秩父市黒谷に鎮座する聖神社は、秩父盆地の中央部やや北寄りに聳える蓑山(現箕山、美野山、美の山)から南西にかけて延びた支脈である和銅山山麓に鎮座し、簑山を水源とする川が流下する社前は和銅沢(旧称銅洗沢)と称されている。慶雲5年(708)に高純度の自然銅(ニギアカネ)が発見され、和銅改元と和同開珎鋳造の契機となった神社とされている。
この神社の西方を流れる荒川の対岸、大字寺尾の飯塚、招木(まねき)の一帯に、比較的大規模な円墳の周囲に小規模のものを配するという形の群集墳があり、現在124基が確認されているが、開墾前は200基を越えるものであったと推定される盆地内では最大規模の古墳群を形成している(県指定史跡飯塚・招木古墳群)。築造年代は古墳時代の最終末期(7世紀末から8世紀初頭)と見なされるが、被葬者と和銅の発見・発掘とを関連づける説もあり、更にその主体を渡来系民族であったと捉える説も出されており、また、荒川と横瀬川の合流地点南方の段丘上(神社の西南)からは和同開珎を含む古銭と共に蕨手刀も出土している。
鎮座地和銅山の主峰簑山には、初代の知知夫国造と伝わる知知夫命に因む故事がある。
当地方を霖雨が襲った時に命がこれを止めんと登山して祈願したといい、その際に着ていた蓑を山頂の松に掛けた事によって「簑山」と呼ばれるようになったという。
その知知夫命は美濃国南宮大社境内に居住していたとの伝もある事から、南宮大社が古来鉱山・冶金の神として信仰を集めている事や「美濃(みの)」と「簑(みの)」との照応が注目されている。
最近では和同開珎ゆかりの神社ということから「銭神様」とも呼ばれ、金運隆昌の利益にあやかろうという参拝者も多い。
目次 聖神社 / 岩田白鳥神社 / 金尾白髪神社
祝山に静かに佇む和同開珎発祥の社
所在地 埼玉県秩父市黒谷字菅仁田2191
御祭神 金山彦命 鍛冶屋の神、金工職人の職神、金物商の神
国常立尊 始源神・根源神・元神(神世七代最初の神)
大日?貴尊 皇祖神のひとつ、太陽の神
神日本磐余彦命 日本国初代天皇
元明金命 奈良時代初代天皇、第43代天皇(女帝)
社 格 旧村社(神饌幣帛料供進神社)
創 建 伝 和銅元年(708年)
例 祭 4月13日 ( *和銅出雲神社 11月3日)
聖神社は国道140号線(彩甲斐街道)を秩父方面に進み、皆野町を過ぎると左側に「和銅遺跡」入口の看板と聖神社の社号標石があり、そこを左折すると100m弱で聖神社の駐車場に到着する。(但し駐車場スペースは4、5台位停めるのがやっとで非常に狭い)
この黒谷という地域は、秩父市の主要道である国道140号線の北端に位置していて、いわば秩父の玄関口とも言える。行政上秩父市の管轄ではあるが、地形上の関係で、皆野町との経済的、文化的な交流が盛んだったろうと推察される。皆野町椋神社は聖神社の北側3km足らずに鎮座し、その中間地点には、秩父地方最大の古墳である円墳大塚古墳がある。
秩父市との行政境に近く、荒川右岸に形成された低位段丘に立地している。付近には、中の芝古墳や内出古墳群など数基の古墳が残る。墳丘は、直径約33m、高さ約5mで、墳頂には小祠が祭られている。円礫の葺石で覆われており、墳丘をほぼ一周する。深さ約1m、幅約4mの周溝が確認された。石室は横穴式で、南南西の方向に開口し、胴張両袖型で、側壁は片岩の小口積みが用いられ、当地方の特徴が現れている。築造年代は古墳時代後期(7世紀中頃)
聖神社の社号標 駐車場から参道を撮影 駐車場から参道に行く手前にある案内板
第43代元明天皇の時代に武蔵国秩父郡から日本で初めて高純度の自然銅(ニギアカガネ、和銅)が産出し、慶雲5年正月11日に郡司を通じて朝廷に献上、喜んだ天皇は同日「和銅」と改元し、多治比真人三宅麻呂を鋳銭司に任命して和同開珎を鋳造させたが、その発見地は当神社周辺であると伝える。
