埼玉古墳群において一際目立ちシンボル的な存在である丸墓山古墳は6世紀前半に造られた日本最大の円墳(主軸長 105m、高さ 18.9m)である。周掘をいれた直径は180mにも及ぶ。墳丘土量および高さにおいて、同じ古墳群に属する武蔵国最大の古墳二子山古墳よりも多いという試算もあり、円墳としては我が国最大の規模を誇っているという。利根川の対岸、群馬県太田市にある古墳時代中期から後期(5世紀中頃から末期)、稲荷山古墳にやや先立って造られたと推定される、関東地方最大の前方後円墳である大田天神山古墳(国指定史跡)は、全長約210m、前方部幅約126m、長さ約90m、高さ約12m、後円部直径約120m、高さ約16.8mであり、丸墓山古墳は径に於いて大田天神山古墳の後円部に及ばないが、高さに於いて遙かに凌ぐ。また仮に丸墓山古墳が円墳ではなく、前方後円墳だとしたら、主軸長が200mを超える大古墳となるそうだ。
丸墓山古墳登り口付近にある案内板
丸墓山古墳
形状:円墳 直径:102m 高さ:18.9m
丸墓山古墳は、わが国最大の円墳といわれています。墳丘と堀の一部が復元されていますが、元の形をよく残しています。
遺骸を納めた埋葬施設はわかっていませんが、今までの調査によって、墳丘の表面をおおっていた石(葺石)、円筒埴輪や人物埴輪が発見されています。
これらの出土品から、丸墓山古墳がつくられたのは、6世紀の前半と考えられます。
天正18年(1590年)に、石田三成が、この古墳の南北に堤(石田堤)を築き、忍城を水攻めにしました。古墳から南にまっすぐのびている道路は、この堤のなごりです。
昭和63年3月5日 埼玉県教育委員会
(現地案内板より抜粋)
丸墓山古墳は遺骸を納めた石室など埋葬施設の主体部は未調査だが、周掘を検出した際に、葺石に使用された河原石と、復元すると直径が55cmにもなる、大型の円筒埴輪の破片、朝顔形埴輪片、形象埴輪、土師器、須恵器などが出土したそうだ。
また古墳自体は高さ20m以下の小高い丘だが、斜面の平均斜度は28度。かなりの急傾斜であり登り口からの登頂は結構きつい。遠方からの観察から中段平坦面、上段平坦面の名残りが見てとれ、古代エジプト初期の階段ピラミッドと同じ三段のテラス状の古墳であることは目視による確認でも良くわかる。
さてこの丸墓山古墳について現在まで解明されていないいくつかの謎が存在する。
1 この日本最大級の丸墓山古墳が、前方後円墳が連続していく埼玉古墳群の中に、なぜひとつだけ円墳という形で現れたのか、実はだれもわかっていないのである。
2 今までの発掘調査で出土した埴輪の分析や榛名山二ッ岳の火山灰のの堆積状況等において埼玉古墳群の9基の古墳の中では次の順序で作られたと想定できるという。
稲荷山古墳(5世紀後半) → 二子山古墳(5世紀末) → 丸墓山古墳(6世紀初頭) → 愛宕山古墳(6世紀前半) → 瓦塚古墳(6世紀前半~中頃) → 奥の山古墳(6世紀中頃)) → 鉄砲山古墳(6世紀後半) → 将軍山古墳(6世紀後半) → 中の山古墳(7世紀前半)
しかも二子山古墳とほとんど同時期に丸墓山古墳は築造されているという。これは一体何を意味しているのだろうか。
3 埼玉古墳群の中で、これほどの大きさを誇る丸墓山古墳は実は中心部に位置していない。埼玉古墳最初の稲荷山古墳同様北側に位置していて、中心に位置している二子山古墳を守護しているように見える。稲荷山古墳とともにこの扱われ方は非常に異常だ。
以下の点について考えてみたいと思う。
1 何故丸墓山古墳だけ円墳なのか①
この埼玉古墳群は9基の大型古墳が存在しているが、現存する他の古墳がすべて「前方後円墳」であるのに対し、この丸墓山古墳だけ「円墳」なのである。これだけ巨大な古墳を造れたにもかかわらず、なぜ前方後円墳としなかったのかが謎とされている。この謎に対していくつかの説があるのでここに紹介し検証したい。
① 元々は「前方後円墳」として築造されたものだが、何かしらの理由により造ることができなくなりやむを得ず「円墳」にした。
② 丸墓山古墳は稲荷山古墳の後、二子山古墳とほぼ同時期に造られた、と言われている。つまり二子山古墳の埋葬者と親密な関係にある実力者のために造られたもの、という説。(例えば妻、叔父等)
③ 100mを超える前方後円墳の築造推移は稲荷山古墳(5世紀後半)→二子山古墳(5世紀末、6世紀初頭)→鉄砲山古墳(6世紀後半)だが、この二子山古墳と鉄砲山古墳の間にはかなりの時間差がある。
そこで一族の中で宗主権が別系統に一時移った可能性が想定されている。ただしこの族長は前方後円墳を造ることが正式に認められていなかったので円墳にした、という説。この説に従えば鉄砲山古墳の埋葬者の前代に造られた愛宕山古墳(6世紀前半)、瓦塚古墳(6世紀前半~中頃)、そして 奥の山古墳(6世紀中頃)も別系統に属する、という。
