皆野町は、埼玉県の西北、秩父郡の東北に位置し、東は東秩父村に、北は長瀞町と本庄市に、南・西は秩父市にそれぞれ接している。面積は63.61km2。標高は町の中心街で海抜160m、最も高い城峯山頂で1,038mと、町の大部分は林野で占められている。四方を山々に囲まれた秩父盆地の一角に位置し、町の中央を荒川が東流し、その右岸の川岸段丘を中心に市街地が形成されている。

 皆野町の歴史は意外に古く、町の中央を流れる荒川流域に多くある遺跡の発掘調査によって、古代人の集落等が確認されたり、古墳が各地に点在することなどから、遠い時代から先住民や豪族が居住していたことがうかがえる。国の名勝・天然記念物に指定されている「紅簾片岩」の露頭などの文化財も多く、自然・歴史・文化に触れることのできる、魅力を秘めた町である

 また調べていてから初めて解ったことだが、、埼玉を代表する民謡「秩父音頭」発祥の地がこの皆野町で、毎年8月14日には、秩父音頭まつりが盛大に開催されている。 「合歓の盆」とも呼ばれ,“流し踊りコンクール”には 皆野町内だけでなく 県内各地からの多数のグループが参加して, 多数の観客を集めているという。

 皆野町国神地区は荒川左岸に位置していて、丁度皆野町の中央部に位置し、古来から交通の要衝として多くの歴史を語る数々の遺跡がある。その荒川と日野沢川が合流する河岸段丘上に国神神社が鎮座している。


 目次   皆野町国神神社   /  小鹿野小鹿神社  /  矢納城峰神社




                        皆野町国神神社

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                                             所在地    埼玉県秩父郡皆野町国神709

                                             御祭神    大物主神 他二十社合祀

                                             社  挌    不明

                                             例  祭      十月十日 国神神社獅子舞
 


 皆野国神神社は国道140号を長瀞町から皆野町方向に進み、荒川を渡り切った親鼻橋交差点を右折すると埼玉県道37号皆野両神線となり、その道を荒川沿いに進むと栗谷瀬橋側道橋を通って荒川を渡る。その道を約300m位進むと埼玉県道44号秩父児玉線に分岐する国神交差点にぶつかり、その北側角地に国神神社は鎮座する。
 国神交差点の脇に駐車場があり、そこに数台停められるスペースがあるので、そこに車を停めて参拝を行った。

                                   

 県道交差点にある専用駐車場から皆野国神神社の一の鳥居が見え(写真左)、その先には銀杏の大木があり、黄葉の時期とも重なり、参道には銀杏の落ち葉が一面に広がっていた。(同右)近郊には「国神の大銀杏」と呼ばれる樹齢700年程の老大木があり、その大きさは埼玉県では第9位、埼玉県のイチョウでは第4位の巨木という。埼玉県の指定天然記念物をうけている。

 ちなみにイチョウ(銀杏、公孫樹とも)は、裸子植物の1種。裸子植物門イチョウ綱の中で唯一の現存している種であり(一科一属一種)、そのため別名「生きた化石」と呼ばれる。人為的な移植により現在は世界中に分布しており、大気汚染や乾燥に強く、剪定や移植もしやすく、黄葉時の美しさという特性から、現在では街路樹として利用されている。皆野町の町の木でもある。

 境内は決して広くはないが、どこか懐かしさを感じ、気持ちを落ち着かせてくれる優しい社。

                                                

                                                           拝     殿
 参道を進むその先に石段があり、そこを登ると正面には社殿がある。その石段の向かって右側には案内板があり、その案内板によると、かつては金毘羅社、琴平神社と称し、創建は不詳だが天正年間(1573~1592年)に北条の家臣、多比良丹波守忠平が此の地を領地としていた時に、武運長久を祈願して大物主神を勧請したと伝えられている。1907年(明治40年)に金崎上郷の各社を合祀して、社号を国神神社に改称したという。

                                   

