古の「毛の国」、又は毛野国と言われ、独立した一つの文化圏・毛野王国を形成していた群馬県は、「延喜式」での格は大国で遠国。「記紀」・「六国史」での格は811年(弘仁2年)までは上国、以後は大国と、関東では嘗て最も繁栄していた実り豊かな強国だった。
 また群馬県は全国でも有数の古墳県であり、全国の古墳の大きさトップ100のうち、群馬は奈良、大阪、岡山に次いで、4番目に多い数があり、東国(東海・甲信・関東地方)では、圧倒的な質と量を誇る。
 なかでも群馬の古墳時代を代表する前方後円墳が太田市の天神山古墳で、5世紀の中ごろに築かれたと言われている。太田天神山古墳の特徴の一つは規模の大きさで、墳丘の全長210メートル、二重に巡る堀の範囲まで含めると長さ364メートル、幅288メートルとなり、東日本最大の巨大前方後円墳である。さらに、遺骸の埋葬に使用された石棺も注目に値する。太田天神山古墳の石棺は「長持形石棺」と呼ばれるものだが、強い権力を持つ者に多く用いられ、東日本では極めて珍しい埋葬施設という。

 群馬県には太田天神山古墳を始め、浅間山古墳(倉賀野市 173m)、別所(円福寺・宝泉)茶臼山古墳(太田市 165m)、白石稲荷山古墳(藤岡市 165m)、七輿山古墳(藤岡市 146m)等、県を代表する大規模古墳が築造され、同時に家・大刀・盾・靱・鞆・帽などの埴輪や装飾付太刀など国内、海外との交流をうかがわせるようなおびただしい副葬品、出土品が出土などから、当時の強大な王国を形成していた毛野国のイメージが想像される。

 また群馬は「埴輪(はにわ)王国」と呼ばれ、日本における埴輪研究の聖地と言われるほどだ。唯一の国宝埴輪である「武装男子立像」は、太田市飯塚町から出土するなど、国宝・国指定重要文化財の埴輪全42件のうち19件(45%)が群馬県から出土していている。

 このように豊かな国力を背景に、国内ばかりでなくアジア大陸との交流も盛んであった「毛野の国」は、古代東国の中でも、ひときわ大きな文化の花を咲かせていたのである。





                            一之宮貫前神社                                                              
                                   地図リンク
                                                                  「日本三大下り宮]と呼ばれる珍しい形態の神社

                                       



                                       所在地    群馬県富岡市一ノ宮1535

                                       主祭神    経津主神  姫大神

                                       社  格    式内社(名神大) ・ 上野國一宮 ・ 旧國幣中社・別表神社
    
       
                                       創  建    安閑天皇元年(531年)   
 

                                       例  祭
     3月15日

                                       神  事
    水的神事、巫射、御戸開祭 鎮神(しずめ)事 
                                                酒御造行事,川瀬行事 鹿占神事、機織神事


 一之宮貫前神社は、国道254号富岡バイパスを下仁田方面に進む。富岡市街地を抜けて、更に西側に鎮座する。貫前神社に行くには、254号バイパスと西上州やまびこ街道の接する一ノ宮交差点で右折し、約400m位行ったとこを右折するか、一ノ宮交差点の手前、一ノ宮北交差点を右折し、左側に鳥居があるT字路を左折するかどちらかだが、前者は右折すると結構急勾配の坂道なので軽自動車の愛車ではきつく感じるし燃費も悪い。安全に行くには一ノ宮北交差点を右折したほうがいいと思う。今回も(参拝日平成24年2月28日)そのルートで参拝した。

 神門を過ぎるとすぐ左側に市営駐車場が有り、そこに車を止める。



                                

                                          正面大鳥居                   大鳥居から総門に続く参道

 
                                       


                                   
     貫前神社総門の前には両側に唐銅製灯籠がある。富岡市指定文化財


貫前神社唐銅製灯籠
 
高さ約395センチの一対の銅製灯籠で、慶応元年(1865年)製作、慶応2年にここに建てられた。灯籠の基礎部と竿部の間に、灯籠建立の際の献納者名・住居地・献納額が2段に刻まれている。献納者の人数は合計で1544名、献納額は総額4790両にのぼり、地元の多数の養蚕農家を初め、上州・江戸・横浜の生糸・絹商人らが献納している。
 本県をはじめ、周辺各地における養蚕・製糸業の繁栄興隆と、これに携わる人々の祈念を明確に示す資料として重要であり、7年後に開業した官営富岡製糸場の先駆的記念碑ともいえる重要な文化財である。

