寄居の市街地から西に峠を越えたところに『風布』地域がある。『風布』、何と優美で神秘的な響き、そして名前だろうか。この『風布』という地名の由来ははっきりとしないが、山に囲まれた地形から暖かい空気が空中に漂い、風が布を引いた様になる現象がみられることから付いたものと言われている。またこのフウプ(フップとも読まれる)の名はアイヌ語とも言われていて、この地形から地域全体に強風がさえぎられ非常に温暖な気候だ。 
 
 この風布地域は秩父鉄道波久礼駅から風布川沿いに歩いて約1時間の小さな盆地で、日本におけるみかん栽培の北限地域の一つとされている。風布みかん栽培は天正年間(1573~92)まで遡り、時の領主である鉢形城城主北条氏邦が本拠地「小田原」からみかんの木をこの地に植えたのが起源で、400年以上の歴史を持つ。
  10月中旬から12月中旬までのみかん狩りシーズンには、この地区合わせて延べ4万人もの観光客で賑わうという。

 また地区の中央を、釜伏山を源とする「風布川」が流れていて、水源の水は大変おいしく甘い水で、「日本水(ヤマトミズ)」といわれ日本名水百選に埼玉県から唯一指定されている。その風布川流域で風布地域集落に鎮座する社が姥宮神社だ。


 目次 姥宮神社 / 風布地域 / 釜山神社

                               姥山神社 
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                                                               蟇蛙(ガマガエル)が神使である神秘的な社

                                                


                                              所在地    埼玉県大里郡寄居町風邪布125

                                              御祭神    石凝姥命(いしこりどめのみこと)
                                                       ※[別称]鏡作神(かがみつくりのかみ)
        
                                              社  挌    不明

                                              例  祭    不明


 姥宮神社は国道140号彩甲斐街道を長瀞方面に進み、波久礼駅手前の駅前交差点を左折して寄居橋を渡るとT字路にぶつかる。そのT字路を左折して真っ直ぐ道なりに進むと15分くらいで右側に姥宮神社が鎮座する風布地域に到着する。本来ならば皆野寄居バイパスを利用して最初の寄居風布ICで降りたほうが時間は半分以下で着くことができたが風布の山林道の風景を楽しみたかったので今回は下の道路を使った。(金銭的な関係も勿論あるが、それより子供が小さかった十数年前にサワガニ取りやバーベキューを行うため、また後述するが名水である「日本水」に通じる一本道でもあるため、よくこの風布地域の清流に何度も足を運んだ思い出があった為だ。)
 姥宮神社は山間の谷間の神社で切り立った斜面に鎮座している為、これといった専用駐車場はない。但し神社の隣に社務所(?)らしい建物があり、その手前に車が駐車できるスペースがあったのでそこに車を止め参拝を開始した。

                                   

                                          姥宮神社正面鳥居                 
屋根つきの立派な社号額
                                                               貫には幾何学模様が彫られ、笠木には屋根があり、
                                                              更に額束を守るようにそこだけ取り付けられた唐破風。

                   
 この風布の地域は秩父の黒谷(和銅採掘)から連なる山なので、かじやの神様、石凝姥命を祀ったそうだ。
石凝姥命とは、石の鋳型を使って鏡を鋳造する老女の意だが、天照大神が天の岩屋戸に隠れたとき、外へ迎え出すのに用いた「八咫(ヤタ)の鏡」(大鏡)を造ったのがこの命である。
 ちなみに姥宮と書いて「とめのみや」と言うらしいが、「姥」は「ウバ」とも読むので地元の人たちには「うばみやさま」ともよばれている。当地では、大蛙を蟇蛙「おおとめひき」、つまり「ヒキガエル」であり、当社の社名と同じ響きで、蛙が神使とされており、巨大なカエルの神使像が狛犬に代わって鎮座している。

 ウィキペディア「トベ」によれば、石凝姥を石凝戸辺とも書き、古くは「トベ」とも言ったようで、「トメ」(つまり後代の乙女)の語源で、ヤマト王権以前の女性首長の名称らしい。また「老」という字は、中世惣村では村の指導者(オトナ、トシヨリ)になり、江戸時代にも老中とか若年寄という職務になることを思えば、女の首長ならば姥の字を当てたのは十分納得できる。