社伝によれば、当地では自然銅の発見を記念して和銅沢上流の祝山(はうりやま)に神籬(ヒモロギ)を建て、この自然銅を神体として金山彦命を祀り、銅の献上を受けた朝廷も銅山の検分と銅の採掘・鋳造を監督させるために三宅麻呂らを勅使として当地へ派遣、共に盛大な祝典を挙げた後の和銅元年2月13日に清浄な地であると現社地へ神籬を遷し、採掘された和銅13塊(以下、自然銅を「和銅」と記す)を内陣に安置して金山彦命と国常立尊、大日?貴尊、神日本磐余彦命の4柱の神体とし、三宅麻呂が天皇から下賜され帯同した銅製の百足雌雄1対を納めて「聖明神」と号したのが創祀で、後に元明天皇も元明金命として合祀し「秩父総社」とも称したという。なお、『聖宮記録控』(北谷戸家文書)によると、内陣に納めた神体石板2体、和銅石13塊、百足1対は紛失を怖れて寛文年間から北谷戸家の土蔵にて保管され、昭和28年(1953年)の例大祭に併せて挙行された元明天皇合祀1230年祭と神寶移還奉告祭により神社の宝蔵庫に移還されたが、現存される和銅は2塊のみである。
方3間入母屋造平入銅板葺の拝殿 本
殿
本殿は一間社流造銅板葺。宝永6年(1709年)から翌7年にかけて、大宮郷(現秩父市)の工匠である大曽根与兵衛により市内中町の今宮神社の本殿として建立されたものであるが、昭和39年(1964年)に当神社本殿として移築された。彫刻に桃山文化の遺風が僅かに残り、秩父市内における江戸時代中期の建造物としても優れている事から、昭和40年1月25日に市の有形文化財(建造物)に指定された
また本殿左脇に大国主命を祀る和銅出雲神社が鎮座する。11月3日に例祭が斎行され、黒谷の獅子舞が奉納される。昭和39年に旧本殿(文化4年(1807年)の竣工)を移築したもので、一間社流造銅板葺、向拝中央に唐破風、脇障子に彫刻を飾る。加えて本殿右手には八坂神社が鎮座する。
境内社 和銅出雲神社 境内社 八坂神社
黒谷の獅子舞 4月13日に春季大祭(例大祭)が斎行される。祭日は旧くは2月13日であったが、13日とされたのは当神社を祀る旧家が13戸ありそれに由来するものといわれる。大祭後に「黒谷の雨乞ササラ」と呼ばれる獅子舞が奉納され、この獅子舞は文化14年(1817年)の年紀を持つ『雨請興業願下書』(北谷戸家文書)から雨乞いを目的に奉納されていた事が知れるが、元禄の末年(17・8世紀の交)から奉納されるようになったという。その由来は左甚五郎が当地を訪れた際に竜頭を刻んで神社へ奉納した事があり、元禄にこの竜頭を模して獅子頭を刻み、大畑伊左ヱ門なる人が三河国岡崎から獅子舞の師匠を招いて15種の舞を伝授させた事に創まるといい、別名を「岡崎下妻流」と称するという。春季大祭の他に境内社和銅出雲神社の11月3日の例祭にも奉納される。 昭和32年(1957年)2月8日に秩父市の無形民俗文化財に指定された。 |
また、荒川と横瀬川の合流地点南方の段丘上(神社の西南)からは和同開珎を含む古銭と共に蕨手刀が出土している。この蕨手刀は注目に値する。
*蕨手刀
古墳時代終末期の6世紀から8世紀頃にかけて東北地方を中心に制作される。7世紀後半頃の東北地方北部の古墳の副葬品の代表例。太刀身の柄端を飾る刀装具である柄頭が、蕨の若芽のように渦をまくのがデザイン的特徴である。また、柄には木を用いず、鉄の茎(なかご)に紐や糸などを巻いて握りとしている共鉄柄(ともがねつか)である。
日本全国で200点以上が確認されている。ほとんどが古墳や遺跡からの出土である。発見場所の分布は北海道・東北地方が多く特に岩手県からの出土が70点以上と極めて多い。甲信越地方にも例が見られ、四国九州にも若干存在する。なお、正倉院にも蕨手刀(「黒作横刀」)が保存されている。
現在のところ中国大陸や朝鮮半島に結びつく直接的な証拠がないため、わが国独自に発生したものとする考えもあるがまだ断定できていない。全国での出土例は二百数十例、その中で東日本や北海道からの出土が多く、とりわけ岩手では七十数例と群を抜いていることから、蕨手刀が作られた背景やこの地方とのつながりなどが注目されている。岩手では奈良時代の刀と言われている『蕨手刀』だが、東北地方には7世紀末から8世紀初めにかけて信州地方から東山道(ことうさんどう)を経由して伝えられたと考えられている。製品として伝えられた蕨手刀がのちのち砂鉄の豊富なこの地で多く作られるようになった可能性は高く、また北上川中流域に分布する奈良時代の終末期古墳群、とりわけ川原石積(かわはらいしづみ)の石室をもつ古墳(こふん)からの出土が多く、集落からの出土は少ないという点が特徴だ。
