神社は通常風水によって「子坐午向」に造られる。したがって真南または真東を向いているものがほとんどである。太陽信仰ともアマテラス信仰からであろうが古くから「天子南面す」と言われるように玉座は南、太陽の方角を向いていた。しかも、神社のほとんどが本殿に神の依り代として「円形の鏡」を置いている。正円の鏡は、その形はもちろん、輝きという意味でも太陽を模している。つまり「アマテラス=鏡=太陽」という構図が成立するわけだ。ゆえに社の方角も同じように南を向くのが多い。

 しかし中には真北に方向を向いている社も少数ながら存在することも事実で、特に有名なのは茨城県鹿嶋市に鎮座する鹿島神宮だ(但し断っておくが鹿島神宮の場合、社殿は北向きだが、本殿は東向きとなっている)。時の朝廷の権力が届きにくい東北地方を神威によって治めるという意味もあるらしい。

 旧東児玉村の村域(下児玉村、小茂田村、阿那志村、関村、沼上村、南十条村、北十条村、根木村)には、北向という変わった名前の神社が多く鎮座する。新編武蔵風土記稿の児玉郡十条村に”薬師堂:鎮守北向明神の本地なり、貞享五年、時の住僧記せし縁起に、坂上田村麻呂将軍、上州赤城明神の本地薬師へ祈誓し、十条淵の大蛇退治の後、郡内当村及沼上・阿那志・小茂田・下児玉村の五村に彼明神を崇て、本地薬師を当寺に勧請せしなど云事を載たり”(以下中略)とある。

 美里町沼上地区に鎮座する沼上北向神社も、赤城大明神を祀る北向神社五社のうちの一社と言われ、延暦15年(796年)に坂上田村麻呂が創建したと伝えられる古社だ。江戸時代には沼上村の鎮守社、明治5年に村社に列格、明治40年に宇桑中の稲荷神社を合祀、大正2年に字上宿の玉手長男神社と字南の稲荷神社を境内に遷座したという。

目次  沼上北向神社 / 北十条北向神社 / 古郡北向神社 / 小茂田北向神社 / 阿那志河輪神社(武蔵国 式外社、国史現在社)
    



                               沼上北向神社
                                      地図リンク
               
                                              


                                              所在地     埼玉県児玉郡美里町沼上1

                                              御祭神     大巳貴命、素盞嗚命、少彦名命

                                              社  挌     旧沼上村鎮守 旧村社

                                              例  祭     例祭日10月19日


 沼上北向神社は埼玉県道75号熊谷児玉線を旧児玉町方向に進み、身馴川公園交差点を左折して道なりに真っ直ぐ進むと、左側にこんもりとした北向神社の社叢が見えてくる。旧別当の長福寺の西脇から参道が始まり、50mほど進むと、美里町で最も大きいといわれる木造の両部鳥居〔高さ5,5m、幅3,65m)があり、正面に「正一位北向大明神」の社号額が掛かっている。
 駐車場は一の鳥居から長い参道があり、その終点である社叢入口に社務所があり、そこに駐車スペースがあるのでそこに停めて参拝を行った。

          
        

              長福寺の西隣のT字路沿いにある北向神社の社号標 社号標の道路の左側には長福寺のこんもりとし    美里町最大の一の鳥居という大鳥居
                                                   た塚(古墳か?)や大木があった。

                                

                            一の鳥居を200m程進むと北向神社の社叢が見えてくる。       参道右側にある神楽殿

                                

                                          拝    殿              拝殿正面上部にはこの社の由緒が書かれた
                                                                      額が掲げられていた。