                                      正面石段の手前右側にある案内板      拝殿上部に飾られている社号の書かれた額

 国神神社 由緒

 元、琴平神社(それ以前は金毘羅社)と称した。
 古記録は備わっておらず、創立年代は不詳であるが、天正年間(1580年頃)北条の家臣、多比良丹波守忠平(たひらたんばのかみただひら)がこの地を領地としていた時、武運長久を祈願して大物主命を勧請したと伝えられる。
 本社伝来の古刀には「奉納金比羅宮平治元年三月(1159)施主」と刻印があり、その他、古代石器、古鏡等も保存されている。
 明治40年7月、金崎上郷の各社を合祀して、社號を國神神社と改称した。(中略)御社殿造営当時の「金比羅坂」は秩父新道で、秩父盆地のシルクロードであった。その影響を受けて、装飾を多用し彫刻も立派なものが造られた。秩父新道沿いの名所で彫刻を眺めて悦に浸った人々も少なくなかったと思われる。
 元は金毘羅社であり、四国の金毘羅大権現の縁起や道中記などの彫刻が多いとされる。(中略)
                                                                                                      案内板より引用

                    

                拝殿向背部の素晴らしい彫刻(写真左)や、拝殿のそこ彼処にある究極的な匠の技(同中央、右)にただ溜息と感動を覚えるのは自分だけではないと思う。

                                                

                                                           本     殿


 皆野国神神社の御祭神である大物主神(おおものぬし)は日本神話に登場する神であり、有名なな三輪山の大神神社の神格であり、また三輪山の別名、御諸山にいた蛇体の神ともいう。さらに水神または雷神としての性格を持ち、稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として篤い信仰を集めている。
 このように国の守護神である一方で、祟りなす強力な神ともされている。記紀の崇神天皇の条では、国に疫病をもたらす祟り神として登場する。崇神天皇は、大物主神の子孫意富多々泥古を探して祀らせることによって、大物主神の祟りを鎮めたという。


日本書紀 巻第五 崇神天皇紀 

 (この天皇の御世)に疫病多に起りて、人民尽きなむとしき。ここに天皇愁へ歎きたまひて、神牀(カムトコ)に坐しし夜、大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)御夢に顕れて曰りたまはく、「こは我が御心なり。かれ、意富多々泥古を以ちて、我が前を祭らしめたまはば、神の気起らず、国も安平くあらむ」とのりたまひき。ここを以ちて駅使(ハユマヅカヒ)を四方に班ちて、意富多々泥古(オホタタネコ)といふ人を求めたまひし時、河内(カフチ)の美努村(ミノノムラ)にその人を見得て貢進りき。ここに天皇、「汝は誰が子ぞ」と問ひ賜へば、答へて曰さく、「僕は大物主大神(オホモノヌシノオホカミ)、陶津耳命(スヱツミミノミコト)の女、活玉依毘売(イクタマヨリビメ)を娶して生みましし子、名は櫛御方命の子、飯肩巣見命の子、建甕槌命の子、僕 意富多々泥古(オホタタネコ)ぞ」

 この記述をみると、当時この大物主神は天照大神と対等に並び祭られていたという。俗にいう天神地祇という概念だ。天神地祇とは天神(天津神)、つまり、征服者側が信奉している神に対して地祇、その土地に代々祀られていた神(国津神)で、そのパワーバランスで国土の統一を図る考え方だ。しかし、崇神天皇紀では疫病が流行し国が乱れたのは地祇の神である大物主の意志であり、この間天照大神の力で国の乱れを抑えたという記述は全く見られずこの大神はまったく沈黙している。天照大神は天津系の最高神であるはずであるにも関わらず、一方の神の力に屈服されたような書きようだ。この時期にパワーバランスが乱れた一つの証拠であり、地祇のみを祀らざるをえない状況に陥ったことになる。ここで考えられることは、崇神天皇が収めていた土地は、元々地祇(大物主神)を祀っていた場所であり、さらに天皇の領土以上に大物主神を祀る大勢力が隣接して存在しているのではないか、ということだ。

 考えてみると当たり前のことで、崇神天皇の始祖である神武天皇は元々九州出身の外来者であり、長髄彦(ながすねひこ)を滅ぼし、東征から6年目で橿原の地に宮を築き、即位する。その即位とて順調だったわけではない。最初生駒山の方から大和に入ろうとしたが、そこで大和の長髄彦の激しい抵抗に合い、進路を阻まれ、このとき、神武天皇の長兄の彦五瀬命(ひこいつせのみこと)は傷を負い、それが元で亡くなったり、その後熊野方向に迂回する際には、暴風雨に遭い、少しも前に進むことが出来ず、この状態を嘆き、次男の稲飯命(いなひのみこと)は海に入って亡くなってしまう。最終的に土地の豪族の協力を得て、長髄彦の勢力に勝利(古事記と日本書紀の記述の違いがあるがここでは省略する)し、橿原の地の一区画に宮を築いた(造らせていただいた、という言葉のほうが正しいかもしれないが)という苦労続きの連続だった。だからこそ神武天皇は自身の出身神である天照大神と共に地祇である大物主神をも祀ったといえるのであり、後代崇神天皇もその故事に倣ったといえるのではないだろうか。


