埼玉古墳群の中央部に位置している二子山古墳は武蔵国最大138mの前方後円墳である。名前の由来は、前方部と後円部という二つの山が連結したような形からついたもので、「観音寺山(かんのんじやま)」とも呼ばれていた。墳丘は二重の堀に囲まれており、それを含めた長さは南北240m以上になる。現在、内側の堀には水がたまっているが、古墳築造当時は水はなかったと考えられている。埋葬施設は発掘調査されておらず詳しいことは不明だが、墳丘周囲の調査で出土した埴輪から、5世紀末から6世紀初頭前後に造られたと推定されている。これは稲荷山古墳に続く時期にあたり、稲荷山古墳とは、墳丘の向きが同じ、またともに、中堤の西側に「造出し(つくりだし)」と呼ばれる四角い土壇(どだん)をもつなどの共通点がある。つまり位置、時期とともに、両者の連続性がうかがわれる。これは丸墓山古墳以外の他の8基の前方後円墳にも共通することで、逆に言うと二子山古墳と丸墓山古墳には何故か直接的な連続性、共通性を感じない。また丸墓山古墳の後に築造された愛宕山古墳との関係にも同様にも言えることだ。そう、唯一丸墓山古墳だけ気高く孤高を持する感がある。
2 何故丸墓山古墳だけ円墳なのか②
さて少し話は横道にそれてしまうが重要な項目なので少々おつきあい願いたい。それは古墳である祭祀施設は一般的に大王の在位中に造られるものか、それとも没後に次代の大王、またはそれ以降の一族によって造られるものなのか、という問題だ。何故この問題を取りあげたかというと、大仙陵古墳のような大型古墳は墳長がおよそ486m、前方部は幅305m、高さ約33m。後円部は直径245m、高さ約35mで、三重の濠の外周は2.718m、その内側の面積は464,124平方mでとてつもなく巨大な古墳だ。この巨大な築造すると、人員は
一日最大2.000人従事して、工期 に15年8ヶ月要するという試算もあると言う。もちろんこれほどの古墳を造り上げる大王の権力の大きさは想像を超えるものだったろうが、その反面、どんなに頑強で、尚且つ強靭な精神力を持っていたとしても人の「死」は平等に、そして必ず訪れる。ましてや古墳時代の衛生、医療、食生活環境は現代とは比べ物にならないくらい悪かったはずだし、当時の平均寿命も短かったと思われる。15歳以上に達した者の平均死亡年齢の時代変遷は、古人骨より推定すると以下の年齢となるという。
縄文時代 男31.1歳/女31.3歳
弥生時代 男30.0歳/女29.2歳
古墳時代 男30.5歳/女34.5歳
室町時代 男35.8歳/女36.7歳
江戸時代 男43.9歳/女40.9歳
この数値が直ちに古墳時代の大王の寿命に直結するとは限らない。大王の食生活や衣食住は一般民衆より格段良かったろう。しかしそれは大王の寿命が長いとする理由にもならない。自然災害や人為的な災害は老若男女問わず襲い掛かる。またそのような不幸はいつ、何時起こるか予想もつかない。だからこそこのような大型古墳を築造するためにはそれらの天災、人災等をある程度予想して少なくとも在位中に設計、築造しなければならないことは自明の理だと筆者は思うのだが、それでも現在のところこの論争は専門家の中でも解決できていない。
古代倭国で、何十万個ある古墳はその埋葬者は特定されていないケースがほとんどだが、このうち埋葬者の推定できる数少ない古墳で、尚且つ唯一生前に築造されたことが解っている古墳がある。北九州最大の古墳で、筑紫君磐井の墓とされる岩戸山古墳(福岡県八女市)だ。この古墳は東西を主軸にして、後円部が東にあるが、その北東部分に〈別区〉と呼ばれる広場状の区画がある。風土記逸文に石人と石猪が裁判の光景を再現していたとあり、磐井の政権が司法機関を備えていた可能性が指摘される。墓からは、大量の石人石馬が発掘され、被葬者の勢力の大きさを示しているという。また生前から造営されていたお墓のことを「寿陵」と言い、中国では古来より、生前にお墓を建てることは長寿を授かる縁起の良いこととされていた。
岩戸山古墳について筑後国風土記逸文にはこのような記述がある。
筑後國風土記曰、上妻縣々南二里、有筑紫君磐井之墳墓。高七丈、周六十丈。墓田南北各六十丈、東西各卌丈。石人・石盾各六十枚、交陣成
行、周匝四面。當東北角、有一別區。号曰衙頭<衙頭、政所也>。其中有一石人、縦容立地。号曰解部。前有一人、形伏地。号曰偸人<生爲偸猪、仍擬決罪>。側有石猪四頭、号贓物<贓物、盗物也>。彼處亦有石馬三疋・石殿三間・石蔵二間。古老伝云、「當雄大迹天皇(継体)之世、筑紫君磐井、豪強暴虐、不偃皇風。平生之時、預造此墓。俄而官軍動發、欲襲之間、知勢不勝、独自遁于豊前國上膳縣、終于南山峻嶺之曲。於是、官軍追尋失蹤。士怒未泄、撃折石人之手、打堕石馬之頭」。古老伝云、「上妻縣、多有篤疾、蓋由茲歟」。
また日本書紀巻11 仁徳天皇(大鷦鷯天皇)の項には陵墓について以下の記述がある。
六十七年冬十月庚辰朔甲申、幸河內石津原、以定陵地。丁酉、始築陵
魏志倭人伝には卑弥呼の死後、次のような記述がある。この記述からは死後築造が窺える。
卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人更立
上記の記述以外では古墳が生前からの築造なのか、死後築造なのか残念ながら解っていない。さすがに約1600年前の事柄ゆえに頼るべき文献も史料もない。そこでここは奈良時代に編纂された日本の神話や古代の
歴史を伝えている重要な歴史書である「日本書紀」の記述を参考資料として紹介する。ありがたいことにこの「日本書紀」には神武天皇からの各天皇の崩御から埋葬までの要した期間、及びその施行者までがちゃんと記載されている。残念ながら「古事記」は最古の歴史書であるが、本来語り部によって伝えられた「日嗣ぎ」の伝承を、忠実にほぼそのまま記述したもので、日本語的特徴を残し(基本は漢文)、神話・物語的な部分に重点をおかれ、天皇家を含めた、古代から続く一族(豪族)の成り立ちについて詳しく書かれているが、天皇家の記述は「日本書紀」に及ばない。対して「日本書紀」は完全に漢文で書かれており、天皇家の歴史に重点を置いている。そこでここでは、「日本書紀」の記述を参考に神武天皇から清寧天皇までの崩御年代と埋葬年代を見ていただきたい。
