延長5年(927年)にまとめられた延喜式神名帳には武蔵国旧賀見郡の式内社が4社記されている.長幡部神社、今城青坂稲實荒御魂神社、今城青坂稲實池上神社、城青八坂稲實神社、これら4社中長幡部神社を除く3社ははなぜか長く読みずらい社名で明記されている。断っておくがこの4式内社は延喜式が編集された10世紀に確かに存在した社であり、時の朝廷の許可と承認を受けた歴としたお墨付きの神社なのである。

 延喜式神名帳がまとめられる200年前、時の朝廷、正確には元明天皇の時代に出された勅令で諸国郡郷名著好字令がある。この諸国郡郷名著好字令とは、全国の地名を漢字2文字で表記しなさいという命令であり、好字二字令、または単に好字令とも呼ばれる。『続日本紀』によると和銅六年「五月甲子。制。畿内七道諸国郡郷着好字。」)と記載されている。
 それまで旧国名、郡名や、郷名(郷は現在で言うと町村ほどの大きさ)の表記の多くは、大和言葉や万葉言葉に漢字を当てたもので、漢字の当て方も一定しないということが多かった。そこで地名の表記を統一しようということで発せられたのがこの勅命である。
さらに、漢字を当てる際にはできるだけ好字(良い意味の字。佳字ともいう)を用いることになった。適用範囲は郡郷だけではなく、小地名や山川湖沼にも及んだとされている。

 つまり、誰でも読むことができるように表記しようとする時の朝廷の思惑からきたものであろうが、それに逆行するかのようなこの長たらしい神社名は、逆説的に解釈すると、このような社名を許可すること自体歴史があり、由緒ある社なのだろう・・・。

 神社参拝直後には考えもしなかったことだが、ホームページも開設し、数年を経て知識も深まると、逆に新たな疑問も噴出するものだ。冒頭の疑問がまとまり切れない頭の中で渦のように蠢きながら、また一方の頭では、ある種不思議でミステリアスな何かがこの広大な農耕地帯で、人気のない閑散とした武蔵国最北部利根川南岸周辺には存在していたと勝手に解釈しつつ、何度目かの旧賀見郡の式内社探索が始まった。



目次
 七本木神社(式内社 旧村社)  /  五明天神社(式内社 旧指定村社)  /  帯刀菅原神社  /  長幡部神社(式内社 旧村社)
 長浜皇大神社(式内社 旧村社)  /  長浜丹生神社(無格社)  /  
大御堂三嶋神社(旧村社)  

                                 七本木神社
                                     地図リンク


                                             


                                          所在地   埼玉県児玉郡上里町七本木3237

                                          御祭神   誉田別尊 倉稻魂命 菅原道真

                                          社  挌   式内社今城青八坂稲実神社、今木青坂稲実荒御魂神社
                                                  今城青八坂稲実池上神社論社
                                                  旧村社

                                          例  祭   10月19日 例祭


 七本木小学校東側に接して鎮座している。片側2車線の本庄市から群馬方面に向かう群馬県道・埼玉県道23号藤岡本庄線に沿って家並が続き、結構交通量も多い。以前聞いた話だが、群馬県は道路状況が埼玉県より充実していると聞いたことがある。さすが総理大臣を3名輩出した県だと羨ましく思ったものだ。
 それはさておき、この七本木神社の由来は、嘗て江戸時代七本木村字本郷原に鎮座する榛名宮神社が比定された。現在の鎮座地は旧家である金井家(当地を開発した家)が邸内社として祀っていた八幡神社を村の鎮守社とした。
 明治42年に近隣社を合祀し七本木神社と称した。この時榛名宮神社も移転合祀された。


                               

                                         正面鳥居                  鳥居を過ぎると比較的広い境内

 この七本木地区は、旧家金井家が開発した土地であり、地名の由来は、村内に七本の古木があったことによる。『児玉郡誌』(昭和二年刊)には、久保田新田の旧八幡神社境内に、「八幡の大欅」と称される樹齢670年ほどの大木があり、地名の由来となった。七本の内の一本であり、他の六本は枯れてしまったと記されている。

               
  

                    境内にある庚申塚案内板                頂上に猿田彦を祀る庚申塚                    神楽殿

 この旧家金井家は『武蔵國兒玉郡誌』によれば新田義重の後裔であるといい、新田蔵人の子三郎長義が金井を称したのが始まりだという。淡路守頼義になると新田庄由良郷(群馬県旧新田郡新田町金井)に住み、以後経政・政時を経て三郎政経と続く。
 政経は筑前守を称して、金窪城主斉藤摂津守定盛の娘を娶りこの地に館を構えたのだという。
 以後江戸期に至ってもこの地に住んでいたといい、金井三郎衛門義澄には名主役を勤めて万治元年(1658)に岡上次郎兵衛景能が縄入(田畑の測量)をする際に土地の案内をして水帳を管理したという。 
 また七本木神社東側には低い土塁が残されている。境内の庚申塚は、櫓台跡の土塁かもしれないという説もあるが、いかがなものだろうか。