                                               

                                                      総門左側にある案内版

                                               

                                          貫前神社総門 この神社では一番標高が高い位置に立っている。


                                 

                                    
     総門から見た楼門                  月読神社 祭神 月読命
                                                           貫前神社の古い拝殿ともいわれ、明治時代までは牛王堂として祀られていた。
                                                           現在は近郊の4神社も合わせて祀られている
                
 

 普通、神社の境内、特に社殿は参道や門から石段を上がったところにあるが、この神社は正面参道からいったん石段を上がり、総門を潜ったところから石段を下ると社殿がある、いわゆる「下り宮」と呼ばれる特異な形態を有している。『全国一の宮めぐり』によれば「下り参りの宮」の通称で呼ばれると言う

 神社のホームページには「貫前神社は綾女谷と呼ばれる渓間を切り開いて建造され、しかも南向きに建っているため正面参道からは丘を上って嶺に出て、それから石階段を中腹まで下って社頭に達する順路になる。」と書かれていた。総門をくぐった両サイドの風景や月読神社野土台といい、楼門、拝殿、本殿脇の壁面は石を組み上げて造った壁、完全な石垣がそこにあった。まるで城のようだ。


                   

                            楼門 昭和51年国指定重要文化財                   裏から見た楼門 この角度から見る景観もなかなか良い
                                   

               全体を朱色に塗られており、蟇股以外には特に彫刻も見られない。両脇には回廊が設けられ、石段からは全体を見下ろすとことができる。

                                                                                                                                          
                             楼門の東側にある神楽殿  全体が朱の建物に対してこの建物だけ黒を基調としていて特別な雰囲気

                                 

                                                 
拝殿 本殿 どちらも国指定重要文化財

                                          平成の大修復のため参拝できず、脇からの撮影にとどまる。

                        
  本殿は春日造りの形体だが、内部が2階建てで神座はその2階部分にある「貫前造り」と呼ばれる独特な構造だという。

由緒

 一之宮貫前神社

上野国一宮、元国幣中社、一之宮貫前神社、群馬県富岡市一ノ宮鎮座。

「一番はじめは一ノ宮」と古くからわらべ歌にうたわれている通り、一之宮貫前神社は上野国の一宮で、経津主神と姫大神を祀り、開運、治安、農耕、機織、縁結び、安産の神として県内はもとより、遠近の人々に信仰され親しまれている。
神社は、鏑川の清流に臨み北に妙義、南に稲含、秩父の連山、西に神津荒船の連山を仰ぐ景勝の地にあり、小高い丘陵を登り、見上げるような丹塗の大鳥居をくぐり、北斜面の下り参道をおりて参詣するという全国でも珍らしい形態を持ち総漆塗極彩色の社殿が鬱蒼と繁った杜に囲まれ巧に配置散在する様は、恰も日光の東照宮を見るような華かなもので、小日光と呼ばれている。

御祭神
 経津主神、姫大神。
 経津主神は磐筒男、磐筒女二神の御子で、天孫瓊瓊杵尊がわが国においでになる前に天祖の命令で武甕槌命と共に出雲国(島根県)の大国主命と協議して、天孫のためにその国土を奉らしめた剛毅な神で、一名斎主命ともいい建国の祖神である。
 姫大神は祭神不詳で、恐らく綾女庄(一ノ宮地方の古称)の養蚕機織の守護神と考えられる。

由緒
 社伝によれば、碓氷郡東横野村鷺宮に物部姓磯部氏が奉斎、次で、南方鏑川沿岸に至り蓬ケ丘綾女谷に居を定めお祀りしたのが安閑天皇元年3月15日である、天武天皇白鳳2年3月15日初度の奉幣があり、清和天皇の貞観元年に宸筆の額を賜り、神位の昇る毎に書き改めて今に残っているものに正一位勲五等抜鉾神社とあり、即ち勅額で楽翁公の集古十種に記されている。
醍醐天皇の御代、延喜の制には名神大社に列し、上野国一ノ宮として朝野の崇敬を衆め、武家時代に至って、武家、地方豪族が格別に崇拝して数々の献品をなし、奥方連中からも奉納品等があって女神様の信仰も篤かったことが知られる。
明治4年国幣中社に列格、昭和21年、社格制度の廃止により一之宮貫前神社と称し現在に至る。
この間御修理に御下賜金、皇族方の御寄進或は御親拝(昭和9年)皇族方の御参拝等御神威彌彌高く農耕、殖産、開運の神として神徳四方に遍く一朝国家有事の際は賽者踵を接する。

