寄居町から深谷市旧川本町辺りの荒川中流域右岸の台地(櫛引台地、江南台地)上には、男衾郡の式内社である出雲乃伊波比神社、小被神社、稲乃比売神社や、井椋神社等、由緒ある社や、鹿島古墳群のような古墳が多くあり、古代において発達した地域だったと推測される。
 それに対して荒川中流域左岸は旧花園町地域であり、町の殆どが櫛引台地上に位置し、現代では主に農業と造園が盛んな地域だが、古墳時代にはこの地域にも100基を超える小前田古墳群や黒田古墳群等があったという。

 その中の黒田古墳群は荒川の河岸段丘上に立地し、帆立貝形古墳と円墳30基以上で構成されていて、現存する古墳は1977年(昭和52年)4月1日付けで花園町(当時)指定史跡に指定された。黒田2号墳は全長41mの帆立貝形古墳で、6世紀末の築造と推定され、周溝からは形象埴輪片(人物・馬)が発掘されていて、前方部をほぼ真西に向けている。
 周堀のある2段築成の古墳である。また黒田17号墳はやはり6世紀末の築造で、直径22mの円墳。幅約6mの周溝が巡る。主体部は川原石を用いた胴張りのある横穴式石室で、全長5.24mである。副葬品は、大刀1、七窓鐔1、?2、鉄鏃10、刀子2、耳環1、ガラス製小玉46以上が出土した。なお墳頂部から高さ97.4pの完形の大刀形埴輪が出土しており、平成5年3月10日付けで埼玉県有形文化財に指定された。

目次  黒田豊榮神社  /  永田八幡神社  /  上原白髭神社  /  長在家稲荷神社



                               黒田豊榮神社

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                                                                       赤口神社はミシャグシ神か

                                              


                                              所在地   埼玉県深谷市黒田1497

                                              御祭神   伊弉諾命、伊弉冉命、埴山姫命

                                              社  挌   旧村社

                                              例  祭   10月14日 例祭(黒田のささら獅子舞)



 黒田豊榮神社は国道140号バイパスを花園インター方向に進み、黒田交差点のすぐ先の左折する細い道を曲がり、そのまま道なりに真っ直ぐ進むと、右側に社が見えてくる。開放感のある空間の中に鎮座する社で、荒川の土手がすぐ先にある。江戸時代初期まで「赤口神社」と呼ばれ、江戸時代初期の正保年間(1644〜48)の頃、現在地の字宮台に遷座されたという。

      
            

                         正面にある社号標石                 開放感のある明るい社             鳥居を過ぎてすぐ左側にある神興庫

                                

                        神興庫、社務所の並びにある獅子頭新調記念碑(写真左)と社殿の右で道路側にある「黒田のささら獅子舞」の案内板(同右)

  黒田のささら獅子舞    所在地  花園町大字黒田地内

 黒田のささら獅子舞は、この黒田地区に古くから伝わるものといわれ、口伝によるとその起源は江戸時代中頃の荒川増水の折に、上流より獅子頭が流れ着いた事から始まったといわれている。
 獅子舞は三頭の獅子により演じられるが、他に「万灯」、「金杖」、「花笠ささら」、「棒使い」、「仲立ち」等の役が付き、笛などの囃方を合わせて総勢で約三十人程で行う。
 舞いは、二十三曲程あり物語形式だが現在踊られなくなったものも多い。
 獅子舞の名称に付く「ささら」とは、竹を小割りしたもので、花笠役が持ち、棒でこれを擦ることにより音をだすものである。
 獅子舞は毎年十月十四日の豊榮神社の秋祭に境内で上演される。
 現在保存団体として、黒田ささら獅子舞保存会が組織され、保存と伝承にあたり、毎年近在の子供を対象に伝承活動を行っている。
 その活動が認められて、昭和五十八年には埼玉県知事より「文化のともしび賞」を受賞している。
 昭和五十二年、この獅子舞を町指定無形文化財に指定した。
 昭和六十二年三月    深谷市教育委員会
                                                                                                      案内板より引用