                                              

                                                        拝    殿
                 

 七本木神社の創建については、金井家の火災により古文書を失い不詳であるが、邸内社として祀っていた八幡神社が村の鎮守となったものである。『明細帳』によると、明治四十二年に、榛名大神社・愛宕神社・白岩神社・稲荷神社二社・八幡神社二社を合祀して、社名を七本木神社と改めたという。


                               

                    社殿の奥には数多くの境内社があり(写真左)、また社殿の向かって右側には合祀された7社の本殿(同右) を収めてたと伝えている。


 「七本木」という地名の由来は前述「村内に七本の古木があったことによる」となっている。史実は結構この程度のことかもしれないが、少々腑に落ちない点もあるので考察してみる。というのも地名というものは文献解読では解明されきれない部分も多いし、文献と相反する場合もある。また地図の読解や語彙から地名の意味を探ったり、伝承、口承などからも検討されることがある。
 さらに地名はその土地の風俗をも表すこともあり、地名の由来には時として多くの民俗的な要素が詰まっていることもある。残念ながら日本では、学問分野としての確立はまだ見られないらしいが、世界的にはイギリス、フランスなどのように、一学問分野として見られている国もヨーロッパを中心に少なくない。

 この「七本木」という地名の基本形は七+
「本木」であろう。そして「本」は本庄の同じ類で「本家、元」という意味の名詞に付く接頭語ではないかと考える。

本庄 ホンジョウ 
 児玉党本庄氏 武蔵七党系図に「庄権守弘高―庄太郎家長―本庄二郎左衛門尉家次―太郎新左衛門尉朝次(弟二郎家則)―太郎左衛門尉時次―太郎左衛門尉有次(弟に三郎助次、四郎重次、五郎氏次)。家次の弟本庄三郎左衛門尉時家(弟四郎左衛門尉時長)―左衛門尉家房―太郎左衛門尉泰房(弟四郎家信)―太郎国房」。吾妻鑑巻二十七に「安貞三年正月三日、本庄四郎左衛門尉」。巻二十九に「貞永二年正月三日、本庄左衛門尉」。巻三十二に「本庄新左衛門尉朝次」。巻三十四に「仁治二年五月六日、本庄四郎左衛門尉時家・所帯を召し放さると云々。これ小林小次郎時景が所従藤平太が妻女・路次を通るのところ、時家馬二疋を押し取り、口付小次郎が男を搦め取りをはんぬ。狼藉の料に行はるべきの由、時景訴え申すによってなり」。「建長二年三月一日、本庄四郎左衛門尉、本庄三郎左衛門尉入道」と見ゆ。庄参照。
                                                                                                                                 埼玉苗字辞典より引用                      
                                                                                                                                                                                                           


 つまり、「本庄氏」本来の名称は「庄氏」であり、この庄氏の本家が「本庄氏」となったという。この論理で考えてみると「本木」も本来は「本家+木」で基本形は「木」ということになる。旧賀見郡の式内社の社名の最初にあるあの「今木、今城」の「キ」だ。

今城 イマキ 今木、今来に同じ。坂上系図に「阿智王、応神天皇の御世、本国の乱を避けて、母並に妻子、七姓漢人等を率いて帰化す。爾の時阿智王・奏し、今来郡を建つ。後に号を高市郡と改む」と見ゆ。此の一族は倭漢(やまとのあや)氏にて、大和国高市郡に渡来し、本国の名・今来郡を建てる。漢(あや)は、安耶国で、安羅国とも称す。此の一族の高市郡桧前村に居住していた桧前氏は、武蔵国賀美郡に移住して今城神を奉斎す。延喜式神名帳に「武蔵国賀美郡。今城青八坂稲実神社、今木青坂稲実荒御魂神社、今城青坂稲実池上神社」の三社を載せる。元阿保村に鎮座されていた此の三社へ、阿保朝臣人上が六所明神社、稲荷社、諏訪社を勧請したと云うが附会であろう。丹庄阿保領地誌(元阿保村神主茂木文書)に「賀美郡式内四座。〇長幡部神社・長浜村下郷丹庄大明神、武蔵介阿保朝臣人上本国伊賀国一宮敢国神社者拝殿罔象女命を阿保領長浜郷に奉勧請候。〇今城青八坂稲実神社は当所正一位六所大明神、武蔵国府中に出現の御神を阿保朝臣人上延暦年中此地に奉勧請。〇今城青坂稲実荒御魂神社は当所正一位稲荷大明神、伏見稲荷山垂蹟延暦年中阿保朝臣人上此地に奉勧請。〇今城青坂稲実池上神社は当所正一位諏訪大明神、信濃国諏訪に垂蹟延暦年中阿保朝臣人上此地に奉勧請」と見ゆ。延暦年中に初めて勧請したとしても、百数十年後の延喜式に今城神の神社名に変えたとは考えられない。また、元阿保村の隣村関口村に今城青坂稲実池上神社があったと伝へ、其の祭神は罔象女(みづはのめ)神とあり、丹生神社の主神である。此の神は水銀(みづがね)採鉱業者の信仰神である。越国風土記逸文に「八坂丹(やさかに)とは玉の名なり。玉の色の青きを謂ふ。故、青八坂丹(あおやさかに)の玉と云ふ」と見ゆ。八尺(やさか)はおおきな、瓊(に)はヒスイなどの特殊な玉。新潟県糸魚川市の瓊な川で取れた青玉のこと。武蔵国丹庄の地は、漢族桧前氏に率いられた今城人の渡来地にて、青玉を信仰し、水銀(辰砂)を製産していたのであろう。元阿保村の隣村八日市村字今城は今城人の居住地にて今城神の鎮座地跡であろう。
                                                                                      埼玉苗字辞典より引用

