甕甕神社が鎮座する埼玉県美里町。埼玉県北西部に位置する、人口約1万2000人の自然豊かな町だ。特産品のブルーベリーが有名で、植栽面積は日本一を誇り、収穫の時期になると至る所で直売所の看板を見かける。そのほかに、きゅうりをはじめとして、農業も盛んである。また、町内には多くの古墳や万葉集ゆかりの地、条里遺跡、鎌倉街道などがあり、上古代から比企郡や児玉郡、男衾郡と共に武蔵国では栄えていた地域であることが遺跡等の発見で判明している。

 美里町は律令時代には那珂郡と言われ、この「なか」は、賀美(かみ)郡の「上」に対する「中」の意とする説があるそうだ。付近一帯には長坂聖天塚古墳に代表される県下でも最古級の古墳があり、そのほか普門寺古墳群、羽黒山古墳群、広木大町古墳群等の古墳群がこの狭い地域に密集して存在する。現存する古墳数も大小177基に及び県下では最も多い。またこの地域は地形上、東国の中心地であった上毛野国(上野国)の南部に位置し上野国と深い交流があったと思われる。

 近くには神池である「摩河の池」を中心に古代祭祀が行われていたものとされ、周辺には広木古墳群の他にも埴輪窯跡・竪穴住居跡なども発掘。当社の祭祀集団は神酒づくりにかかわる土器=ミカを製作した出雲族の集団であったと推定される。武蔵と上野の風土が色濃く混じり合った雰囲気がこの那珂郡周辺の郡には確かに存在していた。

 目次
  甕甕神社 式内社 旧県社 那珂郡総鎮守 / 兒玉神社 / 関浅間神社
  


                                甕甕神社
                                   地図リンク                          
                                               甕を信奉する謎の出雲系集団

                                                 


                                            所在地     埼玉県児玉郡美里町広木1

                                            主祭神     櫛御気野命 
                                                     (合祀)大山咋命 宇賀能御魂命 天宇受女命
                                                         佐田比古命 迦具土命 須佐之男命

                                            社  格     式内社 旧県社 那珂郡総鎮守

                                            例  祭     例祭日4月13日   八坂祭7月25日

                                            創立年代
   不詳


                              *「全国神社祭祀祭礼総合調査」では甕甕神社と表記しているので、同左として表記する.

 甕甕神社は国道254号を美里町方面(国道140号方面)から児玉方面へ進み、広木交差点を右折、または広木交差点先すぐの場所に鎮座している。創立年代は不詳ではあるが延喜式に記載されている古社。。同所は武蔵七党猪俣党の発祥地とされる。社名の「ミカ」とは酒をかもすのに用いた大型の甕のことで、当社に御神宝とされていた土師器が4個保存されている。

 
に関しては三ヶ尻八幡神社を参照。

                                   

                                    
    国道の南側にある社号標                国道から社叢を望む

                                   

                                        武蔵国那珂郡唯一の式内社          鳥居を抜けるとすぐ左側に案内板がある

 

 甕甕神社   所在地 児玉郡美里村大字広木

 みか神社の創立年代は不詳であるが、醍醐天皇の延喜式神明帳に登載されている古い社で、祭神に櫛御気野命、櫛みか玉命の二神が祀られている。江戸時代の享保8年(1723)に正一位を授けられたと伝えられ、宝暦8年(1758)に建設された境内の碑にも「正一位みかの神社」とある。
 現在の社殿は宝暦13年に再建したもので、これを記した棟札が残っている。
 社名のみかとは酒を造るために用いた大きな甕(かめ)のことで、現在、当社に御神宝とされていたと思われる。
 土師器のミカが四個保存ざれている。
 例祭は、毎年4月13日と10月15日に行われ、以前は秋の例祭に新米で濁酒を二瓶造り、これを神前に奉納して、その一つは翠春の参拝者に分け与え、他の一つは秋の例祭のときに新調したものと交換していた。現在は清酒を奉納し、これを御供物として参拝者に分け与えている。
 昭和58年3月   埼玉県
                                                                                                     社頭案内板より引用



                                   

                                                
     神楽殿 なかなか重厚ある造り


                                         

