埼玉県白岡市は、埼玉県の中東部に位置する人口5万1千人の都市である。関東平野の中央部に位置し、山地は無く、ほぼ平坦な地形であるが、市内は台地と低地が入り組んでおり勾配の急ではない坂道も数多くも点在している。西側にある蓮田市と元荒川で境とし、市内を中川水系の小河川が複数縦断する。東部には白岡台地・慈恩寺台地が存在する。都心から40キロ圏内という恵まれた立地条件に位置し、交通の便もJR宇都宮線の白岡駅、新白岡駅、さらに東北自動車道久喜ICが近くにあり、恵 まれている。また、国道122号、県道さいたま・栗橋線が縦貫するとともに、県道春日部・菖蒲線が東西に通過し、重要交通機関の通過地点を呈している。
 また昭和50年代後半から大規模な住宅地の造成や高層マンションの建設により、県内でも有数の人口増加率をみていて、2010年(平成22年)市制施行条件の一つである人口5万人を突破した。そして2012年(平成24年)10月1日市制を施行した。埼玉県で一番新しい市である。

 白岡(しらおか)の地名の起こりには諸説あるが、一つは正福院貝塚の貝殻が元荒川方向から見ると、太陽の光で光輝いて見える岡という説。もう一つは白岡八幡宮の縁記の「平安時代の嘉祥2年(849)に慈覚大師が、この地に来て、八幡宮と正福院の阿弥陀薬師を祭祀した。その時大師の御前に3羽の白い鳩が舞い遊んだ。その様子をご覧になって、白鳩のすめる白い岡」により、白岡と命名した説がある。


目次  白岡八幡宮 / 千駄野八幡神社 / 実ヶ谷久伊豆神社


                                白岡八幡神社
                                      地図リンク
                                                                  
日本三岡八幡宮の一つとされる由緒ある古社 

                                                 


                                     所在地   埼玉県白岡市白岡889

                                     御祭神   正八幡宮 若宮八幡宮 姫宮八幡宮

                                     由  緒   嘉承2年(849年)、慈覚大師円仁の草創とされ、八幡太郎義家が奥州
                                            征伐のときに戦勝祈願に参拝したとも伝えられる。また、建久6年(1195)
                                            源頼朝が鬼窪某に命じて社殿を造らせたという。

                                     例  祭   1月1日 元旦際 3月19日 例大祭


 白岡市に鎮座する白岡八幡宮は白岡市駅から真西1q位の場所に鎮座している。実は筆者は数年前まで春日部市にある某会社に通勤していて、白岡市も通勤途中に通っており若干の地理はあった。(だが幹線道路だけで、抜け道などは全く分からなかったが)熊谷市から白岡市までは、国道17号バイパスから出発し、鴻巣市で合流。免許センターの先を左折してから笠原久伊豆神社手前の交差点を右折し、その後農道を真っ直ぐ進み柴山沼を越えるとT字路にぶつかり、埼玉県道3号線さいたま栗橋線と合流する。その交差点を右折し、駅入口交差点を左折し途中のY字路の左側方向に白岡八幡宮がある。しかし一方通行なので実際にはぐるっと左回り方向に遠回りに回らなければいけないので注意は必要だ。


                     

 まず大鳥居が東側の一方通行の先にあったが、丁度小学校の下校途中だったので残念ながら撮影できず、駐車場周辺から撮影を行う。まず鳥居の道を隔てた向かいには、八幡太郎義家が奥州平定(1062年)の折戦勝祈願に立寄り、馬をつないだ木と伝えられている「源義家駒止めの杉」の神木、老木が大切に保存されている(写真左)。なんでも大正3年(1914年)と5年の(1916年)2度にわたる落雷によって倒れ、やむなく伐採されたが、屋根を付けて保存している。また神木の並びには白岡八幡宮の案内板(同中央)、社叢ふるさとの丘の看板(同右)が掲げてあった。(社叢ふるさとの森 案内板の説明は後述)
 

 白岡八幡宮    所在地 南埼玉郡白岡町大字白岡

 白岡八幡宮は、嘉祥2年(849)に建てられたものと伝えられ、祭神は応神天皇(正八幡)、仲哀天皇(若宮八幡)、神功皇后(姫宮八幡)である。
 当社に伝えられている略縁起には、康平5年(1062)源八幡太郎義家が奥州征討の途中、戦勝祈願のため立寄ったと記されており、また、建久6年(1195)征夷大将軍源頼朝は、当社に佐々木四郎高網を代参させ、土着武士の鬼窪某に命じて社殿を造立させるとともに、百余貫の所領を寄進し、源家の守護神としてあがめたと伝えられている。戦国時代には一時衰えたが、氏子等の力により江戸、明治期にかけて徐々に復し、昭和45年に現在の社殿に改築した。当社には、享徳5年(1456)銘の鰐口が現存し、古い歴史を物語っている。
 境内には、樹齢600年といわれる榧の木があり、また、参道脇に保存されている杉の枯木は、義家が馬をつないだ木と伝えられ、当社の御神木となっている。
 昭和58年3月 白岡町
                                                                                                        案内板より引用