                                   

                                  参道の石段を上ると両サイドにある神使の蛙で、写真には見えないが背には子供が3匹乗っている。

                                    

 姥宮神社拝殿の向かって左側には神楽殿(写真左)があり、拝殿の正面、石段の手前に不思議な石塊(写真右)があり、形状からさざれ石かもしれない。よく見ると石塊の両側には嘗て鳥居か石柱があったらしい礎石跡もあり、ある意味御神体だった可能性もある。風布地域の地形、また社殿の奥にある巨石群といい、姥宮神社の本来の御神体とはこのような石神だったのではないかと考えられる。

                                    

                                            拝     殿                   拝殿の屋根には十六菊の紋章

 この姥宮神社は元はうぶすな山という、風布みかん山のてっぺんの方にあり、そこから今の場所に移転したらしい。また宮司の姓は岩松氏という。歴とした清和源氏新田流の出であるという。筆者の母方の三友氏も新田氏の家来の子孫であり、殿様と家来の関係で恐縮であるが、どこか共通性があると人情的には親しみやすく感じるものだ。

                        

 姥宮神社拝殿の脇障子には見事な彫り物(写真左、中央)があり、拝殿部にも細やかで素晴らしい彫刻物が施されていた。見るとわずかに彩色が残り、往時の煌びやかな様子が偲ばれる。

 
                                                   

                                  また社殿の向かって左側、神楽殿の隣にはこれもまた見事な御神木である「富発の杉」が存在する。
                              (最初は鳥居の先、石段の左側にある大杉を富発の杉と勘違いしたが、その石段左側にある大杉もまた見事だ。)

                       

 社殿の奥、杉の脇を通り、奥へ行くと胎内くぐり(写真左)という不思議な石穴があり、神潜りの岩穴と言われ、潜ると疱瘡や麻疹、罹患することはないという。胎内くぐりの岩穴の上に行くと(写真中央)そこにも巨石(写真右)がそこ彼処にもあった。 


                                    

                              境内の右側、つまり道路側には境内社が存在する。2社あり、手前は稲荷社のようだが奥は判別できなかった。 

                                    

 鳥居の左側にはこのような巨石が。よく見ると蛙に見える。またその隣には「忠魂碑」がある。この忠魂碑は何を意味しているのか。戦争中の戦死者を祀っているのか、それともそれ以前の明治時代のあの事件の関係か。あの事件の際にはこの風布の集落の全戸が参加し最後まで結束し勇敢に戦ったとある。考えてみると風布地区や金尾地区は今でこそ寄居町の一地区だが昭和18年に合併する以前は秩父郡であった関係で秩父と関わりが深いのもうなずけるところだ。


 この姥宮神社は決して広くない社だが、空間をうまく使って創られており、見どころも非常に多い。社の周囲は緑が生い茂り、川のせせらぎが聞こえるのどかな山里神社であるが、歴史的な重さも相まって参拝にも厳粛な気持ちで行うことができ、有意義な時間を過ごすことができた。 素晴らしい社の一つとして記憶に刻みたい。 










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寄居町風布地域

 姥宮神社が鎮座する寄居町風布地区は「日本の里100選」に選ばれた、どこか懐かしさを感じる桃源郷のような地域だ。埼玉県で選ばれたのは所沢市三芳町三富新田地区とこの風布地域の2か所だけ。名水「日本水」への進路の途中にある地域で、同じ埼玉県とは思えないゆったりとした時間が経過する風景がそこには存在する。



                                                

 山に囲まれた丘陵地。温暖で、ミカン栽培は400年を超す歴史を誇る。風布川にはサンショウウオが生息。年中花が咲く桃源郷。
 埼玉県の北西部、大里郡寄居(よりい)町風布。通常は「ふうぷ」と発音するが、土地のお年寄りには「ふっぷ」と言う人もいる。400年前、小田原の北条氏が関東に進出した際に伝えられたとされる「北限のミカン」栽培が、林業と並んでこの地の主な生業だ。標高300〜400㍍。低山の南向きの斜面が多く、1年を通して温暖な気候で、花が絶えることがない住みやすそうな土地だ。

