三ヶ尻八幡神社が鎮座する熊谷市。その広さは武蔵国の21郡中、幡羅、大里2郡の大部分、榛沢、男衾2郡の一部と4郡にまたがる範囲を占める。特に幡羅郡は、『和名抄』によれば七郷一余戸という北武蔵最大規模の郡であった。広さだけではなく、熊谷市のあった荒川流域の北側は早くから開けた地域であり、古くは武蔵國が東山道に属していていた影響で、隣国の上野(群馬県)・下野(茨城県)とともに、早くから文化が発達し、稲作や養蚕・機織などがさかんで、人口も多かったものと思われる。

 熊谷市域の古墳は、石原・広瀬・肥塚・中西・箱田・柿沼・上之・玉井・別府・上中条・三ヶ尻・吉岡など、163基の古墳があったといわれている。おおよそ6〜7世紀につくられた古墳が多いという。

 三ヶ尻周辺では荒川流域の北岸にあって、上流からの土砂の流入による肥沃な土地であったことから、早くから稲作が行われていたらしい。またこの地域の三ヶ尻古墳群にはかつて11カ所の古墳があったことが記録されていて周辺は宅地化が進み、ほとんどの古墳が消滅してしまったが、それでも数基の古墳は保存されている。





                         三ヶ尻八幡神社
                                   地図リンク                  
                             甕尻
の地名を持つ現八幡神社 昔の呼称は?

   

                                


                            所在地    埼玉県熊谷市三ケ尻2924

                            主祭神    
誉田別命 (合祀)大日霊貴命 菅原道真

                            社  格    旧村社 延喜式神名帳 田中神社 武蔵国幡羅郡鎮座 
       

                            由  緒   
 由緒不明
          
                            甕尻郷が鶴岡八幡宮領となり、その遙拝のために勧請された社である。
          

                            例  祭
    4月15日  例大祭



  三ヶ尻八幡神社は、埼玉県道47号線深谷東松山線で三尻中学校のすぐ南側、三尻公民館の奥に鎮座する。北側には三尻小学校があり、丁度2つの学校に挟まれた場所にある。


                               

                              正面に位置する一の鳥居と社号標              寛永6年(1629)の二の鳥居 


                                                      

                                        
丘に向かって参道が続く。実はこの参道は南(正確には南西)方向で、社殿は北向き


八幡神社

篆額 鶴岡八幡宮 宮司 吉田茂穂
 当社の創建は、第70代後冷泉天皇の御宇天喜4年、鎮守将軍源頼義・義家父子奥州出陣の砌、当地に旌旗を停め戦勝を祈願したことに溯る。寿永2年後の征夷大将軍源頼朝、当時の三ヶ尻郷を相模国鶴岡八幡新宮若宮御領として寄進されてより、当社は同宮の分祀として源家武士の崇敬篤く、更には三ヶ尻の里の総鎮守として庶民の尊崇を集めていたのである。
寛永6年びは時の領主天野彦右衛門深く当社を崇敬し、八幡型大鳥居一基と鷹絵額五枚を献上している。天保年間、三河田原藩家老華山渡辺登、故あって当地に滞在し著した訪甕録は、当時の深厳な境内と総彫刻極彩色の本殿の威容を記し、往時の地域住民の崇敬深きを伺わせているのである。下って昭和20年、郷社列格の栄に浴し、昭和63年嘗て華山も紹介した明和5年建造の本殿が熊谷市の文化財に指定された。
 かくして氏子はもとより、近郷近在からの崇敬弥増し、神威は益々高まった、平成4年には由緒深き本殿の尊厳を維持するべく、覆殿改築に着手、工事は順調に進捗していた。ところが同年10月20日夜半、突然原因不明の火災に遭い、完成を目前としていた覆殿はもとより本殿以下全ての社殿を焼失するところとなった。まさに青天の霹靂、関係者は茫然と自失寸するばかりであった。しかし一同悲しみを乗り越え社殿再建への思いに結集し、八幡神社御社殿復興準備委員会を結成、計画の立案にとりかかった、平成6年には予て要望していた第61回伊勢神宮式年遷宮の古殿舎撤去古材譲与も聞き届けられろところとなり、約56石の桧材が平成6年7月の佳日を卜し遙か伊勢路より搬送された、また、本社鶴岡八幡宮には物心両面に亙る支援を忝のうし、社殿再建への気運はいやが上にも加速した、平成7年八幡神社御社殿復興奉賛会を設立、伏して広く浄財を募ったところ、赤誠溢れる氏子崇敬者等の暖かい協賛を賜り、遂に平成10年5月15日天高く響く着工の槌音を聞いたのであった。幸いにも本社との御神縁により卓越せる技術を誇る建設業者に工事を依頼し、加えて地元建築業者の協力を仰ぎつつ、本殿・拝殿・透塀の改築につき、懸案の境内整備事業も完了した。時恰も皇紀2660年、御祭神応神天皇降誕1800年の佳年であった。
社殿完成により早一年、新緑目にしみる神域に思いを新たにし、いささか慶事の経緯にふれその概略を石に刻し、併せて赤誠を捧げし各位の芳名を後世へ伝えんとする次第である。
平成13年12月吉日
八幡神社宮司 猿田宣久謹書