出現期の蕨手刀は剣と同じように「突く」機能を優先させたものだったが、岩手県を中心とした東北地方北部で形態的(けいたいてき)に変化し、「突く」ことから「切る」あるいは「振り下ろす」機能へと変質していく。蕨手刀はその後も「切る」機能を強化され、9世紀後半以降には〔毛抜形(けぬきがた)
蕨手刀〕、柄のところに強い反りをもつ〔奥州刀(おうしゅうとう)〕、そして現在の〔日本刀〕へとつながっていったと言われている。
関東地方で見つかるのは珍しい蕨手刀が聖神社周辺で発見されたことから、蕨手刀発祥の地に推定される信濃諏訪、佐久地方と東北蝦夷地方と東山道を通じてこの地が大きな関わりを持っていたと思われるが詳細は不明だ。
ところで話は変わるがこの黒谷地域及び秩父地域には多胡碑で有名な羊太夫伝説が数多く点在する。
小鹿野町の「16地区」には羊太夫が住んで写経をしたという伝説が残り、「お塚」と呼ばれる古墳は羊太夫の墓だとする言い伝えもある。この「お塚(古墳)」は小鹿野町指定史跡になっている。文化財解説によると「お塚」とよばれるこの古墳は、長留川左岸の段丘に位置し、高さ3米、直径15米の円墳である。墳項部には「お塚権現」と称する小祠が祀られている。古墳時代後期、7世紀ごろのものと推定される。地元では「お塚」を羊太夫の墓とする言い伝えがある。羊太夫とは群馬県吉井町にある多胡碑にまつわる伝説上の人物であると思われ、当地域の伝説との関連が注目される。」とある。そして、俗に「お舟観音」と呼ばれる札所32番法性寺には羊太夫が納めた大般若経があったという。さらには、札所1番の四萬部寺の経塚は、羊太夫が納経したとも言われている。
羊太夫伝説の伝承地の3分の2は群馬県多胡郡周辺に集中するが、このように埼玉県西部山岳地帯にもその痕跡は存在する。この事柄は何を意味するのか。蕨手刀、和同開珎と共に聖神社周辺には古代武蔵国のいくつかの謎を解く鍵を握っている地帯であるように思えてならない。
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秩父一帯に勢力を拡大していた武蔵七党のひとつ丹党の一族に白鳥氏があった。丹経房の弟行房が白鳥に館を構えて白鳥七郎と名乗ったのが始まりである。『七党系図』では行房の子白鳥七郎二郎基政の孫にあたる政家が白鳥四郎を名乗ったともいう。白鳥氏の嫡流はその後岩田氏に代わり、以後の白鳥氏は傍流として存続する。この白鳥氏や岩田氏は同族の藤矢渕氏や井戸氏らと長瀞一帯を領有していたという。
所在地 埼玉県秩父郡長瀞町岩田1881
御祭神 菅原道真公・日本武尊・埴山姫命
社 挌 旧村社
例 祭 2月25日 例大祭
岩田白鳥神社は荒川の右岸、埼玉県道82号長瀞玉淀自然公園線を長瀞方向に進み、岩田地区の山の西麓の道路沿いに鎮座している。地形的にみると長瀞地区は荒川が真北方向に流れていて岩田地区は荒川が屈曲する先端地にあり、南に秩父の平野を睥睨することができる要害の地にある為、社の南側には室町時代から戦国時代には天神山城が存在していた。
その関係でこの岩田白鳥神社は荒川に対して直角方向に向いていて、丁度西向きの社殿となっている。県道を挟んで反対側に集会所らしき建物があり、そこに若干のスペースがあったので、そこに車を停めて参拝を行った。
道路の反対側から一の鳥居を撮影 道路沿いで鳥居の右側にある案内板
白鳥神社と書かれている鳥居の扁額
白鳥神社 所在地 秩父郡長瀞町大字岩田 白鳥神社の祭神は、菅原道真公、日本武尊、埴山姫命で、例大祭は毎年二月二十五日である。 神社の起源は、元慶年中(八七七〜八八五)に岩田(白鳥)武信が勧請し、白鳥天神宮と称し祀ったのが始まりといわれ、後の北条氏邦はこの白鳥大明神を厚く崇敬していたので近くにある根古屋城を天神山城に改めたと伝えられている。 その後、明治三年に白鳥天神宮は、天満天神社となり、さらに明治九年七月八日に白鳥神社と改称した。この時村社に列挌され、明治四十年五月八日、丹生大神社、思金神社、八幡神社を合祀して現在に至っている。 また、社地は、始め椿の森と称されていたが、宝永二年(一七〇五年)の冬から毎年伐採され、同六年の春にはすべて伐採されて、跡地には杉苗が値付けた。現在する一部の老杉は、当時の物であるといわれている。 昭和五十七年三月 長瀞町 案内板より引用 |