 
                                                            拝      殿

  由 緒
   


 当社の創立は詳かでないが延喜式神名帳に所載の古社であって古来旧那珂郡の総社と称されて居りました。「延喜式神名帳とは、人皇60代後醍醐天皇の延喜の年代の頃中央に於て全国の神社を調査し纏めた書物が完成された。この本を延喜式神名帳と云いこの書物に登載され居る社を式内社と云います。」神階は往古は不明であったけれども享保8年正一位の神階を授けられ宝暦8年に建設した碑に正一位みかの神社とあり。神領は徳川幕府の時代に地頭より除地四段 八畝歩を寄附せられ尊敬最も厚かった。祭典は春秋二季に行い毎年秋の例祭に新米を以って濁酒二甕を造り之を撤し其の一は秋季例祭に於て新酒と交換し何れも神供として其の神事に与る氏子に信徒に分与することが例であって往古より明治中期まで行い来られる。古式の神事でありましたが現今は中止されて居る。尚宝暦13年御本殿の改造の棟札は残って保存されて居る。

                                                                                                              全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年


                                              

                                                           本     殿
 

 甕甕神社の祭神は櫛御気野命と言い、櫛は奇霊(くしび)であり、御気は御食または御木のことで、神祖熊野大神櫛御気野命と同神。つまり本来熊野大神であるが別名素盞嗚尊(スサノオ)と言う。この熊野大神は有名な熊野三山とは無関係のようで、本家は島根県八束郡八雲村熊野に鎮座する熊野大社であるようだ。

 熊野大社
  鎮座地 島根県八束郡八雲村熊野2451
  旧称 熊野坐神社 熊野大神宮 熊野天照太神宮
  別称 日本火出初社 出雲國一宮 後明治4年國幣中社、大正5年國幣大社
  主祭神 加夫呂伎熊野大神櫛御気野命(かぶろぎくまののおおかみくしみけぬのみこと)と称える素戔嗚尊(スサノオノミコト)
  神紋 一重亀甲に「大」の文字


 この社は720年の日本書紀によると、659年に出雲国造が創建したと記されていて、733年の出雲国風土記では、出雲大社とこの熊野大社が出雲国内で最も格式の高い「出雲國一之宮」とされているが両社の力関係は同一ではなく、文献では『文徳実録』(八五一年)には、「出雲国熊野杵築両大神を従三位に叙す」と、また『三代実録』(八五九年)にも「 出雲国正三位勲七等熊野坐神、正三位勲八等杵築神を従二位に叙す」とあり、いずれも熊野大社、次いで杵築と記しているように、熊野大社の神格が一段高く評価されていることが窺える。また日本火出初社(ひのもとひでぞめのやしろ)という別称があり「火」の発祥の神社としても信仰を集めていて出雲国造の世継ぎの儀式「火継式(神火相続式)」や「新嘗祭」等の重要な儀式は出雲大社宮司の出雲国造家が「熊野大社」に出向いて行われている。


火継式(神火相続式)とは
 

 火継式は出雲国造が代替わりの際に行う儀式であり、神火相続式とも呼ばれる。

 前国造が帰幽(死去)した際、新国造は喪に服す間もなくただちに社内の斎館に籠もって潔斎した後、燧臼(ひきりうす)・燧杵(ひきりきね)を携えて、熊野大社に参向する。そして熊野大社の鑽火殿にて燧臼・燧杵によって火を起こし、鑽り出された神火によって調理された食事を神前に供えると同時に、自らも食べる。

 その後、神魂神社において饗宴を受けた後、出雲大社に戻り、奉告の儀式を行い、火継式は終了する。この儀式にて鑽り出された神火はその後、国造館の斎火殿にて保存される。国造は在任中この火によって調理したものを食べるが、国造以外はたとえ家族であってもこれを口にすることは許されないという。

 火継式の「火」は「霊(ひ)」であり、その火をもって調理されたものを食べることによって、天穂日命以来代々の国造の霊魂を自らの中に取り込むのだとされている。


 
 出雲国の熊野大社と紀伊国の熊野大社はどのような関係だろうか。熊野大社から紀伊国に勧請されたという説と、全くの別系統とする説がある。社伝では熊野村の住人が紀伊国に移住したときに分霊を勧請したのが熊野本宮大社の元であるとしている。紀州の熊野神は後に皇室の崇敬する所となって繁栄し、蟻の熊野詣でとまで言われる程になった。 出雲のお膝元にまで紀州系の熊野神社が勧請されているとの事、出雲国内で61社あると言う。
 
 甕甕神社の祭神は櫛御気野命といい、本宮が島根県八束郡八雲村熊野に鎮座する熊野大社であるということは重要な点だ。なぜなら出雲族といっても出雲大社を本宮とする大己貴命系と、熊野大社を本宮とする素戔嗚命系に実は分類されるからだ。ちなみに埼玉県内の出雲系の神社の祭神は以下の通りだ。