                                                

 大物主神とは一体何者だろうか。大物主神の「物」とは万物に宿る霊を意味するという。すべての物の背後に霊あるいは魂の存在を認めた古代人の世界観をストレートに、また簡潔に表わした神名であり、あらゆる神々の主神であるという説もあるが、その詳細まで解明した説はなかなかないのが今の現状だ。

 大物主神の別名も多数あり(大物主櫛甕玉尊、賀茂別雷大神、日本大国魂大神、事解之男尊、大国主神、大己貴命、八千戈神、顕国玉神等)、その神挌も同様だ。『出雲国造神賀詞』では大物櫛甕玉といい、大穴持(大国主神)の和魂(にきみたま)であるという。また同書には「皇御孫命(スメミマノミコト)の近き守り神」とあり、『日本書紀』には高皇産霊尊(タカミムスヒノミコト)が大物主神に対して「宜しく八十萬神をひきいて、ひたぶるに皇孫の為に護り奉れ」と皇孫側近の神になれと命令していて、ここでは皇室に対して格下の守護神としての性格も持ち合わせている。現在では金毘羅神社や大神神社、三輪神社、美和神社のように全国に御祭神としている社も多く、国土生成をはじめ、医薬の神、酒造りの神、男女の結びつきや、死にまつわることなど、目に見えない運命など様々なこと(幽事 かくりごと)を司る神とされていて、多種多様な神である。

 話は変わるが、平安時代に活躍した陰陽師安倍晴明は大物主神を祀っている三輪山を眺めながら、こうつぶやいたという。


 ここには我が国において、文字や数字や楽や舞や風習行事の中にそのすべてを象徴として隠し、その本性は記紀においても隠された〝知恵と魔術の神〟が封印されている。
   

 大物主神を祀る奈良県桜井市にある大神神社は、日本で最古の神社の1つと言われている。  三輪山そのものを神体(神体山)としており、本殿をもたず、拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。自然を崇拝するアニミズムの特色が認められるため、三輪山信仰は縄文か弥生にまで遡ると想像されているほどその淵源は深い。


                                                


                                                      社殿の左側にある御神木か

                                                

                                                     その大木の根元にある3基の石祠



 ところで、この国神地区には群馬県鬼石町から皆野町出牛、同国神を通り、秩父市黒谷に至る南北性の断層が存在している。いわゆる出牛―黒谷断層である。この断層は皆野町の中心に位置し、町を二分している形となっている。
 東側の宝登山の北側及び南側の金崎・皆野地域、蓑山から大霧山―登谷山の間の三沢地域には結晶片岩類が分布していて、西側の日野沢地域には中・古生代(5億4200万~4億8800万年前)の地層、金沢地域には女岳・男岳付近から西方にかけて跡倉相当層が分布している。出牛―黒谷断層に沿う国神・金沢地域には地溝状となって第三紀層(2,303万年前から258万年前までの時代を指す。新生代の第2の時期)があり、その第三紀層は荒川、赤平川流域に続き、秩父盆地第三紀層に連続している。和銅の産地である「黒谷」地区には、地質学上「出牛ー黒谷断層」といわれる断層面の一部が露出した状態で、和銅山頂から、麓を流れる銅洗掘まで幅約3mの窪みとなって残されているという。

