそれに当たる。
  大我井神社  (式内論社)
  白髪神社    (式内論社)
  東別府神社  (式内論社)
  奈良神社    (式内社)
  久保島大神社 (式内論社)

 また大我井神社のすぐ西側には妻沼聖天山歓喜院がある。高野山準別格本山であり、関東八十八大師八十八番・関東三十三観音第十六番・幡羅新四国第十三番でもあるが、元々は式内社白髪神社の社地内に斎藤実盛が聖天宮を勧請したものであったとされる。

 東山道武蔵路に沿って式内社が鎮座していることは、このルートがいかに武蔵国にとって重要な道であったかを如実に証明しているのではないだろうか。

                                奈良神社
                                   地図リンク
                                                                    幡羅郡20か村の総鎮守

                                           


                                    所在地    埼玉県熊谷市中奈良1969

                                    主祭神    奈良別命

             
                                  (合祀)火産靈命 建御名方命 大国主命 大日霊貴命 彦火火出見命
                                             木花咲耶姫命 素盞嗚命 豊宇気毘売命

 
                                    社  格    旧村社  延喜式神名帳 武蔵国 播羅郡鎮座 

                                 
例  祭    四月十五日 春の例祭

                                 
由  緒    慶雲2年(705〉陸奥国の蝦夷反乱に際して神威を発揮
                                      
   和銅4年境内から湧泉あり、田地六百余町を拓く
                                        
嘉祥3年(850)官社
                                        
中世円藏坊修験の監下
                                        
天正18年(1590)小田原落城によつて摩尼山長慶寺の配下となる
                                        
明治7年2月村社
                                            明治42年「奈良神社」と改称


 奈良神社は国道407号を妻沼方面へ、中奈良交差点を左折するとすぐ右側に一の鳥居がある。周りが田畑に囲まれた参道をまっすぐ進むとその先にこんもりとした鎮守の森が広がり、手前の朱色の鳥居を抜けるとその中に社がある。


                              

                                三の鳥居 両部鳥居という                  奈良之神社とある扁額

 

奈良神社

 長慶寺に隣接して鎮座する。
仁徳天皇の頃に下野国造となっていた奈良別命(豊鍬入彦命の4世の孫)が任を終えて、当地を開拓。奈良郷を築いたとされる。この奈良別命を祀った。
中世熊野信仰の拡大にともなって、この地にも奈良神社と熊野権現の2社が鎮座しており、その後熊野権現を本社とし奈良神社を合祀したという。しかし関東管領両上杉氏の兵火によって社運は傾き、当社を保護していた忍城主成田氏も小田原氏滅亡後に移転し、近世期は長慶寺の支配下となった。
当社の東北500mの地点に、「和銅四年 奈良神社涌泉旧蹟」の石碑がある



                              

                                      拝 殿                             本 殿

延喜式内社 奈良神社の由来
 御祭神
 奈良別命

奈良別命の由緒

「奈良別命は、垂神天皇の皇子豊城入彦命(上ッ毛野国、下ッ毛野国の祖)の四世の孫に当たり、仁徳天皇の御代に下野国の国造りに任じられ、武蔵野の沃野に分けはいり、その徳によって荒地を開き美田を墾し、人々の発展と安住の地を造られた。そのため、郷民がその徳を偲んで奈良神社を建立し祀ったものである。と国造本記に記されてあります。

 当社の東北一キロのところにある横塚山と呼称される前方後円墳が奈良別命の墓ともされるが真相は不明だ。

                                                                               


 

                                

 拝殿の左側には境内社の祠があり、国魂神社、八坂神社、怡母神社、金山社、天神社、伊奈利神社が祀られている。 また
堅牢墜神堅牢地神か)の石柱もある。

 
 慶雲2年(705)の蝦夷征討の際に奈良神が神威を発揚し式内社に列格。
 宝亀2年(771)以前の武蔵国は東山道に属しており(以後は東海道)、当地が東北戦略拠点として機能していたことが推定される。多賀城跡からは幡羅郡から運ばれた兵糧米とみられる米の搬入記録が書かれた木簡も出土していることは楡山神社でも紹介した通りだ。





 ところで奈良神社の祭神である奈良別命は下野国一ノ宮宇都宮下都賀郡野木町の祭神である豊城入彦命の4世の孫と言われている。宇都宮二荒山神社の由緒は神社本庁では奈良別命に関して次のような記述がある。