社殿と境内
 現在の社殿は徳川三代将軍家光の命により改築したもので、寛永12年(約330年前)の造営である。元祿11年、五代将軍綱吉が大修理をした、江戸初期の総漆塗精巧華麗な建造物というだけでなく、その構造が、いわゆる貫前造と称する特異な点から重要文化財(旧国宝)に指定されている。
拝殿、楼門及び東西両廻廊は同時代の建築である、実に徳川家の抱え大工が日光廟という世界的美術建造物を完成する道程の中にあるものといえる。
境内は約26000坪、北斜面の森林で、本殿裏に樹令約1200年の杉の御神木があり、一名藤太杉とも云う、その昔、藤原秀郷(俵藤太秀郷)が戦勝祈願をこめて年令の数即ち36本を植えたと称するもので、現在はこの御神木一本だけが残っている。
西の門内は式年遷宮祭の御仮殿敷地、東の門内は往時神仏習合時代の僧堂敷地で、観音堂跡、三重塔跡、鐘楼跡等がある、不明門内にある鳥居は勅額鳥居と称え昔は遥か南方正面田島字鳥居の地にあったと伝えている。

宝物
 総て四百点余、鏡、武具をはじめとして、御神衣、古文書、神楽面等古来の崇敬信仰を語るに足る諸品を蔵している。
鏡、百数十面、奈良、平安、鎌倉、室町、吉野、桃山、江戸の各時代を通じて大観し得るものとして金工美術上珍重されている、内重文に指定されているものは次の通り。
白銅月宮鑑、唐鏡、約2000年位前の作。
約360年程前文禄3年頃小幡竹千代の乳母奉納
梅雀文様銅鏡、約760年前、鎌倉時代
竹虎文様銅鏡、約500年前、室町時代
御神衣、六十余領残存、元和9年以来遷宮毎に新調奉納

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年

                              

 貫前神社は、社伝によれば、碓氷郡に物部姓の磯部氏が奉斎し、その南方の鏑川沿岸を至って蓬ケ丘綾女谷に定め祀られたとある。
 古くは貫前神社、鎌倉時代から江戸時代にかけては、抜鉾神社、明治以降は現在の貫前神社と称している。本来「抜鉾」「貫前」は別神と考えられている。
抜鉾神は、男神・経津主神で、物部氏の系統をひく祭神で、群馬、碓氷、甘楽郡の西上州を中心に栄えた物部氏の氏神となった。一族は同時に鏑川流域の最高峰・稲含山の雷神を信仰していたという。
 貫前神は女神で、多野郡から甘楽郡の鏑川沿岸にいた帰化人が氏神としてまつっていたとされる。この神は農業と機織り、水源の神として厚く信仰されたという。総門より下り参道になっており、参道を下った低地に社殿が位置している。

 また現在は「一之宮貫前神社」という名で呼ばれているが、一部の歴史書によれば「抜鋒神社」という名前も見られる。これは祭神である経津主神の他、姫大神(比売大神)も祭神として2柱をお祀りしているためであり1神1社説、2神2社説等がある。
 延長五年(西暦927年/皇紀1587年)に編纂された「延喜式神名帳」によると貫前神社は上野国式内12社中の筆頭として「一之宮」を冠ぜられた。時代は下り戦国時代、西上野は上杉・武田・北條の各氏が激戦を繰り広げる場所で、支配者がたびたび変わる地域だったが、格式高く、武神である経津主神を祀っている貫前神社は各氏から庇護を受けたという。

 江戸時代に入ると徳川家の庇護を受け、三代家光や五代綱吉の時代に社殿の再建や改修が行われ、現在、国指定重要文化財である本殿、拝殿、楼門はこのときに作られたものとされている。


                                 