                                

                                          拝    殿                        拝殿内部

 江戸時代前の社名「赤口神社」の「赤口」は「しゃっこう」「しゃぐし」「さぐし」等、呼び方は様々ある。一般的な意味では歴注、六曜のひとつで、火の元、刃物に気をつける。つまり「死」を連想される物に注意する日とされ、午の刻(午前11時ごろから午後1時ごろまで)のみ吉で、それ以外は凶とされていて、一種の縁起物として今でもカレンダー等で使われている。

 それとは別に、「赤口」を石神(シャクジ)という大和民族移住前の古来からある先住民の信仰という説もある。ミシャグシ信仰は東日本の広域に渡って分布していて、信仰の分布域と重なる縄文時代の遺跡からミシャグジ神の御神体となっている物や依代とされている物と同じ物が出土している事や、マタギをはじめとする山人達から信仰されていたことからこの信仰が縄文時代から存在していたと考えられているが、その全容が解明されたわけではない謎の信仰形態だ。

 ちなみに拝殿内部には黒田の獅子舞に使われる獅子頭が6頭大切に保存されている。


                                            

                                       社殿の左側にある境内社 左より荒御魂神社、戸隠神社、瑞穂神社


 旧花園町には黒田古墳群を始め、多くの遺跡の発掘が報告されている。その中で、関越自動車道花園インターチェンジ 付近には、縄文・古墳・平安期の遺構・遺物が検出された台耕地遺跡があり、平安時代後期の製鉄溶鉱炉(堅形炉)7基と、また鍛治を行った建物跡も発掘されている。

 豊榮神社の荒川の対岸には男衾郡「赤浜」地区がある。この赤浜には「字塚田」という地があり、この地は南北朝末期から室町初期にかけて、関東各地の寺院の梵鐘を鋳造した塚田鋳物師集団がいたという。この地には大沢半左衛門という畠山重忠の配下の墓もあることから、赤浜地区は畠山氏の所領地だったと考えられ、荒川を挟んでこの黒田地区も所領地内の可能性が高い。不思議とこの「赤浜」と豊榮神社の元鎮座地「赤口」は「赤」を共有している地名である。畠山重忠は秩父氏から受け継いだ鋳物師集団の棟梁であったという伝説もあり、鋳物、鍛冶に「火」は神聖なものであり、また日々の生活にも不可欠な必需品であったはずだ。

 武将にとって甲冑は身を守る道具というよりは、一種のファッションであり、また同時に自分を表現する大事なものであり、武勲栄達を願う信仰の対象でもあったという。現存している畠山重忠の甲冑は「赤糸威大鎧」で、赤色を基調としている。「赤」は元々「火」を意味するという。何か関連性があるのだろうか。それとも単に偶然だろうか。







 




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深谷市旧花園町は荒川中流域左岸に位置しており、町の殆どがなだらかな櫛引台地上にあり、辺り一面のどかな田園風景が続く地域である。豊榮神社が鎮座する黒田地区の東側は永田地区で、荒川扇状地に位置するこの地域には豊かな湧き水が多く存在している。かつて6つの湧水池があり、柳出井池・代次郎池・弁天池・宮下の池・中清水池・清水池等という。いずれも永田地区の水田を潤してきた湧水池で、前述の「永田地区湧水池池下図」によると、その受益面積はあわせて19.8haにも達した。現在でも水が湧き出し、水辺空間として最もよく整備されているのが柳出井池である。

 永田八幡神社が鎮座する「永田」地区は慶長9年名主野辺文書に「長田村」と記載されている。つまり「長田」が本来の地名であり、後代において「永田」に変わったとみられる。
 和名抄に長田郷を奈加多、奈加太(ナカタ)と訓じている。ナカタの元は「中田」といい、その転訛、つまり、本来の発音がなまった変化形である。この「中田」にしても、基本形は「中」であり、「中+田」、つまり本来は「中」が発展して「中田(仲田)」「永田(長田)」、または「長井」「中井(中居)」「中村」「中山」「長尾」「中野」「長野」等と称したという。