                                 
  

                                      参道正面、白岡八幡神社の鳥居           鳥居の右側にある境内案内板

                                  

                                     鳥居を過ぎるとすぐ左側にある手水舎            参道右側にある神楽殿

 神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮、東京都江東区の富岡八幡宮と並び日本三岡八幡宮の一つとされ、鎌倉幕府の初代征夷大将軍であった源頼朝も参拝している。この白岡八幡神社は、縁起によれば嘉承2年(849)慈覚大師円仁の草創とされ、源義家が1062年(康平5年)奥州征伐のときに戦勝祈願に参拝した記録が新選武蔵風土記稿に伝えられている。その後建久6年 (1195)、源義家に倣って源頼朝が鬼窪某に命じて社殿を造らせたという。 
 また2009年(平成21年)12月には、境内の白岡天満神社に東京都文京区の湯島天満宮から分霊がなされ、遷座式が行われた。 湯島天満宮の御分霊が遷座しているのは、全国で長野県長野市の湯島天満宮信濃分社と当社のみである。

                               
                       
                                          

                                                           拝     殿

 社殿全体が白壁の白色を基調としていて、朱の欄干との配色が非常にオシャレで一種女性的でもあり、洗練された美しさを漂わせている。この拝殿は元禄7(1694)年、寛延2(1749)年、明治16(1883)年に改修され、現在の社殿は昭和45(1970)年に改築されたものだそうだ。

                      
                                         

                                                           本     殿

 拝殿、幣殿、本殿が一体化した権現造りで、拝殿が白をベースにした女性的な建築方法に対して、幣殿、本殿は木目調で荘厳さと妖艶な美しさを醸し出している。また社殿部側面に掲げられた地元高校生の製作した大きな絵馬はなかなか素晴らしいものでこの八幡神社のイメージにもピッタリで驚かされた。

 白岡八幡宮 由来

 「白岡の八幡様」として名高い当社は、『八幡宮縁起』や『八幡宮来由』によれば、慈覚大師が仁明天皇の御宇に霊場草創の勅を蒙って東国に下向し、当地にて加持を行った際、正八幡宮・若宮・姫宮の三神と本地仏である阿弥陀仏・薬師の二尊が出現したことに感得して神宮を建立したことに始まるという。時に嘉祥二年(849)、併せえて白岡山西光寺正福院という一寺を建立して当社の別当とした。降って康平五年(1062)、源義家は欧州征伐に際し当社へ参詣し、ひたすらに勝利を祈願したお陰で平定を終えることができたとして帰陣の際に当社へお礼参りをした。
以来、武州の白岡、仙台の亀岡、鎌倉の鶴岡の八幡宮は「三岡」と唱え、源氏の守護神として厚く信仰されるに至ったと伝え、建久六年には源頼朝も佐々木四郎高綱を代参として遣わし所領百貫文と神馬を奉納した。

                                                                                                    「埼玉の神社」より引用


                    

                             猿田彦神社                         日枝神社                         三峰神社

                     

                               天神社                           稲荷社                         神馬神社

 社殿と神楽殿の間に大きな樹木があり、白岡八幡宮のご神木であり、白岡町指定天然記念物でもある樹齢約六〇〇年といわれる「カヤの木」がある。カヤの木は関東において数少ない銘木といわれているが、白岡八幡宮のカヤの木は目通り4.7m、樹高31mの堂々たる大樹で、まさにご神木にふさわしい威容が漂っている。


                                  

                                                 白岡市指定天然記念物 白岡八幡宮のカヤ


 また鳥居の道を隔てた向かい側に「イヌザクラ」がある。別名「シロザクラ」。樹齢300年と言われ、幹回り3m、樹高は18mと近隣にはない巨木だ。このイヌザクラも白岡市指定天然記念物に指定されている。

                                                 

                                                白岡市指定天然記念物 白岡八幡宮のイヌザクラ

 

白岡町八幡神社社叢ふるさとの森 昭和56年4月4日指定

 身近な緑が、姿を消しつつある中で、貴重な緑を私たちの手で守り、次代に伝えようと、この社叢が「ふるさとの森」に指定されました。八幡神社は、平安時代に創建された由緒ある神社で、古くから町の人々に親しまれてきました。
 境内には、町天然記念物のカヤノキ・ウワミズザクラも生育しています。林相としては、主に、ケヤキ・スギ・モウソウチクなどから構成されています。
 昭和58年3月 埼玉県
                                                                                                   案内板説明文より引用



 
 