 氷川神社             須佐之男命  大己貴命
 鷲宮神社             天穂日命   大己貴命
 金鑽神社  
    
       素戔嗚尊
 本庄金鑽神社          素戔嗚尊
 熊野大神社   
 
       事解男命   速玉男命
 玉敷神社     
        大己貴命
 雲伊波比神社         大名牟遅神  天穂日神
 出雲乃伊波比神社(寄居町)  須佐之男命 
 
出雲乃伊波比神社(熊谷市)  天穂日命   大己貴命
 久伊豆神社            大己貴命   事代主命
 前玉神社       
      前玉比売神  前玉彦命
 上之村神社            大己貴命   事代主命
 伊波比神社    
       天穗日尊
 横見神社             
建速須佐之男命  櫛稻田比売命
 高負彦根神社   
       大己貴尊
 稲乃比売神社          素盞嗚命   大己貴命
 田中神社(熊谷市) 
      武甕尻命   天穂日神


 赤色が大己貴系、青色が素戔嗚系で圧倒的に大己貴系が多い。中には氷川神社や稲乃比売神社のように素戔嗚系、大己貴系が一緒に祀っている神社も存在する。がこと県北に関しては金鑽神社、本庄金鑽神社、甕甕神社,そして寄居町の出雲乃伊波比神社
素戔嗚系で集中している特徴がある。
 少なくとも出雲族といっても大きく2系列の一族の進出が武蔵国にはあって、大己貴系の一族は埼玉県北東部の行田市、羽生市付近から元荒川を沿って南行する一派と西方面へ進出する一派に分かれ。方や素戔嗚系は金鑽神社の児玉郡から甕甕神社の那珂郡、男衾郡にかけては素戔嗚系一族の
進出範囲ではなかったかと現時点では推測する。


                                                  

                                                     拝殿の左側にある石碑 社日という

 
                                                

                                                     本殿奥には境内社が祀られている。

                                   写真右側から産泰神社、諏訪神社、天満天神宮、神明神社、蚕影神社、山王神社、松尾神社

                                                

                                                       本殿奥にも石造りの祠が並ぶ。
 
                                      蚕影社、山王神社、松尾社、古峯山、鹿島社、稲荷社、愛宕社、天手長社、大雷社
など








                                                 
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                                  兒玉神社
                                    地図リンク  
                                                                                                       
                                                


                                             所在地     埼玉県児玉郡美里町関374番

                                             主祭神     仁徳天皇ほか13柱の神        

                                             社  格     旧指定村社 関村鎮守

                                             例  祭     関兵霊神社祭2月13日、例祭10月15日

                                             創立年代
   不詳



 兒玉神社は埼玉県道75号熊谷児玉線で児玉方向に進み、関交差点の約1㎞手前右側に静かに鎮座してる。村の鎮守様という言葉がピッタリくるような地元の人たちに親しまれている社という第一印象だった。ちなみに神社の鳥居の前には車を止める駐車スペースが広く確保されており、そこに停めて参拝を行った。


                                 
 

                                 木々豊かで、その中にある境内は開放的な空間           兒玉神社正面

                                  

                                      鳥居上部に掲げてある社号額                    神楽殿        
      
        柱の間に斜めに伸びている筋交(建築物や足場の構造を補強する部材 )が正面、両脇に見える。構造上下部が安易な構造で上部の瓦の重みを支えきれないためだろう。 

                                    

                                         拝殿とその奥にある本殿             拝殿正面上部に彫られている彫刻

 兒玉神社 
 
兒玉神社の創建年代は不詳ですが、鎌倉時代に当所の修験者である関城院という人が修業のために大和国大峯山に籠り、満願しての帰途、鎌倉鶴岡八幡宮に通夜した時霊夢を感じて当所に帰村の後一社を創立して若宮八幡宮と称したと伝えられます。明治40年(1907)に字田中菅原神社、字芝原八坂神社・雷電神社・稲荷神社、字八幡関八坂神社、字庚申塚石神社、字大関稲荷神社、字倉柱愛宕神社・神明神社、字石神石神社、字柳町石神社、字六道山神社、字三本松二柱神社の一三社を合祀し、児玉神社と改称したといいます。


  大字関にあり、仁徳天皇ほか13柱の神を祭る。鎌倉時代に当所の修験者である関城院という人が修業のために大和国の大峯山に籠り、満願しての帰途、鎌倉鶴岡八幡宮に通夜した時霊夢を感じて当所に帰村の後一社を創立して若宮八幡宮と称したといわれる。後世になって寛文年間(1661-1673)および明治元年(1868)の二度にわたって火災にあい、宝物・古文書等すべて失い由来を明らかにすることはできない。明治40年(1907)に合社により児玉神社と改称された。                                          (美里町史より引用)


