鎌倉権五郎景政は平安後期の平氏の武将。平 景政ともいう。奥羽で起きた戦乱「後三年の役」(1083-87)に源義家にしたがって出陣する。16歳だった『奥州後三年記』によれば,常に陣頭に立って奮戦していた時,敵将鳥海弥三郎に右目を射抜かれた。矢は首を射ぬき,兜の鉢付の板にささった。それでも,ひるまず矢を抜こうともせず敵を射止めたという。目の奥深くまでつき刺さった矢を抜こうと景政が三浦為嗣に命じ,なかなか抜けぬ矢に困りはてた為嗣が,景政をあおむけに寝かせ顔を踏みつけて抜こうとした時,景政が為嗣の足を払いのけ,大いに怒り,刀を抜いて為次を下から突こうとした。驚いてその訳を尋ねると,「弓矢で死ぬことは武士の本望であるが,生きながら面を足でふまれるとは,いかにも堪えられない。汝を仇として自分も死のうと思った。」と答えた。為次は,無礼を詫びて膝をついてていねいに抜いてやり,厨川の清水で傷を洗ってやったという。
 このような景政の武勇は,強い鎌倉武士の象徴的存在となって各地に伝えられる。それが後世幾つもの尾ひれがついた逸話へと伝承、伝説として各地に広がっていき、鎌倉景政という実在の人物とは全くかけ離れた逸話が多数登場してしまったことも確かなようだ。中国に例えるならば、三国志で登場する蜀国の武将「関羽」が後世、商いの神様として「関帝廟」に祀られていることと少なからず共通することだろうか。

 『
尊卑分脈』による系譜では平良兼の孫、村岡五郎忠通の子に為道、影成、影村、影道、影正の5人があり、影(景)成の子。鎌倉権守景成の代から相模国大庭御厨(現在の神奈川県鎌倉市周辺)を領して鎌倉氏を称したという。景政は後三年の役後、長治年間(1104~ 6)に高座郡内の地(現在の藤沢市)を開拓し、伊勢神宮に寄進して「大庭御厨」と称し、在地領主となつて鎌倉党繁栄の礎を築いた。景政の子孫、一族は旧相模国高座郡、鎌倉郡(現戸塚区を含む)に勢力を張ったらしい。

 
御霊神社は埼玉県各地に存在しているが、鎌倉権五郎景政を御祭神とした御霊神社は上奈良地区に鎮座する当社のほか、東松山市正代地区、熊谷市高本地区他飯能市や小鹿野町両神地区に鎮座している程度。場所的にはそれぞれ離れているが、何か共通性があるのだろうか。



 目次  上奈良豊布都神社  /  上川伊弉諾神社  /  中条大塚熊野神社


                              上奈良豊布都神社
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                                              所在地    埼玉県熊谷市上奈良(字御霊)1286

                                              御祭神    武甕槌命

                                              社  挌    旧村社

                                              例  祭    10月15日 秋祭り


 熊谷市上奈良地区に鎮座する豊布都神社の御祭神は武甕槌命であるが、嘗ては御霊社と称し、鎌倉権五郎を祀っていたという。創建は慶安2年(1649年)。当時荒川は上奈良地区近郊に流れ、その河川の氾濫によって生じる疫病などの厄災を怨霊の祟り―御霊によるものと考え、御霊という音に近い鎌倉権五郎の怨霊を祀ってその祟りを鎮めようとした、と一の鳥居前の案内板では創建に関しての記述をしている。

                   