 縄文時代に黒曜石が古くから石器の材料として、広域に流通していたことは考古学の成果で判明されている。黒曜石は先端が鋭く、その切れ味の良さとその硬さから石器素材として広く使われた。刃物として使える鋭さを持つ黒曜石は、金属器を持たない古代の民にとって重要な資源であった。
 日本国内の黒曜石の産出地域の一つで抜群の知名度を誇っているのが長野県和田峠である。和田峠産黒曜石の分布範囲は半径およそ200キロメ-トルにもおよんでいて、また、旧石器時代の野尻湖遺跡から出土した石器にも、和田峠産黒曜石と推定されているものがあるので、古くからこの地の存在が知られていたと思われる。またその他の地域でも、佐賀県腰岳産の黒曜石は、対馬海峡の向こう朝鮮半島南部の
櫛目文土器時代の遺跡でも出土しており、隠岐の黒曜石に至っては日本海を挟んだ北側のウラジオストクまで運ばれているという。縄文時代の広域範囲の広さが証明されたようなものだ。
 黒曜石はその産出地のほとんどは採掘によって発見されるが、場所によっては地表に露出されている所もある。日本国内では北海道遠軽町(旧白滝村)や長野県霧ヶ峰、大分県姫島など数例しかないが、これらの地域で産出された黒曜石は広範囲に使用されていることも確認されている。

 黒谷の和銅も自然銅といわれる地表に露出された原料であったという。ある意味活断層のおかげで日本の貨幣が出発し、そして後代へと継承、発展したといえるのではないだろうか。活断層は地震に見られる自然災害等のマイナス因子は避けて通れないものだが、同時に人類にとって、幸福をもたらす恩恵も受けることも忘れてはならない。
(*但し日本最初の貨幣は、和同開珎前に無紋銀銭や富本銭等が知られている。しかしこの富本銭等は広い範囲には流通しなかったと考えられ、また、通貨として流通したかということ自体に疑問も投げかけられている。また和同開珎にも2種類あり、厚手で稚拙な「古和銅」と薄手で精密な「新和銅」に分かれ、書体の違いや成分の違いも指摘され、ある説ではこの2種類の「和銅」はそれぞれ違う王朝の使用通貨ではなかったかともいう。奇抜なアイデアではあるが、興味のある面白い説であり、埼玉県民の一人として今後も考えていきたいテーマだ。)



                                                

 












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 埼玉県小鹿野町は秩父郡にある町で、埼玉県の西部に位置し、秩父盆地のほぼ中央に市街地を形成している。町域は東西約20㎞、南北14㎞、総面積は171.45㎢で、その83%が山林で占めており、秩父多摩甲斐国立公園、県立両神自然公園、県立西秩父自然公園等の自然公園や、日本百名山の「両神山」、日本の滝百選の「丸神の滝」、平成の名水百選の「毘沙門水」、日本の地質百選の「ようばけ」など、豊かな自然環境に恵まれた町である。県内では川越に次いで町制を施行し、平成17年10月に、旧小鹿野町と旧両神村が合併し現在に至っている。

 地勢は、西部は急峻な山間地で、東部の荒川支流である赤平川の河岸段丘上に平坦地が開けていて、その周辺に市街地が形成されている。小鹿野町小鹿神社はその町中の北側で河岸段丘上の麓に鎮座している。

                            小鹿野町小鹿神社

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                                          所在地   埼玉県秩父郡小鹿野町小鹿野1432

                                          御祭神   春日大神、諏訪大神

                                          社  挌   旧郷社

                                          例  祭   例大祭(春まつり) 4月第三土曜日、及びその前日


 小鹿野町小鹿神社は皆野町国神神社の参拝後に行った関係上、埼玉県道37号皆野両神荒川線を小鹿野町方向に進み、黒海土バイパス前交差点を左折、国道299号に移りそのまま直進する。小鹿野高校交差点を越えて300m弱先の十字路を左折すると小鹿野町小鹿神社の大鳥居が見えてくる。

                                                

                                                       小鹿野町小鹿神社大鳥居 

 小鹿野町の歴史は古く、約1000年以上前の平安時代中期に編さんされた「和名抄」に記されている「巨香郷こ(お)かのごう」が小鹿野の始まりといわれている。
 また小鹿野町は埼玉県では川越に続いて2番目に町制が施行された歴史ある町で、古い蔵や建物が多く残っていて、雰囲気のある町だ。中心部の小鹿野地区は県内でもいち早く教育・交通・産業の振興など各分野で近代化が進められ、西秩父地域の中心地として発展してきたという。


                    