拝 殿
白鳥神社の南方部には、室町時代から戦国期に築造された天神山城が山道を通じて存在していた。この天神山城は、戦国時代(天文年間1532-55)、土豪の藤田重利の築城という。本来は後北条家に対抗していた関東管領上杉氏の重臣で、最盛期には、上杉家四家老の一と呼ばれている。榛沢、幡羅、男衾の三郡を領していて、天神山城も対後北条家対策の本拠地的な城であった。
後に藤田氏は後北条氏に降伏し、北条氏邦をここに迎え、氏邦は「秩父新太郎」と名乗った。この北条氏邦は岩田白鳥神社への崇敬が厚く、それまで「根古屋城」といったこの城を「天神山城」と改名して武運長久を祈ったと伝えられる。この天神山城は筆頭家老・岩田義幸が城を守ったが、永禄三年(1560)鉢形城に移転し、天正十八年(1590)小田原の役で落城したとされる。
藤田氏は「藤田系城郭」という独特の築城方式に長けた一族であり、現在でも城郭研究者の間では有名な「埋もれた名城」で、花園城や花園御嶽城、岩田天神山城等の標高200m程度の山に大規模な堀切や、横堀と土塁の組み合わせを巧みに利用した山城を多数築城した。
拝殿内部
神楽殿
社殿の右側に境内社、稲荷社とその左側に石神 社殿と神楽殿の間にある2柱の石神
社殿の両側にある石神(磐座)は社殿が勧請される前からの地主神だったのだろうか。石神信仰は岩石に宿る霊を表現していて、縄文以来の自然の物に神様が宿るというアニミズム的な信仰がこの地にもあった証ではなかろうか。
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金上无(こん・じょうがん)は新羅系渡来人で、鉱業に関する鉱山技術者として時の朝廷から招かれ、日下部宿禰老や津島朝臣堅石と共に、秩父に視察に出かけ「黒谷」地区で「銅山」を発見し、その自然銅の塊は朝廷に送られた。時の元明天皇(在位707年〜715年)は大いに喜ばれ年号を慶雲から和銅と改め鋳銭司長官多治比真人三宅麻呂と朝鮮半島からの鉱山技師を派遣し和銅採掘に従事させたという。その時の朝廷の喜びはいかばかりであったろう。金上无は和銅献上時点では無位であったにもかかわらず、一躍他の2人と共に、従5位以下に叙せられたことからも伺がわせることができ,同時にいかにその貢献度が高かったかということを示す事実と考えられる。
この寄居町金尾地区は金上无の手により和銅(にぎあかがね)を発見した秩父市黒谷の和銅山の尾根続きの地であるし、更にまた金尾地域の荒川を隔てて東側には末野遺跡という古墳時代から窯で焼成された堅い土器(須恵器)を生産していた窯跡が発掘されている。この末野遺跡には須恵器生産に関連する窯跡群の他、須恵器を生産する工房の跡や材料の粘土を採掘した跡に加え、鉄生産の行っていた痕跡も残している。「埼玉の神社」によると、当地に入植した渡来系氏族の関与があったとの指摘もあり、ますますこの地域の興味は尽きない。
所在地 埼玉県大里郡寄居町金尾256-1
御祭神 猿田彦命・大己貴命・保食命・菅原道真公
社 挌 旧村社
例 祭 10月19日 例大祭
金尾白髪神社は国道140号線を寄居町から長瀞町方向に進み、波久礼駅手前の駅前交差点を左折し、寄居大橋を渡るとすぐ右側に鎮座している。但し駐車スペースはこのルートにはないの
で、寄居大橋を渡り切ってT字路にぶつかり、そこを右折するとすぐ右側に社に通じる道があり、社務所あたりに停めることができる。境内右側はすぐ下に荒川が流れ、参拝も初秋期ということもあり、四季の移り変わりをそこはかとなく感じさせてくれる趣のある社である。
正面一の鳥居 参道から見た神門
参道左側にある白髪神社獅子舞の案内板 獅子舞案内板の向かい側にある白髪神社由来碑