 この「今木、今城」は新米の者、つまり渡来系氏族をあらわすという。そこで思い出される一族がいる。檜前一族だ。賀美郡一帯に存在していた檜前舎人直の勢力が一番栄えていたという。この檜前氏(桧前氏・ひのくまべし)は応神朝に渡来した阿智使主の末で大和国飛鳥の檜前をはじめ全国にい た。檜前舎人や檜前君を称した人々は、上総(かずさ)国 海上郡や上野(こうずけ)国 佐位郡、檜前舎人部は遠江、武蔵、上総などの国に点定されていて、武蔵国にあっては加美・那珂郡(現在の埼玉県本庄市)に分布している。
 太田亮氏の『姓氏家系大辞典』によると、檜前舎人直は、出雲臣(おみ) の族で、檜前舎人部の伴造(ともの みやつこ)家であり、武蔵国造の族とあ る。しかも土師氏と同族とある。また加美郡の対岸、今の伊勢崎市宮前に鎮座する赤城神社の由緒書きには
「按ずるに当時佐位一帯を支配していた檜前部君一族により、氏神赤城社として建立されたものであろう。」と書かれており、利根川に面して檜前氏が確認できる。
 また同市境下渕名に鎮座している大国神社(上野五ノ宮)に関して、『上野国神名帳』の佐位郡項に「大国玉明神」と「郡玉明神(くにたまみょうじん、非現存)」の名が見えることから、国玉を「国司の神」、郡玉を「郡司の神」とみる説があり、そして前者にあたる当社は、当地の郡司が「上毛野国造」の栄誉称号を与えられた際、新たに創建されたと指摘される。この檜前部老刀自(ひのくまべのおいとじ、檜前君老刀自)が「上毛野佐位朝臣(かみつけのさいのあそん)」を賜姓、のち「本国国造(上毛野国造)」の称号を与えられた記事から、檜前部一族が佐位郡司であったと推測され、この北武蔵から上野国に檜前部君一族は一大根拠地を持っていたことになる。

 桧前一族が奉斎した今城神はおそらく本来居住していた高市郡桧前地区の守護神を移住した際に持ち込んだ神であろう。




 






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 五明天神社は上里サービスエリアの南西側に鎮座している。
 「いまき」が「今来」で新米の者、つまり渡来系氏族をあらわし、渡来系氏族が当地に高度な稲作技術を導入し「稲魂」をまつる神社を建立したのが「稲実」であろうとされている。御神体である神代石(高さ67cm、太さ13.5cmの安山岩)には「えむぎしきない」「いまきあおやさかのかみ」と刻まれているという。




                                  五明天神社
                                       地図リンク

                                                                      
                                             


                                           所在地     埼玉県児玉郡上里町五明871

                                           御祭神     稚産靈神 豊宇気毘売神 大山祇命 日本武尊

                                           社  挌     式内社
今城青八坂稲実神社論社 旧指定村社

                                           例  祭     10月19日 秋祭り



 創立年代不明。旧社格は村社。從來村の鎭守にして當村内大輻寺持なりしを、維新の際、神職の受持となり、往古より圓形の神代石に古文を以て刻したる者傳來し居りしが、文學に疎く之を解する事を得ざりしが、今日に至り漸く延喜式内今城青坂稲實神社と明瞭し、且亦境内を今城林と云ひ傳來りしを、天正年中(1573~92)神流川合戦の際瀧川一益此地に陣を転し、大に勝利ありしを以て転陣林と称し來たれり。
                                                                                                  昭和27年神社明細帳より引用

                 

 五明天神社は上里サービスエリアの南西側に鎮座していて、正面一の鳥居は南側に面している(写真左)。また一の鳥居から真っ直ぐ参道を進むと五明集会所があり、そこを左に90度曲がると二の鳥居がある(同中)。その二の鳥居の向かって右側に案内板(同右)がある。

 