白岡八幡宮は由緒ある古社であるので、境内にはその他数多くの文化財や見どころがある。白岡市指定文化財では「白幡八幡宮棟札」と「鬼窪八幡宮鰐口」の2点。「白岡八幡宮棟札」の棟札は3札あるそうで、元禄7(1694)年、寛延2(1749)年、明治16(1883)年が現存しているそうだ。また「鬼窪八幡宮鰐口」は拝殿の前面軒下に吊るし、参拝者の前に下がっている綱を打ち鳴らして参拝に来意を告げるための道具で、この鰐口は江戸時代に土中より堀り起こされたものと言われている。鰐口の銘文から享徳五年、康正二年に後南朝最期の主である聖秀尊(別名自天王)によって奉納されたものであることがわかっている。この白岡の地に後南朝、特に非業の最期を遂げた悲運の主である自天王との関係を窺わせる文化財が存在するとは考えもしなかった。後南朝と何らかの関係があってこの地に奉納されたのだろう。南北朝時代、上州の新田義貞、その息子義興、義宗を始め、多くの南朝方の武将らが関東地方で足利氏の北朝方の武将と合戦を繰り広げた。武蔵国東部でも南朝方の武将で有名なのが春日部重行(春日部治部少輔時賢)で、新田義貞が挙兵に参陣し、鎌倉、箱根、京都、島根、九州など各地で幕府軍と戦う。鎌倉攻略で戦果を上げ、春日部郷の地頭職を安堵されたように、新田氏傘下の有力武将であり、この春日部と白岡は近郊であることから、南朝側の土壌が少なからず存在している地方ではなかったろうだろうか。


 鳥居の先右側に囲いがあり、その中に多数の見所がある石碑等が整然と置かれている。まず目に留まるものは「新修八幡廟前殿記」という石碑だ。「前殿記」という名前から現在の社殿ではなく、その遠い過去からの八幡宮の故事来歴や明治28年の拝殿再建の様子が記されているという。その隣には力石が8基囲いに沿って整然と並べられている。かつての祭事や娯楽として、村の若者の力自慢による力比べが行われ、力自慢が持ち上げた石を社寺に奉納したものが力石という。意外と神社に奉納した力石は多く、参拝した中でも何社は拝殿の近くに祀られているケースが多く見受けられる。

                            

                               「新修八幡廟前殿記」案内板            その石碑          新修八幡廟前殿記の隣にある力石


 この白岡八幡宮は「鬼窪八幡宮鰐口」の銘に1456(享徳5)年「鬼窪八幡宮」と書かれていて、武蔵七党の一派である野与党から鬼窪氏が住み着いて、この地を「「鬼窪」と名付けたが、その後天文十七年(1548年)武州文書に白岡薬師堂と書かれている所からある時期かそれ以前に「白岡」に改名されたことは確かだ。このことは「埼玉苗字辞典」にも以下の記述があるので引用する。


白岡

 埼玉郡白岡村あり、八幡社享徳五年鰐口銘に鬼窪八幡宮と見え、天文十七年武州文書に白岡薬師堂(八幡社別当正福院)と見ゆ。足立郡白岡村(大宮市)あり、御蔵村となる。
一 野与党白岡氏 埼玉郡鬼窪郷白岡村より起る。武蔵七党系図に「南鬼窪小四郎行親(源平之戦、奉頼朝)―親頼―親家―白岡禅師澄意」あり。下高野村永福寺伝(旧阿弥陀寺)に「寿永二年、阿弥陀寺帰依檀那、野与一党、多名・鬼窪、白岡・渋江等面々、阿弥陀寺本来檀那出戸左衛門尉為隆等と謀議し、一用上人を阿弥陀寺に請ひ止める」と見ゆ。鬼窪氏は、澄意以前に白岡氏を称す。
二 埼玉郡白岡村 白川家門人帳に「明治二年白岡村八幡宮神主白岡祝」。明治三十二年八幡社神主白岡瑞枝あり。八幡社附近に七戸現存す。
                                                                                                    埼玉苗字辞典より引用











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 千駄野八幡神社

      
      地図リンク
                                                


                                               所在地    埼玉県白岡市千駄野字迎129−1

                                               御祭神    誉田別命

                                               社  挌    旧村社

                                               例  祭    不明


 千駄野八幡神社は白岡市役所からは丁度真南方向にあり、埼玉県道78号春日部菖蒲線を春日部市方面に進み、左側に病院があり、その向かい側にコンビニエンスがある交差点を右折する。白岡市役所を右側に見ながらその道を進むとT字路にぶつかり、左折し東北自動車道に沿って南下し、約500m弱するとY字路に達するのでそこを左側に進むとすぐ正面にこの社は見える。

                                   