                     
 
                             永田八幡神社

                                    地図リンク
                                                                       河岸段丘上に鎮座する水豊かな社

                                              


                                              所在地     埼玉県深谷市永田664

                                              御祭神     誉田別命(推定)

                                              社  挌     旧村社

                                              例  祭     4月15日 春祭り、永田神代神楽



 永田八幡神社は黒田豊榮神社から140号バイパスに戻り、黒田交差点を過ぎて秩父鉄道の高架橋を越えると左側に永田八幡神社の社叢が見えてくる。但しバイパスから見える社叢は2か所あり、手前南側のは長楽寺である。ちなみにこの長楽寺と永田八幡神社は南北に隣接しているような配置となっている。

  南側にある正面参道はあぜ道となっていて車での走行はできないようなので、北側、つまり神社の後ろ側から入って境内に車を停めて参拝を行った。(参拝日平成26年1月)

  なお、境内には数多くの境内社や合祀社があったが詳細等は調べても解らなかったので、今回写真の紹介はなしとした。

                                

                                     永田八幡神社正面一の鳥居        一の鳥居を過ぎて、手水舎の奥にある御神木

                      調べてみると永田八幡神社が鎮座するこの地の字名は「中居(ナカイ)」という。「永田」と「中居」。この地は「中」の関連する地である。

                                

                                    社殿の手前で右側にある神楽殿            神楽殿の並びにある案内板

  永田の神代神楽   所在地  花園町大字永田地内

 永田の神代神楽は、この八幡神社に古くから伝わるものといわれ、口伝によるとその起源は約百五十年前頃までさかのぼるという。
 当初の形態については記録が残っていないために詳らかではないが、概ね氏子衆による里神楽に近いものであったと思われる。しかし明治時代になると、明治十五年(1882年)に演劇取締令が公布され、里神楽が禁止されたために一時的に衰退したものが、児玉郡神川村の金讃神社に伝わる神代神楽十三組のうちの一組、金讃神楽長島組として再興し、以後金讃神楽永田組として継承され、現代に至っている。
 神楽は全部で25座(曲)が伝承されているが、現在上演が可能なものはそのうち11座である。
 神楽は毎年四月十五日の八幡神社の春祭の際に境内神楽殿で上演される。
 現在は保存団体として金讃神楽長島組が保存伝承にあたっている。
 昭和五十二年、この神楽を町指定無形文化財に指定した。
 昭和六十二年三月     深谷市教育委員会
                                                                                                      案内板より引用

                                

                                           拝    殿               拝殿の手前にあった石館のような石材                       

                                 

                                           拝殿内部                   拝殿向背部等の見事な彫刻                  

                ところで冒頭で紹介したが、この永田地区、またはその周辺には多数の湧水があり、永田八幡神社の境内にも「宮下の池」という湧水池がある。

                                             

                                                         宮下の池

 この永田八幡神社の裏手から西側に通じる道路があり、そこを道なりに進むと、十字路にぶつかる。十字路の左側向かい側に小さい公園があり、ここはかつて永田の弁天池「代次郎池」という大きな湧水池があったところで、公園の一角にはその由来を記した記念碑が建てられている。

                                

                                     「永田の弁天池」代次郎池跡の小さな児童公園(写真左)とその案内板(同右)

 この道をさらに道なりにしばらく進み、右手にある民家が途切れはじめ、道路の左側も水田風景が広がり、その中の一角にポツンと「柳出井池」という小さな湧水池が見えてくる。この八幡神社から柳出井池までの東西に走る道は、道路を境界線として、その左手に広がる水田地帯が、小さな段丘崖であるらしい。この崖下に位置する左手の水田地帯には、かつて6つの湧水池があったという。
                                