 大鳥居を過ぎて道なりに進むと小鹿野町小鹿神社の広い空間(写真左)が広がる。小鹿野町小鹿神社は、江戸時代初期に、現在の小鹿神社がある上の森の諏訪明神と、町並の入口であった旧本殿がある町役場裏の小鹿野明神両社を、小鹿野地区の鎮守として町の東西に祀ったのが起源とされる。その後、明治43年に小鹿神社が洪水により境内が陥没したため、本殿の建物だけを残し、諏訪神社に合祀し、社号も小鹿神社になった。現在でも古くからの慣例通り、小鹿神社の例大祭では、小鹿神社と旧本殿の間を神輿の渡御、屋台・笠鉾の巡行が1年ごと交替で行われる。
 広い駐車場から石段を上ると二の鳥居があり(同中央)、その先に小鹿神社の社殿が見える(同右)。 

                                           

                                                           拝     殿 

 小鹿野町は、オートバイのツーリングの盛んな場所でもあり、また、その点を町おこしのひとつにしている。そのため、小鹿野町小鹿神社では、全国でも珍しいオートバイの安全祈願を行っているという。

                                  

 小鹿野といえば歌舞伎の町として知られていて、役者・義太夫・裏方にいたるまで、スタッフのすべてが地元の住民で、「町じゅうが役者」といわれている。寛政4年(1793年)に歌舞伎を上演した記録も残る。町内では、十六・小鹿野・津谷木・奈倉・上飯田・両神小森に伝承され、それぞれ地元の神社の祭に氏子が中心となって歌舞伎を演じている。町内には常設舞台が10箇所程度残り、掛け舞台や祭り屋台(山車)に芸座・花道を張り出す舞台もある。近年は子ども歌舞伎、高校生の歌舞伎、奈倉女歌舞伎などの活躍も見られる。衣装・かつら・下座・化粧・振り付けなどすべて町民でこなし、地芝居のデパートとも言われている。
  小鹿野歌舞伎は昭和50年には県指定無形文化財、昭和52年に県無形民俗文化財の指定を受けている。

 ちなみにこの大鳥居は祭りの際、10mを超える笠鉾がくぐるためにわざと大きくしてあるそうだ。

                                  

                                            本    殿                         神楽殿

                                  

 社殿の左側奥には豊守稲荷神社があり(写真左)、その更に奥には境内社がまとめられて祀られている(同右)。左から水速女神社、天満天神社、古峰神社、三峯神社、八幡神社、大山祇神社の六社。

                                                

 まだ残念ながら見たことはないが、小鹿野町の小鹿野春まつりは、小鹿野町の市街地で4月第3金・土曜日に行われる小鹿神社の祭礼で、2台の秩父型屋台と3層の笠を飾る2台の笠鉾が「ホーリャイ」ではなく「ワッショイ」の掛け声と共に曳き廻される。屋台は、秩父夜祭に匹敵する巨大で豪華なもの。笠鉾は、通常行われる祭では、秩父地方で最も高く(秩父夜祭の笠鉾は特別な理由がない限り笠を付けることはない。)屋台・笠鉾共に埼玉県指定有形民俗文化財となっている。屋台・笠鉾は手入れもよく、見応えたっぷりで、お囃子は、当然”秩父屋台囃子”、屋台・笠鉾は、小鹿神社と旧拝殿(小鹿野町役場の裏あたりにある)の間を巡行するが、、進行方向は、1年ごとに交替されるということだ。
 なお祭り初日には屋台上で、農民歌舞伎として知られる「小鹿野歌舞伎」が上演される。

                                            
    
                                            

                                                        国道から見える武甲山










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 平将平は、平安時代中期の武将で、平良将の子で平将門の弟。豊田郡大葦原に居を構えていた事から「大葦原四郎」と称していたという。平将門は関東一円を占領し新皇となり、将平はその際に上野介に任命されていた。
 この平将平は生粋の坂東武者である反面、良識ある人物であったようだ。兄・将門が関東一円を占領し、新たに新皇になる際に伊和員経らと共にこれを諌めたという。

