埼玉県は河川が多い県である。利根川、荒川の二大河川が東西を貫き、その豊富な水量故に多数の支流が県下の隅々まで行きわたっている水の県である。ある統計調査によると県の全面積中で河川の占める割合(3.9%)が埼玉県は日本一で、湖沼や用水路などを含めた水辺の割合では滋賀県、茨城県、大阪府に次いで4番目となるそうだ。それ故か水辺に関連した地名も多数存在する。

 さて篠津の地名は『埼玉県地名誌』によれば、元荒川左岸、渡津より起こったものと考えられ、津は船着き場の意で、付近一帯に篠が生えていたため篠津と呼ばれたと考えられる。いわゆる水辺に関連した地名だ。江戸時代の篠津村は川越藩領の後、旗本領に属していた。明治22年に町村合併で誕生した篠津村は、野牛村、白岡村、寺塚村、高岩村が合併したものである。以後白岡町に合併するまでの65年間存続したという。                                                                             (白岡市 ホームページ参照)

目次  篠津久伊豆神社  /  柴山諏訪八幡神社


                             篠津久伊豆神社
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武蔵七党野与党発祥の守護神社 

                                             


                                        所在地     埼玉県白岡市篠津1798

                                        御祭神     天穂日命、大己貴命、大山祇命

                                        社  挌     旧村社

                                        例  祭     4月16日 例大祭  (須賀神社 7月中旬 天王様祭)


 篠津久伊豆神社は白岡市篠津地区に鎮座している。埼玉県道78号春日部菖蒲線を白岡市役所から久喜市方向に進み、途中篠津神山(東)交差点を右折し最初の交差点を左折する。T字路にぶつかるのでそこをまた右折し、しばらく進むと左側に「篠津久伊豆神社」の看板が見えるので、そこを左折すると突き当たりにその社が鎮座している。但し駐車場は周りを探してもないので、入口手前に山車倉庫があり、一台分の駐車スペースが確保できそうなので、そこに駐車して参拝を行った。

                 

                正面鳥居の左側にある「祭事案内」の案内板              正面参道                 鳥居を過ぎると左側にある案内板

 篠津の久伊豆神社と山車  所在地:南埼玉郡白岡町大字篠津

 久伊豆神社は、康治元年(1142)に建てられたと伝えられ、祭神として天穂日命、大己貴命、大山祗神が祀られている。
 現在の本殿・拝殿は、江戸時代末期に建造されたものと思われ、特に本殿四方に巡らされた「神功皇后三韓出兵」「天の岩戸」「飛龍に波」「鷲」などの彫物は、江戸伽藍彫刻の力作である。篠津地区は、平安時代末期に全国に勇名を馳せた武蔵武士団のひとつ野与党発祥の地とされ、当社は、その守護神として崇敬されていた。また、この地区は江戸時代の日光街道(春日部宿)と中山道(鴻巣宿)を結ぶ街道の宿場として栄えたところであった。
 また、地区内の上宿、横宿、下宿、宿神山の各耕地には、それぞれ特徴ある山車が保存されており、この山車は江戸時代末期に製作されたもので、唐破風欅白木彫などその彫刻はすぐれている。これらの山車は、7月15日の天王様(須賀神社の祭礼)に飾り付けられ、今でも祭りを盛りあげる大きな役割を果たしている。
 昭和58年8月 白岡市
                                                                                                        案内板より引用

  篠津久伊豆神社が鎮座する篠津地区は平安時代末期に全国に勇名を馳せた武蔵武士団のひとつ野与党発祥の地とされ、当社はその守護神として崇拝された。またこの地区は江戸時代の日光街道と中山道を結ぶ街道の宿場町として栄えた場所であるという。現在の社殿は安政元年(1854)より5年の歳月をかけて拝殿が 完成した。
                    

                               

                                        
 拝    殿                        本    殿           

 重量感溢れる荘厳な本殿であり、また本殿の3面に飾られている彫刻は江戸伽藍彫刻の力作で、彫刻は天保13年(1842)生まれの立川音芳の作である。音吉は彦根藩家臣の家から江戸の仏師に養子となり、佐野の立川芳治の下で宮彫を習得した。その後、篠津久伊豆神社の彫刻を依頼され、当地に住むようになった。
 彫物は「天の岩戸」「源頼政御殿の図」「三韓征統」「牡丹に獅子」「波に鯛」など拝殿の3面に施されている。現在は装飾はほぼなくなっているが往時は色彩豊かで煌びやかな本殿だったろう。市指定文化財。篠津の天王様の山車の彫刻も立川氏によるものであるという。

                


                              

 
社殿の奥には境内社が数多く鎮座している。写真左、左側から稲荷大神社、諏訪大神社、榛名神社が並び、その隣に(同右)左側から雷電宮、諏訪神社、八幡宮、正八幡宮が鎮座。

