古社への誘い 

 
 埼玉古墳群の謎(6)


 稲荷山古墳は大山陵古墳と墳形が類似していることが指摘されている。大仙陵古墳を4分の1に縮小すると稲荷山古墳の形に近くなる。また埼玉古墳群の二子山古墳や鉄砲山古墳も大きさは異なるものの稲荷山古墳と同じ墳形をしており、やはり大仙陵古墳をモデルとした墳形と見られている。
 従来の説では、このことから古代ヤマト朝廷が5世紀末には東方へ勢力を伸ばした一つの証拠と解釈され、その結果畿内中心の統一権力と、その他地方への波及という単純な図式でここでも多くの考古学者から賛同され、継受されているのが今日の現状である。


3 何故丸墓山古墳だけ円墳なのかB 

 稲荷山古墳出土の鉄剣の意味 

 前章において埼玉の津を領有し、周囲との交易にて莫大な富を得た埼玉古墳群の大王は生前から陵墓を築造し、その築造する際に関東地方近郊の大型古墳を参考、模擬し、より見栄えの良い古墳を造ったのではないか、という仮説を立てた。では現実に参考とした古墳は果たしてあったのだろうか。またあったとしたらどの古墳だったのだろうか。

 その前に一つだけ確認したい事項がある。埼玉古墳群の最初の古墳である稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣(稲荷山古墳出土鉄剣)の銘文には、乎獲居「臣」(おわけのおみ)は「杖刀人の首」であり、また「吾、天下を左治する」と書かれている。この「杖刀人の首」と「吾、天下を左治する」とは具体的にどのような意味があるだろうか。

・ 杖刀人の首は「刀を杖にする人」で、要するに門を守る守護であり、武人のことであり、大王のもとで軍事を担当する意味。「首」というのはその長という意味。つまり軍事担当の最高司令官といったところか。

・ 「吾、天下を左治する」というのは、大王が幼少である時に、成人するまでの間、大王に変わって成務をとる意味で、後代
「摂政」という言葉に置き換えられ、大体大王の近親者(叔父、義父)がその任に就くことが多いらしい。内政担当の最高長官。

 つまり、乎獲居「臣」は「杖刀人の首」、「佐治天下」という2種類の銘文の言葉から、内政、軍事を総括する大王の次の地位、いわば「ナンバー2」としてこの一族を統括していた人物であるといえる。

 ただそこでも新たな謎が出てくる。この金錯銘鉄剣(稲荷山古墳出土鉄剣)は鉄剣銘文の中でも115文字と大変文字数が多く、これらは5世紀前後のの情報を知るための貴重な第一級的な史料であるし、全国でも他に6例しか存在しない珍しい剣だ。ちなみに稲荷山古墳出土の鉄剣以外の6例は以下の通りだ。

 ・ 稲荷台1号墳出土「王賜」銘鉄剣      千葉県市原市稲荷台古墳群から出土
 ・ 江田船山古墳出土の鉄刀          熊本県玉名郡和水町江田船山古墳より出土
 ・ 
岡田山1号墳出土の鉄刀           島根県松江市岡田山1号墳より出土
 ・ 
箕谷2号墳出土の鉄刀            兵庫県養父市箕谷2号墳より出土
 ・ 
中国から伝来の中平刀            奈良県天理市東大寺山古墳から出土      
 ・ 七支刀
                      奈良県天理市石上神宮に保存

 古墳時代には主に古墳の発掘、調査によってこれまでに多くの鉄製の刀、剣の出土、発見が報告されているが、上記の銘文の入った刀、剣はいたって少ないのが現状である。これから先もこの傾向は基本的に変わらないと思う。考えてみると当たり前のことで、刀や剣は当時成人男性で自らの身分を証明する為に身に着けていたいわば日常生活品で、製造数も基本的に多数であったろう。それに対して経文鉄剣はある意味名誉勲章の類のもので、儀礼や祭祀等、特別な行事に使用するか、個人的に大事な場所に保管するかどちらかである。地方の首長すらめったに所持することができないもので、日本全国を見ても大変珍しい鉄剣を何故乎獲居「臣」は獲加多支鹵大王から下賜されたか、という問いにほとんどの歴史学者は沈黙している。
 この乎獲居「臣」は余程大王の信任が厚かったと見えて、稲荷山古墳の後円部第一主体礫槨より、経文鉄剣や豊富な副葬品をもって葬られており、一族の中でも大王並みかそれに準ずるかなりの実力者であった可能性が高いとみることができよう。
 また先ほどから乎獲居臣の臣に「 」をつけているがこれにも意味がある。この銘文鉄剣には乎獲居「臣」の祖先八代の系譜を記しているが、乎獲居「臣」の父(カサハヨ)と祖父(ハテヒ)には、ヒコ・スクネ・ワケなどのカバネ的尊称がつかないのに対して、乎獲居の「臣」は姓(かばね)の一つで、姓の中では「連」と並んで高位に位置していた。5世紀当時の姓制度の中で臣下の中でも最高位に位置している「臣」を何故乎獲居臣が名乗ることができたのか、このことは非常に意味が重いと考える。
 