 当社は祭神大巳貴命、素盞嗚命、少彦名命に明治40年桑中稲荷神社を合祀四柱である。社伝によると創立は桓武天皇の延暦15年(796)7月坂上田村麻呂とあるから、凡そ千二百年に垂んとすることになる。。主要建物は社殿即ち本殿・幣殿・拝殿から成り、其の他透塀、神楽殿、祭器庫、社務所等である。境外参道に横開き12尺高さ18尺欅造銅板葺の当社が誇る大鳥居がある。この注連縄行事は毎年秋の例祭前に行われ、昭和53年美里町指定文化財となる。社殿は正親町天皇の永禄年間(1558-1570)に再建された後後櫻町天皇の宝暦6年(1576)に改築されたと伝えている。従って其の外幾度かの補改修があって近世に至っていることは想像に難くない。明治以降社殿改修の経緯を見ると、同32年氏子奉賛金千五百円を以って本殿幣殿屋根を銅板葺に、昭和13年拝殿屋根葺替、同34年の伊勢湾台風及び同41年の台風に御神木杉目通10尺を始め老杉古木の倒伏折損に因る損壊箇所の復旧、同56年社務所再建、同57年拝殿屋根等改修葺替、平成2年御大典記念事業として、大鳥居基礎改修工事、同4年神楽殿解体修理及び祭庫屋ね葺替等、相次いで境内外建物の補改修を行う。
このたびの社殿等改修事業は、本殿等其の老朽化に因る屋根の下地柱梁等の腐食虫害による他、昨年9月発生した突風に因る破損箇所の復旧と併せ改修し、悠久の歳月を先人累代が保全管理し遺された事蹟を想い、この貴重な文化財を後世に承継すべきと氏子奉賛により、茲に総工費七百三十余万円を以て竣功した。
本殿遷座祭3月28日早旦社殿を装飾、午後7時仮殿所定の祭事に次いで庭燎等消火消燈浄閉程に、前陣松明を先導に所役丈夫威儀物を奉持絹垣に囲まれ宮司「御」を奉載続いて献幣使区長総代参列者本殿に参道入御、奉遷し大儀を斎行退出する。
茲に竣功を祝し曾てない多勢の協力、又所役の大任に従い滞なく、前代未聞の威儀を了たことは感慨に価するものがある。
                                                                                      境内北向神社社殿改修委員会石碑より引用

                                

                                                       沼上北向神社本殿

 沼上北向神社 由緒

 沼上の地は身馴川南岸の水田地帯に位置する。地内にはかつて条里制遺構が見られたほか、地内の水殿と呼ぶ辺りに水殿瓦窯跡(国指定史跡)がある。この窯跡で生産された軒平瓦・平瓦は鎌倉永福寺(注、廃寺)の寛元-宝治年間(1243-49)の大修理に使用されており、一三世紀中ごろに操業していたと推定されている。更に、字宮下には奈良・平安期の集落跡があり、土師器・須恵器が出土しており、古くから開かれた地であったことをうかがわせる。
当社は主祭神として素盞嗚命・大己貴命・少彦名命の三柱を祀り、地内の一番南にある字宮上に北向きに鏡座している。旧別当の長福寺の西脇から参道が始まり、五〇㍍ほど進むと、美里町で最も大きいといわれる木造の両部鳥居〔高さ五・五㍍、幅三・六五㍍)があり、正面に「正一位北向大明神」の社号額が掛かる。更に二〇〇㍍ほど進んで行くと、杉・檜・欅・樫などの木々に閉まれた本社が現れる。
社伝によれば、延暦15年(796)に坂上田村麻呂将軍が東征の途次、身馴川の水底に棲む大蛇を退治しょうとした時、上野国(群馬県)赤城明神の神霊を感じて児玉郡内に五社の北向神社を勧請し、当社はその内の一社であるという。ちなみに、他の四社は阿郡志・北十条・小茂田・古郡の各大字に祀られている。また、永禄年間(1558-70)と宝暦6年(1756)に社殿の再建を行った。更に、安永5年(1776)7月11日には正一位の神階を授けられて「正一位北向大明神」と唱え、同時に金幣一体を奉安したという。この時に神祇管領吉田家から受けた霊璽が現存している。
安政4年(1857)の「奉納土俵之式證状之事」(社蔵文書)によると、当時五穀成就の祭りに例年相撲を行っていたという。
「風土記稿」沼上村の項に当社は 「北向明神社 村の鎮守にて長福寺の持、末社 諏訪愛宕金毘羅 山神 牛頭天王 八幡 弁天 天神」とある。更に別当の長福寺については「新義真言宗、那賀郡広木村常福寺末、瑠璃光山薬師院と号す、本尊大日を安ず、又傍に北向明神の本地薬師を置り、当寺は名主利右衛門が先祖、九左衛門義長なるもの逸見上総介光長の苗裔にて、武田家滅亡の後当所に跡をかくし、かの明神の本地崇信のあまり、慶長2年(1597)一宇の堂を創建せり、因てこれを開基と称す(後略)」とある。一方、現在当社の宮司を務める瀬戸家には、文政3年(1820)11月16日付で神祇管領から正一位北向大明神社人瀬戸喜兵衛源豊広に出された神道許状を所蔵していることから、往時から実際の祭祀は瀬戸家が司っていたものと思われる。
当社は明治5年に村社となり、同40年には宇桑中の稲荷神社を合祀した。更に、大正2年には字上宿の玉手長男神社と字南の稲荷神社を境内に移転した。

                                                                                           埼玉県神社庁「埼玉の神社」より引用

                                

                                          稲荷大明神                                             手長男神社

                                