                     入口手前にある社号標石と案内板        一の鳥居には「豊布都神社」と刻まれている。                案内板

 豊布都神社(ごりょうさま)  熊谷市上奈良1286

御由緒(歴史)
 当社創建の年代は不明であるが、慶安二年(一六四九〜江戸時代)に今の地に祀られたとあり、約三百年前と推定される。「新編武蔵風土記」の幡羅郡上奈良の条に「御霊社」と呼ばれ村の鎮守とあり、今の向河原・並木・二ツ道・在家・石橋・小塚の地域となっている。鎮座地は、向河原の西端にあり、往時地内には荒川が流れており、その渡船場を村人は「御霊の渡し」と呼び、今でも御霊田・御霊橋の地名が残る地である。
ご祭神は、神仏分離まで鎌倉権五郎景政で、本殿内に本地愛染を奉安するも明治五年九月には、今の武甕槌神に改め社名も豊布都神社と改称す。
往時の人々は、河川の氾濫によって生じる疫病などの厄災を怨霊の祟り・御霊によるものとの考えから御霊という音に近い鎌倉権五郎の怨霊を祀ってその祟りを鎮めようとした。
本殿は、一間社流れ造りで銅板葺きの屋根となっている。本殿内には、元禄十二年に造られた「御霊之神」と墨書された神璽と共に「武甕槌神」と書された神璽が奉安されている。
老朽化した本殿を始め拝殿・幣殿を昭和五十九年一月に再建すると共に境内整備を終えた。その後、平成十六年には念願であった社務所兼地区集会場も清々しく新築をおえた。(中略)
                                                                                                            案内板より引用


                                 

                
 一の鳥居の扁額には「豊布都神社」と刻まれている社号額があり、「布都(フツ)」=武甕槌命を祀っていることが解る。ただし広くない境内参道は北側にある一の鳥居から途中直角に曲がり二の鳥居があり(写真左)、その扁額には「御霊大明神」と刻まれている(同右)。やはり昔は鎌倉権五郎を祀る「御霊社」だったのだ。

                                 

                                        東向きにある社殿参道           社殿の右側にある「本殿末社修復記念碑」

                                 

                                           拝     殿                       本     殿

 豊布都神社(熊谷市上奈良字御霊)

 利根川と荒川のほぼ中間に位置する上奈良は、中世の奈良郷に属し、近世になり分村した所である。地内には平安期の奈良館跡がある。
 当社は元来御霊社と号していた。『風土記稿』には「御霊社 村の鎮守なり、社内に本地仏愛染を案ず、慶安二年(一六四九)八月廿四日、当社領別当寺領とも合て十石の御朱印を附せらる(以下略)」と載せられている。創建の年代は明らかでないが、その背景にはかつて地内に荒川の川筋があったことが挙げられよう。往時の人々は、河川の氾濫によって生じる疫病などの厄災を怨霊の祟り―御霊によるものと考え、御霊という音に近い鎌倉権五郎の怨霊を祀ってその祟りを鎮めようとしたことが推測される。ちなみに、当時の荒川は当社と別当東光寺の間を横切る形で東西に流れ、そこには東光寺管理の「御霊の渡し」と呼ぶ渡船があったと伝えられている。
 本殿には、像高三〇センチメートルの座像が奉安されており「権五郎尊像 元禄十二己卯天(一六九九)五月吉祥日 建立東光寺恵旭三十二歳」の墨書が見られる。
 明治初年の神仏分離により本地の愛染明王は東光寺に移され、明治五年に祭神を武甕槌命に改め、豊布都神社と改称した。豊布都とは、武甕槌命の別称で、鎌倉権五郎の武勇にちなんだものと思われる。
なお、往時の朱印地については、東光寺に朱印状が現存する 
                                                                                                       埼玉の神社より引用 
  

 ところで話は横道に逸れるが、この奈良地区は昔から湧水が豊富だったようで、律令時代の和銅年間に大量の涌泉が湧き出て、六百余町の壮大な水田を造成させたまさに水の宝庫という地であった。近隣には水に関連した地名である「玉井」地区もあるし、さらに7世紀以前からの祭祀遺跡である西別府祭祀遺跡にも御手洗池と書かれた湧水の源泉池が現在でもあり、一帯が湧水が豊富に存在していたことを物語っている。
 また
西別府祭祀遺跡のすぐ西側には幡羅郡の郡衙跡である幡羅遺跡もあり、幡羅郡の中心地帯にこの奈良地区も含まれていたと思われる。しかもこの奈良地区の中心を南北に縦断する道こそ東山道武蔵路であり、筆者の身勝手な想像ではあるが、地形上かなり重要の地ではなかったかと推定される。


                                 

                                    社殿の右側にある境内社 八幡神社        八幡神社の奥にある境内社 八坂社

 上奈良村 御霊社
 村の鎮守にて、祭神は鎌倉権五郎景政なり、社内に本地佛愛染を安ず、慶安二年八月廿四日、當社領及別當寺(東光寺)領とも合て、十石の御朱印を附せらる。
 鐘楼。正徳元年九月鋳造の鐘をかく。
 末社。牛頭天王、八幡、稲荷、金毘羅
                                                                                        「新編武蔵風土記稿」巻之二百二十九より引用