 つまり考えられることは次の通りだ。この乎獲居「臣」はこの銘文鉄剣を受け取るに値する大きな業績を自らの智謀と政略、戦略によって一代で挙げたということではないだろうか。しかしこの事業は想像を絶する困難の連続だったのだろう。乎獲居「臣」は一身を擲ってこの難事業をやり遂げた。そうでなければこの経文鉄剣を下賜される絶対的な理由とはならない。考えられる以下の項目が経文鉄剣を下賜された特別な理由だったのではないかと現時点で推測する。

@ 「埼玉の津」を実効的に支配し、埼玉郡にまでその勢力範囲を広げた。
  
埼玉古墳群の謎@を参照)
A その前後におそらくこの地を支配していたであろう古参の大勢力との戦いに勝利した。
  
延喜式内社 幡羅郡奈良神社を参照)
B 「埼玉の津」の経済的利点、文化の広がりを最大限に利用し、武蔵国の覇者となり、関東一の大勢力を築き上げた。
  
埼玉古墳群の謎@同Dを参照)
C 自分を引き立ててくれた恩人であり、苦労を共にした王の墓を埼玉郡の稲荷山の地に築いた。
 


 経文鉄剣の記された年代である辛亥年(471年)は、項目@から項目Cまでの事業を完全に達成した記念塔として現在の大王である(獲)加多支鹵大王から下賜された名誉ある勲章だったのだろう。

稲荷山古墳の被葬者
 通説において乎獲居臣の家は代々は埼玉から中央のヤマトに出仕し、代々天皇家に杖刀人の首として仕えていたが、乎獲居臣は獲加多支鹵大王である雄略天皇の役所が斯鬼宮にあったとき治天下を補佐し、役目を終え埼玉に帰り、そのときのことを記念し鉄剣をつくった、と大方の歴史学者から解釈され、稲荷山古墳の被葬者は経文鉄剣の所有者である乎獲居臣と同一人物であると見られている。
 しかし『日本書紀』雄略天皇の項とこの経文鉄剣の内容、さらに稲荷山古墳の出土状況を考えると幾つかの矛盾が生じてくる。以下の点だ。

@ 『日本書紀』雄略天皇の項には、この天皇を補佐する「乎獲居」という人物がいたという記録が全く存在せず、ましてや経文鉄剣の下賜についての記載もない。そもそも関東の埼玉を根拠地とする地方豪族が、代々杖刀人の首としてヤマトに出仕し、しかも天皇の治天下を補佐する身分となりうることができるか、という基本的な問題にだれも理論的に証明した書物等がない。奈良時代に
道嶋宿禰嶋足という陸奥在地の豪族の中で唯一中央官僚として立身し、官位は正五位上・近衛中将に上り詰めた人物がいたが、この人物は奈良時代当時余程珍ったようで「続日本記」等に記載されている。このようにたとえ優秀な人物であったとしても中央出身者でない人物が中央に出仕し、更に立身出世することは非常に難しい時代であったし、もし出来たならばこのことを記載しないという事はまずありえないことだ。歴史学者等、このような問題に誰も見向きもしないのは不自然ではないだろうか。
A 雄略天皇が即位し政務を行った宮は、「近畿の泊瀬朝倉宮」であり、皇子時代
「大泊瀬幼武尊」と呼ばれたように、「泊瀬の朝倉」は幼少時代から慣れ親しんだ場所で「宮」とする根拠として適当であるが、経文鉄剣に出てくる「斯鬼宮」とは実は同一地域ではない。大和国穴師西方は三輪山の西北、巻向駅の東方の地域は「磯城」(しき)の比定地なのだが、この地は朝倉の比定地である三地域は三輪山の南であり、朝倉の比定地と磯城の比定地には地理的に大きな隔たりがある。このように「磯城宮」と「朝倉宮」は明らかに別地である。したがって、「斯鬼宮」にいた「獲加多支鹵大王」を「朝倉宮」にいた「大泊瀬稚武皇子」、つまり雄略天皇に当てるのはまったく根拠のない説で、この二人は別人物だったこととなる。
B 稲荷山古墳で
経文鉄剣が発見された後円部第一主体礫槨とすぐ近くにあ第二主体る粘土郭はどちらも後円部の中央からややずれたところにあるため、中央にこの古墳の真の主体部が有り、真の被葬者がいたと考えられている為、稲荷山古墳は乎獲居臣の墓とは到底考えられない。

