関白藤原忠通の子で九条家の粗である九条兼実(くじょうかねざね)は、京都の月輪寺(がつりんじ・つきのわでら)に隠棲していたことから「月輪殿(つきわでん)」と呼ばれていた。その霊が合祀されていると言われているのが比企郡滑川町月輪に鎮座する月輪神社で、「月輪」の地名もここに由来しているとのことだ。参道や境内には樹齢何百年と思えるくらいの立派な杉が植わっていて、静寂かつ厳かなたたずまいであり、歴史を感じる古社である。

目次  月輪神社  /  手白神社  /  越畑八宮神社
  /  古里兵執神社


                                     月輪神社
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                                             所在地   埼玉県比企郡滑川町月輪418

                                             御祭神   素戔嗚尊、木花開耶姫命、味鋤高彦根神
                                                    豊受気媛神、月輪兼実公、菅原道真公

                                             社  挌   指定村社(大正5年)

                                             例  祭   10月19日 秋祭  11月23日 新嘗祭


 月輪神社は埼玉県道47号深谷東松山線を南下し、森林公園駅入口交差点のY字路を右折し、森林公園北口前の信号をまた右折する。道なりに真っ直ぐ進むと約5分弱で左側に月輪神社の社号標が見えてくる。駐車場は神社の東側隣に集会所があり、そこには駐車スペースが確保されており、そこに停めて参拝を行ったが、そこは神社の拝殿のすぐ横にあり、正面、つまり南側の鳥居から参拝することをモットーとしている筆者にとっては少々遠回りをしなければならないことが不満な点ではあるが。

                    

                        南側にある月輪神社の社号標          社号標の先にある朱塗りの一の鳥居          自然のままの社殿に通じる参道
                                                                                  境内は鬱蒼とした杉林に覆われている。

                                                

 参道の先にある拝殿。なんでもこの社殿の基盤全体が古墳となっているようだ。この森林公園の南側に位置する羽根尾地域から月輪地域にかけては、数多くの遺跡が出土している日本でも有数の遺跡分布地帯で、調査によると、未発掘の埋蔵文化財が、町のほぼ全域に分布しているそうだ。

 東武東上線「つきのわ駅」の北部にある月輪古墳群や月輪遺跡からは、古墳時代の土器や石斧、直刀、さまざまな形の埴輪が数多く出土。東上線以南の地区からは縄文時代早期の土器が見つかり、駅西南部の一帯では旧石器時代の石器も発見されている。

                                  

                                     拝殿の「月輪神社」と書かれた扁額                   拝殿前の石段の横には案内板がある。

 月輪神社

 祭 神
  
素戔嗚尊、木花開耶姫命、味鋤高彦根神、豊受気媛神、月輪兼実公、菅原道真公
  
由 緒
   当社は和同二巳酉(西暦七0九)年に大宮氷川神社の神霊を此の地に分社したと鎮守名に記載されており その後建久九戊午年三月、月輪兼実の霊を合祀して氷川大明神と称した。享保八年九月宗源宣旨により正一位の神位を贈られた 明治維新の際明神号を廃し 氷川神社と称し 明治四十一年三月大字内の五社を当社に合祀して今までの氷川神社号を月輪神社と改称した 明治四年村社となり 大正五年指定村社に昇格した

  昭和五十四年十二月吉日
   滑川村観光協会 滑川村教育委員会

                                                                                                       境内案内板より引用


                                                

                                                     本殿覆屋とその脇にある境内社

 神社の北西側、つまり車を駐車している場所には蠶魂之碑(写真左側)と月輪稚蚕共同飼育所建設記念碑(同右)がある。

                                  

                                                 

                                           道路沿いにある社号標のほうが歴史を感じる重みのある標石だと思う。








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 滑川は延長13.5kmの荒川水系の一級河川で、源流(最上流)は比企郡嵐山町と小川町のため池であり、農業排水を集めながら南東へと流れ、大里郡江南町、嵐山町、滑川町、東松山市を経て、吉見町北吉見と東松山市松山の境界で市野川に合流する。
 江戸時代末期に編纂された新編武蔵風土記稿の比企郡吉田村に当時は滑川の起点が吉田村(現在の嵐山町吉田)の湧水だったことが記されている。