 山々の頂に近い南向き斜面に、ひときわ緑の濃い林が広がっている。それがミカン園だ。25軒の生産者が、それぞれ2〜3㌶の広さで経営している。風布のミカンは、山の高い所で栽培されているのが特徴。盆地性の気候により、高度が上がるほど下がるはずの気温が逆に上がってゆく、「逆転層」現象がしばしば発生する。暖地を好むミカンには山の上の方が適すると、地元では伝えられている。現に、山を登るほどミカンの木は増える。甘く、香りが強く、昔懐かしい濃い味がする。10月から12月にかけてミカン狩りで訪れた人に供される「知る人ぞ知る」味だ。
                                                                                           森林文化協会ホームページより引用

    
 



 秩父地方には狛犬ではなく狼を神犬とする神社が10数社ある。いわゆる真神(まかみ)という古名は現在は絶滅してしまった日本狼が神格化したものといい、別名大口真神(おおぐちまかみ)とも呼ばれる。真神は古来より聖獣として崇拝され、大和国(現在の奈良県)にある飛鳥の真神原の老狼は、大勢の人間を食べてきたため、その獰猛さから神格化され、猪や鹿から作物を守護するものとされた。
 人語を理解し、人間の性質を見分ける力を有し、善人を守護し、悪人を罰するものと信仰された。また、厄除け、特に火難や盗難から守る力が強いとされ、絵馬などにも描かれてきた。しかし時代が流れ、人間が山地まで生活圏を広げると、狼は人と家畜を襲うものだという認識が広まった。そして狼の数が減っていくにしたがって、真神の神聖さは地に落ちていったという。
この大口真神を御祭神とする社が寄居町風布地区、釜伏峠に鎮座する釜山神社であり、この社は三峰神社に次ぎ狼像が多い社としても有名であるそうだ。

 ただこの真神が本当に狼の古名だったか、というと賛否が分かれていて、中には「記紀」に真神の記載がないことから否定する説もある。

 この釜山神社が鎮座する釜伏山は標高582mの低山で、外秩父山地の一端に位置し、男釜(おがま)・女釜(めがま)の2峰から成り、男釜は大里郡寄居町に、女釜は秩父郡皆野町にあり、その鞍部には秩父郡長瀞町から秩父郡東秩父村へ抜ける道路が通る。県立長瀞玉淀自然公園に属す。山名の由来は、日本武尊が東征の途次、神籬をたて粥を煮て、日の大神、神武天皇を遥拝し釜を伏せて戦勝を祈願したとか、大太坊という巨人が釜を伏せていったことからとの伝説があるが、ただ単純に、釜を伏せたような山の姿から名づけられたのが妥当と思われる。山は蛇紋岩より成り、頂は岩峰で、釜山神社奥宮の小祠がある。山頂からみて東側の釜伏峠に釜山神社がある。


                                 釜山神社
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お犬様が眷属とするオオカミ信仰の一社
                                                                   
                                                


                                              所在地   埼玉県大里郡寄居町風布1969

                                              御祭神   「木火土金水」の霊神 他

                                              社  挌   不明

                                              例  祭   例大祭 4月17日~19日

                                                      児童福祉祈願祭 太々御神楽 5月5日
                                     * 釜山神社の神楽は、大正11年に秩父市太田の神楽師を招いて習ったもので、
                                        秩父神社神楽の流れを汲むという。


 埼玉県熊谷から秩父に至る古道、秩父(甲州)往還の釜伏峠に鎮座する古社で、現在、国道140号は荒川沿いに通っているが、昔は荒川の岩場やらが危険な場所であったために、人は皆この釜伏峠を越えていたらしい。