                                  御本殿左手に鎮座する抜鉾若御子神社   社殿と一緒に抜鉾若御子神社の案内版もある。
                  
              上野国の国内神名帳にその名がある。この社殿
                                       は(1828年)の建立という。


神楽殿の南側には不明門と勅額鳥居がある。


                                              

                                      勅額鳥居          不明門と勅額鳥居の案内版           不明門

不明門
 
普段は開門しないことから「不明門」(あかずのもん)ともいわれている。朱雀天皇の時代の勅使参向の折に建てられたと伝わる。現在では春秋の「御戸開祭」と「流鏑馬神事」で1年に3回開かれる。

勅額鳥居
 清和天皇御染筆の額が掲げられていたことから勅額鳥居といわれる。この鳥居も両部鳥居で現在は有栖川宮幟仁親王の額が掲げられている。

また貫前神社社殿の西側には仮殿跡地と末社群が存在する。 

                                                

                            
       

                          末社 伊勢神宮(内宮、外宮)   末社 日枝神社   伊勢神宮、日枝神社の案内版    二十二末社
           

 二十二末社とは、@竈,A菅原,B沓脱,C速玉男,D粟島,E春日F奇八玉,G諏訪,H八幡,I事解男,J咲前,K浅間、L高?,M少彦名,N長田,O伊邪那岐,P八坂,Q白山比刀AR熊野,S水分,?熱田,?扣各神社で、上野領地内に祀られていた各社を、寛永十二年の御造営の時にまとめたものらしい。


                                               

                                                富岡市指定天然記念物「貫前神社のスダジイ」

 
                   樹齢は1000年と推定され、幹は数本の枝幹が成長して重なり合った奇異な形をしている。樹高15メートル根回り4メートル。


                                          



 
貫前神社が鎮座する富岡市周辺は、「毛野」の勢力範囲、特に大型古墳が集中している当時の中心地である利根川周辺(太田、高崎、藤岡)から完全に西側にずれている。これは何を物語っているのだろうか。10世紀の醍醐天皇の時代、『延喜式』のなかの『神名帳』に記載され、唯一の名神大で上野国一之宮として崇敬をあつめていた社であり、少なくともその年代、あるいはその少し前までは上野国の中心的存在だったろうとは想像できる。ではそれ以前はどこが中心だっただろうか。5世紀から7世紀の古墳時代、あれだけ栄えていた「毛野国」だ。上野国の中心、もしくは利根川北部の平野部付近にやしろを構えていたに違いない。

 前橋市にある赤城神社は式内社であり名神大の社格があり、上野国の二之宮である。伝承では、本来、一之宮であったが、財の君である、貫前の女神を他国へ渡してはならないと、女神に一之宮を譲ったという。さらに、赤城神が絹機を織っていたが、絹笳が不足したが、貫前の女神から借りて織り上げたとも言う。ここでいう「財の君」はまず貫前神社の祭神である姫大神であり、「他国へ渡してはならない」との他国とは信濃の建御名方刀美神であるという。別の伝承もあり、群馬県で有名な三つの神社、赤城神社、榛名神社、貫前神社、実は、この三つの神様が、三姉妹であった、という伝承が残っている。それにまつわるお話が、「一ノ宮伝承」で、上記「三姉妹」の女神様たちが、高天原の神々に対して、本職であるところの「織物」を献上することとなった。三姉妹はそれぞれ織物を織ったのだが、当時「一ノ宮」であった「赤城神社」の「姫大神」さまは、材料が不足していたため、約束の織物を作成することができそうになかった。そこで、赤城神社の姫大神さまは貫前神社の姫大神さまから 「材料」を借りて、約束の織物をつくることができたという。その時の功績に基づいて「これからは貫前神社が上野の国の一ノ宮とする」と決められた、というものらしい。

 また赤城神社の祭神は、赤城大明神、大己貴命、豊城入彦命等であるが、豊城入彦命は毛野氏(上毛野氏・下毛野氏)の祖先として古事記に記されており、前橋市にある大室古墳群もしくは総社二子山古墳は、この豊城入彦命の陵墓であったという伝説が残っている。なお、大室古墳群や二子山古墳等、豊城命の陵墓と伝説が残る古墳の年代は概ね5〜6世紀で、日本書紀の年代に諸説ありと言っても、少し遅すぎる感じは否めないが、豊城入彦命を祖先とする一族の墓ならば大丈夫か、とも考えた。