 以上「日本書紀」の記述をあまりに盲信しすぎて@からBの矛盾に対して明確な回答ができない現在の定説、通説に対して事実はもっと単純で明快ではなかったか。それはからこの稲荷山古墳の真の被葬者は乎獲居臣ではなく埼玉古墳群の大王という事である、ということだ。また稲荷山古墳内の墓の配列から経文鉄剣を乎獲居臣に与えた人物は、遠い近畿の雄略天皇ではなく、「佐治天下」の言葉通り、距離的にも常に乎獲居臣が傍にいて支え続けていた埼玉古墳群の大王と考えたほうが自然ではないかと思われる。
 たしかに「古事記」「日本書紀」は古代日本史を語る上においても、日本人としての精神的な拠り所としても第一級資料であることは間違いない。但し記紀等の中央の書物は中央の「目」から見た主観の歴史が反映され、おのずと「地方」軽視の風潮にともすると陥りやすい。少なくとも埼玉古墳群の経文鉄剣の内容や、稲荷山古墳の石室の配置状況から推測される当時の埼玉地方には古代大和中心の世界、「日本書紀」の記述とは全く違う世界、違う空気を感じずにはいられないのは自分ひとりだけなのだろうか。

 稲荷山古墳出土の鉄剣を調べていくと当時の状況が少なからず解ってきた。さらに上記の事項を参考に時空列で物事を纏めると実はもっと恐ろしい事実に必然的に突き当る。稲荷山古墳の真の被葬者は(獲)加多支鹵大王でも乎獲居臣でもない。そう、(獲)加多支鹵大王の前代にあたる大王にあたる人物の他該当する人物はいない。

(獲)加多支鹵大王とは
 稲荷山古墳出土の鉄剣には色々なヒントが隠されている。そのヒントの鍵を握る人物は乎獲居臣ではなく、実は(獲)加多支鹵大王なのではないだろうか。通説では(獲)加多支鹵大王は大和政権の雄略天皇と言われてきた。しかし、今までの考察の過程の中でこの埼玉古墳群の被葬者たちは大和政権とは全く関係のない、一地方豪族ではないかという、結論に達した。そして乎獲居臣が仕えた(獲)加多支鹵大王にはもっと奥の深い真相が隠されている、という事実を発見してしまった。そしてそのヒントはこの稲荷山古墳の経文鉄剣にハッキリと記されている。

其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也
 ここで問題を提起したい一文とはこの「左治天下」の部分だ。この「左治天下」の基本的な解釈として天下を治めることを補佐するという意味であるのが一般的であるし、その解釈自体には異論はない。ただ「左治天下」の言葉を用いるに至った直接の原因はどのような経緯だったかについて考察してみると、ここには興味深い“裏の歴史”を知ることとなる。

 この「左治天下」の四文字は明らかにはこの銘文製造に携わった人たちのオリジナルである。漢字を使用している文化圏で5,6世紀以前にこの「佐治天下」を使用した歴史書は全くないからだ。但しこの四文字を「佐治」+「天下」と分けると状況はガラリと変わってくる。まず「佐治」に関していうと、原本は他にある。中国の歴史書で3世紀後半に陳寿が書いた「三国志」である。
この三国志では、魏書第30巻烏丸鮮卑 東夷伝倭人条、略して魏志倭人伝の中の一文にこのように記述されている。
 
其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐暦年乃共立一女子爲王名曰卑彌呼事鬼道能惑衆年已長大無夫婿有男弟佐治國自爲王以來少有見者以婢千人自侍唯有男子一人給飲食傳辭出入居処宮室楼観城柵嚴設常有人持兵守衛
 ここでは全文の解釈はあえて省くが、邪馬(壱)国の女王である卑弥呼の男弟が卑弥呼に代わって政治を行っていて、それに対して「佐治」という表現方法が初めて使われていて、稲荷山鉄剣の経文の真の原本がここに存在する。