                                           
末社群                    社殿の手前東側にあった社日

 この美里町沼上地区にはかつて条里制遺構が見られたほか、地内の水殿と呼ぶ辺りに水殿瓦窯跡(国指定史跡)がある。この窯跡で生産された軒平瓦・平瓦は鎌倉永福寺(注、廃寺)の寛元-宝治年間(1243-49)の大修理に使用されており、一三世紀中ごろに操業していたと推定されている。


                                                

                                                     水殿瓦窯跡(国指定史跡)

 水殿瓦窯跡

この窯は鎌倉時代のもので、この付近の粘土を使い、ここで瓦を焼いたものです。
この窯跡から斜格子文様の平瓦や剣頭文の軒平瓦が発見されています。
窯の長さは3.3mで函窯と焚場からできていて、函窯は、巾1.1m、奥行1.15m、深さは前壁で1.2m、後壁1.15mです。底に四条の縦溝と三本の畔があります。溝は前方の焚場に通じ、火気を呼ぶようにつくられています。奥壁の上部から24cm、下方に約6cm角の穴一個があり、煙出しとなっています。
平成元年に確認調査が行われ、この窯の東側に、並行して更にもう三基の窯が発見されています。
                                                                                              美里町教育委員会掲示より引用

                                               

                                                         十条条里遺跡

 大化の改新の制により実施された班田収受法の珍しい遺跡で、地名ともなっている十条の名は、南より第十条にあたるところで、現在はその碑が残っている。県史跡に指定。





 




                                             もどる                   toppage  








   

 旧東児玉村の村域には、北向という一風変わった名前の神社が多く鎮座する。名前通り北向きの神社であり、その本拠地が北十条であるという。新編武蔵風土記稿の児玉郡十条村に”薬師堂:鎮守北向明神の本地なり、貞享五年、時の住僧記せし縁起に、坂上田村麻呂将軍、上州赤城明神の本地薬師へ祈誓し、十条淵の大蛇退治の後、郡内当村及沼上・阿那志・小茂田・下児玉村の五村に彼明神を崇て、本地薬師を当寺に勧請せしなど云事を載たり(以下略)”とある。当寺とは慶昌寺のこと。

 武蔵国郡村誌には、下児玉村を除く四村と那珂郡古郡村に北向神社が記されていて、その祭神はスサノオ、大己貴、少彦名である。


                              北十条北向神社
                                      地図リンク
                                                                         北向き神社の本拠地とされる社

                                              


                                             所在地     埼玉県児玉郡美里町北十条695

                                             御祭神     大巳貴命、素盞嗚命、少彦名命、大雷命

                                             社挌、例祭   不明


 北十条北向神社は沼上北向神社の北側、埼玉県道75号線を身馴川公園交差点から熊谷方面に向かい、最初の交差点(コンビニエンスが斜向かいにある)を左折し300m位進むと右側に見えてくる。ちなみにこの県道75号線を熊谷方面に進むと左側脇に十条条里遺跡(県指定史跡)の碑が建っている。条里とは律令時代の班田収授の法に基づく土地の区画整理のことであり、北十条から南十条の一帯には昭和20年代まで、条里の跡が残っていた。

 十条という地名も条里制に由来するのだという。残念なことに現在は、耕地整理によって条里は消滅している。


                                

 『風土記稿』十条村の項に「北向明神社 鎮守なり 慶昌寺持」と載る。その創建については、貞享五年(1688)の奥書のある慶昌寺薬師堂の縁起に「昔、坂上田村麻呂が上州赤城明神の本地仏である薬師如来に祈誓し、身馴川(現小山川)の十条淵の大蛇を退治した後、郡内五か所に赤城明神を崇めて祀った」旨が記されており、当社はその内の一社であるという。

                                

                                                社殿の両側にある境内社(写真左、及び右)

 ところで北十条地区の東側には「阿那志(あなし)」という変わった名前の大字がある。中世からの郷名であり、この地の阿那志は慶長期(1600年頃)まで穴師郷穴師村と表記していた(武蔵国郡村誌8巻、p.69)、穴師とは鉱山などで金属の採掘を業とした人々を指すのだという。その関係だろうか、児玉町金屋は鋳物製造が盛んであった。
 近隣の榛沢村は榛の木が群生する湿地だったことが、地名の由来だというが、榛の木は燃やすと火力が強いそうなので、鋳物製造の燃料に最適である。水や砂は小山川から供給できるので、金屋は産業立地の条件が揃っていたことになる。