社頭石碑

                                           

                                                        拝 殿

                                           

                                                        本 殿

三ヶ尻八幡神社は鶴岡八幡宮と古くから交流があったらしい。

 天喜4(1056)年源頼義、義家父子は奥州争乱鎮定(前9年の役)に出陣の折、三ヶ尻に来て戦勝祈願を行っていることから始まる。今も境内には、義家が愛馬をつないだという杉の古木が神木として祀られている。続いて寿永2(1183)年、後の征夷大将軍源頼朝は当時の三ヶ尻郷を相模の国鶴岡八幡宮若宮御領として寄進し、同宮の分祀として尊崇を集める。所願成就のため武蔵國波羅郡内尻(みかじり)郷を相模國鎌倉郡内鶴岡八幡新宮・若宮御領として寄進する旨が記され、頼朝の花押のある寿永2年2月27日付の文書である。

 この縁で、三ヶ尻に奉納米を作るため神饌田を復活させ、三ヶ尻小学校、籠原小学校、鎌倉の鶴岡八幡宮子供会の子供たちが合同で田植えをし、稲刈りをし、刈り取った米は11月23日に鶴岡八幡宮で行われる新嘗祭に奉納される。三尻八幡神社の氏子さんたちもまた、毎年、大注連縄を編み鶴岡八幡神社に奉納している。このように、熊谷の三ヶ尻八幡神社と鎌倉の鶴岡八幡宮は深い絆で結ばれていた。

  *神饌(しんせん)
    神に供える飲食物。 ・米・酒・鳥獣・魚介・蔬菜(そさい)・塩・水など

   神饌田(しんせんでん)
    神様にお供えする米を作る田



                                           

       源頼義と八幡太郎義家が、前九年の役出陣にあたり、この地に兵を留めて戦勝祈願をしたとされ、境内には義家が愛馬をつないだとされる杉が神木としてのこっている


                                           

                                       拝殿手前にある祓戸大神  瀬織津姫命と何か関係があるか



 三ヶ尻八幡神社境内には数々の境内社が鎮座する。

                        

       琴平神社              浅間神社          琴平、浅間神社手前に鎮座している御嶽神社   合祀社 八坂社、雷電社、稲荷社等  奥に鎮座する社 不明


                                           
                                          
                     
               三ヶ尻八幡神社、社殿横には社日と言われる不思議な石柱が存在する。

          五角形の各面には、五柱の神名が記されている、天照皇大神大己貴命稲倉魂命埴安媛命少彦名命。天照皇大神が正面で、その右面から上記の順で並ぶ。

                                                社日に関しては、
こちらをクリック




 ところで三ケ尻八幡神社はかつて「甕尻郷が鶴岡八幡宮領となり、その遙拝のために勧請された社である」という。かつてこの地は三ヶ尻ではなく甕尻と呼ばれていた、ということだ。では「甕」とはなんという意味であろうか。