 それに対して「天下」は古代中国ではその地の皇帝が主宰し、一定の普遍的な秩序原理に支配されている空間であり、下の中心にあるのが中国王朝の直接支配する地域で、「夏」「華」「中夏」「中華」「中国」などと呼ばれる。その周囲には「四方」「夷」などといった中国王朝とは区別される地域があるが、これらの地域もいずれは中国の皇帝の主宰する秩序原理に組み入れられる存在として認識されていた。俗にいう「中華思想」である。
 日本では中国王朝に対して倭国王または倭王と称していたが、国内に対しては少なくとも古墳時代には「治天地」という言葉が使用されているように、倭国の内では「中国世界とは異なる独自の小規模の天下」概念が発生していたと思われる。つまり埼玉地方という一地方の中の「天下」の概念がそこには存在していたことになる。
 つまりこの「佐治」そして「天下」の一文の意味を理解していた知識人が武蔵国埼玉の地にいて、それを参考にして経文鉄剣の「佐治+天下」という四文字を経文の中に入れたと考える。

 「佐治」の当事者「乎獲居臣」に対して、「佐治」を受ける「(獲)加多支鹵大王」の関係はいかなるものか。魏志倭人伝での卑弥呼とその男弟との関係が類似していたからこそ、鉄剣の経文に「佐治天下」と明記したわけであるから、まず最初に魏志倭人伝の卑弥呼がどのように記載されていたかを考えればいい。
・ 魏志倭人伝に出てくる卑弥呼の年はすでに壮年期をすでに過ぎて結婚もしていたいようだ。
卑弥呼すでに長大夫婿(ふせい)なく
・ 呪術(占いか)を行い、多くの人がその占いを信じていた。
鬼道に事(つか)へ、能(よ)く衆を惑わす
・ 女王となってから彼女を見た者は少なく、1000人の女を召使いとして近侍させている。ただ男が一人だけいて、飲食を給仕し、彼女の命令を伝えるため居所に出入りをしていた。
(王となりしより以来、見るある者少なく、卑千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝へ居処に出入りす。)
・ 卑弥呼は一族の共立によって擁立された。そして卑弥呼の死後もその一族は継続して統治していた。
(乃ち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼といふ。中略、卑弥呼の宗女壱与(いよ)年十三なるを立てて王となし)

 卑弥呼の時代と、稲荷山古墳の被葬者には、約2世紀の隔たりがある。卑弥呼が生きていた時代は弥生時代後期から終末期であり、埼玉古墳群は古墳時代の中期から後期にあたり、古墳時代一概には政治形態や時代状況等相違する点は考慮しなければならない。
 通説によれば、弥生時代後期から古墳時代の歴史的な推移を一言でいうと小規模な殻を形成するな地域国家から現在でいう都道府県単位の大規模な単位の殻とする初期国家を形成していった時代と言われる。共同生活社会が「むら」から「くに」へ発展していき、地域の豪族たちが連合でつくった国が5世紀頃に九州地方から東北地方南部まで支配していった強制力のない緩やかな連合国家というイメージがそこにはある。
 また弥生時代からの小区画水田は依然として作り続けられているが、古墳時代の水田は東西・南北を軸線にして長方形の大型水田が、一部の地域に出現するようになり、水田耕作の技術の向上もこの時期に見られる。
 弥生時代と古墳時代の大きな相違点は勿論古墳だ。弥生時代は初期においては支石墓、甕棺墓、石棺墓等規模の小さい墓が主流だったが、時代が下るにつれ大型集落が小型集落を従え、集落内で首長層が力を持ってきたと考えられて、首長層は墳丘墓に葬られるようになった。このことは身分差の出現を意味する。弥生時代後期になると墓制の地域差が顕著となっていく。 近畿周辺では方形低墳丘墓がつくられ、山陰(出雲)から北陸にかけては四隅突出墳丘墓が、瀬戸内地方では大型墳丘墓がそれぞれ営まれた。それでも35m〜80mの規模であり、大型古墳が出現する時代への基本形ともいわれている。
 古墳時代は文字通り古墳の築造が盛んに行われた時代であり、各地域が挙って地域特有の古墳を築造し、勢力を誇示した時代と言われている。特に古墳時代中期は飛躍的に墳丘が大型化した時代で、巨大な前方後円墳が 数多く造られるようになり、畿内堺市の大山古墳や大阪府羽曳野市誉田にある誉田山古墳は全長400mを超える大古墳であり、この地域に大きな勢力が存在していたことが窺える。一方他地域に目を転じると、岡山県には全長360mの造山古墳、286mの作山古墳を始め、群馬県太田市にある全長210mの太田天神山古墳や宮崎県西都市の全長178mの女狭穂塚古墳と畿内地方と遜色ない規模を有する古墳も登場している。
 さらに国単位の規模、古墳の大型化もさることながら、古墳時代の4,5世紀には中国、朝鮮半島との交易(もしくは戦争)によって中国側から儒教、漢字や仏教が、また朝鮮半島からは鉄、須恵器や土師器等の文化の伝来もあり、このことから200年の時代の推移は国内の集権化と外来文化の吸収によって生活上の利便性も上がった時代でもあった。