 「夫レ帝王ノ業ハ、智ヲ以テ競フベキニ非ズ。復タ力ヲ以テ争フベキニ非ズ。昔ヨリ今ニ至ルマデ、天ヲ経トシ地ヲ緯トスルノ君、業ヲ纂ギ基ヲ承クルノ王、此レ尤モ蒼天ノ与フル所ナリ。何ゾ慥ニ権議セザラム。恐ラクハ物ノ譏リ後代ニアラムカ。努力云々」
 (口訳)「だいたい帝王の業というものは、人智によって競い求むべきものではなく、また力ずくで争いとるべきものではありません。昔から今に至るまで、天下をみずから治め整えた君主も、祖先からその皇基や帝業を受け継いだ帝王も、すべてこれ天が与えたところであって、外から軽々しくはかり議することがどうして出来ましょうか。そのようなことをすれば、きっと後世に人々の譏りを招くことに違いありません。ぜひ思いとどまりください。」

 その後将門は討伐さて戦死するが、その際に将平は城峯山に立てこもり謀反を起こしたおり、討伐を命じられた藤原秀郷が参詣し、乱の平定を祈願したと伝えられている。その後無事乱を平定した秀郷はねんごろに祭祀を行い、城峯の号を奉り、その後城峯神社と呼ばれるようになったという。
 秩父、神川地方には将門伝説の説話が多いことも事実で、真相は如何なるものだろうか。


                             矢納城峰神社

                                   地図リンク

                                         


                                        所在地    埼玉県児玉郡神川町大字矢納字東神山1273

                                        御祭神    大山祇神

                                        社  挌    旧郷社

                                        例  祭    5月5日例大祭


 矢納城峯神社は神川町の細長い町域の南方にあり、神流川、下久保ダムを挟んで反対側にある神川町の城峯公園を目指すと良い。国道462号線、またの名を十石峠街道を神川町から神流川沿いに元神泉村方向に進み、途中譲原地区より左に折れて埼玉・群馬県道331号吉田太田部譲原線となり、そのまま道なりに進む。県道331号は延命寺付近で分岐し、山道特有の細い曲がりくねった道をしばらく進むと、城峰公園が見合てくる。その公園入り口に対して向かい側に矢納城峰神社の鳥居がある。

                                                

 鳥居の向かって右側に駐車スペースがあり、そこに停めて参拝を行った。参拝日は11月の下旬で丁度城峰公園の冬桜のシーズンで観光バスや観光客が沢山いて、公園の駐車場が全く使用できない状態だった。鳥居正面には観光バスが一列縦隊状態で、そこから撮影を強行することは慮ったため、右側にある社の専用駐車場側から逆光を覚悟で撮影したが、やはり逆光状態になってしまいうまく撮影できなかった。

                    

                     駐車場近くにあった城峰神社の案内板      鳥居の先には趣のある杉並木の長い参道    参道を進むと城峰神社の二の鳥居が見えてくる。

 神川町ホームページには「矢納」の語源について以下の説明をしている。

 地名の謂れ 「矢納」
 昔、東国が乱れ人々が大変苦しんでいるという事を心配された天皇は、吾が子「日本武尊」に「東国の乱れを治めよ。」と命じた。
 日本武尊は、早速軍備を整、大勢の家来を引き連れてこの山深い村に立ち寄った時の話です。
 この地についた日本武尊は周囲の山々を見わたし、一際高い山に登り頂上に立って周囲の山々や峯々を注意深く見わたしたのです。その時何故か武尊は「大きな、ため息」をつかれたそうです。
 周囲の山々の様子を眺められ秘策を練られた武尊は足元の「大岩」に背中につけていた矢を1本取り出し、力をこめてその大岩に矢をつき立てたのです。そして大きな声で、「私は、此処から見渡らせる緑の峯々をこの手中に治めたい。」と家来の前で力強く「宣言」をされたのだそうです。
 大岩に「矢」を突きたてたという事が後々まで語り伝えられた事から、この大岩を「矢立の岩」と呼ぶようになったのだそうです。
 武尊がこの地に入られるという知らせを受けた村人たちは、こぞって村の入り口近くまで出迎えたといい、この場所を「迎え平」と呼ぶようになり
 何時しかこの地が「迎え平」という地名になったといわれています。
 尚、柚木家に残る三枚の版木の一枚には、武尊が東征の際当地に立ち寄られた折り、弓の矢の根を御祠に収め「大山祗命」を祀られたということから、以来この地を「矢納村」と名付けられたと村名の由来が版木の一枚目に書き記されているという事です。
                                                                                                    神川町 ホームページ参照


                                                
                                         