阿那志 アナシ 阿部族の首領を阿部志、磯族の首領を伊蘇志、渦族の首領を宇都志、阿那族の首領を阿那志と称す。すなわち穴族の渡来集団居住地を穴郷、穴師村、阿那志村と云う。近江国安那郷(草津市穴村)に安羅神社あり、アナはアラとも称す。アナベ、アナホ、アラ参照。児玉郡阿那志村(美里町)あり、当村、根木村、関村は阿那志郷を唱え、穴師とも記す。金沢文庫に¬文永十一年十一月、冨安新里・同阿那志村」と見ゆ。

                                                                                                                             埼玉苗字辞典より引用

 不思議とこの付近には金鑚神社が多く分布している。武蔵国ニ宮 金鑚神社(神川町ニノ宮)は、祭神は金山彦或はスサノオであり、金山彦命は鍛冶職や鋳鉄業者の信仰を集めた神であり、金属精錬との関連が深い。

 「金鑚」の語源は砂鉄を意味する「金砂(かなすな)」に求められ、神流川周辺で、刀などの原料となる良好な砂鉄が得られた為と考えられている。また、御嶽山から鉄が産出されたという伝承もある。『神川町誌』に記述される一説として、砂鉄の採集地である「鉄穴(かんな)」を意味するものという説もある。これは金鑚神社の西方に神流川が北流している事による説である。語源については諸説あるが、古代に製鉄と関わりがあったとする点は一貫していて、現在も神流川は砂鉄が多い。

 ただ砂鉄は鉱山を必要としないので、その遺跡を求めることは難しい。又たたら(小規模製鉄所)の発見もされていない。児玉党の児玉は、「鋼の塊」を意味すると言う説もある。だが、どれも決定的証拠にはなり得ず、「噂」の域を超えない。幾つかの地名がその説についてのわずかな根拠を提示しているにすぎないのが現状だが、真相はいかがなものだろうか。










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 美里町古郡地区の「古郡」の地名の由来は、律令時代に武蔵国那珂郡の郡家(郡役所)があったことに由来するそうだ。但し武蔵国で確認されている群家は都筑、橘樹、豊島、幡羅、榛澤の5郡だけであり、那珂郡の群家が古郡にあったという確証があるわけではない。ただ美里町は武蔵国の中でも早くから開発されていた地域の一つであり、町の東北部の諏訪山と呼ばれる丘陵の裾部に築かれた直径約50mの円墳である長坂聖天塚古墳を始め、近隣の十条地区には十条条里遺跡、また沼上地区の水殿瓦窯跡、広木地区にある「曝井(さらしい)」と呼ばれる遺跡など、「埼玉の飛鳥」という呼称にふさわしい遺跡の宝庫でもある。

 ところで郡家の認定基準は、地理的条件、歴史的環境、遺構の種類・規模・配置・遺物等から総合的に判断される。出土遺物がほとんどなくとも大型建物群が規則的に配置されたり、建物群が貧弱でも、官衙に関わる木簡や墨書土器が大量に出土するなどすれば、それらの遺跡は群家かそれに近い官衙遺跡と判断される場合もあるようだ。

 上記の判断基準を参考に那珂郡の群家の立地地区を考えてみると、遺跡こそ多いが、群家に相当する大型建物群や、木簡および土器等の大量出土した遺跡がなく、絶対的な場所が特定できず、判断に苦しむところだ。わずかに「古郡」という地名だけが嘗てこの地に群家があったことを伝えているにすぎない。



                                古郡北向神社
                                      地図リンク

                                                                     
拝殿の煌びやかな彫刻は全北向神社随一  


                                              


                                            所在地    埼玉県児玉郡美里町古郡257

                                            御祭神    大巳貴命、素盞嗚命、少彦名命

                                            社  挌    旧指定村社

                                            例  祭     不明 


 古郡北向神社は埼玉県道31号本庄寄居線阿那志交差点を寄居方向に南下し、しばらくすると左側に当り一面田園風景の中にポツンとこの社の社叢林が見える。但し社に進む進入路が途中から舗装されてい無く、また車一台が進むほどの車幅しかないのには少々驚いた。また専用駐車スペースもないようなので、一の鳥居を越えた場所のわずかな空間に停めて参拝を行った。

                               
 

                               古郡北向神社正面一の鳥居は狭い空間上にあり、         赤を基調とした社殿
                                      その中に社殿は存在する。

                          この社の彫刻類は時代とともに彩色も剥げてきているが創建当時は相当に素晴らしかったのではないかと思われる。


                  

                  向拝、蟇股部に飾られた煌びやかな彫刻       拝殿正面 蟇股部上、下部にも彫刻が       拝殿正面、また側部にはいたるところに
                                                                                   鮮やかな彫刻が施している。


                                              

                                この社は、規模はさほど大きくはないが、拝殿部の煌びやかさは他の北向神社を遥かに凌駕する。

                                