天皇名 |
崩御年度 |
埋葬年度 |
施行者 |
埋葬場所 |
神武天皇
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神武76年春3月
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翌年秋9月
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次の天皇
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畝傍山の東北
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綏靖天皇
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綏靖33年夏5月
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翌年冬10月
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〃
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倭の桃花鳥田丘
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安寧天皇
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安寧38年冬12月
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翌年秋8月
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〃
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畝傍山の南の窪地
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懿徳天皇
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懿徳34年秋9月
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翌年冬10月
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〃
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畝傍山の南の谷
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孝昭天皇
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孝昭83年秋8月
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孝安38年秋8月
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〃
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掖上博多山上
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孝安天皇
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孝安102年春正月
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同年9月
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〃
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玉手丘(御所市)
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孝霊天皇
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孝霊76年春2月
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孝元6年秋9月
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〃
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片丘馬坂
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孝元天皇
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孝元57年秋9月
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開化5年春2月
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〃
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剣池の丘の上
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開化天皇
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開化60年夏4月
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同年10月
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(記述なし)
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崇神天皇
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崇神68年冬12月
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翌年8月
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(記述なし)
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倭国の山辺道
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崇仁天皇
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崇仁99年秋7月
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同年12月
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(記述なし)
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菅原伏見
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景行天皇
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景行60年冬11月
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成務2年冬11月
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次の天皇
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倭国の山辺道
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成務天皇
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成務60年夏6月
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翌年秋9月
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〃
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倭国の狭城盾別
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仲哀天皇
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仲哀9年春2月
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神功2年冬10月
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神功皇后
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河内国長野
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神功皇后
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神功69年夏4月
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同年10月
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(記述なし)
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倭国の狭城盾別
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応神天皇
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応神41年春2月
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(記述なし)
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(記述なし)
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明宮、または大隅宮
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仁徳天皇
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(仁徳67年に陵墓の地を定め、造営を開始するとの記述あり)
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仁徳87年春正月
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同年冬10月に葬儀の記述のみ
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(記述なし)
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百舌鳥野(もずめ)
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履中天皇
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履中6年3月