                                           鳥居のある石段を過ぎると城峰神社の由来を記した案内板がある。

 郷社 城峰神社御由来  埼玉県児玉郡神泉村大字矢納字東神山
 由緒
  人皇第12代景行天皇の41年皇子日本武尊東夷御征討の御帰路この里に至り給い当山に霊祀を設け遥に大和畝傍山の皇宗神武天皇の御陵を拝し東夷平定の由を奉告し給い且つ躬ら矢を納めて大山祇の命を祭りて一山の守神と崇め給う是れ即ち当山の起源にして当村矢納の地名も此の古事に縁由せり、天慶3年平将門の弟将平矢納城を築きて謀叛せり時に藤原秀郷朝命奉じて討伐に向かい当山祭神に賊徒平定を祈願し乱治って後厚く祭祀を行い城峯の社号を附せり、天録2年本殿を建つ(中略)
                                                                                                          案内板より引用

 そもそも神川町は埼玉県の北西部に位置し、県境を流れる神流川の右岸に広がる平坦の地域と、その上流部の秩父山系に属する山間部で形成されている。現在の行政単位においては埼玉県に属してはいるものの、市街地は主要地方道である上里鬼石線沿いに形成されていて、山間部近くの元神泉村地区は、つい最近まで元鬼石町との婚姻が数多かったように、神流川左岸の群馬県藤岡市鬼石町との交流が昔から盛んな地域であった。
 またこの神泉村の周辺には、「神山」、「両神山」、「神流湖」、「神流川」など不思議と「神」と名がつくものが多い。そして神流川の北側対岸には「鬼石町」。この鬼石町には以下の伝説がある。
 
 上野国志御荷鉾山の條に「土人相伝、往古此山頂に鬼ありて人を害す。弘法大師の為に調伏せられ、鬼石を取り抛ちて去る。其石の落ちる地を鬼石といふ  (鬼石町誌より引用
 
                                                           

  この城峰神社が鎮座する旧神泉村周辺域には「日本武尊伝説」「平将門伝説」「御荷鉾山伝説」等の伝承・伝説が混在している神話の宝庫であり、現在の長閑な風景では到底考えられない位、真に不思議な地域だ。
 不思議ついでにもう一つ。矢納地区にある城峰神社のすぐ南側に同名の城峰神社がある。こちらは秩父市吉田地区石間の標高1038mの城峰山の山頂近くに鎮座していて、やはり平将門伝説が伝わっている。
 ちなみにこの城峰山は『武蔵通志(山岳篇)』には安房(あふさ)山と書かれている。

吉田地区石間城峰山の将門伝説
 下野の豪族、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)に追われた平将門は城峰山の石間城に立てこもって戦いましたがついに落城。将門は捕らえられました。しかしその後将門そっくりの影武者7人が捕らえられ、秀郷は誰が本物の将門かわからなくなりました。そこで将門の侍女、桔梗にたずねたところ「食事をする時にこめかみが一番よく動くのが上様でございます」と答え、秀郷は本物の将門だけを討ち取りました。将門は怒り「桔梗よ、絶えよ」と叫んで死んだため、以後この城峰山には桔梗が咲かないようになったという。

 この吉田地区石間城峰神社拝殿には大きく金色で「将門」と書かれている。この社の御祭神は何故か平将門を討伐した藤原秀郷が建立し祀られている神社であるのに、敵対していた平将門の名が記されている。

 なにかしっくりしない伝説と現実との乖離がここには存在する。
    

                                 
 

 社殿に通じる石段を登り切るとその両側に日本武尊にちなむ山犬(狼)型の狛犬(写真左、右)が控えている。神様のお使いは、動物に姿を借りて現れるが、これら神様のお使いのことを総称して「眷属」(けんぞく)という。
 
城峰神社の御眷属は「巨犬」大口真神とされており、真神は古来より聖獣として崇拝された。狼が「大口真神」になったのは江戸あたりでそれまでは「オオカミ様」「ヤマイヌ様」と様々な呼び名があり、古くからは「狼」の「オオカミ」は「大神」にあたるとされ山の神の神使とされた。
 オオカミ信仰は、かつては秩父を中心に関東一円から  北は福島。西は甲斐や南信州まで多くの信仰を集めていたという。

                                         

                                                           拝     殿

                                  