                              

                        また社殿の向かって右側には境内社、九ヶ所神社、疱瘡神社(写真左)、そして
五穀大明神(同右)が鎮座している。


 篠津久伊豆神社の境内に大きな富士塚があり、浅間神社が祀ってある。山崎浅間神社の項でも紹介したが、初山とは、赤ちゃんの額に初山の印を捺して、健康と長寿の願いを込め、疾病の退散を念じる行事で、毎年7月1日に富士山に見立てた小高い山にある浅間神社にお参りする初山祭りが行われるらしい。


                

                       浅間神社正面参道            富士塚の頂上に浅間神社は鎮座する。                 拝殿内


 境内の前に大きな山車倉庫があり、そこには「白岡町指定文化財第4号 篠津天王様の山車・宿耕地」と「白岡町指定文化財第5号 篠津天王様の山車・下宿耕地」と記された標柱がある。


                                              

                
                                                    篠津天王様の山車専用倉庫


 7月になると市内各地で疫病退散を願う夏祭りが行われる。中でも八雲神社(岡泉鷲神社・柴山諏訪八幡神社)、八坂神社(上野田・下野田)、須賀神社(篠津)、牛頭(ごず)天王社(白岡の新田地区)を祀る地域では、この夏祭りを「天王様」と呼んでいる。
 篠津の天王様では見事な彫刻の施された5台の山車が地区内を巡行する。山車は岡泉の天王様にも飾られる。上野田・下野田では、勇壮な神輿が耕地内を練り 歩き、疫病の退散を願う。白岡の新田地区や柴山では、オシッサマ(お獅子様)の一行が天狗、獅子、太鼓などで耕地内を駆け巡る。



 
篠津久伊豆神社は、由緒等による武蔵七党、野与党発祥の地という歴史上の創建の古さと、その地区の守護神としての重さに社殿全体の荘厳さも加わり、参拝にも自ずから厳粛な面持ちとなった。近隣に鎮座している白岡八幡宮の女性的で優雅な白い社殿とは全く対照的で、参道正面の雰囲気はまさに男性的で重厚感がある。社正面から出ている社風というか漂う色が白岡八幡宮とは全く違うのだ。白を基調とした白岡八幡宮や境内にある真新しい神楽殿と比べること自体間違っているかもしれないが、白岡八幡宮の次にこの社を参拝したのだから自然と比較の対象となってしまった。
 しかし一旦正面参道から奥の本殿に向かうと雰囲気が変わる。本殿の彫刻から漂うのか、本殿全体から発する妖艶さからか、決して男性的なものではない。この社の本殿のそれは、大人の女性の熟成された色を感じた。「篠津」という地名は河川に関係した地名というが、個人的に「篠」には女性的な余韻を感じてしまう。勝手な主観的感想と変な喩で恐縮だが。






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                            柴山諏訪八幡神社
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                                              所在地    埼玉県白岡市柴山1021

                                              御祭神    誉田別尊、建御名方命

                                              社  挌    旧指定村社

                                              例  祭    7月中旬か 天王様


 柴山沼は白岡市大山地区のほぼ中央に位置し、元荒川の下浸作用によって形成された河川跡だ。埼玉県内の自然沼としては、川越市の伊佐沼に次ぐ大きさの沼で、面積は12.5ha、水深は約8m。柴山沼という名称はこの地にかつて存在していた柴山村に関連する。柴山という地名は白岡市の説明によると柴山の柴とは雑木(そだ)の意で、柴山はこのような燃料採取の丘、林をさしていると考えられるという。この柴山地区の西側で、柴山沼と元荒川に挟まれた一面の田んぼの中に住宅が点在し、その一角に柴山諏訪八幡神社は鎮座する。


                                 

                                           正面参道                  鳥居を過ぎて左側にある案内板

 

諏訪八幡神社  所在地:南埼玉郡白岡町大字柴山

 諏訪八幡神社は、大字柴山のほぼ中央に位置し、古来、地域住民の信仰の対象として、中心的な役割をなしてきた神社である。当神社は、昭和19年に「大山神社」と改名されているが、現在でも「諏訪八幡神社」として親しまれている。祭神は、応神天皇と建御名方命である。
 寛文12年(1672)に藤原氏天野康寛が書いた諏訪八幡神社之神記によれば「霊験の記は紛失して証拠となるものはないが、伝説によると宇多源氏の後胤佐々木四郎秀綱がこの地を領していたとき、霊験があり、諏訪社と八幡社の両社を合祀した」とある。
 当社には、地域の信仰を物語る各種の絵馬が多く奉納され、よく保存されている。また、祭礼時には大太鼓、小太鼓、鉦による囃子が奉納される。

 昭和58年3月 白岡市
                                                                                                     境内案内板より引用


