古社への誘い 


 河畔砂丘について


 河畔砂丘(かはんさきゅう)とは、砂床河川の中・下流域の流路に沿って形成される砂丘である。 乾燥地 帯の砂床がある地域では内陸部に砂丘が形成されることは(砂漠など)珍しいことではないが、日本のような湿潤な気候条件下で内陸部に砂丘が形成されるのは河畔砂丘のみである。 日本では木曽川、最上川、そして利根川それぞれ3河川の流域及び旧河道周辺にのみ存在する珍しい地形である。

  河畔砂丘は、わが国では、この関東地方のかつての利根川流域で見られる
(濃尾平野と北上平野では小規模な河畔砂丘があるのみ)。埼玉県では羽生市から越谷市にかけて23カ所に分布が確認されている。分布を見ると全てかつての利根川の流路に沿っている。ちなみにかつての荒川流域には今現在発見されていない。もっとも大きい志多見砂丘(加須市)で長さ約2,550m、最大幅250m、低地との高さの差が6.2m、砂丘列が5本あるという。低地との高さの差がもっとも大きいのは原道砂丘(大利根町)の11.3m。ある意味武蔵国独特の地形であるといえるのではないだろうか。
     
  砂丘ができるには、
   1 砂の供給が良くしかも堆積しやすい。
   2 強い風が吹く。
   3 飛ばされた砂が再び定着する。
ことが必要である。利根川は日本最大の流域面積を持っているので1、の条件は満たしている。2、 3については、、埼玉では強い風はおもに冬に吹く北西の季節風で(空っ風)、砂丘は河川の東側や南側にできることになる。おもに河川の蛇行の凸部の蛇行洲に堆積した砂が、風で運ばれて堆積したと思われる。

 ではこのような特別な地形はいつ頃できたのだろうか?春日部市の浜川戸砂丘の砂の下から平安時代終わりの土器が出土しているのに対し、砂丘の上からは弘安6年(1283)と記された板石塔婆が出土している。したがって平安時代末から鎌倉時代前半に限定される可能性が高いといえる。なぜ限られた時期に河畔砂丘が形成されたのかは今現在、正直なところ不明のようだ。

 現在発見されている河畔砂丘とその形成時期(推定)
 1 平安時代にできた河畔砂丘の例
   ・ 鷲宮町の西大輪砂丘(東側砂丘列)
   ・ 春日部市の小渕砂丘(東側砂丘列)・古隅田川の浜川戸砂丘
   ・ 岩槻市の長宮砂丘
   ・ 越谷市の袋山砂丘・大林砂丘・東越谷砂丘・大成町砂丘
 2 鎌倉時代にできた河畔砂丘の例
   ・ 羽生市の新郷砂丘・砂山砂丘
   ・ 加須市の志多見砂丘
   ・ 鷲宮町の西大輪砂丘(中央砂丘列)
 3 室町時代以降にできた河畔砂丘の例
   ・ 鷲宮町の西大輪砂丘(西側砂丘列)
   ・ 春日部市の小渕砂丘(西側砂丘列)・藤塚砂丘(西側砂丘列)
   ・ 松伏町の田中砂丘




  
       
      
         
       河畔砂丘の分布図(中川水系総合調査報告書より)

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