由緒

主祭神、豊城入彦命は、第十代崇神天皇の第一皇子であらせられ、勅命を受けて、東国治定のため、毛野国(栃木県・群馬県)に下られました。国土を拓き、産業を奨励し、民を慈しんだので、命の徳に服しました。その御子孫も東国にひろく繁栄され、四世の孫奈良別王が、第十六代仁徳天皇の御代に下野の国造となられて、国を治めるに当たり、命の偉業を偲び、御神霊を荒尾崎(現在の下之宮)の地に祀り合せて、国土開拓の神、大物主命・事代主命を祀られました。その後承和5年(838)に現在地の臼ヶ峰に還座されました。以来、平将門の乱を平げた藤原秀郷公をはじめ源義家公、源頼朝公、下って徳川家康公などの武将の尊崇を受けられました。
古くは、延喜式内社名神大、当国一之宮、明治になって国幣中社に列せされ、「お明神さま」の名でひろく庶民に親しまれ、篤く崇められてきております。宇都宮の町も、お宮を中心に発展してきたので、町の名も社号をそのまま頂いてきており、市民憲章にも「恵まれた自然と古い歴史に支えられ、二荒の杜を中心に栄えてきた」と謳われています。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁


 また大田原市南金丸にある那須氏ゆかりの古社である那須神社(正式名称は那須総社金丸八幡宮 那須神社)や下都賀郡野木町の野木神社(旧郷社)も奈良別命が創建したという。また佐野市奈良淵町の町名の由来は「佐野は早くから大和朝廷の支配下にあり、豊城入彦命の東征後、奈良別王は下野国造としてこの地を統治し、奈良渕の地名はこれに因んだものという説」もあり下野国との関係が大変深い人物だったようだ。しかしこれ以上のことは全く不明で、それ以上にこの人物を祭っている下野国の神社が自分が調べた限り全くない、というのもなにか恣意的なものを感じる。
 その奈良別命が下野国国造としての任期が終了した後、たまたまなのか当地へ分け入り、なぜか開拓し、しかも横塚山古墳の推定埋葬者でも分かるとおりそこで生涯を終えたという。土民らが、その恩に感じ、徳を慕って奈良神社を創立した、とホームページ等では紹介されているわけだが


 @ 奈良別命は国造本紀(先代旧事本紀)によると毛野国が上野国、下野国に別れた時の、下野国最初の国造として登場している。ましてや豊城入彦命の4世の孫という立派な肩書きだ。創建したと言われている野木神社、宇都宮二荒山神社、那須神社は下野国の地形上それぞれ栃木県南部、中央部、北部の主要地点を抑える要衝で、この位置に神社をつくることはすなわち下野国の南北線を完全に握ること、つまり東山道の掌握になり戦略的にも利に叶うことだ。自分は改めてこの人物の並々ならぬ統治能力の高さ感じた。

 しかしこの人物を祀る下野国の神社がないということもまた事実で、大変不思議だ。また下野国の一ノ宮宇都宮二荒山神社や那須神社、野木神社も創建者である奈良別命よりもよりも豊城入彦命、坂上田村麻呂や那須与一のことが詳細に記述されている。中には創建者である奈良別命の名前すら伏せられているケースもある。

 A 日本書紀では、崇神天皇の皇子の豊城入彦命が東国統治を命じられ、上毛野国造や下毛野国造などの祖先になったという
また、その孫の彦狭嶋王が景行天皇朝に東山道十五国都督に任じられ、その子御諸別王も引き続き、善政を行ったという。旧事本紀によると、仁徳天皇朝に豊城入彦命の4世孫の奈良別が下毛国造に任じられたというところから、代々下毛野君(しもつけぬのきみ)が国造を世襲したと言われる。ということは逆に言うと奈良別命は下野国国造として一生涯この地から外に出なかった、ということになると思われる。

 この下野国国造 奈良別命に関しては別項を設けて改めて考えたい。


 B 先代旧事本記でも埼玉県の奈良神社の由来記では、

 「仁徳天皇の御代に下野国の国造りに任じられ、武蔵野の沃野に分けはいり、その徳によって荒地を開き美田を墾し、人々の発展と安住の地を造られた。そのため、郷民がその徳を偲んで奈良神社を建立し祀ったものである。」                                                            国造本記/慶雲二年/文武天皇の御代の記述