                                           柳出井池                    柳出井池周辺の案内板

 池に接した東側の空き地には、5基の石碑が一列に並んでいる。道祖神や大黒天・庚申塔・水神等。この永田の地域の人々が祈りを込めて造立したものだ。この碑の中に水神があるが、もちろんこの柳出井池を指すものであろう。この地に代々住んでいる人々にとってかけがえのない水源だったはずだ。柳出井池を水源として水田耕作をしていた人々が、この池の神に水の恵みを感謝し、豊かな水が末代まで湧き出るように祈って造立したものであろうことは容易に考えられる。









                                             


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 上原白髭神社が鎮座する上原地区は、文久元年(1868年)猪俣村岡本文書に「榛沢郡上原村、下原村」と見えるところから、元「原」地区であり、その後下原と上原に分かれたと思われる。このうちの下原地区は、地頭岡田氏寛政十年申渡覚(名主宇野文書)に下原村と記述され、室町時代には刀工下原鍛冶の小川氏・田島氏等が居住していたという。対して上原地区は、大里郡神社誌に「原村白髪神社(今は白髭)は、当村の開拓者大沢某天正三年茲に勧請せりと称せらる。大沢家は近世に至るまで別当職たり、旧別当職の子孫大沢九平なり」と書かれ、天正年間(1573年〜1593年)に大沢氏が創建した社であったことが紀されている。


                             上原白髭神社

                                    地図リンク

                                              


                                              所在地   埼玉県深谷市上原214

                                              御祭神   清寧天皇、武内宿禰

                                              社  挌   旧村社

                                              例  祭   不明


 上原白髭神社は永田八幡神社から国道140号彩甲斐街道に戻り、そのまま熊谷方面に進むと、田中(西)交差点の先で右側に長い松林が見えてくる。この林の中に白髭神社が鎮座しているが、社は国道から直接社に通じる道はなく、社は林の丁度中央に位置するので外周回りで南側の一の鳥居付近に行くしかない。残念ながら神社正面には適当な駐車スペースはないので道路と注連柱の間を通り、舗装されていない長い参道を抜けると広い空間が広がる。

                  

                    上原白髭神社正面鳥居と社号標石      細長い参道。拝殿側から一の鳥居方向に撮影     参道の先には開放的な境内が広がる。

                                               

                                                          拝    殿

                                

                                    社殿の左側で手前にある浅間社       浅間社の並びにある合祀社 左から金比羅宮
                                                              大神宮、秋葉宮、久壽志神、大山祇神、天神宮

 白髭神社は調べると大きく3系統の由来があると思われる。

 @滋賀県高島市鵜川にある「白鬚神社」を総本社とする系統。
 主祭神は天狗で有名な猿田彦命であり、容貌魁偉で、鼻は高く、身長は七尺余りという身体的な特徴を持つ。ある説では天津神が国土を統一する以前より豊葦原国を大国主命と共に統治していた国津神、地主神とも言われ、その後瓊瓊杵尊が天孫降臨の際には道案内をしたということから、道案内の神、その後道の神、旅人の神とされ、日本全国にある塞神、道祖神が同一視され、「猿田彦神」として祀られているケースが非常に多い。

 A埼玉県日高市に鎮座する「高麗神社」を総本社とする系統。
 高麗神社は別名、高麗大宮大明神、大宮大明神、白髭大明神と称されていたが、その始祖的存在である高麗王若光は白髭をはやしていて「白ひげさん」と言われていたという。この高麗神社を総本社とする「白髭」「白髪」神社は高麗郡を中心として入間川流域に数多く鎮座している。

 B清寧天皇を御祭神とする系統。
 清寧天皇は雄略天皇と葛城韓媛との子で,生まれながらに白髪であったことから,白髪皇子と呼ばれた。和風諡号は白髪武広国押稚日本根子天皇、白髪大倭根子命(古事記)。吉田東伍は清寧天皇の御名代部である白髪部にゆかりのものだろうと考察している。