 伝説や古文書、案内板等によると、第9代開花天皇の皇子、日之雅皇子命が武蔵野国を巡幸した折り、釜伏山・奥の院において祠を建て旅の安全と国内の平定安康を祈ったのが始まりといわれている。その後、日本武尊が巡幸した折、この神社に立ち寄って山頂において神様に供える粥を釜でたかれ、この釜を神体岩上に伏せ願望成就の祈りをしたと伝えられ、このことから「釜伏山」「釜山神社」の名が付けられたといわれている。ちなみに風布の地を通りかかった日本武尊が喉の渇きを覚え、岩肌に剣を振るうと、この泉が湧き出したとの伝説が残っていて、この泉は日本水(やまとみず)と呼ばれ、いかなる日照りの時でも、絶えることはないといわれ、現在「日本名水百選」に選ばれている。またその他の伝承として、日本武尊が粥を煮たのが粥新田(かゆにた)峠であり、地面に突き刺した箸が木になったのが、二本木峠の名の由来であると言われている。
 また鎌倉期は住吉神社と称し、のちにこの神社を含みもつ山すなわち釜伏山に合わせて釜伏神社となり、さらにずっと後の昭和初期に釜伏山と山王様を合わせて釜山神社としたという。


 釜山神社には様々な神様が祀られてるが、本来の御祭神はこの世の五大要素といわれ、火防や盗難除け、養蚕倍盛などの御利益があるとして信仰されている「木火土金水」の霊神である。 そして崇敬者が5,000名にも及ぶ釜山神社御眷属講(釜伏講)が組織されているなど、釜山神社の信仰は広い。

                     

 釜山神社の入り口にある立派な社号標(写真中央)と社号標のすぐ先の両側にある狛犬(写真左、右)。ちなみにこの狛犬の下の台座の一方に「釜伏神社」、「征露記念」と刻まれていることから、日露戦争直後の建立と思われる。ここから拝殿までかなりの距離を歩く。それまでに狛犬が何種類も登場する。オオカミ信仰らしい狛犬の配置状況で、初めての体験だ。それにしてもこの雄大な自然の中に囲まれてポツンとあるこの社の存在は何か違った意味で異様な雰囲気を漂わせてくる。まず空気が違うのだ。

                                   

 参道を歩くと明治40年に建立した2番目の狛犬が登場する(写真左)。そしてすぐ先の鳥居の前には3番目の狛犬(写真右)が。昭和51年に建立したものらしい。一般的に狛犬は向かって右側の獅子像が「阿形(あぎょう)」で口を開いており、左側の狛犬像が「吽形(うんぎょう)」で口を閉じているが、この釜山神社の1番目と2番目は狛犬の阿吽の形状がなく、3番目にして初めてその形が登場する。とにかく共通点といえば全ての狛犬は痩せ型であること以外は独特で、ユーモラスな物まである。

                     

 一の鳥居(写真左)の先で、左側には石祠があり(写真中央)祭神は不明。そして参拝当日は1月7日のため正月用しめ縄があり、すぐ先に4番目の狛犬が見えてくる。この狛犬は正面を向いているのが特徴だ。かなり古そうでやはり痩せ形。

                     

 参道を進むと左右には石碑と共に釜がある(写真左)。社の名称に関係したものか。またその先やはり左側には大国主神と刻まれた石碑もあった(写真中央)。紙垂(しで)が2枚あるのでもう1柱神を祀っているのだろうが、残念ながら不明。また写真右の建物も神興庫あたりか。

                     

 広い空間にやっと到着し進行方向は三方向に分かれる。正面には社殿は見え、右側には社務所がある。左側には神楽殿(写真左)、そしてその先には日本名水百選、日本水の案内板等がある(写真中央)。その先にも道が続き、日本水の源流に向かう道があり、釜山神社の奥宮へ行く道らしい(写真右)が今回はそこまで考えていなかったので断念。
 この道は釜山神社社殿のすぐ左側を通り、この道のあちこちに石祠が点在しているが詳細は解らず。

                                    

 参道の正面には5番目の狛犬が見える(写真左)。多分これが日本一新しい狛犬ではないだろうか。とにかくこの狛犬は大変可愛く、オオカミには見えない。狛犬の台座には「敬宮愛子内親王殿下御誕生記念」と書かれていて、それを祝して奉納したということらしく、その関係で可愛くしたのか、と勘繰ってしまった。そして拝殿に向かう前の石段に大正12年建立の6番目の狛犬が登場(写真右)。拝殿までに6体×2=12体の狛犬があったことになる。三峯神社の10対以上には叶わないが、オオカミ信仰の社の面目躍如というところか。

                                                  