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同年冬10月
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(記述なし)
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〃
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反正天皇
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反正5年春正月
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同年冬11月
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次の天皇
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〃
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允恭天皇
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允恭42年春正月
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同年冬10月
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木梨軽皇子
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河内長野原
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安康天皇
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安康3年秋8月
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崩御3年後
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(記述なし)
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菅原伏見
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雄略天皇
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雄略23年8月
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同年冬10月
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次の天皇
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丹比高鷲原
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清寧天皇
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清寧5年春正月
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同年冬11月
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飯豊皇女か
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河内坂門原
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日本書紀による各天皇の没年、埋葬年度、及び埋葬の施行者
(*赤く明記された天皇 200m以上の古墳の埋葬者)
上記の資料を見ると各天皇の崩御年と埋葬年に平均10ヶ月の空白期間がある。これは古代日本で行われていた殯(もがり)という葬儀儀礼があり、またこのことは古墳の築造にも少なからず関係している。
殯(もがり)
日本の古代に行われていた葬儀儀礼で、死者を本葬するまでのかなり長い期間、棺に遺体を仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認すること。その棺を安置する場所をも指すことがある。殯の期間に遺体を安置した建物を「殯宮」(「もがりのみや」、『万葉集』では「あらきのみや」)という。
『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷
俀國」には、死者は棺槨を以って斂(おさ)め、親賓は屍に就いて歌舞し、妻子兄弟は白布を以って服を作る。貴人は3年外に殯し、庶人は日を卜してうずむ。「死者斂以棺槨親賓就屍歌舞妻子兄弟以白布製服 貴人三年殯於外庶人卜日而
及葬置屍船上陸地牽之」とあり、また、『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷
高麗」(後の高麗王朝のことではなく高句麗のこと)には、死者は屋内に於て殯し、3年を経て、吉日を択(えら)んで葬る、父母夫の喪は3年服す「死者殯於屋内 經三年 擇吉日而葬 居父母及夫之喪 服皆三年 兄弟三月 初終哭泣 葬則鼓舞作樂以送之 埋訖
悉取死者生時服玩車馬置於墓側 會葬者爭取而去」とある。これらの記録から、倭国・高句麗とも、貴人は3年間殯にしたことが窺える。なお、殯の終了後は棺を墳墓に埋葬した。長い殯の期間は大規模な殯の整備に必要だったとも考えられる。