                                 

                                      平野部に鎮座する明るい社               案内板の先には神楽殿 

                                                 

                                                           拝   殿

 柴山諏訪八幡神社は菖蒲城佐々木源四郎秀綱の創建と伝えられていて、佐々木氏は、宇多源氏の末裔と称しており、源氏の氏神である諏訪社と八幡社を勧請したものと思われる。社殿は本殿、幣殿、拝殿。拝殿の中には絵馬や掲額が数多く残されており、いずれも江戸後期以降のもので市の指定文化財になっている。


                                              

                                               拝殿の手前にある「奉納絵馬」と書かれた標柱

                         
 ところで佐々木源四郎秀綱が源氏の氏神である諏訪社と八幡社を勧請したという由緒を素直に読むと、元々この地には違い祭神の社があり、その後勧請した為に諏訪八幡神社と名乗ったと考えたほうが自然だと思われる。では以前の社の名称は何だったのだろうか。
 柴山地区は現在一面の田園地帯だが、嘗てこの地は「大山村」とも言われたという。この大山村は柴山、荒井新田、下大崎、上大崎の四つの大字からなっていた。以後、昭和29年9月1日に白岡町が誕生するまで、65年間存在していて、この「大山村」の名の由来はは大崎の「大」の字と柴山の「山」の字を取ったものであるというが、史実はこのように単純な事だろうか。この白岡市は台地と低地が入り組んだ複雑な地形で台地と低地の区分は10メートル程というが、柴山地区はその中にあって比較的平坦な地域だ。この地形は今も昔もそれほどの変わりはない。「大山」と言われる程の山は存在しないことからこの地名は地形上から来たものではなく、文化、祭祀的な名前ではないかと考える。いわゆる「オオヤマツミ」信仰だ。

大山祇神

 オオヤマツミ(大山積神、大山津見神、大山祇神)は、日本神話に登場する山の神。別名 和多志大神、酒解神。日本書紀は『大山祇神』、古事記では『大山津見神』と表記する。『古事記』では、神生みにおいてイザナギとイザナミとの間に生まれたと記され、一方、『日本書紀』では、イザナギがカグツチを斬った際に生まれたとしている。勿論記紀上の系譜では立派な天津神系の一族である。 
 ただ不思議とオオヤマツミ自身についての記述はあまりなく、オオヤマツミの子と名乗る神が何度か登場する。ヤマタノオロチ退治において、素戔嗚命の妻となる奇稲田姫(くしなだひめ)の父母、足摩霊、手摩霊(あしなづち・てなづち)はオオヤマツミの子と名乗っていて、天津神に所属していながら国津神系の出雲とも深い関係のある神でもある。
 この神名の「ツ」は「の」、「ミ」は神霊の意なので、「オオヤマツミ」は「大いなる山の神」という意味となるが、別名の和多志大神の「わた」は「海」の古語で、「海の神」を表す。すなわち、山、海の両方を司る神ということになる。

 
 オオヤマツミはイザナギ、イザナミの系統でありながら、その兄弟カグツチが母を死に至らしめたことから、神話の主役はアマテラスに奪われ、脇役の地位を担わされた不運の神である。しかし出雲族の移住先等の各地でその信仰は連綿と継続し、とくに山岳宗教と結びついたり、金属、鉱山関連の仕事に仕事に付く人たちに敬われてきた古くからあるいわゆる地主神的な存在ではないだろうか。柴山の「山」にしろ大崎の「大」という地名につけられた名は古くから語り継がれてきた古名の名残りだった
とは考えられないだろうか。
 それを証明する一つの事例として柴山地区に伝わる伝統行事がある。「天王祭」だ。

 柴山諏訪八幡神社の鳥居の左側に境内社諏訪八幡神社の祭り(天王様)は、毎年7月に行われオシッサマ(お獅子様)一行が天狗、獅子、太鼓などで耕地内を駆け巡るそうだ。「天王」とは勿論牛頭天王(ごずてんのう)を祀る天王社の祭である。牛頭天王は日本の素戔嗚尊と習合し、日本各所にその伝説などが点在しており、その地方で行われていることが多い。

                                               


 この社の獅子の一行は獅子頭と獅子の布を持つ人、カラス天狗、天狗によって構成されて、それに山車に乗った囃子連が付いているそうだ。この白岡市にはこの「天王様」の祭りが非常に多く、この柴山の天王様のほか、岡泉、新田、野田、篠津があり、殆どが7月の中旬に行われるようで、天王信仰が盛んな場所であったのだろう。前述オオヤマツミの孫が奇稲田姫であり、その夫が素戔嗚命である。同時に柴山地区の天王祭が盛んな地域であることから、柴山地区と「オオヤマツミ」は関係の深い地域であったことがわかる。


                                 

                    


 




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