                              神威輝四海と大書された拝殿釜山神社 拝殿。しかし「神威輝四海」とはいかなる意味だろうか。


                                   

                                   拝殿上部に掲げてある扁額等の奉納額          拝殿内部 ここにも黄金の狛犬が

                                                

                                                 日本水源流に向かう道から釜神社本殿を撮影


 日本全国には狼(山犬)を祀った数多くの神社や寺等がある。狼は山の神のお使い「眷属(けんぞく)」として、田畑を荒らす害獣を駆逐する役回りがある。。また狼自身が大口真神として神格を持つ場合もあり、害獣を退けることから、悪しきものを噛み砕く神、魔伏せの神として崇められ、山の神が火伏せや多産、豊穣の神であることから狼もまた火防や安産、五穀の神として信仰をあつめることもある。秩父(甲州)往還沿いの山間部には、山犬、狼が持つ類いまれな能力に畏怖と畏敬の念を抱き、お犬様を神様として、また神様のお使いとして、その強いお力にすがり、ご神徳を求め、信心されているお社がたくさんある。

 秩父地方の多くの神社の山犬信仰は、神の眷属というよりも、神そのものとされ、そこで「大口真神」(おおくちのまかみ)と神号で呼ばれ、山犬=オオカミ、即ち大神として猪、鹿に代表される害獣除け、火防盗難除け、魔障盗賊避け、火防盗賊除け、憑物除けや憑物落しに霊験があるといわれている。そこで
「お炊き上げ」神事が行なわれたり、信者はお犬様の神札やお姿を受け、神棚や専用の祠に祀っている。
 釜山神社では、毎月17日が奥宮「お炊き上げ」で「月々の御眷属様のエサ」といい、饌米を持って奥宮に登り、「お炊き上げ祭」をして饌米を供えている。 この「お炊き上げ」の神事は、300年来、ひと月も欠かすことなく続けられ、その秘密の谷間の場所は、宮司のみの知る他言無用の地とされている。

*お炊き上げ神事
  神の意を知らせる兆しとして現れたお犬様(狼)が、その霊力を遺憾なく発揮していただくために、毎月の又は特定期間の特定日に「お犬様の扶持」、「お犬様のエサ」、「お炊き上げ」と呼び習わして、赤飯、小豆飯或いは白米を生饌のままや熟饌に調理し供える神事のこと。

             

 また釜山神社を代々祀ってきたのは新田家氏族岩松家の家系だそうだ。

 ・ 『埼玉の神社 大里・北葛飾・比企』(埼玉県神社庁神社調査団 埼玉県神社庁 1992)に〈釜山神社〉の項があり。天文二年(1533)、山頂にあった新田義宗の墓所に社を建てて、新田家の再興を願ったことが始まりで、以後氏神として岩松家が代々祀ってきた、との記述あり。また、「当時、峠の頂上から少し寄居方面に下った所に関所があり、当社はその関守を務める岩松家によって代々祀られてきた。この岩松家は、新田義貞の血を引く旧家で、(略)」とあり、
 ・ 『埼玉県秩父郡誌』(秩父郡教育会編 名著出版 1972)
 p473「釜伏神社は釜伏峠にあり。(中略)當社の神職岩松氏は新田義宗の子孫にして徳川家康關東入國の頃より當地に居住し、天正十八年家康領内巡視の際には假殿を設けて休憩を乞ひしことあり。新田家末流たるの縁故を以て八町四方の除税地を拝領し、爾後江戸時代を通じて苗字帯刀を許され、郷士の待遇を受けたり。」とあり。