  とあり、「下野国の国造に任命され」、「武蔵野に地に分け入り、開墾した」と書かれてはいるが、決して「下野国の任期が終了し、当地に入って、開拓した。」つまりこの地に立ち寄ったとは全く書かれていないのである。


 C 延喜式内社 奈良神社は「なら」神社と言うが鳥居・拝殿の額には「奈良之神社」であり、読み方は「ならの」神社である。一般的に「なら」神社では固有名詞であるので、祭神も一人が対象になると思われるがそれに対して「ならの」神社は形式名詞なので祭神も一人である理由はないと思われる。

 つまり、下野国の国造奈良別命は下野国から出ることはなかったが、その兄弟の一族、親戚の一族か、または奈良別一族、その後裔の人物が武蔵国、幡羅郡に分け入り、開墾したならばその推理は十分あり得るわけで、だからこそ「奈良之神社」であり、奈良別一族の人物がその一族の開祖である「奈良別命」を祀った、ということは十分にありうる。



 そして、ここで一つの大きな問題に直面した。「奈良別一族が幡羅郡に分け入り、開墾した」とはどういうことだろうか。言葉の表現方法は違えども、「幡羅郡に侵入し、この地を下野国の勢力範囲にした」ということではないだろうか。
 幡羅郡は利根川をはさんで上毛野国と接していて、文化的にも経済的にも上毛野国の影響下に長期間あったと推測される。何よりの証拠はあの東日本最大の古墳、群馬県太田市にある大田天神山古墳の存在だ。関東の王者という名に恥じない主軸長210mの巨大前方後円墳で、この古墳が営まれた五世紀前半頃の同じ世代の倭国王や倭国内の有力首長たちの古墳の中では、おそらく五本の指の中に入る大規模なものであったことは疑いなかろう。
 この規模だけに影響する領域も両毛地域という東西の広さのみならず南北にもその広がりがあったろうと思われる。太田市は上野国全体で見た場合東に偏っている。だからこそ関東の王者はここに古墳を築造しなければならない理由があったと考えるのが妥当ではないか。この地は上野と下野のちょうど中間に位置し各方面への街道や水路が集中している。また南北においても、これはあくまで推測の域でしかないが、東山道武蔵路の原型はその大田天神山古墳の埋葬者、もしくは毛野国の王者が創建したのではないかと最近思っている。そもそも毛野国の王者が眠っている場所から真南10kmもない場所に幡羅郡は存在する。幡羅郡は武蔵国口の玄関なのだから。

 根拠のない勝手な想像を許して頂ければ、上野国の勢力範囲のこの重要な地に下野国の勢力が侵攻したとしたらその後どうなることが起こるか.....     


それから以降は別項にて。





                                        もどる                   toppage





 延喜式内社 奈良神社からほぼ西方向約3kmに東別府神社が鎮座している。直線距離では2km強だが実際の道路事情ではかなり入り組んでいて3km以上はある。籠原駅方向から行くと、
埼玉県道276号線を航空自衛隊熊谷基地から妻沼方面へ北上し、別府中学校北側の交差点で右折ししばらく走って行くと、そのうち左手側に東別府神社の社号標石が見えて来る。左折すると突き当たりに東別府神社が鎮座している。また、ここは別府城の跡地でもある。



                              東別府神社
                                    地図リンク
                                                                    春日神社なのに本殿は3社という謎

                                           


                               所在地    埼玉県熊谷市東別府708

                            
主祭神
    天児屋根命    祝詞の神、出世の神 中臣連の祖(中臣鎌足を祖とする藤原氏の氏神)
                                      
  宇迦之御魂神   生産の神/五穀豊穣の神
                                        大物主神      蛇神、水神、雷神、稲作豊穣の神、疫病除けの神、酒造り(醸造) の神
                                                   国の守護神
                                        (合祀)       彦由岐命    不詳
                                                    埴山比売神   土の神

      
                            
社  格     旧村社  延喜式神名帳 白髪神社 武蔵国播羅郡鎮座

                               例  祭    四月十五日 例大祭



 別府城址に鎮座する東別府神社は、今を去る八百余年の平安の昔藤原鎌足の後裔別府次郎行隆がこの地に城を構えるにあたり、その鎮守神として大和の国奈良の春日神社から勧請したのを創始とするといわれている。