                                 

                               八坂社の奥にある富士御嶽神社(左)と石祠(手前)       社殿の左側にある琴平神社

                                 

                                       手水舎の近くにある御神木              一の鳥居の近くにある桜の大木










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 大里郡神社誌には「上川上村熊野社神職宮田氏の系図に依れば、建長四年宗尊親王・鎌倉下向、征夷大将軍に任ぜられ、北条高宗の隙を伺い、文永十年潜かに御帰洛に及べり。当時、宮田太郎貞時・親王に供奉したりしが、後帰国するや北条高宗を恐れ、武蔵国崎玉郡川上郷鎮座熊野三社は代々平家崇敬の神なりとの由緒によりて、当社の社守となると有り。下総国香取郡佐原城主義連の後胤・常陸茨城竹原宮田郷の住人宮田太郎貞明・文永年中宗尊親王に御供し上洛後、帰国して川上郷に住するに及び、熊野三社は平家代々崇敬の神なり、吾身は平氏の後胤なりとて、之に奉仕せりと爾来世襲神職として奉仕すること二十二代宮田浪江に至る」とある。但し文永十年の執権は北条時宗であり、北条高宗なる人物が存在していたかどうかは不明だ。
 ここに記されている武蔵国崎玉郡川上郷鎮座熊野三社とは、当社上川上伊弉諾神社と隣村の下川上の熊野社、大塚の熊野社の三社が総称して「熊野三所権現」と呼ばれているという。



                               上川伊弉諾神社
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                                               所在地    埼玉県熊谷市上川上36

                                               御祭神    伊弉諾命,伊弉冉命

                                               社  挌    旧村社

                                               例  祭    不明


 上川上伊弉諾神社は国道17号バイパスを熊谷方面に向かい、上之交差点を左折し約1km行くと十字路となるので、そこを右折するとすぐ右側にこの社の社叢が見える。大体熊谷陸上競技場の南側で、上之村(大雷)神社の北側に位置している社だ。熊谷陸上競技場を含む熊谷スポーツ文化公園のような、巨大で近代的な運動公園のすぐ南側にひっそりと鎮座しているこのコントラストがあまりに不釣り合いで、今の日本の矛盾を象徴しているようであり、何か釈然としない面持ちでの参拝となった。
 社の東側には十二所集会所があり、そこには駐車スペースも確保されていて、そこに停めて参拝を行った。

                                 

                                    上川上伊弉諾神社正面の社号標。          綺麗に整備されている鳥居周辺
                                   その前には石祠と庚申塚に神橋がある。

                                 

                                 参道の右側には集会所があり、先にはまた神橋。      神橋とその先には社殿がある。
                                                              社殿の周りにはこんもりとした社叢が社を囲むかの
                                                                        ように一面に広がる。

                                  

                                  神橋を渡るとすぐ右手側に稲荷社と石祠          稲荷社の並びにある石碑群

                                 

                                       石碑群の奥にある琴平社                              石碑群の反対側には神興庫

                                                

                                                           拝    殿

 伊弉諾神社  熊谷市上川上三六(上川上字十二所)

 当社の創建は、中世、紀伊国熊野三所権現を勧請したことによると伝える。この伝承に基づくものであろうか、当社と隣村の下川上の熊野社、大塚の熊野社の三社が総称して「熊野三所権現」と呼ばれる。「宮田氏家系図」によると、鎌倉期、征夷大将軍に任じられた宗尊親王が執権である北条氏の隙を見て密かに帰京したことから、この供をした平家ゆかりの宮田太郎貞明は、北条氏の追及を恐れてこの地に逃れ、当社の宮守りになった。この宮田家は『風土記稿』に「神職宮田丹波吉田家の配下なり」と載り、明治初期まで二二代にわたり当社の祭祀に専念した。その後、親類に当たる茂木家がこれを継ぎ、現在に至っている。
 本殿には、享保九年(一七二四)銘の金幣のほかに、嘉永三年(一八五〇)の棟札が納められており、これには「奉再興大隅流唯一権現作御宮一宇敬御造営」とあり、番匠に当村の稲村徳次郎・大嶋夏五郎の名が見られる。また、拝殿に掛かる嘉永五年(一八五二)の「勧進相撲」の絵馬は、当社修築の際に江戸の二所ケ関部屋の力士を当地に招いて行った相撲興行を記念して奉納されたもので、見物人の生き生きとした姿が描かれており興味深い。なお、この翌年の安政二年(一八五五)には、神祇管領から「伊弉諾神社熊野大権現」の幣帛を受けている。
                                                                                                      「埼玉の神社」より引用

