古社への誘い 

 大田天神山古墳 


           


太田天神山古墳(おおたてんじんやまこふん)は、群馬県太田市にある古墳時代前期 から中期に造られたと推定される、東日本最大の前方後円墳。国の史跡に指定されて いる
 

 大きさは全長約210メートル、後円部直径約120メートル、前方部前幅約126メートル、後方部長さ約90メートル、後円部高さ約16.8メートル、前方部高さ約12メートルで、平地に造営された東日本最大の前方後円墳で、墳丘規模による順位では国内で第26位に位置づけられる。ただしこれは、古墳時代初頭の三世紀中葉すぎから後期末葉の六世紀末から七世紀初頭頃までの三百数十年間に営まれたすべての前方後円墳の中での順位である。この古墳が営まれた五世紀前半頃の同じ世代の倭国王や倭国の有力首長たちの古墳の中では、おそらく五本の指の中に入る大規模なものであったことは疑いなかろう。
 
 墳丘は前方部が二段築成、後円部が三段築成で、渡良瀬川水系の川原石を用いた葺石をともない、周囲には二重の周濠を有する。内濠が後円部後方で36メートル、前方部前面で24メートル、墳丘北側部30メートル、同南側部で36メートル、楯形である。中堤幅は後円部後方と前方部前面が24メートル、墳丘北側部が17メートル、南側部が23メートルである。中堤の外側にある外濠は馬蹄形で、後円部周りと前方部前面は幅24メートルである。 周濠を含む古墳の領域は、長さ約364メートル、幅約288メートル、前方部前面幅265メートルにもおよぶ。


           
               天神山古墳及び周辺古墳の堀想定図

 発掘調査により見つかった円筒埴輪や形象埴輪(水鳥の頭部)などの遺物や、石棺の技法および古墳の築造方法など遺構の検討より、およそ5世紀中頃から後半に造られたものと推定される。埴輪は、墳頂部、下段、上段の平坦部に配列されていたと推測されている。さらに、器財埴輪や家形埴輪の存在も推測されている。

 主体部分である被葬者の埋葬施設は、後円部東南側に凝灰石製の長持型石棺の底石が露出しており、盗掘された痕跡がある。5世紀の畿内地方の大古墳にも採用されているものと変わらない。畿内の政権との関係が考えられ、副葬品については不明である。 封土に若干毀損された箇所があるとはいえ、旧態をよく保持し、東国の古墳体型の様相を示す貴重な考古資料であるとして、1942年(昭和16年)1月27日に国の史跡に指定された。
 なお「天神山」の名は、後円部の上に古くは天神様を祭る天満宮の社があり、これに由来する。 別称「男体山古墳」という。

 
 太田天神山古墳の存在は、五世紀の前期において上毛野の大首長である太田天神山古墳の被葬者が、ヤマト政権、すなわち倭国連合の中でもきわめて重要な位置を占めていたことを示すものにほかならない。             
 このことをより具体的に物語るのが、太田天神山古墳の長持形石棺である。この古墳では、その後円部の中心的な埋葬施設に用いられていたと考えられる長持形石棺の底石の一部が、くびれ部に近い後円部中腹に転落している。残念ながら棺材の一部が遺存するにすぎないが、『新田金山石棺御尋聞書』なる近世の文書から、その底石の本来の長さが三メートルにも及ぶ、畿内のこの時期の諸古墳の例と比較してもきわめて大型のものであったことがわかる。

 また太田市に西接する伊勢崎市の、太田天神山古墳とほぼ同時期の前方後円墳お富士山古墳(墳丘長一二○メートル)に遺る長持形石棺の形状や製作技法から、天神山古墳やお富士山古墳の長持形石棺が、この時期の畿内の長持形石棺にきわめてよく似たつくりの本格的なものであったことが知られる。
 この時期の畿内の大型古墳の長持形石棺はいずれも播磨の竜山石製であるが、太田天神山古墳例やお富士山古墳例は上毛野の石材を用いたものである。このことは、東国の上毛野の大首長の葬送に際し、ヤマト王権から大王らの石の棺を作っていた工人がわざわざ派遣され、その棺の製作にあたったことが想定されるのである。このことは、この上毛野の大首長が畿内の大王に服属する地方首長などではなく、まさにその同盟者であったことを何よりも明白に物語るものであろう。


 ただし、これほどの古墳であるにも関わらず、埋葬者が誰であるか全く不明である。

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