                                                    古郡北向神社本殿(写真左、右)

  古郡北向神社

 当社の鎮座する大字古郡は、その地名が表すように、古代の那賀郡の郡役所としての郡家が置かれたことに由来するという。また、武蔵七党の猪俣党の一族、古郡氏の本拠地でもあった。
当社は社号が示すように真北を向いて鎮座しており、この向きは霊峰赤城山の最高峰黒檜山(1828m)を見据える形になっている。
 創建を明確にする記録は伝えられていないが、当地黄檗宗日光山安光寺に残る寛延元年(1748)の鐘銘及び宝暦元年(1751)の「武蔵国那珂郡古郡村日光山安光寺記」には次のように記されている。
坂上田村麻呂が征夷大将軍として蝦夷征討へ赴く途次、上野国緑野郡勅使河原に陣を設けた折、身馴川の十丈の淵に棲む神竜(大蛇)が川を渡る者を水死させることから、人々が往来に困っていることを聞き、日光山(同寺の裏山か)より赤城大明神に誓願をなし、大蛇を退治できた。よって、誓願の通り川上に江の浜の虚空蔵、川下に薬師四仏、北向大明神五社(古郡・阿那志・小茂田・沼上・北十条)を建立し、大蛇の尻尾を埋めた跡に同寺を建立した。なお、同寺は永禄年中(1558-70)に焼失したため、当社の別当は真言宗光明寺が務めていた。現在の安光寺は元文年中(1736-41)の再興である。
 明治40年に宇森浦神明神社、字下耕地二柱神社、字六所六所神社を本殿に合祀、字森浦の愛宕・諏訪・雷電の三社を境内に移転した。
                                                                                                                                             埼玉県神社庁「埼玉の神社」より引用

                                

                                 愛宕神社 聖天社 諏訪神社 天手長男社           秋葉神社 八坂神社
                                      雷電社 八幡大神 弁天社
 


                                
                                              
                                  社殿の右側にある社日と仙元大日神           社殿の奥にある磐座(陰陽石)


                                              

                                                   社殿の左奥にある明神社と御神木




                                            

                                             もどる                   toppage






 北向神社は「沼上」、「北十条」、「古郡」の他、この「小茂田」地区にも存在する。この「小茂田」という地名は、金沢文庫文書に「文永十一年(1274年)十一月、阿那志・近吉・薦田」と見られ、鎌倉時代にはその地名はあったことがこの書物によって判明している。またこの「小茂田」という地名の起源は、武蔵七党の児玉氏の一族である「薦田氏」から発祥しているともいい、小茂田村勝輪寺文書に「児玉党、家長、頼家、西本庄三郎朝次、その子薦田次郎時次・当地持地山勝輪寺日天山創立代々香花院とす。明徳二年八月建之石塔あり、児玉党西本庄三郎朝次子孫薦田氏旧縁の寺なり」と記述されている。
 美里町小茂田地区は美里町の北部に位置していて、地理的には児玉、本庄地域に近い。そんな小茂田地区の小高い場所の一角に小茂田北向神社は鎮座している。



                              小茂田北向神社
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                                            所在地    埼玉県児玉郡美里町小茂田4-1

                                            御祭神    大巳貴命、素盞嗚命、少彦名命

                                            社  挌    旧村社、旧小茂田村鎮守

                                            例  祭    春例祭4月5日、秋祭り10月15日


 小茂田北向神社は埼玉県道31号本庄寄居線と埼玉県道75号熊谷児玉線が交差する阿那志交差点を本庄方向に北上し、関越自動車道を過ぎた下十条交差点を右折するとすぐ左側に緑に囲まれた社叢が見える。周囲は田園地帯ながら、この社の周りだけ若干小高い丘陵地となっていて、その丘陵地上に鎮座している。社の回りの社叢は存在するが、境内は日当たりがよく、参道には玉砂利が敷かれている。

                                              

                                                     小茂田北向神社一の鳥居
                                                境内は綺麗に整備されていて、立派な神社


                                

                                   参道には比較的広い空間が広がる            参道左手にある小茂田池

         
 延暦15年(796)7月に坂上田村麻呂が創建したと伝えられる五社(沼上北向神社・阿郡志河輪神社・北十条北向神社・小茂田北向神社・古郡北向神社)ののうちの一社と比定されている。江戸時代には小茂田村の鎮守社となっていた。明治40年に近在の神社を境内に遷座したという。



                  

                         拝殿前にある由来書                     拝    殿                         拝殿内部

 北向神社 由緒書

 