 さてこのような時代状況の違いを前置きを致したうえで「佐治」について考えてみたい。魏志倭人伝では女王である卑弥呼が邪馬台(壱)国の盟主としてトップとして君臨しているが、その実質は男弟が政務全般を取り仕切り、ナンバーツーとして祭礼以外の諸事を纏めていて、これを三国志の著者である陳寿は「佐治」と認識して記述しているし、稲荷山鉄剣経文を手掛けた埼玉の知識人の共通の常識だったと考える。

 つまり、「佐治天下」の受け手側である(獲)加多支鹵大王は実は
女性の王者であることだ。またこの女王は独身者である、ということも。少なくとも魏志倭人伝に唯一ある「佐治」の解釈から稲荷山鉄剣経文の意味を素直に読むと、自然とこのような結論に至る。勿論完全に卑弥呼の時代と稲荷山古墳の経文鉄剣の時代において主要人物の完全な合致があったとは思えない。些細な齟齬等はあったはずである。(例えば卑弥呼の男弟に対して、稲荷山古墳の乎獲居臣が(獲)加多支鹵大王の実弟であったかどうか。卑弥呼が鬼道に仕えていた事項と、(獲)加多支鹵大王も同じ能力があったかどうか)大略において両方とも似たような環境だった、という前提条件の合致があったから、少なくとも稲荷山古墳の経文鉄剣の時代に「佐治」を使用したと考えるほうが自然である。

 次に乎獲居臣と女王である(獲)加多支鹵大王との関係はどうであったか。少なくとも乎獲居臣は金錯銘鉄剣を下賜された実績と名声を兼ね揃えた埼玉地方、いや関東地方でも隋一の実力者だ。当時の時代状況から考えると、まず埼玉古墳群の被葬者の近親者であることは間違いない。ならば二つの選択が考えられる。
@ (獲)加多支鹵大王の父である前代の王の母方の親族、もしくは腹違いの兄弟の母方の親族。
A (獲)加多支鹵大王の兄弟の奥方の親族。

 @、Aどちらの場合でも、共通している点は埼玉古墳群の被葬者を支える有力豪族の氏のリーダーも兼ねる、という点である。埼玉古墳群が築造された5,6世紀は大和において
政権の豪族層は、氏(ウジ)と呼ばれる組織を形成していた。ウジの組織は5世紀末以降多くの史料から確認できる。広範に整備されるのは6世紀のことである。ウジは血縁関係ないし血縁意識によって結ばれた多くの家よりなる同族集団であったが、同時にヤマト政権の政治組織という性格をもっていたという。ウジは、大王との間に隷属・奉仕の関係を結び、それを前提にして氏のリーダーは大和政権における一定の政治的地位や官職・職務に就く資格と、それを世襲する権利を与えられた。またその出自や政治的地位・官職の高下・職務内容の違いに応じて姓(カバネ)を賜与され、部民(べみん)の管掌を認められたのである。
 つまり乎獲居臣も、トモとしての「杖刀人」集団を率いる伴造であったと考えるのは妥当なところだ。

 
 そして女王である(獲)加多支鹵大王が埋葬された古墳こそ武蔵国内最大であり、埼玉古墳群の中央に位置する
二子山古墳なのだ。ズバリ言うが埼玉古墳群はこの二子山古墳を守るため造られた古墳群であり、その為だけに約150年間延々と築造されてきた。

 この二子山古墳は大きさは138mで全国的にも中型古墳に属する。大きさも日本全国では97位。関東地方においてでも17位と何故か中途半端な大きさだ。埼玉古墳群の大王は生前から陵墓を築造し、その築造する際に関東地方近郊の大型古墳を参考、模擬し、より見栄えの良い古墳を造ったのではないか、という仮説を立てたのに対して、実際は見栄えを良くするどころかあまりも平凡な規模であり、また古墳一面には葺石もない、何となく殺風景な古墳である。

 しかしこの二子山古墳築造には大きな裏があり、それは丸墓山古墳としっかりリンクする。表向きにはだれも解らないように、巧妙に、である。

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