 真偽の程は定かではないが、歴とした清和源氏新田流の出であるという。筆者の母方の三友氏も新田氏の家来の子孫であり、横瀬六騎と称していた。

横瀬六騎 
 金山城主横瀬氏の出身地である横瀬郷の富田・栗田・須長・荻野・古氷・
三供の六氏は、宗悦の一門に加へられ横瀬氏を名乗り、宗虎が金山城主として安定した頃に全員本名に復姓した。新田正伝或問に「○富田左京兼昌(応永九年卒)―横瀬右近大夫時昌(永享五年卒)―大次郎信昌―左膳重昌―左近之助清昌―左近太郎清宗―大次郎清信(天文九年卒)―富田大三郎清定(天正二年卒)。○栗田平蔵吉久(応永三年卒)―横瀬平七吉勝(永享六年卒)―平馬常吉―助之進常友―孫四郎常記―新次郎常周(弘治元年卒)―栗田孫三郎繁常(元亀二年卒)。○須長幸三郎行幸(応永十一年卒)―横瀬隼人孝棟(嘉吉二年卒)―内蔵助孝林―隼人孝敬―兵庫助孝至―隼人孝泰―内蔵助孝美(天文十五年卒)―須長隼人助繁孝(天正九年卒)。○荻野伊三郎道朝(応永十五年卒)―横瀬掃部道春(永享十二年卒)―織之助道定―縫之助道村―縫之助道吉―枩之助道忠―七三郎道隆(天文十年卒)―荻野丹下道種(天正五年卒)。○古氷図書之助行直(応永七年卒)―横瀬治部行忠(嘉吉三年卒)―半十郎行温―七郎左衛門行恒―図書之助政恒―久米之助道政―古郡丹後政方(永禄十年卒)。○三供右太郎村房(応永十二卒)―横瀬加賀房利(文安二年卒)―新右衛門房保―主計房教―新太郎房茂―新右衛門房次―彦右衛門房賀(弘治元年卒)―三供新右衛門繁房(元亀二年卒)」と見ゆ。

 姥宮神社の項同様、殿様と家来の関係で恐縮であるが、どこか歴史的にも共通性があると人情的には親しみやすく感じるものだ。話の本筋はかなり脱線したが。


 ところで神社の左側の参道を進むと、丁度社殿の左方向で、斜面上にポツンと稲荷神社が1社鎮座している。

                                   

 
 お犬様とお稲荷様は、一緒に祀ってはいけないと聞いたことがあるので、オオカミ信仰の社の真っただ中に狛犬ならぬ狛キツネが2対4体あることに正直驚きと、日本独特の包容力の深さを感じた。

 そのことに関して秩父三峯神社に残る江戸時代の文書に「御眷属拝借指南」という文書があり、御眷属拝借の際に代参講の者に渡されたそうだ。御眷属拝借というのは、各地域の講の代表者が三峯神社に参拝に行って、お犬様の御札を借りてくることをいうようだ。講で代表者を決めて、参拝に行くことを代参講という。講の代表は毎年交代し、集落内での順番、持ち回りであることが多いようで、こうした信仰形態が三峯講の特徴だ。
 この借りてきた御札を、集落に祠(「おかりや」などと呼ぶ)を作り、そこに祀っていた。このとき、
お犬様の御札は、稲荷社の近くには祀ってはいけないとされていたようだ。「御眷属拝借指南」に「御眷属を稲荷社の近くに勧請しないこと」という注意書きがあるそうだ。以上のような禁忌も伝わるというのに、釜山神社の場合、オオカミ神社の境内にキツネ神社が神社の端とはいえ共に祀られている点に興味を引かれた。


                                          

 オオカミ信仰とはどういうことだろうか。1905年を最後に公式には「絶滅」したとされ、過去50年以上生存が公認されていないが、それでも「ニホンオオカミは山中に生き続けている」。そう信じる人々は数多い。なぜなら、日本人の心の中には「オオカミ信仰」というものが根強く残り、現在においても、その信仰は脈々と受け継がれているからだ。

 オオカミを漢字で書くと、「獣編に良い」で「狼」。つまり、「良い獣」を意味する。かつては「大神(おおかみ)」と書いた。これは文字通り「大いなる神」という意味であり、オオカミは神様のお使い(御眷属)と見なされていたのである。オオカミは「温和」な動物であり、むしろ田畑を荒らし回るシカやイノシシを取り締まってくれる頼もしい警察組織のような存在だというのである。その反面、子どもや女性が食べられてしまうなど、恐ろしさも抱きながら、当時の人々は共存していたようだ。だからこそたとえオオカミが人を襲うことがあっても、古来の日本人は一貫して、オオカミを邪視したことはなかったのだともいう。