町指定文化財 白髪神社獅子舞 指定 昭和五十八年一月一日 所在 寄居町大字金尾 白髪神社内 この行事がいつ始まったか明らかではないが、現存している獅子頭が、文久二年(一八六二年)に奉納されたという記録があり、それ以前からこの行事が始まっていたことが分かる。 この獅子舞は、古来より十月十九日の大祭のつけ祭りとして奉納されたものと言われている。 獅子舞の内容は、四方固め・剣の舞・奉納神楽の神事舞・まり遊び・のみとり及びひょっとこの道化舞の六座である。 かね・笛・太鼓の囃しに口上が加わり、ときに静かに、また勇壮に、ユーモアもまじえた、古き良き、むら祭りにふさわしい素朴なものである。 平成十一年三月 寄居町教育委員会 白髪神社由来 むらの鎮守、白髪神社は、第二十二代清寧天皇(白髪武広国押稚日本根子天皇)を祀り、猿田彦命・大己貴命・保食命・菅原道真公の四柱の御神が合祀されて居ります。清寧天皇は行田市稲荷山古墳の鉄剣で知られる雄略天皇の第三子にあたります。 『日本書紀』によりますと天皇は生まれながらにして白髪で有られたことから、白髪の名が冠せられ、長じては民をことさら慈しまれ、又、幼少の頃より獅子舞に興ぜられたと言い伝えられています。 故に、在位(四八○〜四八四)中の徳が慕われ、古くは戦国の武将北条氏邦公(?〜一五九七年)、要害山城主金尾弥兵衛の祈願所とされ、五穀豊穣・家内安全・長寿の神として、氏子をはじめ、広く信者の崇敬を集めて居ります。(以下中略) 案内板より引用 |
石段を登ると神門がある。
拝 殿
境内は比較的広く、開放感がある。社殿の向かい側には「金尾山」と題する漢詩が彫られた石碑があり(写真左)、社殿の向かって右側には「日露戦没記念碑」を含む石碑群があり、その中に浅間大神、水速女命と彫られている石碑(同右)がある。
この水速女命(みずはやのめ)は伊耶那美が火之迦具土(かぐつち)を生んでやけどして伏せていた時の尿から誕生した神で、通説によれば別名「岡象女神」とも言い、日本神話に登場する代表的な水の神であるが、水速女命は岡象女神とはまったく別の神である説もあるそうだ。
境内社 金毘羅神社(写真左)と八坂神社(同右) 社殿の左側奥にある境内社 並びにある社殿の左側奥手前にある境内社
寄居町金屋地区は、荒川扇状地の先端部にあたり、丁度この地域を起点として東側に平地が深谷、熊谷両市方向へ扇状に広がる。この扇状地の特性は.低地に比べ水はけがよく,地盤も安定しており,土地として利用価値が高い地域である。また,場所によっては水を得るのが容易であるため,古くから農地として利用されてきた。
しかし,扇状地はもともと河川が氾濫を繰り返して形成された地形であり,また,山地から平地へ勾配が急変化する場所であることから,大雨が発生した際に洪水氾濫が起こる危険性の非常に高い地域でもある。実際,記録だけでも1742 年(寛保2 年),1859 年(安政6 年),1910 年(明治43 年),1947 年(昭和22 年)などに大洪水を起こした.特に寛保2 年の洪水は,最大の洪水と考えられており,埼玉県長瀞町樋口(地点2)には,当時の高水位を示した寛保洪水位磨崖標(標高約128m)がある。
この洪水は下流側で数多くの決壊を発生させ,熊谷市大麻生においては,延長約1100m の破堤が生じたという。殿蔵の渡しの案内板にも洪水に関しての記述があり、当時の悲惨さが案内板を通して垣間見られる。
殿蔵の渡しの由来が書かれた案内板 殿蔵の渡しのすぐ北側には荒川が流れている。
ところで金尾白髪神社の「金尾」地区の頭につく「金」という名前にも気になることがある。金尾地区は前出秩父市黒谷の和銅山の尾根続きの地であることや、荒川を挟んで隣村末野には、奈良期、多くの須恵器や国分寺瓦を製造した末野窯群が存在していることは何を意味するのだろうか。律令時代以前から秩父地域の交通は荒川の河岸段丘上の狭まれた一本の線が武蔵国平野部に通じる主道であったろうことから推測されることは、この黒谷から末野までのルートには共通する文化圏が存在していたのではないか、ということだ。
黒谷の和同塊を発見した人物の一人は「金上无」という。「金上无」と「金尾」、この「金」が共通する両者には何かしらの関連性があるのだろうか。それとも単なる偶然なのだろうか。
社殿から参道方向を撮影
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