栃木県は関東地方北部に位置し、境界内に海岸線を有しない内陸県である。県庁所在地は宇都宮市。地形的には東部の八溝山地、北部から西部にかけての那須連山・下野山地(高原山・日光連山・帝釈山地)・足尾山地の山岳地帯と、県中央部の那珂川・鬼怒川・渡良瀬川の沿岸平野部の3地域に大別される。県内には日光国立公園が立地し、日光・那須などの観光地・リゾート地を有し、筆者にとっても那須高原は山梨県河口湖と共に身近で手頃な家族旅行の場としてよく出かけたりしたものだ。

 この地は律令時代日本の地方行政区分だった令制国の一つであり、江戸時代までは「下野国」と呼ばれ東山道に属していた。国域は現在の栃木県と概ね同じ面積。
 通説によれば、はじめは上野国と あわせて毛野国(ケヌノクニ)と呼ばれ、栃木県の北部は那須国だったが、『国造本紀』 によると、仁徳天皇の時代に渡良瀬川を境に上毛野(カミツケヌ)と下毛野(シモツケヌ)の2国に分かれ、その後那須国を合併して現在に至っている。国府は都賀郡(現・栃木市田村町)に置かれ、梁田、足利、安蘇、寒川、芳賀、都賀、河内、塩谷、那須の9郡70郷が置かれた。平安時代の延喜式における国力の分類では4段階(大国、上国、中国、下国)で上国に属し、都からの距離による分類では3段階(近国、中国、遠国)では遠国であるが、六国史の『日本三代実録』には准大国とある。
 「下野」の初見は『日本書紀』天武天皇5年(676年)5月条である。また、藤原宮跡出土木簡には大宝3年(703年)に「下毛野国」の記載があり、律令制施行後の初見であるという。


 目次  唐沢山神社(旧別格官幣社・別表神社)  /  露垂根神社(旧指定村社)


                               唐沢山神社
                                   地図リンク

                                                                 伝説の武家の棟梁である田原藤太を祀る社

                                          


                                             所在地     栃木県佐野市富士町1409

              
                                             御祭神     藤原秀郷公

                                             社  挌     旧別格官幣社・別表神社

                                             創  建     明治16年(1883年)

                                             例  祭     4月25日、10月25日



 唐沢山神社は栃木県佐野市の唐沢山山頂にある神社である。藤原秀郷を祀る。藤原秀郷は、藤原氏北家房前の子左大臣の魚名の子孫と伝えられている。秀郷は幼時京都の近郊田原の郷に住んでいたので、田原(俵)藤田秀郷ともいわれている。
 秀郷の在世当時(平安朝の中頃)は、都の朝廷では藤原氏が代々摂政や関白になって政治の実権を握っていたが一族の間で政権争いがくりかえされ、そのために都の政治が乱れてくると地方の政治もゆるみ土着の土豪などが欲しいままに勢力を広げていた。延長5年(927)に下野国(栃木県)の警察にあたる押領使という役に任ぜられ父祖伝来のこの地に参られ唐沢山に城を築いて秀郷の子孫である佐野氏が居城した。ちなみにこの唐沢山城は。関東平野を一望におさめる絶佳の地にあり、関東七名城の一つと謳われた山城で、戦国時代上杉謙信や北条氏康等の豪傑、英雄たちの戦場の舞台にもなった関東一の山城とも言われている。現在本丸、二の丸、三の丸、空堀などの遺構が残る。


 秀郷は平将門の乱を鎮圧して従四位下・鎮守府将軍となったことから忠皇の臣とされ、秀郷の後裔や佐野氏の旧臣らが中心となって秀郷を祀る神社の創建が始められ、明治16年(1883年)、唐沢山城の本丸跡地に創建・鎮座された。明治23年(1890年)に別格官幣社に列格した。

 この社は佐野駅の北東5qほどの唐沢山山頂に鎮座している。嘗ては唐沢山城の本丸があった場所に現在は神社が鎮座していて、城だった頃の遺構が至る所に残っていて歴史的な見所も多く、見ごたえがある場所だ。

                                         

                                                    唐沢山神社道と書かれた社号標石
                                  唐沢山神社へ通じる道路の麓には一の鳥居があり、約5分位車を走らせると専用駐車場に着く。