また施行者の項目を見るとほとんど次代の天皇が埋葬の施主となっている。このことから死後殯の期間中に墳墓が完成し、その後埋葬したかのような印象だが事はそんなに簡単なことではない。日本書紀の引用を信じるならば200m以上の古墳は崇神天皇から允恭天皇まで、途中反正天皇は除くが総数10名にも上る。年代も3世紀半頃から5世紀前半までの約200年間で、しかもこの時期に集中して築造されている。これほどまでの古墳を造るだけの基盤はどこにあったのだろうか。またあれだけ大きな古墳を造ったのであれば、内外に自己の勢力の大きさをアピールする絶好の宣伝材料となる。だが書紀にはそれをしたことを記した記述は何一つない。何故それをしないのか。大きな謎だ。
このように調べると調べるだけ謎が多くなる。少ない資料の中、以下の仮説を導き出した。
・ 小さな古墳に関しては基本的には殯の関係もあり、また前代の意志に沿って、また臣下との合議に基づき次代の大王が墳墓を築造し、埋葬する。
・ ただし、大型古墳を築造する場合は、殯の期間を念頭において、前代の在位中に前代の考えに基づき設計、築造される。
上記の仮説に沿った場合、埼玉古墳群の9基の墳墓、特に稲荷山古墳、丸墓山古墳、二子山古墳、そして鉄砲山古墳の4基に関しては各古墳に埋葬されている大王の在位中にこの古墳を築造したと推測される。それと同時に大王は築造する際に関東近郊にある巨大な古墳の存在も意識し、参考にしていたのではないかと考えた。それは埼玉古墳群の立地条件、立地年代からでも窺うことができる。
埼玉古墳群周辺地域は万葉集に登場する「埼玉の津」の存在からも解る通り、いわば水上交通の要衝で、古墳に使われた石をはじめ多くの物資や文化が行き交いしていたと考える。例えば埼玉古墳群には多くの埴輪が出土している。鴻巣市市役所近くにある生出塚埴輪窯跡は5世紀末~6世紀末、東国最大級の埴輪製作跡とされているが、この二子山古墳の周濠より出土した円筒埴輪の多くは、生出塚埴輪窯跡および東松山市の桜山埴輪窯跡で生産されたものと考えられている。また、全長53メートルの前方後円墳で6世紀前半の愛宕山古墳出土の蓋形埴輪の形状から生出塚窯跡で生産された可能性が高いとされる。またこの生出塚埴輪窯で生産した埴輪等は、千葉県(市原市 山倉古墳1号墳)、東京都(大田区田園調布 多摩川台古墳群)、神奈川県(横浜市緑区 北門古墳群1号墳)や埼玉県の諸古墳、南関東各地の古墳より生出塚埴輪窯跡で生産されたとみられる埴輪が出土している。
また古墳に使用された石材産地からも埼玉古墳群の豪族が政治的・経済的に掌握していた地域又は、友好的な地域と思われる。
・ 凝灰岩・・・周辺では、大里・比企地方で産出する軟らかい白色の石。
旧江南町から嵐山町にかけての丘陵に分布。
・ 房州石・・・将軍山古墳に使用された、「房州石」は千葉県の富津海岸周辺より運ばれた。
鋸山系のこの石は、穿孔貝の巣穴の付いた凝灰岩
このように埼玉古墳群築造当時、「埼玉の津」を中継地点としてこの地が非常に栄えていたことが窺える。
参考だが当時(5世紀中頃から6世紀初頭)に造られたといわれる関東地方の古墳(群馬県は多すぎるため後述)は以下の通りだ。
茨城県
舟塚山古墳 |
茨城県石岡市北根本 |
前方後円墳 |
186m |
5世紀後半 |
愛宕山古墳 |
〃 水戸市愛宕町 |
前方後円墳 |
137m |
6世紀初頭 |
葦間山古墳 |
〃 筑西市徳持 |
前方後円墳 |
141m |
6世紀初頭 |
栃木県
塚山古墳 |
栃木県宇都宮市西川田町 |
前方後円墳 |
98m |
5世紀後半 |
笹塚古墳 |
〃 宇都宮市東金町 |
前方後円墳 |
100m |
5世紀中頃 |
琵琶塚古墳 |
〃 小山市飯塚 |
前方後円墳 |
123m |
6世紀前半 |
摩利支天塚古墳 |
〃 小山市飯塚 |
前方後円墳 |
120m |
6世紀初 |
埼玉県
冑山古墳 |
埼玉県熊谷市冑山 |
円墳 |
90m |
6世紀前半 |
永明寺古墳 |
〃 羽生市下村君 |
前方後円墳 |
78m |
6世紀初頭 |
野本将軍塚古墳 |
〃 東松山市下野本 |
前方後円墳 |
115m |
5世紀後半 |
東京都
芝丸山古墳 |
東京都港区芝公園 |
前方後円墳 |
105m |
5世紀代 |
浅間神社古墳 |
〃 大田区田園調布 |
前方後円墳 |
60m |
6世紀初 |
千葉県
内裏塚古墳 |
千葉県富津市二間塚 |
前方後円墳 |
144m |
5世紀中頃 |
弁天山古墳 |
〃 富津市小久保 |
前方後円墳 |
88m |
5世紀後半 |
こうして調べてみると関東地方でも古墳の出現時期や規模に大きな違いがハッキリ分かる。
茨城県は神話の時代では日高見国とも言われ、常陸国風土記では「常世(極楽)の国」と謳われ、倭武天皇伝説の地である為か、古墳も豊富に存在している。5世紀後半に築造された茨城県石岡市北根本にある舟塚山古墳は全長186mで、関東では太田天神山古墳に次ぐ規模の大きさを誇り、しかも二子山古墳と同時期、又はその前期にあたる。この古墳は国造本紀に初代茨城国造として記録されている「筑紫刀禰」の古墳と言われていて、「筑紫」は狭義では現在の福岡県を示し、広義では九州全体を示す。九州は大陸の文化や技術を最も早く受け、古代から多くの豪族が出ている。常陸風土記にも九州とのつながりを示す内容が多くみられることから筑紫刀禰は九州出身の豪族だったかもしれない。ちなみにこの石岡市は奈良時代に常陸の国の国府がおかれ、常陸の国の中心であり、常陸風土記に登場する「茨城郡」の中心地ともいう。
また舟塚山古墳築造の前後には5世紀前半には梵天山古墳(全長152m)、6世紀初頭には愛宕山古墳(全長136,5m)と古墳築造は群馬県に次いで盛んな地域だ。
栃木県は茨城県より小粒な古墳が多い。栃木市にある吾妻古墳が全長128mで県内最大の前方後円墳だが6世紀後半の築造で当時はまだ出現してない。小山市は国分寺などが所在する下野国の中心的地域であったらしく5世紀後半から6世紀前半に築造された摩利支天塚古墳(全長120m)、琵琶塚古墳(全長123m)という栃木県では規模の大きい古墳が100m位の近さに存在し、両者は同形同大で、主軸も一緒ということから両者の連続性がうかがわれる。また栃木県の古墳の最大の特徴は前方後方墳が多いということだ。中でも足利市にある藤本観音山古墳は全長117mの前方後方墳で、栃木県で最大、東国では前橋八幡山古墳に次いで2位、全国でも5位の規模を誇る。4世紀後半に築造と推定されていて、西南西へ直線4kmくらいの所に太田天神山古墳がある。