天神社  
所在地 児玉郡上里町五明871


 天神社の祭神は稚産霊神、豊受氣毘売神、大山祇命、日本武尊の四神である。
 当社の創立年代は不明であるが、延喜5年(905)に藤原時平らが勅を受けて編集した廷喜式神明帳に載る賀美郡(児玉郡)四社の一つ今城青八坂稲実神社であると伝えられているので、かなり古い社であると思われる。なお、御神体である神代石(高さ67cm、太さ約13.5cmの安山岩)には「えむぎしきない」「いまきあおやさかのかみ」と刻まれている。
 現在ある社殿は享保7年(1722)の再建で、天保年間(1830~44に書かれた中岩満次郎道純の祈願書が残されている。
 明治10年に白山神社を、同42年に丹生神社を若宮より遷し合祀した。
 また、境内神社として諏訪神社、稲荷神社、八坂神社、市杵島神社が祀られている。
 なお、当社には神楽が伝承されていたが、現在は中断されている。
 昭和60年3月 埼玉県 上里町
                                                                                                          案内板より引用

        


                               

 現在の境内は決して広くはないが一の鳥居から集会所までにある程度の空間もあり、往時はかなりの大きな社だったろうと推測できる。また社全体が綺麗に整備もされ、参拝の時期も新緑が広がる季節でもあってゆっくり参拝を楽しむことができた。居心地の良い雰囲気の社。また写真右のように参道の途中右側には貴船大神、大己貴命、素戔嗚命、国嶽霊神等の石碑群が並ぶ。


                               

                                         拝    殿                     本殿裏にある丹生社

                               

                                     社殿手前左側には神楽殿               社殿の右側には境内社
                                                           諏訪神社・稲荷神社・八坂神社・市杵島神社等が並ぶ。


  『明細帳』に「創立不詳、本社ハ延喜式内当国四十四座ノ一ニシテ今城青八坂稲実神社ナリト云伝フ」と載せられている。また、当社に伝わる文書から、天保三年(1832年)に上州新田郡の岩松満次郎が、同家の家紋である中黒紋の付いた幕と高張提灯を今城青八坂稲実大明神(当社)に寄付したことが知られる。今城青八坂稲実神社の社名は、稲霊を賛美した名称で、稲作信仰に基づくものであるとされる。ただし、児玉郡内には式内社の今城青八坂稲実神社に比定される神社が当社を含めて六社あり、定かでない。
 『風土記稿』五明村の項には、「丹生社・天神社 以上ニ社を村の鎮守とす、大福寺持なり」とある。
 明治初年の神仏分離により大福寺の管理を離れ、明治五年に村社となった。また、明治四十一年には丹生社を合祀した。
                                                                                             埼玉の神社・埼玉県神社庁より引用


                                              








                                             もどる                   toppage  







 上里町帯刀地区の「帯刀」の地名の由来は古く、平安時代末期まで遡る。
 源 義賢は、平安時代末期河内源氏の武将で源為義の次男。源義朝の異母弟にあたり、源義仲(木曾義仲)の父である。保延5年(1139年)、のちの近衛天皇である東宮体仁親王を警護する帯刀の長となり、東宮帯刀先生(とうぐうたちはきのせんじょう)と呼ばれた。長兄の義朝が無官のまま東国(関東)に下った後、重要な官職に補任されており、この時点では義朝に代わって河内源氏の嫡流を継承する権利を有していた人物だった。

 その後父・為義と不仲になり関東に下っていた兄・義朝が、仁平3年(1153年)に下野守に就任し南関東に勢力を伸ばすと、義賢は父の命により義朝に対抗すべく北関東へ下り、上野国多胡を領し、武蔵国の最大勢力である秩父重隆と結んでその娘をめとる。重隆の養君(やしないぎみ)として武蔵国比企郡大蔵に館を構え、近隣国にまで勢力をのばしたが、久寿2年(1155年)8月、義賢は義朝に代わって鎌倉に下っていた甥・源義平に大蔵館を襲撃され、義父・重隆とともに討たれた。享年は30前後とされる。

  上里町帯刀地区の福昌寺は、室町時代に義賢の菩提を弔うために創建され、大蔵合戦後に落ち延びてきた義賢を祀ったとされる五輪塔がある。そんな地名の由来の意味会いを感じながら厳粛な気持ちで菅原神社の参拝を行った。

    

                                 帯刀菅原神社

                                      地図リンク

                                             


                                              所在地    埼玉県児玉郡上里町帯刀235

                                              御祭神    菅原道真公、武夷鳥命、火雷神

                                              社  挌    旧郷社

                                              例  祭    3月25日  例大祭


 帯刀菅原神社は五明地区にある天神社から南東方向約1.5kmの場所に鎮座している。この地域では珍しい神明系の社で、旧郷社という社挌に不釣り合いなほど立派だ。古社独特の社叢に囲まれた雰囲気はなく開放的で、境内も良く整備されている。また駐車場も完備されており、厳粛な気持ちの中での参拝ではあったが一方では気持ちよく行うことができた。


                    


                                             