 北向神社は、古代から小茂田地区の鎮守様であるとともに、「北向様」と呼ばれて、近在近郷の人々からも広く崇敬されてきました。
 社伝によりますと、桓武天皇の時代である延暦20年(801)に、征夷大将軍坂上田村麻呂が、蝦夷平定のために東北地方に出陣した折り、当地を訪れておまつりしたといわれています。
当時、近くを流れる身馴川(小山川)には、周辺の村々の田畑を荒らし廻わり、人々を苦しめる大蛇が棲みついており、坂上田村麻呂は上野国(群馬県)赤城山の神霊である赤城大明神の霊威をいただき、みごと大蛇を退治することができたという伝説が伝えられています。坂上田村麻呂は、小茂田をはじめ、沼上・十条・阿那志・古郡の五か所に、赤城大明神の神霊を、赤城山に向かって、北向きにおまつりしたため、北向大明神とか北向神社と称されるようになったといいます。地元の人々は、五か所にまつられた北向神社を総称して、「五社の明神」と呼んでいます。
 北向神社は、邪気を祓い、人々の幸福を願う節分蔡行事で有名ですが、五穀豊穣や厄除開運をはじめ、勝利祈願や安全祈願にも霊験あらたかといわれています。また、氏子の人々によって鎮守の森が保護され、自然環境を大切にしておまつりされています。
祭神 大己貴命、素戔嗚命、少名彦命(以下中略)

                                                                                                        案内板より引用

                   

                        小茂田北向神社本殿         境内社 左から八坂、神明、天満天神、稲荷神社     境内社 厳島、山之神、大国、三嶋、八雲神

                                              

                                                   社務所も兼務している惟神祖霊社

 当地は身馴川(小山川)と志戸川の問に位置し、条里制の遺構がある。古くは薦田(こもだ)と記し、真薦が繁茂している田を意味していたと思われる。文永11年(1274)11月の「大嘗会雑記配賦」には「薦田」と記されている。また、武蔵武士児玉党薦田氏の本質地と伝えられ、仁安3年(1168)には児玉党庄氏の家長庄太郎が社殿を再興し深く崇敬したという。元和3年(1617)5月には酒井下総守が徳川氏より小茂田村五百石を宛行われた。以後幕末まで旗本酒井氏の知行地となる。
 当社は身馴川の古い段丘状の微高地に位置し、いわゆる北向五社の一つである。社伝によると、桓武天皇延暦20年(801)に坂上田村麻呂が蝦夷征討の折、当地方に立ち寄り、身馴川宗鑑に棲みついて周辺村々の田畑を荒らし回る大蛇を退治しようとした際、上野国赤城明神の神霊を感じ、大蛇を退治できたという。よって児玉郡内五か所に赤城明神を勧請して祀り、北向明神と称したという。当社はその内の一社である。
 当社の祭神は、須佐之男命・大己貴命・少彦名命の三柱である。江戸時代初期から幕末まで領主旗本酒井家の信仰厚く社殿改修を進めたが、元文4年(1739)12月17日に「池魚〔古くより社有地に灌漑池あり)の災い」による大火に遭い、社殿・古文書類ことことく灰燼に帰した。その後、酒井家や氏子の努力で社殿が再興された。また、天明年間(1781-89)には天候不順や浅間山大噴火などで大飢饉に見舞われたが、鳥居を奉納することでその難から逃れられるようにと願った氏子たちが天明3年(1783)に石鳥居を建立したと伝える。
 安政5年(1858)に至り、白川家御近習関東出張所出役の中嶋数馬〔岡本一馬利貞)が、名神大社金鑚神社に派遣奉職し、併せて当社の神主となった。
 境内社は稲荷神社・神明神社(伊勢神社)・天満天神社(菅原神社)・八坂神社・阿夫利神社・八雲神社・三島神社・大国神社・山之神社厳島神社である。多くの境内社が明治40年4月23日に移転された。 稲荷神社は元来の境内社に字下児玉東の伊那利神社を合祀し昭和32年に外宇を改修した。神明神社は字日之待西の伊勢神社を移転し昭和19年に神明神社と改称した。天満天神社は字下児玉東の伊那利神社境内社菅原神社を移転し社号を改称した。八坂神社は大字南口の八雲神社を移転し社号を改称した。阿夫利神社は本社創立の際に勧請したといい、文久2年(1862)銘の石宮である。三島神社は宇三島南、大国神社は字権現塚、山之神社は字太子宮、厳島神社は字阿郡志境からそれぞれ移転したものである。明治時代以降の社殿等の改修は、明治12年に拝殿再建、昭和38年に石鳥居再建、同51年に外宇営繕、平成8年に社務所再建を実施している。
                                                                                           埼玉県神社庁「埼玉の神社」より引用