                  
  

                     専用駐車場の近くにある沿革案内板             古跡唐沢山城祉案内図           参道に通じる右側には天狗岩がある。
                       よく見るとそこ彼処に猫が・・・                                       しかし時間の関係で、上ることができなかった。 

                      

 参道の鳥居の手前には大炊の井(写真左)がある。唐沢山城築城の際、厳島大明神に祈請をしその霊夢により掘ると水がこんこんと湧き出た、との伝承があったらしい。また磐座のような神石(写真中央)と共に八大龍王神縁起の碑が立っている。 大炊の井の近くには竜神宮の祠(写真右)もある。

                                    

                                           参道上の二の鳥居                鳥居を越えると神橋がある。

 この神橋の下の堀は「四つ目堀」と呼ばれ、案内板によると水のない空堀で、唐沢山城築城当時はもっと深かったと推測されている。なお神橋もこのような石材を使用しておらず、当時は敵に備えて使わないときはこの橋は引き上げてしまう曳橋だったという。唐沢山神社の参拝ではあるが、城の遺構をそのまま受け継いでいる型で社も配置されているので拝殿に向かう参道も実は唐沢山城の本丸に通じるルートにもなっている。

                                   

                                        神橋の先にある和合稲荷神社         唐沢山城 三の丸跡に通じる石階段

                                   

                                参道の様子 のぼり旗のコントラストがなかなか良い。  参道の途中にあった唐沢山神社案内板

 唐澤山神社由緒
 祭神 藤原秀郷公(田原藤太秀郷)
 神階 贈正二位 元別格官幣社


 秀郷公は天児屋根命二十二世の孫藤原鎌足を祖とし、数代 を経て上野国邑楽郡河辺荘赤岩の館にて生を受け 幼少 の頃近江國(今の滋賀県)と山城國(京都府)の境にある宇治の 田原という所に住んで弓馬の器量優れ 人々より田原藤 太と慕われた。その頃近江は三上山に大むかで出没し人々を苦 しめている事を聞き 得意の弓術にてこれを打つ、琵琶湖の 神・龍王はこの功を賞賛し 公はこの時神縁を受く。
 時の 朝廷よりは従五位下に叙され下野國押領使に補される(延長 五年四月 927)よって居城を唐澤山に築く。第六十一代朱雀天皇の 御代天慶二年十二月(九四〇)平将門下野を始め関東各地を侵略 す。公平貞盛と共に下総國・幸島の北にて迎撃し将門を滅 す。時に天慶三年二月十四日(世に之を天慶の乱と云う)朝廷其の功を 賞し従四位に叙し、武蔵・下野両國守に任じ鎮守府将軍 とす。以来六百七十年間子孫善政をしいたが慶長七年(一六〇二)三十 代佐野信吉公の時廃城となった。明治十六年八月六日特旨を 以て正三位を追贈されるに及び後裔一族旧臣等、公の御遺徳 を偲ぶ人々により明治十六年九月に本殿及拝殿を創建し 御鎮座申し上げた。更に明治二十三年十一月二十九日別格官幣社 に列せられる。大正七年十一月十八日特旨を以て贈正二位とされる。

 例祭 4月25日 10月25日
                                                                                                      案内板より引用

 参道を進み、三つ堀の空堀を越えると突き当たりに唐沢山城 南城址、現在は南城館になっていて、大正天皇が皇太子の時に行啓されたそうだ。そして並びには社務所があり、そこから左手方向に石段があり、そこを過ぎると唐沢山城本丸跡であり、現唐沢山神社の神門、拝殿に突き当たる。

                    

                    参道の階段。この上に神門と社殿がある。           鳥居付近から望む神門          神門 この場所が唐沢山城の本丸跡付近


                                                

                                                            拝    殿

                                                

                                                            本    殿

                    

 本殿の周りには至る所に石垣が築かれている。この石垣は唐沢山城築城の時に築かれた当時のものらしく、実際に見てみればわかるが、山城であるにも拘らず多数の石垣が本丸周辺のみならず築かれていて、この城の見所の多さとその状態の良さは紹介するのに困るほどだ。当時江戸まで眺望がきいたというのも、あながち嘘ではないかと思われる。特に本丸付近の石垣はの美しさには一際目立つものだ。関東にも石垣を伴う城は意外と沢山あるが、中世山城でここまで規模の大きい高石垣は群馬県の太田金山城以外あまり見かけない。いや規模としてはこちらの方が遥かに大きい。