 秩父地方の多くの神社の山犬信仰は、神の眷属というよりも、神そのものとされ、そこで「大口真神」(おおくちのまかみ)と神号で呼ばれ、山犬=オオカミ、即ち大神として猪、鹿に代表される害獣除け、火防盗難除け、魔障盗賊避け、火防盗賊除け、憑物除けや憑物落しに霊験があるといわれている。そこで「お炊き上げ」神事が行なわれたり、信者はお犬様の神札やお姿を受け、神棚や専用の祠に祀っている。
 矢納城峰神社は昭和40年代まで毎月1日と15日に「お炊き上げ」が行われていたという。本殿右手にある石組みの処が「献饌場所」になっており、お饌米は黒塗りの会席膳に盛られ、息が掛かると「お犬様が嫌って食べない」ので、膳部から口を逸らせて捧持する仕来たりであったと伝えている。

                                                 

                                                       城峰神社境内にある「亀石」

 矢納城峰神社の奥には標高732mの神山がある。神山山頂は奥行きのある平坦地で、城があったとしてもおかしくない地形である。また、古代より信州と武蔵を結ぶ重要なルートであった神流川沿いの街道を見下ろす戦略上の地点にあり、なにより「神山」という山名が古代においてはとんでもない名山であったのではないか、という考察を抱かせてしまう程のインパクトがある。
 上記において、この地は「日本武命伝説」「平将門伝説」「御荷鉾山伝説」等の伝説、伝承が混在した神話の宝庫と書いた。しかしこの地にはもう一つ重要な伝説が存在している。
 その伝説は「羊太夫伝説」だ。
 羊太夫伝説は西上州から秩父地方が主要な分布地となっている。(*但し質、量共に西上州の分布が圧倒的に多いが、『羊太夫伝説』によると羊太夫は秩父黒谷の銅山採掘の功により多胡郡の郡司となった経歴があることも参考としなければなるまい。)
 この二つの地域の中間地域にこの神泉地区がある。考えるに奈良時代前後、古代のこの地域の道は後代の鎌倉街道のルートよりも西側、つまり武蔵国における「山の辺の道」の一つとして鬼石から神泉村を経て皆野町国神に至るルートがすでに存在していたのではないだろうか。あくまで推測にすぎないが。



                                  

 神山の北側には、神流川を堰き止めた人工湖がある下久保ダムと神流湖があり(写真左)、川は群馬県との県境である。そして矢納城峰神社のすぐ東側には城峰公園があり、参拝時期も11月中旬で丁度冬桜が咲いている時期にあたり、多くの観光客が見物に来ていた。

 城峰公園までの道のりはかなりの山道であるが、日当たりのよい場所にはこのような冬桜ががまわりの木々の紅葉とマッチして運転中にも関わらず、急停車して思わずその風景に見入ってしまった(写真上部右)。今回は矢納城峰神社の参拝を優先していたため、また次の参拝先も決まっていたため、城峰公園の散策はできなかったが、次回の楽しみに残しておこう。
 この冬桜は、薄紅色の小さな八重の花をつける「十月桜」で、その特徴は、花が4月上旬頃と10月頃の年2回開花することだ。花は十数枚で、花弁の縁が薄く紅色になる。また萼筒が紅色でつぼ型である。春は開花期に新芽も見られる。また、秋より春のほうが花は大きいという。


                                                

                                                        山道沿いの見事な紅葉

 日本には四季折々の美しい風景がまだ残っている。また失われつつあるとはいえ、日本人にはその美しい風景を体で感じる感性も持ち合わせている。どんなに機械化、IT化が発達しても、日本人のDNAには縄文時代から受け継いだ遺伝子がまだ体内にあると信じている。

 現代はバブル崩壊後の不況の真っただ中にあり、さらに東日本大震災や御嶽山の噴火等の自然災害や放射能汚染の人為的な災害、さらに世界を見ても、イラク問題やテロの問題いずれを取り上げても、現在人類は大変な危機に直面している。この状況を救い、切り抜けることのできる一つの方法は、多様な文化を包括的に包み込むことができ、自然と共生できる日本の文化ではないかと考えている。

 日本人は謙虚な人種と言われている。それはそれで決して悪いことではない。ただ我々日本人もこのような自分の文化にもっと誇りと自信を持つべきではないだろうか、と今回矢納城峰神社の参拝中の折に感じたことを何となく感じた次第だ。








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