                                  

                                        一の鳥居のすぐ南側にある銀杏(写真左)と松(同右)








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 河輪神社は志戸川の湾曲した流れに面している字上川輪先の諏訪山に鎮座している。河輪という一風変わった地名の語源は曲流を意味し、志戸川の曲がりくねっている内側にある低地を意味しているという。
 嘗てこの河輪地区には河匂(かわわ)氏という豪族がこの一帯を領有していたという。河匂氏は武蔵七党の猪俣党の流れを汲む豪族で、小野篁の末裔を称す横山党の一族である。この河匂氏は児玉郡の古郡と阿那志の間にある川輪に住んだことから河匂と名乗ったと云われている。
 美里町にある諏訪山の河輪神社の社伝によると武蔵七党の一つ猪俣党河匂氏の本貫地として、河匂七郎、河匂左京進入道等の子孫代々の信仰を得て社殿の造営を行ったという。


                               阿那志河輪神社
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                                                                     武蔵国式外社、国史見在社 河輪神社

                                              


                                         所在地    埼玉県児玉郡美里町阿那志1663

                                         御祭神    淤迦美神 (相殿)健御名方命、八坂刀売命

                                         社  挌        武蔵国式外社、国史現在社  阿那志村鎮守

                                         例  祭    不明


 河輪神社は一説によると『日本三代実録』に「清和天皇の貞観17年(875)12月5日、武蔵国正六位上河輪神に従五位下を授く」と記されているが、この河輪神が阿那志河輪神社という説もある。ただ横浜市都筑区川和町に鎮座する川和八幡神社も同じ武蔵国にあり、神社を祀る場所の字名を河輪森といい、中世文書等に小机川和,小机河輪郷とみえる古地名であり。神社近くを流れる谷本川は,かつて蛇行がひどく、神社は蛇行地点の原に祀られていた。中世の古道鎌倉道は,神社付近を通過していたらしい。ここも古くから河輪神社と主張していて現在どちらが真の河輪神社であるか不明だ。
 
 河輪神社は武蔵国の多くの神社の中にあって、俗にいう式外社(しきげしゃ)と言われている。この式外社というのは、平安時代編集された延喜式神名帳に記された全国の神社の意味を持つ「延喜式内社」または単に「内社」と言われる社に洩れた神社で、当時すでに存在したが延喜式神名帳に記載がない神社を式外社といい、朝廷の勢力範囲外の神社や、独自の勢力を持った神社等が含まれるという


                  

 
 まず諏訪山の麓から平野部にかけて河輪神社の参道は伸びている(写真左)。河輪神社一の鳥居(同中)と奥に伸びる参道(同右)。標高113mの頂上まで石段を登ることになる。登り詰めると鮮やかな赤い社殿の河輪神社に着く。この参道は昼間でもほの暗く、第一印象とても武蔵国の由緒ある式外社とは思えない。

                                              

                                            やっと社殿が見えてくる。社殿は諏訪山の山頂部にあたる。

 河輪神社が鎮座する諏訪山は美里町と寄居町の境界にあるが、独立した山ではなく、埼玉県道75号線を境にして北は山崎山丘陵、そして南側に諏訪山丘陵が広がり、その標高の一番高い場所が諏訪山と呼ばれている。


                                

                                     赤が基調の河輪神社拝殿正面             拝殿とその奥にある本殿

 境内は意外と広く、社務所や神楽殿などもあり、参道の寂しい印象とは対照的な趣のある北向きの社。だがその神聖な静寂とは別に、南側にはゴルフ場が広がる。同じ面でもこの人工的な緑はなにか異質でもあるが、逆に考えると古(いにしえ)の文化遺産と現代社会の風景の微妙なコントラストを直接的に感じることができる貴重な体験も同時に味わうことができた。

 河輪神社

  阿那志の鎮守河輪神社には淤迦美神外15柱の神々が祀られている。当社は三代実録に載っている河曲神社であると、伝えられる古いお社である。桓武天皇の御宇、延暦20年(801)、坂上田村麻呂が東北地方の反乱を鎮定する際に、当社に祈願して功を奏したという。清和天皇の貞観17年(875)12月5日に正六位の位階を授けられた。降って鎌倉時代には河匂左京進、畠山重忠、那須宗高等の武将が崇敬したことが口碑に残っている。徳川時代になって、慶長年中地頭安藤彦四郎が諏訪神を尊信して当社に合祀して、社号を諏訪神社と改称した。
  当社は盛夏旱魃になると、代官が近村の村吏を従えて祈雨祭を修行するのを例としたが、霊験最も顕著であったという。古文書類は元和年間の火災で全部焼失し、今は元禄16年(1703)の棟札が残っているだけだという。明治28年(1895)に再び河輪神社に改称して今日に至っている。