「甕
 貯蔵や運搬に用いられる容器としての日常生活道具と同時に、弥生時代中期には北九州、山口地方を中心に埋葬のために遺体を納める容器として甕が使用され、
甕棺墓の風習があったことが判っている。弥生時代の甕棺墓の特徴は、成人専用の甕棺が作られた点、青銅製武器類(銅剣・銅矛・銅戈など)や銅鏡などの副葬品が見られる点にあり、一般集落構成員の墓と有力者層の墓とは別に造られるようになった。青銅製品などの副葬品にも差が出てきたり、この地域社会にいくつかの階層ができあがっていったことがわかる。

 他の利用例として

 (1)祈念祭の祝詞に「大甕に初穂を高く盛り上げ、酒を大甕に満たして神前に差し上げて、たたえごとを言った」とあり、祭祀用として重要な用具だったことが判る。

 (2)「播磨国風土記」に丹波と播磨の国境に大甕を埋めて境としたとも伝えている。

 これらの例から、大甕(おおみか)は、酒を入れた器で、神事に使われ、また何らかの境界に埋められることもあったことが知られている。


 弥生時代中期に甕棺墓は最盛期を迎え、弥生時代後期から衰退し、末期にはほとんど見られなくなる。このような変遷は、地域社会の大きな変貌があったと考えられる。


 「甕」は、古代日本において、生活の中だけでなく、埋葬、祭祀の際にも重要な役割を果たす用具だったことが窺わせる。また神話の世界の中でも「甕」を冠した神の存在がある。

槌命  
 雷神、刀剣の神、弓術の神、武神、軍神として信仰されており、鹿島神宮、春日大社および全国の鹿島神社・春日神社で祀られている。


 武(タケ)は美称、甕槌(ミカヅチ)は「甕ツ蛇(みかつち)」と訓む。香取の神は経津主 (ふつぬし)命で、フツヌシは「瓮ツ主(へつぬし)」と訓む。『常陸国風土記』のほ時臥山説話は、蛇神信仰   から甕の神(鹿島・香取神)信仰に移っていたことを物語る説話と考えられている。

速日神(みかはやひのかみ)
 神産みにおいて伊弉諾がカグツチの首を切り落とした際、十拳剣「天之尾羽張(あめのおはばり)」の根元についた血が岩に飛び散って生まれた三神の一柱であり、火の神とされる。

 建御雷男神と同様に刀剣の神であるとも言われる。『日本書紀』には武甕槌神の先祖であるとも記されているが、その後に樋速日神、甕速日神、武甕槌神が同時に生まれたとも記されている。

之多気佐波夜遅奴美神(ハヤミカノタケサハヤヂヌミ)
 大国主神の 子孫で、天之甕主(あめのみかぬしの)神の娘、前玉比売(さきためひめ)を娶す。(* 前玉比売は前玉神社の祭神)



天之主の神 (アメノミカヌシ)
 前玉比売の親神

主日子神(ミカヌシヒコ)
 大国主神の 子孫の速甕之多気佐波夜遅奴美神と前玉比売との間に生まれた神


津日女命(アマノミカツヒメノミコト)
 出雲風土記などに記載されている出雲神話の神という。


天津(アマツミカボシ)
 「日本書紀」にみえる神。高天原(たかまがはら)にいる悪神。経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)が葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定するためにつかわされる前に服従された。別名に天香香背男(あまのかかせお)。

 日本神話に登場する星神で、悪神と明記される異例の存在である。



このような「甕」を冠した神々と「甕尻郷」の甕とは何か関連性があるのか、それとも単なる偶然か。埼玉県美里町広木に鎮座する甕甕神社また近くに鎮座する延喜式式内社 田中神社の祭神、武甕尻命との関係にも興味が広がった。

                                

        



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                               田中神社 
                                  地図リンク                       
                                                                 埼玉県初の「要石」のある式内社論社            

                                           