  
”滑川:当村の田間所々より涌出水、村内にて落合ひ、一條の流れとなり、始てこの名を負へり、是滑川の水源なり”

 この滑川源流域で熊谷市と滑川町との境付近に手白神社は鎮座している。


                                     手白神社
                                       地図リンク
                                                                樹齢800年以上の御神木の大杉がある社

                                                 


                                             所在地  埼玉県比企郡嵐山町吉田952

                                             御祭神  手白香姫命、大貴巳命、大山祇命
                                                    金山彦命,高霊神、市杵島姫命

                                             社  挌  旧村社

                                             例  祭  不明


 手白神社は埼玉県道11号熊谷小川秩父線を小川町方向に進み、塩八幡神社の先の交差点を左折し、道なりに約1km位真っ直ぐ進むと右側に小高い山があり、その山を背にして鎮座している。道幅は狭く、また専用の駐車場もないので社を過ぎた場所に路上駐車し、急ぎ参拝を行った。

                                    

                                            手白神社入り口            参道石段の両側には御神木の杉が聳えている。

 参道の間には御神木の杉が聳えている。樹齢800年以上という巨木であり老木だ。右側の木が高さ36m、目通り5.03m、左側が高さ26m、目通り2.7m。推定樹齢約800年。昭和49年に町の天然記念物の指定になった。

                                                

                                                石段の参道を登りきると正面に拝殿が見えてくる。

                                  

                                    社殿の随所に施された彫刻が見事である。          社殿の横にある案内板

 町指定有形文化財 彫刻  手白神社本殿彫刻

 手白神社は今から870年ほど前の天治元年(1124)に蘆田基氏が創建したと伝える。御祭神は手白香姫命である。大字吉田地区のほぼ中心に位置し、古くより「手の神様」として、近隣の人々からの信仰が厚かった。現在の本殿は、大正二年(1913)に峯野神社、五竜神社、六所神社が合祀された際に六所神社の建物を移築したものである。
彫刻は江戸時代の作品で、技法に勝れ保存状態も良い(以下略)
                                                                                                          案内板より引用

                                        
                                  

                                             本   殿                   こちらも本殿、側面から撮影

 手白神社の御祭神筆頭である手白香姫命は継体天皇の后。二十四代仁賢天皇の第五皇女であり、武烈天皇は同母弟にあたる。古事記では手白髪郎女と表記されている。
 この社の起源として嵐山町誌は次のように述べている。宝永三年(1706)に別当泉蔵院から領主折井氏に提出された伝説として、「仁賢天皇(第二十四代)の第五皇女に手白香姫命という女性がおり、武烈天皇の酷刑苛政を諫めたがきかれないので東国に下り、この吉田の里に止って里人を教化した。ところがある日、手白香姫が村内を巡回し、とある清水で手を洗おうとして懐中の鏡を水中に落してしまった。水底を探し尋ねたがついに発見することができなかった。その後、手白香姫は都に帰り継体天皇の皇后となった。

 鏡を落とした湧水は鏡浄呂(きょうしょうろ)池と名づけ、姫の命によって鏡浄呂弁財天を祀った。その後、白河天皇の御代(1080年頃)に村長の芦田基氏という人が早朝弁財天に参詣したところ、社木の樫の木に向って神気が立ち上がり、その中に姫の姿が現れて「私は先年ここで鏡をなくしたので魂はまだここに止っている。手の業を望むものや手の病気を患うものは来て頼むがよい。」というお告げがあったという。

 大和王権は第25代武烈天皇没後、一旦血統が途絶える。嫡子がいなかった為だ。その為ヤマト朝を構成していた豪族連合の意向を受け、遠い越前国に住んでいて約5代前に分家した意富富杼王が謂わば婿入りの形で手白香姫命との婚姻を条件に大王の位を引き継いだ。第26代天王継体天皇である。そしてその嫡子欽明天皇(509〜571)は王家本流として敏達から舒明、そして天智・天武へと連なる大王家の礎とも云える系統を保持することができた上においてもこの手白香姫命の存在は大きかったといえる。