 「関東の秘境」とも呼ばれる奥多摩地方には、そうしたオオカミ信仰が広く庶民の心に根付いている。その中心となるのは秩父の三峰神社であり、その周辺21社が何らかの形でオオカミ信仰との関わり合いをもっている(日本全国では250社を超えるとも)。勿論この釜山神社もそのオオカミ信仰の社の一社である。
 上記で紹介した釜山神社の「お炊き上げ神事」は毎月1回欠かさず行われているという。こうしたオオカミ様への「お炊き上げ」は、日本各所で行われている。というのも、オオカミ信仰は山々を渡り歩く「修験者たち」によって日本全土へ広まったと考えられているからである。この「修験者」は別名「山伏(やまぶし)」とも書く。山伏は、山の武士なのか、それとも犬(狼)を連れた杣人なのか。伏の字は、人に犬と書く。オオカミと関係はあるのだろうか。

 日本人は古くから「大神様」と呼び習わしてきたわりに、オオカミ信仰の歴史は意外にも浅い(さかのぼること300年程度)。オオカミ神社の代表格である「三峰神社(秩父)」の伝承に従えば、その起こりは1721年である。日本各所に残るオオカミの狛犬とて、この時代を溯るものはないのだという。オオカミ信仰が明らかにその姿を現す陰には、江戸時代の「犬」将軍・徳川綱吉の存在がある。この将軍が貞享4年(1687年)に発令した「生類憐れみの令」は、人間と動物の関係を一変させたのである。
 その時代、犬のみならず、田畑を縦横に荒らし回るシカやイノシシすら、農民たちは殺せなくなった。そうした時、なんとオオカミ様の有り難いことか。人は襲わず、田畑の害獣を駆除してくれるではないか。オオカミ信仰に見えるオオカミに対する「畏怖」と「感謝」の入り混じった複雑な感情の裏には、そんな歴史もあるのである。


 オオカミと犬を区別するのは、思いのほか困難である(ニホンオオカミであることを証明するには、その頭蓋骨を開いてみて、犬とのわずかな差異を確認するより他にない)。犬も元々は山に住むオオカミだったと考えられており、山に居残った種がオオカミのままで存在し、人になついてきた種が犬になったということだ。そして、山に残ったオオカミは「神」となり、人に従った犬は「家畜」となったのだ。家畜化した犬は、人間の意向に沿うように沿うようにと自らを変えていった。その涙ぐましい努力は、犬に極端な無理を強いることになり、その大きなストレスに耐え切れなくなった犬は、頭が狂って「狂犬病」ともなった。日本国内では1732年に長崎で発生した狂犬病が全国に伝播した記録などが現実に残されている。そして、人間によって狂った犬の病が、神であったオオカミをも狂わせたということになる。そして狂える神々は巡り巡って人間をも襲うことになった。また狂犬病が原因で狼が絶滅したという説もある。



 秩父の下層農山村民は、古代から近世にかけて神道の神官や真言・天台の高僧が額突くよう求める不可視の神仏・神霊よりも、時として眼前に出没する猛々しい狼・山犬の方をオオカミ(オオいなるカミそれ自体)として崇拝してきた。山岳それ自体と しての山神を崇拝する彼らは、動物それ自体としてのオオカミをも崇拝したのである。山神(神霊)は岩根の懸崖(ものがみ)つまり山岳それ自体から発生し、山神の眷属は野生のオオカミ(独立の神)が独立神の座を降りて成立した。その際、山犬石像は聖なる懸崖から切り出された聖なる存在という地位を占めていたのだろうと思われる。
 この周囲すべての生きものを威圧する容貌を有するオオカミは、恐怖の的である分だけまた崇拝の対象でもあったのである。
 生きている時は疫病の運び屋と恐れられていつつ、本当のところはその牙に畏怖の念を抱いて遠巻きに崇拝する。これが秩父オオカミ信仰の特徴の一つであろう。秩父に伊勢神道が入り込むとオオカミは日本武尊という大神の神使と解釈されることにより、以前同様身近かな神の座を確保していくのであった。
 つまり秩父オオカミ信仰は、様々な時代の様々な類型や様式の信仰――山神・石神・動物神等の自然信仰と修験・密教と――を合わせ持つ神仏習合の産物として把握されるべきなのであろう。




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