 聞きしに勝る堅城であり名城だ。この地にこれほどの城を築造した佐野氏の慧眼には恐れ入る。

 唐沢山城概要: 唐沢山城は天慶5年(942年)に藤原秀郷が築城されたと伝わる城です。秀郷は平将門の乱を平定した功で鎮守府将軍に任ぜられ、関東から奥州にかけて大きな影響力を持ちました。6代後裔は成行は足利に居を移し足利氏を名乗り一時利用されなくなり、治承4年(1180年)足利成俊(足利3代俊綱の弟)が唐沢山城を修復して居城として佐野氏に改称、以後、佐野氏の居城として随時拡張整備され概ね建保元年(1213年)に完成しています。佐野氏は鎌倉幕府の御家人として存続し小領主ながらも影響力を持つようになり、延徳3年(1491)には当時の城主佐野盛綱が周辺領主に備える為城を整備しています。戦国時代に入ると当初上杉家に従っていましたが、その後内紛により主家側と上杉側に就いた分家側と別れ抗争が繰り広げられ、唐沢山城は上杉謙信が差し向けた軍勢が10度に渡り侵攻、その度に撃退した事で難攻不落の名城として名を馳せました。その後は小田原北条家に属しましたが天正18年(1590)の小田原の役では豊臣側に就いた為、豊臣政権下で3万9000石の所領が安堵されました。関が原の合戦では東軍である徳川家に組しましたが加増がなく慶長12年(1607)には唐沢山城を廃城とされ麓の春日岡城(佐野城)に移りましたが慶長19年(1614)には突然改易となり松本藩(現在の長野県松本市)へ配流されました(佐野家は後に旗本として再興しました。)。唐沢山城の城郭は唐沢山(247m)山頂の本丸を中心に引局、南城が主郭部分として周囲を高い石垣で囲い、大手筋には二ノ丸、三ノ丸を配し、西城、北城などの郭は深い堀切で分断し山全体が城塞化した連郭式山城で関東七名城(川越城・忍城・前橋城・金山城・唐沢山城・宇都宮城・多気城又は太田城)の一つとして数えられました。現在は栃木県立自然公園として整備され、本丸には佐野氏の祖とさっる藤原秀郷を祭神とする唐沢山神社が鎮座し、至る所に石垣や空掘、土塁などの遺構が残っています。又、眺望も素晴らしく、唐沢山城が廃城となった理由の1つとされる"江戸俯瞰"が現在でも望むことが出来ます。
                                                                                                      案内板より引用

 神楽殿は唐沢山城の元二の丸跡にあり、本丸から階段で降りるとそこの広い空間の一区画にある。

                                  
 
 
                                 二の丸跡へ向かう階上から本丸跡の拝殿を撮影         二の丸跡にある神楽殿


唐沢山神社 由緒


神社格:別格官幣社(旧制度の社格の一。官幣小社と同じ待遇を受けた神社で、国家に功績のあった人を祀る)
神社名:唐澤山神社(からさわやまじんじゃ)
祭 神:藤原秀郷
鎮座地:栃木県佐野市富士町1409番地