 上原白髭神社の社殿の前にある案内板にはハッキリと「高麗明神」と明記され、高麗神社の系列に含まれると案内板の編集者は考えたのだろうが、実際の御祭神は清寧天皇とされている。この矛盾は何であろうか。

 また、男衾郡赤浜村、風土記稿赤浜村条に「小名塚田の辺に鎌倉古街道の蹟あり、村内を過て荒川を渡り榛沢郡に至る、今も其道筋荒川の中に半左瀬川越岩と唱ふる処あり。半左瀬といふは昔鎌倉繁栄の頃、この川縁に関を置て、大沢半左衛門と云者関守たりしゆへ此名残れり」という記述がある。畠山重忠の臣で、関守である大沢半左衛門の墓は塚田にあるともいう。この塚田の地は南北朝末期から室町初期にかけて、関東各地の寺院の梵鐘を鋳造した 塚田鋳物師集団の存在があった。加えて、上原白髭神社の創始者は大沢某といい、畠山重忠配下の武将にも大沢氏が多数いて、その一族の後裔である可能性も高い。地理的にも畠山地区から荒川を挟んで真北に上原地区はある。関連性がないほうがおかしいのではないだろうか。


                                              

                                                    境内入口にある大杉のご神木











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 上原白髭神社の東方に「長在家」という地域が存在する。この地域は、15世紀中ごろの室町時代に深谷上杉氏第5代房憲(深谷城初代城主)が開祖した寺である深谷市の仙元山のふもとのにある昌福寺の縁起の中にも"長在家の長者"という記述があり、その地名の淵源は意外と古くからあったようだ。

 この長在家地区には稲荷神社が鎮座している。この社の最大の特徴は参道一帯に敷石の代わりに350ヶ程の古い石臼が敷き詰められていることだ。この参道は「石臼参道」と呼ばれ、昭和53年8月30日に深谷市の有形無形文化財に指定されている。そのためか、長在家稲荷神社は通称「石臼神社」とも言われている。


                            長在家稲荷神社 

                                    地図リンク
                                                                  
武州下原鍛冶の一拠点 長在家

                                               


                                              所在地    埼玉県深谷市長在家204-1

                                              御祭神    宇迦之御魂神(推定)

                                              社  挌    旧村社

                                              例  祭         毎年3月 例祭(豆腐祭り)


 長在家稲荷神社は旧川本町、武川駅周辺に鎮座している。国道140号線を熊谷方面から武川駅方向に進み、菅沼天神社に行く十字路を右折すると約400m弱北側に鎮座している。境内の右側に駐車スペースがあり、そこに停めて参拝を行った。

                  

                 道路を挟んで一の鳥居の向かい側にある石塔       石塔のすぐ正面にある一の鳥居          入口付近にある石臼参道の案内板

 深谷市指定有形民俗文化財  石臼参道(昭和五十三年八月三十日指定)

 昔、小麦や豆などの穀物を粉にするには石臼を使っていた。いつのころか、要らなくなった石臼を、村人が神社に納めた。この石臼を境内参道の敷石にしたもので、約三百五十個ほど並べられてある。この様な例はあまり無く貴重なものである。

 稲荷神社の三月の例祭では「豆腐まつり」と言い、各家庭で豆腐を作って奉納したものである。この大豆も、ここに奉納された石臼でひいたのであろう。
 境内には文久元年(一八六一年)に田島金岳ほか十三人で建てた「春の夜や籠り人ゆかし堂の隅」の芭蕉の句碑がある。
                                                                                                       案内板より引用

                                               

                                                 境内参道にびっしり敷き詰められた石臼

                                              

                                                         拝    殿

                  

     拝殿向背部等の彫刻が素晴らしく、江戸時代の職人技の高度な技術を感じる。今は長年の風雪にさらされて彩色もほとんど薄れているが、創建当時は艶やかで美しかったことだろう。

                                