 では、いつから「一ノ宮」の地位が変わったのか。
 それは正確には分からない。だが貫前神社の祭神である経津主神を物部氏である磯部一族が氏神の経津主神を祀り、荒船山に発する鏑川の流域で鷺宮の南方に位置するここに社を定めた、ことこそ最大の理由ではないかと考察する。貫前神社の鎮座する富岡市は、東山道の信濃方面に通じる要衝の地であり、毛野君の始祖にあたる豊城入彦命が実在したかは別として、天津系の一族が東山道経由で毛野国へ進出した事項は事実あったと考えている。当時の地形で考えるならば、毛野国へは、河川が多く渡河が不便な東海道より東山道のほうが便利で、協力する出雲物部一族も信濃国にはたくさん存在する。貫前神社は毛野国進出の最初の根拠地であり、その時の最大の功労者である磯部氏の氏神である経津主神を香取神宮から勧進したのではないか、と現時点では考える。
 
 ちなみに埼玉苗字辞典にはこのような記述があるので参照として掲載する。

 
阿部族物部氏 

 出雲国簸川郡富郷(斐川町)は、阿部氏の祖・長髄彦(代々の襲名)の出身地にて、大和国(耶馬台)へ移住し、其の居住地を登美村と称す。大和国添下郡登美村に延喜式登彌神社(奈良市石木町)あり、登美饒速日命を祭神とする。宇陀郡鳥見山に延喜式等彌神社(桜井市桜井)あり、祭神を饒速日命とする。長髄彦は物部氏の祖神饒速日命と同族である。大和国の登美長髄彦は神武東征に敗れ、出雲国富郷へ逃げ帰ったと伝承あり。恐らくは長髄彦の一族であろう。簸川郡大社町の富氏は、久那戸(くなど)の神を遠祖とする大国主命の直系の子孫である。久鬼文書に¬素戔鳴天皇―佐男登美命(白人根命、白人根国中興の祖)―大国主天皇」と見ゆ。白人根国は出雲国を云う。トミ参照。
 また、阿部族阿閉臣(敢臣)は姓氏録に¬大彦命の男・彦背立大稲輿命の後也」と見え、阿閉臣は物部氏族とも称す。神護景雲元年四月紀に¬伊勢国多気郡人外正七位下敢磯部忍国」。宝亀六年五月紀に¬敢磯部忍国等五人に姓を敢臣と賜ふ」。貞観十五年十二月紀に¬伊勢国多気郡人従五位下阿閉臣次子、従七位阿閉臣雄継等に、姓を朝臣と賜ふ。火産命の後より出づる也」と見ゆ。
 伊勢国の阿閉臣(敢臣)は火産霊(ほむすび)・亦の名を火神軻遇突智(ひのかみかぐつち)の子孫・経津主神(ふつぬしのかみ)の後裔と称している。日本書紀・神代上に¬一書に曰く、イザナミノ尊、火産霊を生みたまひし時に、子に焦(や)かれて神退ります。一書に曰く、火神軻遇突智の生るるに至りて、其の母イザナミノ尊焦かれて化(かむ)去ります。(軻遇突智の)剣の刃より垂る血、是天安河辺に在る五百箇磐石(いほついはむら)に為る。即ち此経津主神の祖なり」と見ゆ。
 古語拾遺(大同二年)に¬経津主神(是れ、磐筒女神の子、今下総の国の香取神・是れ也)」と見え、香取神社は物部氏の氏神なり。また、上野国甘楽郡貫前神社は祭神を経津主神とし、祠官は磯部君の後裔である。天平神護二年五月紀に¬上野国甘楽郡人磯部牛麻呂等四人、姓を物部公と賜ふ」と見ゆ。鍛冶神の経津(ふつ)は物(ぶつ)のことで物づくり集団の祖神なり。漁労民の磯部は漁取(すなどり)を行い、砂鉄を採取するを職とす。阿部族物部氏は鍛冶集団磯部を率いて関東へ移住した。



                                               

                             
  一の鳥居から見る秩父連峰の稜線 1,500年以上の歴史の経過はあってもこの風景は変わらない。






  

 

                                              もどる                 toppage