東京都、埼玉県はここをクリック→
千葉県は関東地方の南東部に位置する県で、『房総三国』、すなわち律令制以来の下総国の大半、上総国、安房国3ヶ国から成り立つ県である。古来より、海上交通を通じて発達し、東国の中でも政治的にヤマト王権との交流が深かったことから前方後円墳の数が全国的にも多く、1990年(平成2年)時点で8665基の古墳と横穴が4083基が県内で確認されている。このうち100mを超えるものは14基を数え、最大のものは、富津市の内裏塚古墳で、墳丘の全長は、147m(周溝を含めると185m)、日本列島では74番目の規模といわれるが、5世紀の古墳としては、南関東で最大規模を誇る。6世紀後半になると、畿内では前方後円墳は姿を消し、古墳は小型化し、7世紀になると仏教寺院が建立されるようになるが、東国では、成田市にある印旛沼周辺地域の下総台地上にある龍角寺古墳群のように7世紀初めまで前方後円墳が築造されていた。この古墳群では岩屋古墳(7世紀前半~中頃、方墳、一辺78m)が有名だ。
神奈川県は律令制において相模国と呼ばれていた。弥生時代の遺跡は少なく、小規模で質も劣る。これは、弥生文化の進出が遅れたことを示すものと考えられる。また古墳も概ね小規模(神奈川県海老名市の瓢箪塚古墳、4世紀末~5世紀初頭 全長75mの前方後円墳等)で、出現は畿内に1世紀以上後れた4世紀の中頃ないし後半とされる。
しかし何と言っても関東地方における古墳の密集地帯は群馬県である。東国(東海・甲信・関東地方)では圧倒的な質と量を誇り、昭和10年の全県域の調査により8,423基の古墳の存在が明らかになり、全体では1万基以上が作られたと想定されている。
下に掲示した図は群馬県主要古墳を地域別、年代別にまとめた図である。この主要古墳の変遷図を見ると大まかな勢力の移行が読み取れる。
群馬県主要古墳の変遷図
この古墳変遷図を見ると、最初に出現した王者は前橋市朝倉の八幡山古墳の埋葬者だ。同時期に元島名将軍塚古墳と藤本観音山古墳の埋葬者も勢力を得るが、後が続かす衰退。この時期の古墳は3基ともなぜか前方後方墳で、それ以降は前方後円墳となる。八幡山古墳→前橋天神山古墳と続いた後、この勢力は力を弱めたようで、その後の古墳は規模が小さくなる。
その後盟主権を得たのが、距離的には前橋市朝倉に近い倉賀野大鶴巻古墳(全長122m)と浅間山古墳(全長172m)の佐野町、倉賀野町地方で、少し遅れて群馬県東部の太田市で勢力を持つ朝子塚古墳(全長123m)や宝泉茶臼山古墳(全長168m)の豪族である。4世紀末、5世紀初頭はこの勢力が東西を二分していたと思われる。佐野町、倉賀野町地方は浅間山古墳後、何故か5世紀初頭に古墳築造がストップする時期があり、藤岡市の白石稲荷山古墳(全長175m)や岩鼻二子山古墳(全長115m)の地域に新たな勢力が誕生する何かがあったのかもしれない。
それに対して太田市の勢力は益々力を持ってついに太田天神山古墳の王者に至るとその絶頂期を迎える。太田市近郊の伊勢崎市に御富士山古墳(全長125m)があり、共に5世紀中頃の築造であること、この2基の古墳のみ長持形石棺が確認されていることから、この2基の古墳は親密な関係があったと思われる。
太田市の勢力は太田天神山古墳の埋葬された王者の後、急速に衰退し、その後古墳の勢力図は群馬県中央部と、西部藤岡市に分散し、古墳の規模も6世紀初頭の藤岡市上落合所在の七興山古墳(145m)を最後にせいぜい100mクラスの古墳に縮小されていく。但しこれは各地方共通の事項であり、外見は縮小されたが、内部石室や装飾品、副葬品は逆に豊富で豪華になる。
このように5世紀半頃から6世紀初頭、二子山古墳が築造される以前の時期に存在していた関東地方の古墳はまさに大型古墳築造の絶頂期にあたっていた。もちろん各地方の豪族は古墳の規模の大きさによって己の力の象徴を誇り、競い合った時期だったのだろう。しかし二子山古墳築造時期はそのピークをすでに経過していた。上記群馬県の主要古墳の変遷図でも5世紀中頃築造の太田天神山古墳までは各地方は大きさを競い合っていたが、その後は1,2の例外はあれ、大半は100m以下の小、中規模な古墳が占めている。
但し埼玉古墳群は、そもそも築造した経緯が違ったのではないかと考える。埼玉古墳群の謎(2)で紹介したが、行田市周辺は他の地域に比べて築造開始時期が遅く、何の基盤も無い当地に、突如として畿内に匹敵する100mクラスの中型、大型前方後円墳が出現した。そのことは非常に重要な点である。つまりこの古墳群の王者たちは既に大型古墳を築造するノウハウを持っていた他地域の豪族であり、武蔵国出身の豪族ではなかったのではないかという事だ。元々は他地域の有力豪族が、王墓を選定する際にあらゆる条件をクリアしたこの地を終の棲家として選んだのではないだろうか。そしてそのヒントは埼玉古墳群近郊に存在する内陸の交易地「埼玉の津」ではなかったか。
埼玉古墳群の王者にとってこの「埼玉の津」は多くの物資や文化が行き交いしていた水上交通の要衝の地だが、その一方で様々な極秘の情報を入手することが出来る政治的にも重要な地でもあったろう。その近郊に埼玉古墳群を築造することは交易から出る利益という内政面もさることながら、対外的には自身の権力の大きさをアピールできる一大モニュメントでもあった。前出したが埼玉古墳群の築造年代は5世紀末からで古墳時代では各地に比べても比較的遅れて出現した実力者だ。各地の前方後円墳を参考に模擬し、より見栄え良く、自分自身の、そして一族の繁栄の象徴としての古墳を大々的に築造する、それは他の地域ではすでに過ぎ去った過去のことだったことではあるが埼玉古墳群の王者にとってはどうしても避けて通れない、そして必然性のあることだったのではないだろうか。
それと同時にこのことは実は丸墓山古墳が何故唯一の円墳なのか重要なヒントになっている。そのことを次章で紹介したい。
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