                      

                    社殿の左側奥の突き当りに御神水か湧水か?      拝殿の前を左に行くと神楽殿がある。     神楽殿前を右へと登って行くと境内社あり。
                        柄杓もあるのでその類だろう。








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  新編武蔵風土記稿には八宮神社が鎮座する嵐山町越畑地区について以下の記載がある。ちなみに越畑と書いて「おっぱた」と読む。なかなか馴染みのない変わった名称だ。

越畑村(おっぱたむら)(現・埼玉県比企郡村嵐山町大字越畑)

 越畑村ハ領名(りょうめい)及ビ江戸ヨリノ行程(こうてい)前村ニ同ジ:。東ハ吉田・勝田(かちだ)ノ二村ニ隣リ、南ハ杉山・中爪(なかつめ)ノ村々ニテ、西ハ下上横田村(しもよこたむら、かみよこたむら)ニ交(まじわ)リ、北ハ古里村ナリ。東西七町南北二十町余。家数九十軒。御打入(おんうちいり)ノ後、高木筑後守広正(たかぎちくごのかみひろまさ)ガ采邑(さいゆう)ニシテ其子甚左衛門ガ時慶安(けいあん)元年(1648)検地(けんち)セリ。ソノ後元祿元年(げんろく)(1688)替(かわ)リテ御料所(ごりょうしょ)及ビ酒井但馬守(たじまのかみ)ガ知行(ちぎょう)トナリシニ、同キ十一年(1698)御料所ノ内ヲ割テ山高十右衛門ニ賜リ、又享保十二年(きょうほう)(1727)残リシ御料所ノ分ヲ黒田豊前守(ぶぜんのかみ)・羽太清左衛門ノ二人ニ賜リテ、今モ高木・山高・黒田・羽太等ノ子孫四人ノ知ル所ナリ。

 この越畑村に八宮神社が村の鎮守として存在する。八宮と書いて「やみや」と読む。名前通り8柱の神様を祭っている社だ。


                               越畑八宮神社
                                      地図リンク
                                                                  
越畑地区の獅子舞は県指定無形民俗文化財   

                                                 


                                           所在地   埼玉県比企郡嵐山町越畑1445

                                           御祭神   応神天皇、木花開夜姫命、大雷神、天照大御神、
                                                  倉稲魂命、大山祇命、櫛八玉神、品陀別命

                                           社  挌   旧村社

                                           例  祭   毎年7月25日に近い日曜日 獅子舞


 越畑八宮神社は太郎丸淡州神社から埼玉県道69号深谷嵐山線を深谷方向に進み、越畑交差点の次の信号を左折すると右側に八宮神社の鳥居と社号標が見える。ちなみにこの交差点の右側には七郷小学校の横看板があり小さいが目印にすると良い。この社には専用駐車場はないが、鳥居や石碑を過ぎた場所に車を停めるスペースがあり、そこを借用して参拝を行った。

 まず最初に鳥居を挟んで右側には庚申塚群が、左側には記念碑が数多く置かれている。


                                   

                                        鳥居の左側にある記念碑群          同右側にある庚申塚や神宮参拝記念碑

 そして鳥居の左隣には「県指定 無形民俗文化財 越畑の獅子舞」の案内板がある。

                                                 

 越畑の獅子舞

 
毎年7月25日の前後で一番近い日曜日には、越畑地区の八宮神社で夏祭りが行われます。ここで雨乞いの行事として行われるのが「越畑の獅子舞」です。獅子舞はササラと言われ、数百年前に飢饉にみまわれた越畑の人たちが伊勢山田(現在の三重県)から習ったのが始まりと伝えられています。
獅子舞は万灯、法螺貝にはじまり、先払い、先達(神主)、氏子総代、棒司、花笠っ子、笛吹き衆、中立、獅子三頭の順番で行列をつくります。神社に到着すると、獅子が舞う場が清められ、獅子舞が行われます。(県指定無形民俗文化財)
                                                                                                  嵐山町ホームページより引用


                                   

                                          鳥居から参道を撮影        鳥居を過ぎると石段があり、登りきると社が鎮座している。

                                   