 若宮八幡社
 村(関村)の鎮守なり。不動院の持。
 末社。天神、稲荷。                                                                               (新編武蔵風土記稿掲示より引用)

                                                

                                                             合祀社

 明治40年(1907)に字田中菅原神社、字芝原八坂神社・雷電神社・稲荷神社、字八幡関八坂神社、字庚申塚石神社、字大関稲荷神社、字倉柱愛宕神社・神明神社、字石神石神社、字柳町石神社、字六道山神社、字三本松二柱神社の一三社を合祀したという。


 ところで合祀社の並び、本殿の後ろ側には、義民遠藤兵内お宮(関兵霊神社)があり、祠の隣には説明板の碑もある。

                                                

  義民遠藤兵内お宮改築記念碑

 義民遠藤兵内は、今からおよそ二百二十有余年前の明和元年に起きた明和の大一揆の首謀者として、明和3年45才の若さで獄門の刑に処せられ、刑場の露と消えました。文久3年、この地に神として祀られ、以来命日の2月13日には神霊祭が盛大に行われます。平成2年、兵内くどき保存会が県の文化ともしび賞を受け、ここに受賞記念事業としてお宮の改築をし、義民兵内の功績を長く後世に伝えるものです。                                                                                    (美里町史より引用

 美里町関地区に鎮座する兒玉神社は小山川支流の志戸川のすぐ西側、土手の微高地にある。志戸川は一級河川であるが、水量は決して多くなく、古くから水の不足する地域であったようだ。また当時の土木技術はそれほど高くなく、湧水や雨水を利用して農作業を行っていた。
 隣接する児玉町や美里町も乏水性の地形上にあり、現在でも本庄・児玉周辺では溜池がたくさん見られる。丘陵地の谷口を堰き止めた小規模のものが多く、ほとんどが灌漑用水確保のために造成されたものである。美里町西部にある摩訶(まか)池のように、平安時代初期に作られたとの伝承が残っているものもある。

 以前聞いたことがあるが、武田信玄が城攻めで何度も成功している「水の手を絶つ方法」とは鉱山技師を動員して城の外で坑道を堀り、城の中にある井戸の水脈を探り当ててこれを経ち、城の中の井戸を枯れさせるというものだそうだ。 
 この武田信玄が行った坑道を掘る技術者集団は甲斐国にある黒川金山に専門の職人集団としての金山衆を記した文書からも多く存在する。16世紀中期より黒川金山は最盛期を迎え、黒川千軒と呼ばれる密集した家屋が建ち並び、人口は1,000人前後まで増加して鉱山町が成立していた。1571年(元亀2年)の武田家朱印状によれば、黒川金山衆は武田氏による北条綱成の守る駿河国深沢城攻めに動員されている。

 これほどの大集団ではないし、時代も数百年も前のこと故に比較することは少々無理があるが、阿那志という一風変わった地名からも当時この地域には金属精錬の民が存在していたのではないかと思われる。
 志戸川から砂や砂鉄等の原料もあり、そして燃やすものもある。ただ金属を冷やすためにはどうしても水が必要である。ただその地域の水量は少なく、独占することはできない。ならばどうするか。答えは簡単で、新しい水脈を発掘することであり、また灌漑用の溜池をたくさん造ることだ。その技術はむしろ豊富にあったろうし、この技術が昔からあった地域だったからこそ、その地域の名となって残ったのだろう。前出した「阿那志=穴氏」だ。埼玉苗字辞典にはこのような記述がある。


阿那志 アナシ 阿部族の首領を阿部志、磯族の首領を伊蘇志、渦族の首領を宇都志、阿那族の首領を阿那志と称す。すなわち穴族の渡来集団居住地を穴郷、穴師村、阿那志村と云う。近江国安那郷(草津市穴村)に安羅神社あり、アナはアラとも称す。アナベ、アナホ、アラ参照。児玉郡阿那志村(美里町)あり、当村、根木村、関村は阿那志郷を唱え、穴師とも記す。金沢文庫に¬文永十一年十一月、冨安新里・同阿那志村」と見ゆ。


 
中世からの郷名であり、この地の阿那志は慶長期(1600年頃)まで穴師郷穴師村と表記していたという。穴師とは鉱山などで金属の採掘を業とした人々を指さしていることは言うまでもない。
この地にも金属精錬の民が存在していた一つの証拠になるのではないだろうか。