①の説であるが当時の状況を考えると、二子山古墳の築造中かほぼ同時期に丸墓山古墳は造られている。「何かしらの理由により円墳として急遽作り直した」というのであれば当然その影響は二子山古墳にも及ぼしていただろう。優先順位で二子山古墳の完成後、丸墓山古墳の企画を変更した、とも考えられるが、それでも丸墓山古墳を築造した際に使用した墳丘土量は二子山古墳のそれよりはるかに凌駕したらしいし、この古墳には埼玉古墳群唯一といわれる葺石を全面に使用したともいわれている。つまり、丸墓山古墳は企画、設計、築造の段階において何一つ支障もなく計画的に「円墳」として築造された、と推測される。
②の説に対して、検証するために参考となる資料がある。それは稲荷山古墳の鉄剣、いわゆる金錯銘鉄剣(稲荷山古墳出土鉄剣)の銘文の内容にヒントが隠されていた。
(表)
- 辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比垝、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比
(裏)
- 其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也
書かれている文字を通常の説で解釈すると、
「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。(表)
其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケ(キ)ル(ロ)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。(裏)」
ここに刻まれた文字の解釈には今回はあえて触れない。問題なのは稲荷山古墳の主に対して乎獲居臣(おわけのおみ)という臣下が稲荷山古墳後円部にある副室である第1主体(礫槨)から発見された、という埋葬状況についてである。但し断っておくが乎獲居臣の人骨が発見されたわけではない。あくまで乎獲居臣と刻まれた鉄剣が多くの出土品(画文帯神獣鏡1面、勾玉(まがたま)1箇、銀環2箇、金銅製帯金具1条分、鉄剣1口、鉄刀5口、鉄矛2口、挂甲小札(けいこうこざね)一括、馬具類一括、鉄鏃一括等)と共に発見された、ということなので、正確に言うと「第1主体である礫槨から盗難逃れた出土品の中に金錯銘鉄剣があり、その剣の両面に115文字の漢字が金象嵌で表され、裏面の一節に乎獲居臣と刻まれた文字があり、文体の内容からこの礫槨の埋葬者はこの乎獲居臣らしい」ということになる。
この乎獲居臣は決して大王ではない。杖刀人の首であり、自ら左治天下したということから従来の説では親衛隊長でもあり、宰相の位だったかもしれない。この稲荷山古墳で発見された金錯銘鉄剣では大王は「獲加多支鹵大王寺」と言う名前でちゃんと明記されている。この古墳の礫郭及び粘土郭は後円部の中央からややずれたところにあるため、未発掘ながら中央にこの古墳の真の造墓者の為の主体部が有ると考えられているようだ。つまり稲荷山古墳には大王である「主郭」が後円部中央に存在し、その大王を守るように「副室」があり、「主人」である「王」のすぐ側に「埋葬」されている、ということは非常に希なことであり、「臣下」として「栄誉」の「極致」であったと考えられ、それにふさわしい事績が「主郭」の人物とのあいだにあったことを示すものではないかと考える。そのことは「鉄剣」に書かれた内容についても「主郭」の人物との関係において考えるべきものであると考えられる。
つまり、大王につながる縁者であったとし、仮に大王以上の権力を有していたとしても丸墓山古墳を造る理由にはならない。むしろ稲荷山古墳の埋葬状況における「主郭」と「副室」のような埋葬方法が当時の妥当な常識ではなかったかと考えられる。
③の説のような別系統の王位継承の説に関して
・ 丸墓山古墳の後の愛宕山古墳、瓦塚古墳、奥の山古墳は100mを超えないが全て前方後円墳であったことから正式に王位を継承できたと考えるが、別系統の王者として記載されている。その説明が十分でないこと。
・ 二子山古墳と鉄砲山古墳がそれぞれ100mを超える古墳で王位継承権がありそれ以下の古墳には継承権がない根拠は何であろうか。また鉄砲山古墳の後の古墳はみな100m未満の古墳だがどのような扱いとなるか。
・ 前方後円墳のみ王位継承権がある理由、そして説明が十分でないこと。
等、疑問を感じてしまう点が多々存在することから、それらを解決する文献なり状況敵証拠が欲しいところだが、考え方は非常に面白く興味深い。(続く→)
|