                                        斜面を登りきると左側に神楽殿(写真左側)、右側に社務所(写真右側)がある。

                                                 

                                                  
           拝    殿

                                                 

                                                  本殿覆屋、鮮やかに彩られた本殿が中にある。

 神社明細帳には八宮神社について以下の記載がある。

八宮神社 
  埼玉縣武蔵國比企郡七里村大字越畑字日向
  村社 昭和二一、一○、一五 法人登記済
 由緒
  勧請(かんじょう)人皇四十七代聖武天皇ノ御宇ト申ス、其後承平)年中(931−938)経基公関東征討ノ節此ニ祈願シ遂ニ八ヶ所ニ是ヲ祭ルト云フ。明治四年(1871)中村社(そんしゃ)届濟。
  明治三十二年(1899)五月二十二日八幡神社ヲ八宮神社ト訂正ス。
  明治四十年(1907)四月十日大字越畑字冨士山無格社浅間神社、字幡後谷前無格社雷電社、字柳原無格社神明社、字社宮司無格社社宮司社、字後谷無格社山神社、字下串引無格社  大天獏社、字大堂無格社八大社、字清水無格社八幡社ノ八社ヲ本社ニ合祀(ごうし)ス。大正八年(1919)十二月二十二日拝殿幣殿(へいでん)改築許可。大正九年(1920)四月十五日竣工。
  大正十一年(1922)三月二十日神饌幣帛料供進神社ト指定セラル。


                                                  

                                                     拝殿前の石段から鳥居方向を撮影

 嵐山町は比企丘陵の中枢部を占めており、山あり渓谷あり、平地ありと変化に富んだ自然の宝庫で、国蝶オオムラサキが生息する地としても有名でり、歴史的には、木曽義仲や畠山重忠など、平安末期から鎌倉時代にかけて日本史に名をとどめた坂東武者ゆかりの地でもあり、埼玉県の中にあって観光資源の豊かな地域の一つである。

 越畑地区に鎮座する八宮神社は決して規模の大きい社ではないし、神社の外観もどちらかというと地味である。しかし獅子舞のような県の指定を受けている歴史的にも淵源の古い文化財あり、鮮やかに彩られた美しい本殿といい、後世に残すべき素晴らしい文化がこの地にはある。大切にしたいものだ。








                                               もどる                  toppage  






 嵐山町は埼玉県中央部に位置する南北に長い町である。その北端部の古里地区は熊谷市、深谷市、寄居町に接していて、埼玉県道11号熊谷小川秩父線と同県道69号深谷嵐山線が交差する交通の便もあり、嵐山町中央部よりも文化的、経済的にも密接に関係しているように感じる。地形的にみると、古里地域やこの地域の南部で手白神社が鎮座する吉田地域は比企丘陵内にあり、滑川がその地域から南東方向に流れている。この地域の滑川は上流部で川幅も小さいが、谷幅(川の両側の水田を含む範囲)が広く、両側は山に囲まれているが沖積台地と言われる標高の高い平坦な地も多い所でもある。

 この滑川の源流域の沖積地を見下ろす大字古里の丘陵上には、古里古墳群が点在している。6世紀後半を中心に築造された古墳群で、当時は78基の円墳が存在したとされて言われているが現在は52基の存在が確認されている。この古里古墳群は10カ所の支群( 尾根西・尾根・駒込・上土橋・北田・清水・二塚・上耕地・神山・藤塚)に分かれていて、埴輪をもつ6世紀代の古墳から横穴式石室をもつ7世紀代の古墳へと年代の幅がある。石室の石材にはこの地域の基盤を構成する凝灰岩の切石が用いられている。岩根沢には町内唯一の横穴墓も発掘されている。その東端は埼玉県道11号線に沿って塩古墳群と隣接しているようで、その関係が注目されている。

 
 

                               古里兵執神社
                                     地図リンク
                                                                        
古墳群の中に鎮座する丘上の社

                                                 


                                             所在地    埼玉県比企郡嵐山町古里766

                                             御祭神    武甕槌命

                                             社  格    旧村社

                                             例  祭    10月18、19日 例大祭(兵執神社獅子舞)