 白岡市のホームページによると千駄野という地名は旧日勝村の一地区で、『風土記稿』によれば、千駄野村は箕輪郷に属し、岩槻城付の村であった。地名の由来は『日勝村誌』には「本村ハ古ヨリ岩槻城附ノ村ニシテ古来荒蕪地多ク領主ニ納ムル貢租ハ僅ニ茅千駄ニ過ギザリシヲ以テ千駄野ト 称セシトイウ」とあるが、木や茅を焚いて雨乞いした所との説もある。
 江戸時代には岩槻藩領に属し、明治28年に実ケ谷村など8か村と合併し日勝村となり、昭和29年に篠津村・大山村と合併して白岡町となったという。

                    

                              拝   殿                         本   殿                       境内社 稲荷社









                                                 もどる                   toppage






                            

 俗に地名はその土地の地形や地質、歴史などを表していて、日本人の姓とも深い関わりがあるという。筆者の考え方の根本的なスタンスとして地名の由来を考えることは、古文書等の文献資料、また考古学分野の発掘調査、さらに当時の地形考察の次に重要なコンテンツであり、それらを総合的に研究し、その結果、風土、歴史等がおぼろげながらイメージでき、いにしえに思いを馳せうる骨格の形成に欠かせないものであると考えている。そういう意味において昨今の市町村統合によって新しく誕生した地方自治体の新名称には、何の根拠でこのような名にしたのか理解に苦しむものも確かに存在する。出来ることならば古名、旧名は弄らず最低限残す努力もしていただきたい、そんなことを感じる今日この頃だ。

 ところで白岡駅から南東方向で、白岡市役所からは丁度真南方向に「実ヶ谷」地区がある。「実ヶ谷」と書いて「さながや」と読む。「千駄野」と共に非常に変わった名前だ。白岡市のホームページによればこの実ヶ谷地区は日勝地区に属し、村名の由来は不明であるが、『風土記稿』の久伊豆神社の記載によれば、古くから佐那賀谷(武州騎西郡鬼窪郷佐那賀谷村)の名が見え、これが実ケ谷に転じたと考えらる。また、サナガヤのサナは昔の製鉄にちなむ地名といわれている。なまって「サナゲエ」とも呼ばれる。
 江戸時代の初期は岩槻藩領で、明治28年に岡泉村など8か村と合併し日勝村となり、昭和29年に篠津村・大山村と合併して白岡町となったという。この実ヶ谷地区の中央部に実ヶ谷久伊豆神社は鎮座している。

                            実ヶ谷久伊豆神社

                                       地図リンク

                                                


                                               所在地    埼玉県白岡市実ヶ谷553−1

                                               御祭神    大己貴命他四柱

                                               社  挌    旧村社

                                               例  祭    不明


 実ヶ谷久伊豆神社は白岡市役所からは丁度真南方向にあり、途中までの進路は前述千駄野八幡神社と同じで、その道を真っ直ぐ進むと約2、3分位で左側に深い久伊豆神社の社叢が広がる。社殿は南向きのためこの道路に平行に鎮座しているようだ。但しその道には適当な駐車スペースがなく、参拝するためには一旦社を過ぎてからある十字路を左折するとすぐ先に丁度社号標がある場所につくことができ、そこには車が1,2台分停めることができるスペースがあったのでそこに駐車して参拝を行った。

                                   

                                のどかな田園地帯の奥にこんもりとした社叢が広がる。      二の鳥居がその社叢の入口

                                    

                              
                                        実ヶ谷久伊豆神社の案内板            社殿の周りに点在する境内社
                                                                     境内社に稲荷、天満、など六社

 実ヶ谷地区は元荒川左岸の白岡台地の東端部に位置し西側を除く三方が侵食谷により囲まれた土地柄で西方には鎌倉街道が通過しているという地形。地名の中に「谷」があるのはその関係か。この案内板によると、「嘉吉元年(1441)創建、由緒を伝えるものとして日高市聖天院の鰐口(県指定文化財)がある。表に
武州埼西郡鬼窪郷佐那賀谷村、裏に大工渋江満五郎、応仁二年(1468)十一月九日の銘がある。鬼窪郷野与党の有力者鬼窪氏の本拠地で当町の小久喜、実ケ谷、白岡を中心とした地域が相当する」とある。つまり野与党の有力者鬼窪氏の本拠地が小久喜を中心としたこの地域だったということが案内板から推測できる。ちなみに小久喜地区にも小久喜久伊豆神社は鎮座している。

 

                                   

                                              拝    殿                        本    殿



                                                 

                                                            境内の風景

 境内は外側から見た社叢の印象に反して陽の光が入っていて思った以上に反していて明るかった。境内の右側、つまり東側には広い空間があり、ゲートボールなどができるようだ。参拝した当日、近所のお年寄りの方たちが数多く集まってレクリエーションを楽しんでいて、お茶休憩をしていた。何とも微笑ましい風景だ。









                                                 もどる                   toppage