由緒書: 唐澤山は今より一千年の昔「むかで退治」の伝説や天慶の乱で平将門を滅ぼした藤原秀郷の居城址で標高240mながら全山赤松におおわれ断崖と深い谷に囲まれた自然の要塞をなし、今なお当時をしのぶ遺跡が数多くあります。
 唐澤山神社の御祭神・藤原秀郷は幼時京都の近郊田原の郷に住んでいたので世に田原(俵)藤太秀郷ともいわれています。公の在世当時(平安朝の中頃)の朝廷では藤原氏が代々摂政や関白になって政治の実権をにぎっていましたが一族の間で政権争いがくりかえされ、そのために都の政治が乱れてくると地方の政治もゆるみ土着の豪族などが欲しいままに勢力をふるうようになりました。時に秀郷は延長5(927)年に下野国(栃木県)の警察にあたる押領使という役に任ぜられ、父祖伝来の此の地に赴任し唐澤山に城を築いて善政を施していました。
 たまたまこの頃桓武天皇の流れをくむ平将門は父の残した領地のことから叔父の国香を殺し、しだいに勢力を増し天慶2(939年)年頃から関東八ヵ国(上総、常陸、上野、下野、武蔵、相模、伊豆)の国府を順次攻めたて国府の長官を京に送り返して関東地方の大部分を支配し、自ら親皇と名乗り朝廷の命令を無視していました。
 将門が地方で乱暴を働くのをみかねた朝廷は、藤原忠文に征東大将軍の職を与え将門征伐に出発させました。その軍が到着する前に秀郷は平貞盛と力を合せて、将門の軍を下総国幸島において攻め滅ぼしてしまいました。時に天慶3(940)年2月14日、世にこれを天慶の乱と言います。秀郷はこの功績により押領使から下野守(栃木県の長官)になり、さらに武蔵守の役も兼任するようになり従四位下へと進み、その手柄に対し朝廷より土地一功田が与えられました。
 その後代々子孫が城主となり、約700年間、佐野修理大夫信吉の代まで続き、徳川幕府の初期、現在の城山公園の地に城を移し春日城とよばれました。この春日城がまだ完成しない慶長18(1613)年、大名としての佐野家は徳川氏の政策により断絶、城主佐野信吉は信州松本城にお預けとなりましたが23年後、時の3代将軍家光から赦免の恩命に浴し、信吉の2人の子供は旗本として佐野家を再興することができました。
 慶応3(1867)年、廃藩置県により士族となり明治を迎え、ここに至り一族、旧臣、相謀って沢英社と東明会を組織して秀郷公の遺徳をしのび明治16年9月25日本丸跡に神社を創建して同年10月25日に秀郷公の御霊を奉斎し、明治23(1890)年には別格官幣社となり、以後永くこの地方の守護神として尊崇されています。











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                                 露垂根神社
                                     地図リンク

                                                 


                                              所在地   栃木県佐野市富士町1009

                                              御祭神   市杵嶋姫命  (配神) 素戔嗚命等

                                              社  格   旧指定村社

                                              例  祭   不明


 露垂根神社は栃木県道141号唐沢山公園線を佐野市市街地から唐沢山方向に北上すると、唐沢山神社の一の鳥居が見え、この一の鳥居のすぐ右隣に同神社の鳥居がある。ちなみに「露垂根」は「ツユシネ」と読む。鳥居のすぐ隣に唐沢山神社の一の鳥居が建てられているため、こちらはあまり目立たないのが残念なほどこの社も意外と立派な鳥居、長い参道、そして中々風格のある社殿があり、見どころも多い。駐車スペースは参道脇に数台分確保されており、そこに停めて参拝を行った。

                    

 
                        露垂根神社正面鳥居         参道の回りは杉林があり、山水画に出そうな風景  参道の先には石段があり、その先に社殿がある。

                                   


                                            拝    殿                         案内板

 露垂根神社

<通称>明神様(みょうじんさま)
栃木県佐野市富士町1,007
【祭神】市杵嶋姫命 (合祀)素盞嗚尊

由緒沿革

 天慶五年六月、藤原秀郷、安芸の国厳島大明神を本村唐沢山に勧請、爾後寛仁三年十月十五日・文治二年九月十九日・大永三年九月十九日と代々佐野城主再建立修覆、このとき笠松山の中腹に奉移し、その後天文二十二年八月十九日、佐野越前守秀綱が再び建立した。天正元年八月十九日、修理し後宗綱再建立した。天正元年八月十九日修理し、後、宗綱再建立した。慶長元年八月一八日、修理し太夫信吉の時現在のところへ御所を替えた。その後、寛永十二年十一月、大願主征夷大将軍源家光從四位井伊直孝が再建立した。寛保三年九月十八日、氏子一同で拝殿造立し露垂根大明神として崇拝していた。明治四十一年、氏子一同で茅葺の拝殿を改修し、大正八年、幣帛料指定村社に指定せられた。

                                                

                                                           本    殿
                                         本殿の東、北、西側の壁には彩色鮮やかな「竹林の七賢」の彫刻がある。


                                  

                                        社殿の左側にある神興庫(?)            その隣にある四十九勝神社






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