 古里兵執神社は埼玉県道11号熊谷小川寄居線を小川町方向に進み、古里交差点を右折、そこから約200m位でY字路にあたり、Y字路の角付近に兵執神社の社号標石があり、そこをまっすぐ進み、丘の中腹付近に兵執神社が道路沿いで右側に鎮座している。ちなみに「兵執」と書いて「へとり」と読む。社殿の丘の下で、参道に向かって右側には社務所があり、そこには駐車スペースがあったので、そこに停めて丘の下の社号標石から参拝を行った。

                    

 
 埼玉県道69号深谷小川線とのY字路の間にある社号標石(写真左)、そこから真っ直ぐ進むと一の鳥居(同中央)があり、そこをまた丘を登るように進んでいくと境内(同右)になる。境内までの参道がまた変に気持ちが良く、急ではなく、長さもそこそこの勾配のある参道を歩くと何となくハイキング気分にさせてくれるものだ。

                                  

 境内正面(写真左)。右側には社務所があり、そこに車を停めて参拝を行った。境内参道の左側には兵執神社獅子舞の案内板(同右)がある。社殿は社務所等のある丘上の比較的平らな地のもう一段上にあり、それがまた趣のある配置状況ともなっている。境内手前の石段の前に堀等の防御施設があったら完全に城郭としての機能が完備できそうなこの社の配置関係だ。

 町指定 民俗文化財   兵執神社獅子舞

  指定  昭和三十七年九月一日
  所在  兵執神社 嵐山町大字古里字中内出七六六
  時代  江戸時代

 毎年十月十八、十九日(近年はこれに近い土曜日、日曜日)の秋季例大祭に疫病除けや豊作を祝い古里の氏子によって獅子舞が奉納されています。
 子の獅子舞は,太鼓に文政年間(一八一八年頃)の記載があったことなどから江戸時代にはすでに舞われていたと考えられます。
 獅子舞の役は、順に(一)万灯【一番上に榊と花、その下に灯籠、その下に竹ヒゴに花がつけられ、水引が下がった柱状のもの  二、三十人】 (二)法螺貝【一人】 (三)金棒つき【二人】(四)先連【柏木を打つ 一人】(五)棒司い【獅子が舞を奉納する前に庭を清め、四方を固める 四人】(六)花笠っ子【獅子の演目中にササラと称する竹製の楽器を擦り合わせる 四人】(七)仲立ち【ひょっとこ 一人】(八)獅子【ホウガン(男獅子)・女獅子・男獅子 三人】(九)笛吹役者【十人】で構成され、棒使い・獅子役に限っては小学生からはじめ、満八歳で交代になるそうです。
 奉納は、はじめに社務所前庭で初庭を舞い、次に役の順番で列を整え街道下りをして前の道路まで降り、神社参道の鳥居をくぐり社殿に向かいます。社殿の西庭では二の庭を舞い、東庭では三の庭を舞います。
演目には、初庭で舞う堂浄古根古・女獅子かくし、二の庭で舞う場均し・隠平掛り・花掛り・三の庭で舞う駆け出し、神楽があります。
                                                                                                           案内板より引用


                                  

                                         参道の左側には天神社             天神社の奥には駒形大神の石碑

                    

 参道の右側にある八坂社(右)、愛宕社(左)があり、八坂社、愛宕社の参道の向かい側にも境内社がある(同中央)。左から白山神社・小女郎神社、日枝神社、山神社、そして八幡神社。そして八幡神社の奥にポツンとある明敵大神社(同右)。

                                                 

                                境内社の散策が終了し、参道に戻ると、また一段高い場所があり、その上に社殿が見えてくる。

                                   

                                                            拝    殿

                                   

                                             拝殿内部                   社殿の右奥にある鎌倉稲荷

                                   
                                                            

 今回参拝した古里兵執神社は、まさに平地を見下ろす丘陵地の一角に鎮座する社で、古里地区を一望できる要衝の地にある。社からこの風景を見ているうちに、ふと近郊に存在する古墳群の埋葬者たちは、どのような感慨をもって今の風景を眺めているのだろうかと、何となく思いに耽った面持ちとなった。


    


                                              

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