                             所在地    埼玉県熊谷市三ケ尻 671

                             主祭神    武甕槌命 (配祀)少彦名命 天穗日命
                                      『神名帳考証』(延経)天津彦根命
                                      『式社考』『神社要録』『大日本史』武甕尻命
                                      『神社命附』『風土記稿』『武乾記』少彦名命・天穂日命

                             社  格     旧村社 延喜式神名帳 田中神社 武蔵国幡羅郡鎮座 
       

                             由  緒   
  由緒不明
          
                              江戸時代は「天神社・天神宮・田中天神社」と称していたが、明治末年三尻字新堀新田の
                                      八幡神社に一時合祀、その後まもなく、現地に復帰再興したという。

                             例  祭
     1月25日 例祭


 
 国道140号彩甲斐街道と埼玉県道47号深谷東松山線の交差する、武体西交差点の南西側すぐそばに田中神社は鎮座する。荒川の扇状地内。四方を水田に囲まれている。もとは天神社。また水田の中にあるので田中天神といわれるようになったという。
 駐車できるスペースはなく、路上駐車しようにも日頃より交通量の多い県道のため、武体西交差点脇にあるコンビニエンスの駐車スペースを利用し、そちらに駐車して参拝する。


                                           

                                                県道の歩道から一の鳥居を撮影


                                           

                            社は規模は小さいながら式内社論社としての風格がある。また参道も以前に比べて綺麗に整備されている。


 
境内には要石があり磐倉(ご~体)、境界石であり幡羅郡、大里郡、榛沢郡の境界に建っているそうだ。また、古来より田中天神と云われて、産土~・ 水~様を信仰していた。天神とよばれるが菅原道真の天神ではなく、古代以来の天津神天神信仰であり、小さい社とはいえ歴史の淵源は深い。



                               

                          
  二の鳥居の手前左側にある地震封じの要石    鳥居奉献記念の石碑にも要石の由来等紹介している

                関東で要石があるのは、鹿嶋神宮、香取神宮が有名で他8例のみ。埼玉では初の発見と言うことらしいが、詳しいところはわからない。



田中神社

抑抑(そもそも)武蔵国44座の1社とたたえ奉る延喜式内田中神社の御祭神は武槌命少名彦名命天穂日命を奉祭し土人の古き伝説には田中天神と呼び菅原道真公併祀の鎮守にて家内安全交通安全学問高揚の神として氏子の崇敬今に壮んなり。
ここに御影石の大鳥居を御奉献そ大神の御安泰と氏子の守護と繁栄を御祈念申し奉る。
右側に埋存せる天然石は常陸国鹿島の要石と同様の伝説を存す、又武蔵国幡羅大里榛名の三郡の彊域を示す境界石として永遠に伝えん。
                                                                                              社頭掲示板


                               

                                       拝  殿                        
拝殿とその奥にある本殿


 
荒川の扇状地内。四方を水田に囲まれている。もとは天神社。また水田の中にあるので田中天神といわれるようになったという。境内に要石があり、磐座とされている。天神とよばれるが菅公(菅原道真)の天神ではなく、古代以来の天津神天神信仰の天神であろう。
 明治末年、三尻字新堀新田の八幡神社に一時合祀されたが、その後まもなく、氏子の申立によつて現地に復帰再興した。
 神体として瓢箪形の石三個と金幣三本を本殿に祀る。





 『式社考』『神社要録』『大日本史』では田中神社の祭神が武甕尻命と記述されている。この武甕尻命は武甕槌命と同人物というらしいが、本当はどうであろうか。旧事本記には大貴己命と系譜として、五代孫に武甕尻命の名前が出てくる。

旧事本記】

     大己貴(おおむなち)命が胸形の奥津宮の多紀理毘売命を娶して生める子、阿遅?高日子根神(迦毛大御神)と妹高比賣命(下光比賣命)