                                                                                                      美里町史より引用

 河輪神社の由緒
 

 当社は「三代実録」に記載されている「河曲神社」と想定され、いわゆる国史現在社と考えられる。鎮座地は志戸川の湾曲した流れに面している字上川輪先の諏訪山である。
  社伝によると、延暦20年(801)坂上田村麻呂が蝦夷征討の折、当社に祈願したという。その後、武蔵七党の猪俣党河勾氏の本貫地として、河勾七郎・河勾左京進入道等の子孫代々の信仰を得て社殿の造営を行った。次いで、慶長年間(1596-1614)には地頭安藤彦四郎が信州の諏訪神を合祀し、別当光勝寺を祈願所としてより諏訪神社と改称したという。以後、江戸時代は諏訪神社と称した。
  当社は雨乞いに霊験あらたかといい、干ばつ時には代官が近在近郷の官吏を従えて祈雨祭を実施し、旗本安藤氏より褒賞されている。
  明治19年には、社号を旧名に擬すとして社号改称願が県令に提出され、同28年に河輪神社に改称した。また、同33年と35年には郷社昇格願も提出されている。
  主祭神は淤迦美神で、合殿の神に健御名方命と八坂刀売命が祀られている。境内社は、三和神社・二柱神社・若宮八幡神社をはじめ、明治40年に字新井より移転した北向五社の一つである北向神社、字天神に祀られていた赤城神社・妙義神社・榛名神社・天手長男神社、同41年に字横手の御嶽神社、字塚田の富士仙元社を移転した。
                                                                                           埼玉県神社庁「埼玉の神社」より引用

                                

                               拝殿正面上部に飾られていた神社名を記した額          境内にある神楽殿
                                拝殿上部に飾られている額には神社の正式名
                                 「国史現在社河輪神社」と書かれている。

 ここに記されている「国史現在社」とは、10世紀の初頭にまとめられた《延喜式》には,全国で2861の神社,3132座の神名が記載されているが,そこに見える神社を後世式内社、また単に内社といい、式内社以外に六国史に名が記されている神社が391社あり,式外社であるが六国史にその名前が見られる神社のことを特にそれらを国史現在社といい、式内社に次ぐとされた。
 (但し式内社以外に六国史に名が記されている神社のほとんどが式内社であるため、通常は式外社として言われているようだ。)


  
                                

                                                   社殿の奥にある境内社(写真左、右)

 
 ところで河輪神社周辺には河輪神社古墳群が存在している。埼玉県の遺跡マップによると、諏訪山古墳群は帆立貝型古墳1基と12基の円墳で構成される。箱式石棺を主体とする古いもの間あるが大半は横穴式石室を主体としない古墳群。諏訪山は住人達の墓域であったのであり、古くから継続的に営まれた神聖な場所であったのだろう。
                         

                                              

                                          河輪神社社殿の左側にある径30mの円墳である河輪神社古墳

 諏訪山古墳群は諏訪山の稜線に沿って南西-北東に細長く広がっている。河輪神社古墳は諏訪山古墳群の中では、諏訪山古墳、諏訪山古墳2号墳に次ぐ規模の古墳。墳頂には「八海神社 御嶽神社 三笠神社」と刻まれた石碑が建てられている。この古墳は手入れがされていて、山中の古墳としては抜群に管理が行き届いていて、周囲を散策することができる。
 ちなみに諏訪山古墳は河輪神社から南西方向の諏訪山の屋根をたどるとある。径39m、後円部径30m、同高4m、前方部幅18m、同高1mの帆立型前方後円墳。旧岡部町と美里町の境界に位置し、舗装されていない道路によって後円部が分断され半壊状態となっている。年代的には埴輪の特徴などから5世紀終末期と推定される。近隣には長坂・河輪の両聖天塚があり、その有力首長の流れを受け継ぐ古墳であるかどうかは現在はっきりわかっていないという。 


                                

                                        境内にある御神木                参道の途中にあった立派な杉
                                                                 境内にある御神木より立派なため撮影。

 河匂氏は武蔵七党の猪俣党の流れを汲む豪族で、児玉郡の古郡と阿那志の間にある川輪に住んだことから河匂と名乗ったといわれている。この河匂氏の始祖は小野篁であるが、何故武蔵国北部に土着した横山党の一派でしかない河匂氏の信奉した河輪神社が武蔵国の式外社、または国史現在社として中央の正史に名を連ねているのだろうか。真にもって不思議な社だ。
 







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