                 

                     二の鳥居から参道へ                  史跡 別府城跡地碑             別府城の土塁跡。埼玉県の指定史跡


埼玉県指定史跡 別府城跡


 
熊谷市別府 七七七 他
 昭和十六年三月三十一日指定
 別府氏は、成田氏系図によると、成田助高の二男次郎行隆が別府に住んでから、その子太郎能幸は東別府に、二郎行助が西別府に数代相対して領知した。
 この城跡は、東別府家の館として、東西南北ともに約一町(百余メートル)四方で、周囲にに巾約二〜三メートルの横濠(現在は西、北、東側に残っている)をめぐらし内側に高さ約二メートルの土塁を築き、中世の武士の館跡として典型的な形をみることができる。

 太郎能幸に初まった東別府家は、それから十一代目の尾張守長清まで続いたが、天正十八年(1590)豊臣秀吉の北条氏攻略に際し、敗軍側についたため家禄を失ってしまったので、この東別府城も廃城になってしまった。
                                                                                                                         昭和五十四年三月三十一日

                               

 現在では別府城跡地として県指定文化財として登録されているこの地の一角に東別府神社は鎮座している

                                           

                                                        拝 殿

                                                             

             参道途中から西へ伸びた参道の奥には神明社が鎮座している。                     神明社の脇に鎮座する御手長神社
               
        社殿はよく見ると傾いている。

                                           

                                                        本 殿

 東別府神社は別府氏の始祖藤原鎌足の後裔であるので、総本社は春日大社であり、かつては春日神社と称していたという。ということは本殿に祀られている3神はどういうことか。春日大社といえば、藤原氏の春日四神(経津主神・武甕槌神・天児 屋命・姫大神)を祭神としている。そういえば東別府神社の祭神は天児屋根命、宇迦之御魂神、大物主神だがそのうち藤原系は天児屋根命のみで、その他2神は稲荷系、出雲系である。どの資料にもそのことについての資料がないが不思議といえば不思議である。



                                         

                両方とも大黒天の石碑      八坂神社、天満天神社、八幡神社      青面金剛と三猿             王瀧口 登山道? 

                                            

                                                       御嶽塚


                              
東別府神社

篆額 埼玉県神社市長 宝祭山神社宮司 横田茂
ここ別府城址に鎮座する東別府神社は今を去る八百余年の平安の昔藤原鎌足の後裔別府次郎行隆がこの地に城を構えるにあたりその鎮守神として大和の国奈良の春日神社から勧請したのを創始とするといわれている。
明治22年6月境内地を拡張するとともに当時既に奉斎されていた春日神社稲荷神社□□がこの地域内に祭られていた榛名神社神明社御嶽神社大国主神社八坂神社琴平神社三船神社当を合祀し地域一円の崇敬の場が造営された。以来70年の間神祇を崇め祭祀を重・・・・・・みにも心のよりどころとして神人和合のまつりごとが行われてきた・・・・が本殿拝殿など積年の風雨による損いもはなはだしく之が修理について斉しく憂慮するところであった。
昭和32年10月東別府自治会が中心となり同憂の人達と協議をかさねた結果東別府神社(以下略)

                                                                                                           社頭掲示板



                         
                         

                                                       もどる                          toppage








 東別府神社から南東方向に1km弱の所に玉井大神社が鎮座している。

 その昔、奈良の興福寺の僧“賢景”がこの地に来たとき、眼病を患ったという。すると、夢の中で「井戸を掘れ」というお告げがあった。そこで賢景は井戸を掘る。滾々と水が湧き出てきたかと思うと、中から現れたのは宝玉だった。賢景はこの水で目をすすぐ。すると不思議なことに、眼病はすっかり治ったという。そこで賢景は井戸の神様を祀って井殿明神(玉井大神社)とし、宝玉を寺宝にして“玉井寺”(ぎょくせいじ)を創建した。「玉井」という地名も、賢景のこのエピソードに由来しているという。





                               玉井大神社
                                     地図リンク  
                                                                       オビシャの神事のある社

                                           



                             
所在地    埼玉県熊谷市玉井1911

                             主祭神    天津日高彦火火出見命(あまつ ひこひこほほでみ)
                                      *一般には山幸彦(やまさちひこ)の名で知られる。神武天皇の祖父に当たる人物。  