                                          本    殿              社殿の左側には2体のお狐様の石像がある。

                                

                                             長在家稲荷神社社殿の奥にある境内社(写真左、右)

 長在家地域の西側には下原地域があり、この地域は世間ではあまり知られていないようだが、室町時代から江戸時代まで続く武州唯一の刀工群である下原鍛冶の一拠点だったという。
 この武州下原刀を制作した鍛冶集団である下原鍛冶は大永年間(1521年〜27年)の周重に始まり、現在の八王子市恩方地区や元八王子地区に住み、周重の子康重は小田原の北条氏康の「康」を、その弟照重は八王子城主北条氏照の「照」をそれぞれ授かり、名乗りにしたと伝えられている。後北条氏を後ろ盾に栄えた下原鍛冶だったが、後北条氏の滅亡後は、徳川氏の御用鍛冶となり、幕末まで刀槍類の制作を続けたという。

下原(鍛冶)刀
 武州下原鍛冶(山本氏)は室町末期から安土桃山時代は、大石氏、北条氏、の庇護を受け、その後江戸時代には徳川家から旧領を安堵され、幕府の御用鍛冶として幕末まで鍛刀が続けられた山本姓を名乗る刀工達の集団の総称である。現在の八王子市内の下恩方町(下恩方村)、横川町(横川村)、元八王子町(慈根寺))に居住していた。宗家 周重 (ちかしげ) に始まり、周重の子 康重 (やすしげ 二代周重) は北条氏康の「康」を、弟、 照重 (てるしげ) は北条氏照の「照」をそれぞれ授かり、名乗りにしたという。後北条氏を後ろ盾に栄え、後に、広重(ひろしげ)や、武蔵太郎安国(むさしたろうやすくに)など名工が増え最盛期には下原十家といわれるほどその分家も増えて繁栄した。室町時代から江戸時代末まで続いた武蔵国では唯一の刀工群である。

 武州下原鍛冶は、いつ頃八王子地区等に移住して刀鍛冶を始めたかについては諸説があり、不明な点が多く、ハッキリとは解らないが、相模国(相州鎌倉鍛冶)と下野国登鯨(とくじら)に分かれるようだ。どちらの地域も有名な鍛冶場で、相州鎌倉鍛冶は、古くは鎌倉郡山ノ内庄の地鍛冶で、山内鍛冶は尺度郷(さかどごう)本郷(横浜市栄区)に、沼間鍛冶は沼浜郷沼間(逗子市)に鍛冶場があったらしい。また下野国登鯨は現在の栃木県宇都宮市徳次郎町の地域であり、照重家についての文書の中に、「下野足利ニ居住、永正(1504〜1520)年中、武州多摩郡横川村ニ居住ス」、また「足利月光山下原にて打ち、のち横川に居住なり」と記されているものがある。足利の下原は、現在の足利市山下町に存在し、この地域は鋳物師(いもじ)や修験者が居住したといわれている。

                                              

                                      石臼が敷き詰められて参道。社殿側から撮影。写真左側には芭蕉碑がある。


 長在家地域はこの武州下原鍛冶が現八王子地域に移住する前に居住し、鍛刀した地域と言われている。何より下原鍛冶に関連した地域、居住した地域にはみな「下原」という字が存在していることは注目に値する。この長在家地域を含めた荒川中流域両岸は、平安時代後期から畠山氏の所領であり、鍛冶製造が発達した一大根拠地と言われている。武州下原鍛冶がこの地にある時期一定期間移住する理由はここにあったと考える。

 この荒川中流域左岸で、櫛引台地一帯、詳しくは「黒田」→「永田」→「上原(下原)」→「田中」→「長在家」そしてそのライン上に存在する「瀬山」→「三ヶ尻」地域は鍛冶集団が存在している一大根拠地だったと思われる。



                                

                                          長在家稲荷神社の東側に隣接している武川招魂社(写真左、右)


                                               

                                                    境内入口にある銀杏の大木








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