                                              大鳥居。また綺麗に参道も舗装されている。

 帯刀菅原神社の創建は延喜5年(905年)で、延喜3年(903年)、菅原道真公の没後、陰陽博士(おんようはかせ)である紀友成(きのともなり)は、道真公の御意を全国に広めるために、全国行脚の旅に出たという。そして、延喜5年(905年)に、友成公は、当村に立ち寄られ、道真公の絵姿を与え、村内に道真公を祀る小さな祠が建てられたという。そして、神代の神々より武夷鳥神、火雷神をお迎えし、現在の形となったとする。その後、幾多の興廃を繰り返し、新田義貞が挙兵された際は、社殿をも焼失してしまうこともあったが、それも村民の力によって再興されている。

 この由来から考えると、延喜5年(905年)創建という時代の真偽はともかく、菅原道真の絵を祀る前の元々のこの社の祭神は武夷鳥神、火雷神の2柱だったのだろう。火雷神も京都府加茂に鎮座する賀茂別雷神社の神を勧請したものではなく、板倉雷電神社系の素朴に雷の猛威に対する畏れや、稲妻と共にもたらされる雨の恵みに対するこの地域に住んでいた人々の信仰から生まれた昔からある地主神ではなかったろうか。

                                             

                                                        拝    殿

 菅原神社の社殿の奥には古墳(直径14mの円墳)がある。元々この帯刀地区には小円墳が多数あり、帯刀古墳群を形成しているという。この帯刀古墳群は関越道上里サービスエリア南方の台地上に分布していて、32基以上の古墳からなり6世紀中葉から7世紀にかけての築造と推定されている。菅原神社の奥にある古墳は菅原神社古墳いうが、墳頂に社殿を構えていない。古墳の規模が小さすぎたためか、それとも大昔の一族の墓の上に神社を築造することを末裔として憚ったためなのだろうか。

                 

                   社殿の右側に並ぶ稲荷、愛宕神社          社殿の奥にひっそりとある石祠群             石祠群の上部にある石碑。
                                                                            中央の石碑には「大己貴尊」と刻まれている。 
     








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 長幡部神社(ながはたべじんじゃ)は,JR八高線群馬藤岡駅の東南東約2.5kmの田園地帯の中に鎮座する。
 創立年は不詳。「延喜式」所載の武蔵国賀美郡の「長幡部神社」だと考えられているが,天正年間(1573-1591)の兵火によって古記録が失われている。伝承では,神流川の洪水のため天永年間(1110-1112)に現在地に遷したという。
 祭神の天羽槌雄命は機織の神である。昭和初期まで「丹生様」「長幡五社宮」などとも呼ばれていた。  


                                   長幡部神社
                                       地図リンク 
                                                                    
天羽槌雄命と長幡部神社の真の関係は


                                             


                                        所在地   埼玉県児玉郡上里町長浜1370

                                        御祭神   天羽槌雄命 埴山姫命、『巡礼旧神祠記』岡象女命
                                                『武藏国式内四十四座神社命附』姫大神、『神社覈録』比咩大神
                                                『地理志料』大根王

                                        社  挌   延喜内式内社 旧村社

                                        例  祭   10月19日 例大祭


 長幡部神社は当初は神流川沿岸の西的場に鎮座していたという。藤武橋の東詰下流の、水天宮と刻まれた石碑が旧地との説もある。平安期の洪水(1110年)で社地が流失し現在地に遷座した。天正年間に滝川一益の戦乱の際に兵火にかかり、社殿及び古文書のことごとくを焼失した。

                                             

                                                     長幡部神社正面鳥居

 この社は神流川西岸に鎮座している。神流川は群馬県及び埼玉県を流れる利根川水系烏川の第2支流であり一般河川である。群馬・長野・埼玉3県の県境、三国山に源を発し、流域面積407.0km2、幹線流路延長87.4km、平均河床勾配は1/20と、利根川上流の支川の中では比較的急峻である。神流川流域は群馬県の南西部に位置し、狭隘な地形を縫うように流下する神流川に沿って集落が点在している。流域には関東一の鍾乳洞である不二洞、太古の恐竜の足跡の化石、三波石峡など観光資源が多い。

 神流川という名前も神秘的な名だ。武蔵20余郡の北の果て、「上」の国から流れる川の意と言われ、昔は感納川、甘奈川ともかかれることがあるそうだ。神(カム)の川という意味で、古くはカミノ川と呼ばれ、やがて神名川と変わり、そして、字が変化して神流川になったといわれている。

                               

                                     鳥居の左側にある案内板                右側にある社号標石

  長幡部神社    上里町大字長浜字長幡前1370

 神流川流域に位置する古代の賀美郡内には、『延喜式』神明帳に登載されている神社として、当社「長幡部神社」と「今城青坂稲実神社」「今木青坂稲実荒御魂神社」「今城青八坂池上神社」の四社がある。これらは、いずれもこの地に進出してきた渡来系氏族が奉斎した神社として考えられている。長幡部は機織りの技術を持った集団が祀った神社を社名で表したと考えられる。