                                                

                                                      鳥居左側に聳え立つご神木



 




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 関浅間神社の西側に流れる志戸川は延長9.3km、流域面積 49.7㎢の利根川水系の一級河川。河川管理上の起点は、美里町広木に設置されている。管理起点からは児玉郡美里町、大里郡岡部町を北東へと流れ、最後は岡部町西田で小山川の右岸へ合流する。現在は志戸川という表記が固定しているが、昭和初期までは志渡川、志度川と表すこともあった。例えばJR高崎線と八高線が志戸川を跨ぐ地点に架かる橋梁の名前は、共に支度川橋梁である。

 武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)によれば、那珂郡広木村で志度川と表記されているが、下流の那珂郡駒衣村、児玉郡阿那志村、関村および榛沢郡の村々では志戸川であり、志渡川の表記は見られない。 

 この河川は一級河川ではあるものの、雨を集める流域面積が少ないという特徴を持っていた。どの村でも一様に”堤防なし”と記されているところから洪水等の水害の被害が少なかった地域だったと思われる。逆に解釈すると集まる水の量が少ないということは、使える水の量もおのずから限られたものになることを意味する。流域の人口が増えていくにつれ、農家は、慢性的な水不足に悩まされた。関浅間神社の由緒に書かれている「当社は江戸時代から富士浅間信仰に基づき、地元川輪だけでなく近在近郷の人々から広く崇敬されていました。特に雨乞いに霊験あらたかといわれています。」という一文にもその当時の水不足の状況が垣間見られる。



                                  関浅間神社
                                      地図リンク

                                                


                                               所在地    埼玉県児玉郡美里町関1947

                                               御祭神    木花咲邪比売命

                                               社  挌    旧指定村社

                                               例  祭    例祭4月13日


 関浅間神社は埼玉県道75号熊谷児玉線を旧児玉町方向に進み、山崎山、諏訪山の丘陵地の間を越えた関集会所のすぐ先の交差点を左折すると左側にこの社の鳥居が見えてくる。もっともその交差点には「指定村社 浅間神社」と表記された社号標石があり、見た目だけは分かりやすい社である。駐車場は残念ながら無く、鳥居の前の参道が丁度車一台分くらい置くことができるスペースがあり、そこに停めて参拝を行った。
 が意外だったことは、鳥居からスタートした拝殿までのルートが思った以上に長く、ほの暗い参道を延々と進むその時間は心寂しく、ハイキング気分とは到底いかないものだった。


                                                

                                    交差点を左折するとすぐ左側にある鳥居。鳥居の前に車を停め、徒歩にて拝殿に向かう。

                     

                     諏訪山丘陵地の一隅に位置する鳥居           約200m位延々と続く参道             参道の途中、右側にあった溜池 

                     

                   ほの暗い参道をしばらく進むと浅間神社の明るく             拝   殿                 社殿の手前、右側にあった記念碑                                      開けた空間が広がる。 

 浅間神社社殿改修記念碑

 浅間神社は字川輪の鎮守であり。御祭神に木花咲邪比売命をお祀りしています。社伝によりますと創建年代は不詳ですが、永正年間(1504-21)に鉢形城主北条氏邦が深く信仰し、社殿を再興したといわれています。
 当社は江戸時代から富士浅間信仰に基づき、地元川輪だけでなく近在近郷の人々から広く崇敬されていました。特に雨乞いに霊験あらたかといわれています。
 当社の社殿は、今から106年前の明治33年に建設された後、昭和から平成の時代と、幾度かの営繕工事を重ねてまいりました。しかし、老朽化が急速に進み、改修工事を実施せざるを得ない状況となりました。
そこで、平成18年5月6日に氏子総会を開催して協議したところ、出席者各位の賛同を得て、社殿改修の浄財を募り、改修工事の運びとなった次第です。
 改修総工事費は、553万5千円であり、平成18年10月9日に着工し、平成18年12月10日に完成しました。
此処に改修工事の旨を石碑に刻み、後世に伝えるものであります。
                                                                                                      境内石碑から引用


 浅間神社

 大字関にあり、木花咲邪比売命を祀る。創建の年代等不明であるが、伝えによれば永正年中(1504-1521)北条氏邦が深く当社を信仰し、社殿を再興し広大な社地を寄進したといわれるが、慶長18年(1613)火災にあい文書等すべて烏有に帰したという。
                                                                                                      美里町史より引用


                                   

                                      社殿の左側の奥にある境内社                     神楽殿








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