                             社  格     旧村社    

                             例  祭     三月十五日 例大祭 

                             由  緒   
玉井大神社は延暦年中遷都の折即ち第五十代桓武天皇の御代藤原小黒丸左大辨紀古佐美
                                     南都興福寺僧賢憬等に内命を伝えようと四神相応の地を巡視していたとき僧某東国に下り当地
                                     に滞在中両眼をひどく病みその折偶々霊夢に感じ里人を鼓舞して井を掘らせその湧水を以て眼
                                     を洗い平癒したと伝えられる。その井の神を祭って井殿明神と称し里名の玉の井とはこれから生
                                     れたといはれる後社名を改め玉井大神社と称する様になった。御祭神は天津彦火火出見命を主
                                     神として十五柱を奉斉する。
            玉井大神社造営記念碑より


 玉井大神社は国道17号バイパス線、熊谷方面上りで上奈良交差点で右折し、300m先の三叉路を左折すると右側に見えてくる。東別府神社にも近く、約1km弱で東南方向に鎮座している。


                              

                                  玉井大神社の社号標                   参道より社殿を撮影

                                           


                                   手水舎の横にある掲示板。左側に「オビシャ」についての説明が書かれている。

 延暦十三年(794)賢憬という僧が當地に滞在中両眼を病んだ。このとき夢の中で告げられた地点に掘った井戸の霊水で眼を洗うと直ちに眼病が治ったという。この井戸の神を祭ったのだ神社の始まりと伝えられる。毎年三月十五日この神社で「オビシヤ」が行われる。これは豊作占いの神事の変化したものといわれすべて謡曲によって進行する祝宴に特徴がある


オビシャとは
 
 主として関東地方の各村落で行われる春の行事で、なかでも千葉県北・中部はオビシャ行事が最も盛んに行われる地域の一つである。いずれも年の始めの1月から2月にかけて行うところが多く、元来は弓を射てその年1年の作物の作柄など、神意を占う予祝行事であったと思われる。


                           
   

                            
         拝 殿                        朱色の鮮やかな本殿


                                                   

                                拝殿の手前左側に八坂神社が鎮座              社殿脇に並ぶ末社







                                        
もどる                   toppage  





 玉井神社から南方向に向かうと高崎線の籠原貨物ターミナルの踏切があり、その南西側に久保島大神社が鎮座している。延喜式内社楡山神社の論社ではあるが由緒等不詳である。




                              久保島大神社
                                      地図リンク
                                                                      
平野部に鎮座する山神大権現

                             


 
                                  
所在地    埼玉県熊谷市久保島471番

                                  主祭神    大山祇神 伊弉諾命 伊弉册命

                                                    
(配祀)橘姫命 倉稻魂命 建御名方命 誉田別命 大日霊貴尊
 
                                        (主神)素盞嗚神 (配祀)大雷神 軻遇突智命 天手長男神

                                  社  格    旧村社 武蔵国 播羅郡鎮座 
      

                                  由  緒   
 江戸時代は「山神社」「山神大権現」と称していたが由緒は不明

                                  例  祭     4月17日  春祭り



                      

                                
村社 久保島大神社 社号標          二の鳥居前左側にある両部鳥居の由来案内板   
久保島大神社鳥居の由来

 所在地 熊谷市久保島471−2
 平成16年12月解体した際に、柱のほぞから願主と大工の名前とともに、嘉永2己酉年(1849)4月吉日の建立を示す墨書が発見されました。
 建立以来156年ぶりに立て替えられた鳥居は、明神鳥居の中でも両部鳥居と呼ばれ、笠木が反り返っている曲線構造です。柱は転びと言われ少し斜めになっており、補助の控柱で支えているのが特徴外です。
 世界遺産で知られる厳島神社の鳥居と同じ型で、熊谷市内でも木造鳥居として極めて重要です。
平成17年4月15日

社頭掲示板

                 

                    二の鳥居                             拝 殿                             本 殿

 江戸時代には山神社或いは山神大権現と称しており、御祭神は大山祇神と伊弉諾尊、伊弉冉尊。他に橘姫命と倉稲魂命、建御名方命、誉田別命、大日霊貴尊、素盞嗚尊、大雷神、軻遇突智命、天手長男神が祀られているのだそうだ。


                                              

                                         拝殿の横の庚申塔        境内社 稲荷社と三峰社 





                                              
                                        もどる                   toppage