     大己貴(おおむなち)命が胸形の辺津宮の高(津)降姫神を娶して生める子、都味歯八重事代主神と妹高照光姫大神命。

     孫都味歯八重事代主神、八尋熊鰐になりて、三島溝杭女活玉依姫のもとに通って・・云々。

     三世孫天日方奇日方命、四世孫健飯勝命、五代孫健甕尻命、六世孫豊御毛主命、七世孫大御気主命、八世孫阿田賀田須命 和邇君等祖 云々。十一世孫大鴨積命、磯城瑞籬宮(祟神朝)御世賜加茂君姓。次、大友主命同朝御世賜大神姓。


 ここでは武甕尻命は決して武甕槌命と同人物ではない。謎はますます深まる。




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 新堀(北)交差点から南へ下り、大きく二又に分かれる手前の歩道橋脇から東へ入って行くと、徳蔵寺の隣に大雷神社が鎮座している。 


 大雷神社              
                    
熊谷市新堀新田に鎮座する大電八公宮
 地図リンク                         

                              


                                           


                                  所在地    埼玉県熊谷市拾六間690

                                  主祭神    別雷命

                                  社  格    村社 
       

                                  由  緒   
 由緒不明
          
                              
                                  例  祭
   不詳


                
                 
新堀(北)交差点から南へ下り、大きく二又に分かれる手前の歩道橋脇から東へ入って行くと、徳蔵寺の隣に大雷神社が鎮座している。


                              

                                  大雷神社の社号標                         二の鳥居


                              

                                      拝  殿                      拝殿とその奥にある本殿覆屋

                                           

                                                 額に記された大電八公宮


 新島地区に鎮座する大雷神社も大電八公宮という。祭神も同じく別雷命。そこの由来の碑にはこのような説明が書かれている。


 
大雷神社 由来

 
当地新島は文禄年間(西暦一五九二年)に新島右近が開墾し、慶長年間(西暦一六○八年)には玉井村分と謂われ、元禄期(西暦一六八八年)までには新島村として独立するようになりました。江戸時代には旗本戸田氏や白須氏の領地となり、明治二十二年幡羅郡新島村から大里郡大幡村大字となり、昭和七年四月一日に熊谷町大字新島、同八年五月一日、熊谷市大字新島となる。
 当社は古くは大電八公社(ダイテンハクシャ)として現在の熊谷市大字新島大天白北三百二十八番地に鎮座し・・・(中略)祭神は別雷命です。・・・(中略)風の神、安産の神として近郷の人々の信仰を集めてきました。


 
大電八公でダイテンハクと読ませることのほうが興味深いことだ。大天白神は星神・水神・農耕神・産泰神などの性格を持ち、別雷命も雷神としての面以外にも水神や農耕神としての性格があり
別雷命も雷神としての面以外にも水神や農耕神としての性格があり、またこちらの神社では産泰神としての性格も持たされていることを考えると、大天白神と別雷神を同一視している可能性もあるだろうか?

 またある書類ではこのようなことが記入されている。

・・・・『大天白神』に各地の天白社の分布をまとめ、天白信仰は水稲農耕以前、縄文時代まで遡るとした。
関東では大天白を「大天獏・大電八公」、東海道では「天白・天縛」、相模国では「天獏魔王」、遠江国では「天白天王」尾張国では「手白」、志摩国では「天魄」、奥羽地方では「大天博・大天馬・大天場」と書くという。・・・・


                                           


熊谷市徳蔵寺・大雷神社社叢ふるさとの森

 昭和五十九年三月三十日指定
 身近な緑が、姿を消しつつある中で、貴重な緑を私達の手で守り、次代に伝えようと、この二つの樹林が、「ふるさとの森」に指定されました。
 徳蔵寺は、真言宗の寺院として、六〇〇年ほど前に建立されたと言われ、薬師如来と十二神将軍の石像は、古くから人々の深い信仰を受けています。
 大雷神社は、源平時代(1056年)に父の命を受けた源義家が、征途にあたり、この付近に十六間四方の兵舎を築き、五穀豊穣を祈り水神を祀ったのが起源とされています。
 周囲の都市化が進むなか、天に向う大樹の森は、かけがえのない緑です。
 林相としては、主に、カヤ、イチイガシ、マツ、クスノキ、スギ、ヒノキなどで構成されています