                               

                                       覆堂形式の社殿                      内部撮影

 祭神は,大根命,姫大神,罔象女命の三説がある。昭和初期まで「丹生様」「長幡五社宮」などとも呼ばれていた。なお,当社を「延喜式」の今城青八坂稻實神社〈いまきあをやさかいなみのじんじゃ〉に比定する説,今城青八坂稻實荒御魂神社〈いまきあをやさかいなみあらみたまのじんじゃ〉に比定する説,今城青坂稻實池上神社〈いまきあをさかいなみのいけがみのじんじゃ〉に比定する説がある。いずれも同じ武蔵国賀美郡の神社である。現在の祭神は,天羽槌雄命,埴山姫命,菅原道真,倉稲魂命,建御名方命,大日孁貴命である。



 長幡部神社を含む賀美郡の4座はいづれも渡来系氏族によって信仰されたものと思われる。この社名の長幡部は紡織集団(幡部)を示し、他の3座の今城は稲作集団を示していると思われる。この帰化系氏族集団の一つ「東漢氏」は、「記紀」によると応神天皇の20年(289年と言われている)9月に渡来したと記されている。

「倭漢直(やまとのあやのあたひ、東漢氏)の祖阿知使主、其の子都加使主(つかのおみ)、並びに己が党類(ともがら)十七県を率て、来帰り」

 
また『新撰姓氏録』「坂上氏条逸文」には、七姓漢人(朱・李・多・皀郭・皀・段・ 高)およびその子孫、桑原氏、佐太氏等を連れてきたとある。「坂上系図」は『新撰姓氏録』第23巻を引用し、七姓について以下のように説明している。
 
 
誉田天皇諡応神の御世、本国の乱を避けて、母並びに妻子、母弟・遷興徳、七姓の漢人等を率ゐて帰化す。七姓は第一段古記、段光公字畠等、一に云ふ員姓是、高向村主、高向史、高向調使、評首、民使主首等の祖なり。次に李姓。是、刑部史の祖なり。次に皂郭姓。是、坂合部首、佐大首等の祖なり。次に朱姓。是、小市佐、秦、宜等の祖なり。次に多姓。是、檜前調使等の祖なり。次に皀姓。是、大和国宇太郡佐波多村主長幡部等の祖なり。次に高姓。是、檜前村主の祖なり。

 桧前(ひのくま)氏は『続日本紀』光仁条は、東漢の後裔である坂上苅田麻呂の奏上をこう記されている。
 「檜前忌寸(いみき)の一族をもって、大和国高市(たけち)郡の郡司に任命しているそもそもの由来は、彼らの先祖の阿知使主(あちのおみ)が、軽嶋豊明宮に天下を治められた応神天皇の御世に、朝鮮から17県の人民を率いて帰化し、天皇の詔があって、高市郡檜前村の地を賜り居を定めたことによります。およそ高市郡内には檜前忌寸の一族と17県の人民が全土いたるところに居住しており・・・」
 

 檜前舎人や檜前君を称した人々は、関東では上総(かずさ)国 海郡や上野(こうずけ)国 佐位郡、檜前舎人部は遠江、武蔵、上総などの国に点定している。
 例えば武蔵国賀美郡 の檜前舎人直 中加麿の存在がそれを物語る。賀美郡の対岸 利根川に面して上野国 佐位郡(現伊勢崎市)があり、上野国那波郡の檜前公は、後に上毛野 朝臣になったことが確認され、佐位郡の檜前君老刀自も、上毛野一族となったことがわかる。またそのとなり那波郡に一例の檜前氏が確認できるので、檜前氏はこの北武蔵に一大根拠地を持っていたことになる。

 東京都浅草にはあの有名な金龍山浅草寺(せんそうじ)があるがすぐ隣には浅草神社が鎮座している。この浅草神社の御祭神は土師真中知(はじのあたいなかとも)、檜前浜成(ひのくまはまなり)・武成(たけなり)で、この三人の霊をもって「三社権現」と称されるようになったという。合祀で徳川家康、大国主命を祀っている。社伝によれば、推古天皇36年(628年)、檜前浜成・武成の兄弟が宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていたところ、網に人形の像がかかった。兄弟がこの地域で物知りだった土師真中知に相談した所、これは観音像であると教えられ、二人は毎日観音像に祈念するようになった。その後、土師真中知は剃髪して僧となり、自宅を寺とした。これが浅草寺の始まりである。土師真中知の歿後、真中知の子の夢に観音菩薩が現れ、そのお告げに従って真中知・浜成・武成を神として祀ったのが当社の起源であるとしている。ただこの伝承はかなりの無理があるように見え、仏教普及の方便として流布したものと考えられる。
 では事実はいかなる経緯があったのだろうか。ヒントは土師氏と桧前氏だ。土師氏は有名な野見宿禰の後裔とされ出雲臣系である(天穂日命→建比良鳥命→野見宿禰)し、桧前氏は続日本後紀では武蔵国の「桧前舎人」は土師氏と祖を同じくしとある。檜熊浜成と武成も桧前氏と同族かもしれないし、土師真中知とも同族、もしくはかなり近い親戚関係であった可能性が高い。つまりこの浅草神社の伝承からある時期土師氏と桧前氏は同族関係にあったと推測される。