                                 

                                                           本    殿

 案内板に記されている「大隅流」とは神社仏閣などの楼閣建築を飾る装飾彫刻でいわゆる「宮彫」といい、安土桃山時代から欄間などで見られるようになり、江戸前期で確立されたものである。大隅流は平之内大隅守がおこした流派で、幕府御用として、日光東照宮や湯島の聖堂などの造営にあたった。宮彫として流派を完成させたのはこの大隅流が最初であり、完成された宮彫の原点ともいう。
 また上川上伊弉諾神社には上記「相撲絵馬2枚」(昭和45年11月3日指定)の他に「黒馬図」も昭和31年11月3日に熊谷市に有形文化財の指定を受けている。











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 熊谷市大塚地区の地名は、その地区内に大きな古墳があることに由来する。この古墳は、七世紀初頭に作られたものでその出土品から土地を支配していた豪族の墓であろうと推測されている。当社はこの墳丘上にあり、古墳の下には江戸時代に別当であった龍昌寺がある。「風土記稿」の記述から当社は江戸時代には既に大塚の鎮守として祀られていたことが知られるが創建の年代は明らかでない。
                                                                                                       「埼玉の神社」より引用

                           中条大塚熊野神社

                                     地図リンク

                                                


                                               所在地     埼玉県熊谷市大塚365

                                               御祭神     熊野夫須美命・速玉男命・家都御子神

                                               社  挌     旧村社

                                               例  祭     不明


 中条大塚熊野神社は熊谷スポーツ公園の東側にあり、国道17号バイパスを熊谷方面に進み、途中肥塚交差点を左折、其のまま真っ直ぐ1km程行くと右手に赤城神社のあるT字路の交差点になるので、そこを右折しそのまま道なりに5分位進むと中条大塚熊野神社に到着する。ただ社号標石がある正面ではないので、今回は社号標の撮影はできず、一の鳥居から参拝を行った。

                   

                        中条大塚熊野神社一の鳥居             そのすぐ先にある二の鳥居     中条大塚熊野神社は大塚古墳の墳頂に鎮座している。

 大塚古墳    熊谷市指定文化財

 指定年月日  昭和三十四年十一月三日
 所 在 地  熊谷市大字大塚
  大塚古墳は、古墳時代後期(七世紀前半)につくられた円墳で当地を支配していた豪族の墓であろうと推定されています。
  墳丘は、直径約五九m、高さ一・二mの基壇上に直径約三五m高さ四m以上の円丘がのった形です。全体で、五・二m以上の高さになると考えられます。
  現存する墳丘は、北西部分のみ残存していて、墳丘全体の約四分の一が残っている状態です。
  二度にわたる発掘調査により、埋葬施設は、奥室・前室をもつ複室構造の胴張型横穴式石室であることが確認されています。
  石室内から、鉄製小札・鉄鏃・金銅製鞘尻金具・勾玉のほか、金箔装漆塗木棺の破片が出土し、西側の基壇上からは、須恵器の甕が列をなして出土しました。
                                                                                                          案内板より引用

                   

 案内板の手前には大塚古墳の石室、天井部に使用されたものと思われる石材があり(写真左)、石材の回りには鎖で柵のようになっていた。また古墳の頂上、また中条大塚熊野神社に通じる参道(同中央)を進むと、古墳を登るように石段があり、登り終える先に境内社が鎮座している(同右)。よく見ると社殿の回りに幾つかの石祠があり、その境内社は宇賀神社と豊蚕神社、塞神社、三峰社、榛名社、天神社の六社が存在するそうだ。

                                 

                                大塚古墳墳頂に鎮座する中条大塚熊野神社拝殿     中条大塚熊野神社を西側から撮影。
                                                               中央石燈籠そばの石には猿田彦大神の文字が
                                                                         彫られている。







                                                
         
                                                 もどる            toppage