 
大雷神社社叢ふるさとの森の説明板でも「大雷神社は、源平時代・・・(中略)五穀豊穣を祈り水神を祀ったのが起源とされています」と書かれている。拝殿の額に書かれた「大電八公宮」という名前といい、読み方といい、この説明板の水神といい、天白神との関係が非常に深いのでは、と感じた。


                         

                          

                       
    拝殿左側にある神輿社と神明社                    合祀社 
                                                        産泰神社と天神社、稲荷神社、八坂神社、諏訪神社
                                                              御手長神社が合祀されている






 


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 埼玉県道47号深谷東松山線を東松山方向に進み、三尻農協前交差点のY字路を左折する。国道140号バイパス、いわゆる彩甲斐街道を抜け、国道140号(秩父往還道)の交差点を左折し300m程進むと左側に大榮神社が鎮座している。神社の隣に社務所があり、駐車場スペースがあったのでそこに止め参拝をする。


 大榮神社
                     熊谷唯一の神明造りの社 大麻生総鎮守
  地図リンク

                                          


      
                                    所在地    埼玉県熊谷市大字大麻生字西河原454番地

                                    主祭神    菅原道真公、そして日本武尊、他14柱

                                    社  格    旧村社       

                                    由  緒   
  旧五社稲荷神社が境内に存在していた。大正2年中郷地区の八荒神社
          
                                    と駒形神社、西河原の浅間神社と天神社、そして武体の天神社を合祀して
           
                                    現在の大榮神社として改称する。
          
                                    大正3年10月7日、神饌幣帛料共進神社に指定。
    
                               
                                    
例  祭     4月  例大祭



                       秩父鉄道大麻生駅の北300mほど、国道140号に面して大榮神社が鎮座する。熊谷では珍しい神明造りの社である。


                                          

 現在の社殿は決して古くはなく、昭和3年に改築したものらしい。その際に、神明風の社殿にしたようだ。深谷市高島に鎮座する、生品神社に似ている。また河川の洪水対策として石垣による基礎を高くしているのがわかる。ちなみに石垣として使用した石は、荒川の自然石とのこと。


                

                   鳥居横にある社号標           右側より白山大権現、御岳神社、小御岳神社                 合祀社
                                                                      産泰神社、浅間神社、駒形神社、天神社、五社稲荷神社、八荒神社
 

                          
   

                                  なかなか立派な拝殿                         本 殿



                                               

                                      弓場跡?神事の関係           社殿奥にあった御神木




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 国道140号線を熊谷市方向に進み、運動公園前交差点を左折する。この道は通称宮塚古墳通りというがそれを北上し、コンビニエンスがある2番目の信号を左折するとすぐ左側に春日神社が鎮座している。


 春日神社 

  地図リンク        
                                          



                                  所在地    埼玉県熊谷市小島142

                                  主祭神    春日神(かすがのかみ)
                                           武甕槌神(たけみかづちのかみ) :雷神、刀剣の神、弓術の神、武神、軍神、武道・競技
                                           の必勝、事業の創始、旅行安全の神
                                           経津主神(ふつぬしのかみ)  :刀剣の威力を神格化した神、海上守護・国家鎮護の神
                                           天児屋根命(あめのこやねのみこと) :祝詞の神、出世の神
                                           ※中臣連の祖(中臣鎌足を祖とする藤原氏の氏神)
                                           姫大神〔ひめのおおかみ)    

                                  社  格     
旧村社       
    
                                  例  祭     不明



                                          

                                                    鳥居と社号標
                          鳥居の柱には宝暦二壬申歳三月吉日、武州大里郡小嶋村惣産子と刻まれているので1752年のものらしい。


                                                    

                              鳥居の左側には道祖神が鎮座            鳥居を抜けるとすぐ右側に末社の祠がある
                                                                左から天神社、八坂社、稲荷社

                                          

                                        参道は一度直角に右折する。すると正面に拝殿がある
                                             本殿は拝殿覆屋の中なので見られず

                                                    

                              社殿の裏に境内社 三峰社                      同じく宝登山社




                                        

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