 長幡部に関して文献上の長幡部氏には、皇別氏族と渡来系氏族が見られる。『新撰姓氏録』逸文の阿智王条では、長幡部の祖は帰化した「七姓漢人」のうち皀(こう)姓で、末裔に佐波多村主(さはたのすぐり)がいると記されている。また皇別氏族として『古事記』開化天皇段によれば、日子坐王(開化天皇第3皇子)の子・神大根王(かむおおねのきみ)が長幡部の祖とし、(三野国之本巣国造・長幡部連之祖)つまり美濃の本巣国造と同族であるという。
 常陸国、現茨城県常陸太田市に同名の長幡部神社が鎮座している。式内社で、旧社格は郷社。御祭神は綺日女命(かむはたひめのみこと)、多弖命(たてのみこと)。当社の創建について、『常陸国風土記』久慈郡条には「長幡部の社」に関する記事が載る。これによると、珠売美万命(すめみまのみこと)が天から降臨した際に綺日女命が従い、日向から美濃に至ったという。そして崇神天皇の御世に長幡部の遠祖・多弖命が美濃から久慈に遷り、機殿を建てて初めて織ったと伝えている。、『常陸国風土記』の記述からは皇別氏族として長幡部の由緒が記されていて、渡来系の逸話が見えてこない。

 賀美郡の長幡部神社は元々は渡来系氏族である長幡部氏が桧前氏と共に賀美郡に移住し、その地域の守護神として祀った社であろう。御祭神の天羽槌雄命や罔象女神 、埴安姫命等はその系統に入ると思われる。しかしある時期、少なくも天正年間に滝川一益の戦乱の際に兵火にかかり、社殿及び古文書のことごとくを焼失した1582年以降に茨城県常陸太田市の長幡部神社が賀美郡に同名の社を造ったのではないだろうか。この祭神の姫大神は綺日女命とも言われていて、また大根王は多弖命との説(多弖命の文字が、多尼命の誤字で、「おおね」に通じる)もある。常陸国長幡部神社の平成祭データには以下の記述がある。

 
長幡とは絁の名にて之れを織作るものを長幡部と云い、以前の倭文織よりも美しく丈夫であったので、後に及ぶまで神調として奉った。即ち御祭神の子孫がその遠祖を祭ったのが当社である。今関東一円に広がる名声高き機業は実にわが御祭神の流れを伝えるものと云えます。

 ここではハッキリと倭文織と織り方の区別がされて、関東一円の織物の源流がこの常陸国長幡部にあることが記されている。上記の真偽の程はともかく、織物の伝播とともに長幡部という名前もその御祭神もこの地に移った可能性もあるのではないだろうか。


                                             

                                                      境内社 稲荷社等

                                 大正二年(1913)に稲荷神社(海老ケ窪),諏訪神社(中長),皇大神社(柳町)を合祀した。










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 武蔵国賀美郡は式内社が4座あったというが、その中の長浜地区の小さなエリアには式内社と比定されている論社が2社存在している。長幡部神社と皇大神社である。この2社は神流川に沿って南北に鎮座していて、元々は神流川を神として祀っていた社なのではないかと考えられられる。というのも皇大神社が鎮座する長浜字久保の「久保」は「窪」が原語であると考えられ、蛇行していた神流川の曲がりくねった跡が窪地となり、後代その地に人々が暮らしていく過程でその地域の特徴である「窪」が「久保」と改名されたと現時点では筆者は推測する。



                               長浜久保皇大神社
                                        地図リンク

                                             

                                    
                                            所在地   埼玉県児玉郡上里町長浜494

                                            御祭神   大日女貴命(天照皇大御神)

                                            社  挌   式内社今木青坂稲実荒御魂神社論社
                                                    式内社今城青八坂稲実池上神社論社
                                                    旧村社

                                            例  祭   10月19日 秋祭り  3月19日 例大祭


 
 
 長浜久保皇大神社は、埼玉県児玉郡上里町と神川町との境である長浜地区久保に鎮座している。非常に狭くコンパクトに纏まった社という印象。駐車スペースはあるにはあるが、神社の境内にある集会所の手前にあり、そこに停めると後々写真撮影時に困ったことになるので、社殿とそこに沿ってある道路の間に多少のスペースがあるのでそこに駐車して参拝を行った。

                               


 元々は神明社と呼称していた。かつては当地に稲荷社(一説にはこの稲荷社こそ式内社とも言う)が祀られていたというが、いつのころか長幡部神社(式内社)に合祀され、その後に神明社が祀られ、明治期に皇大神社となったという。
 当社も明治41年に長幡部神社(式内社)に合祀されたが、社殿等はそのまま残され、大東亜戦争後に当地に遷座され皇大神社として復したという。


                               

                                   
  長浜久保皇大神社社殿                    社殿内部                        

 上里町長浜にはこの皇大神社と同名の社が近隣に鎮座しているが、久保の皇大神社が街道沿いにある関係から式内社の論社と思われるが確信はない。武蔵国にあって北部賀美郡の式内社の比定が非常に難しいのは、過去度々発生した自然災害による社の消滅や古文書の紛失、または社自体の移動、それに後世の執拗に合祀を繰り返した結果ではないかと考えられる。


                                             

                                                      境内にある境内社










                                            もどる                   toppage
                  




 

丹生神社  地図リンク

 

                                             


                                              所在地    埼玉県児玉郡上里町長浜1294

                                              御祭神    埴山比売神 少名彦命 菅原道真

                                              社  挌    無各社

                                              例  祭    3月19日(近くの日曜日) 春祭り


 
 丹生神社は長幡部神社の西側約500mの場所に鎮座していて、目の前には神流川の土手が見える。案内板から明治41年長幡部神社の境内社に移転したが、昭和22年近隣の氏子の希望により旧地のこの場所に遷されたという。


                               

                                    社殿の手前右側にある案内板                  社   殿

                                             

                                                    社殿の右側にある境内社

 境内社というよりもその手前にある石段に注目した。どう見ても古墳の石棺にしか見えない。上里町では、古墳時代の人が住んだ住居跡や村が発見されている。特に古墳時代後半の6世紀の村の跡(集落跡)が見つかっていて、このほかにも、帯刀や神保原・長浜・七本木・大御堂には、豪族の墓である古墳が数多く造られている。この石段も嘗てあった古墳の名残りだったのだろうか。









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 大御堂三嶋神社が鎮座する大御堂地区は、地形上本庄台地に属する。この本庄台地は北武蔵台地を構成する台地群の一つであり、他には児玉丘陵、櫛挽台地、松久丘陵、江南台地も含まれ、今から約3万年前に神流川によって運ばれた土砂が堆積(たいせき)した後に浅間山などから噴出された火山灰が積もってつくられたと考えられいる。この北武蔵台地一帯は渡来人による文化伝承も早く、利根川を挟んで毛国とも接している地域からか、重要な古墳や城が多い地域であり、また緑泥片岩の産地(長瀞・小川)が近い為、県内の殆んどの板碑がここに集中して存在している。


大御堂三嶋神社  地図リンク 

                                             


                                             所在地    埼玉県児玉郡上里町大御堂1131

                                             御祭神    大山祇神、事代主神

                                             社  格    旧村社

                                             例  祭    10月19日 秋祭り


 大御堂三嶋神社は埼玉、群馬県道22号上里鬼石線を七本木神社から丹荘駅方向に進み、三和西交差点から南西方向1㎞位の場所に鎮座している。大御堂地区の集落の西端にあたる場所だ。

                               

                                       三嶋神社一の鳥居                 由緒の書かれた案内板

三嶋神社  御由緒       上里町大御堂1131―1

 当社は西大御堂集落の西端の字三島西に鎮座する。祭神は事代主神・大山祇神の二柱で、境内の欅や杉などの木々が、鎮守の森にふさわしい景観をなしている。
 当社の創建年代は明らかではないが、吉祥院の境内にあったものを明治初年の神仏分離に際して現在地に移転したという。吉祥院は大同元年(806年)の創建と伝わる真言宗の古刹で、阿保山真光寺と号し、開基は小野氏で、後に阿保城主安保肥前神田忠実が中興したと伝える。古くから阿弥陀堂、薬師堂、大師堂、十王堂、大黒堂、経蔵、二天門等を完備し、特に阿弥陀堂は「風土記稿」に「村内吉祥院の境内に立る阿弥陀堂、古への大伽藍なりし頃、大御堂と呼しより村名にもあはせしと云伝ふ」と村名の由来となったことが紀されている。更に、同書の大里郡久下村(現熊谷市)の項などによると、同村東竹院の嘉禄三年(1227年)五月日の年紀をもつ鐘銘に「奉鋳 武州賀美郡阿部村真光寺鐘右志者為信心大壇那小野氏沙弥妙阿弥陀仏」とあり、この鐘は戦国期に軍勢により奪取され、のち久下村で掘り出されたものであるという。この吉祥院の創建の古さから推して、その境内に村の鎮守として祀られていた同社も同様に古い勧請をうかがわせる。
 明治3年に覆屋を再建し、同5年に村社となり、大正4年に御即位記念として拝殿を新築し、昭和2年には社務所を新築した。
                                                                                                          案内板より引用

                               

                                          社殿覆屋                    社殿の左側にある境内社

                                                                            

                             意図して撮ったわけではないが、社の回りは鎮守の森としてふさわしい欅等の大木がそびえ立っていた。
                                       参拝日平成26年5月末。新緑の生える気持ちの良い参拝を満喫した。











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