三ヶ尻八幡神社が鎮座する熊谷市。その広さは武蔵国の21郡中、幡羅、大里2郡の大部分、榛沢、男衾2郡の一部と4郡にまたがる範囲を占める。特に幡羅郡は、『和名抄』によれば七郷一余戸という北武蔵最大規模の郡であった。広さだけではなく、熊谷市のあった荒川流域の北側は早くから開けた地域であり、古くは武蔵國が東山道に属していていた影響で、隣国の上野(群馬県)・下野(茨城県)とともに、早くから文化が発達し、稲作や養蚕・機織などがさかんで、人口も多かったものと思われる。

 熊谷市域の古墳は、石原・広瀬・肥塚・中西・箱田・柿沼・上之・玉井・別府・上中条・三ヶ尻・吉岡など、163基の古墳があったといわれている。おおよそ6~7世紀につくられた古墳が多いという。

 三ヶ尻周辺では荒川流域の北岸にあって、上流からの土砂の流入による肥沃な土地であったことから、早くから稲作が行われていたらしい。またこの地域の三ヶ尻古墳群にはかつて11カ所の古墳があったことが記録されていて周辺は宅地化が進み、ほとんどの古墳が消滅してしまったが、それでも数基の古墳は保存されている。


 目次
   三ヶ尻八幡神社 式内社 / 瀬山八幡神社 / 三ヶ尻観音山 / 田原(踏鞴)薬師堂 / 菅沼天神社


                         三ヶ尻八幡神社
                                   地図リンク                  
                               甕尻
の地名を持つ現八幡神社 昔の呼称は?

   


                                           


                                              所在地    埼玉県熊谷市三ケ尻2924

                                              主祭神    
誉田別命 (合祀)大日霊貴命 菅原道真

                                              社  格    式内社 旧村社 田中神社 
       

                                              由  緒   
 由緒不明
          
                                              甕尻郷が鶴岡八幡宮領となり、勧請された社
          

                                              例  祭
    4月15日  例大祭



  三ヶ尻八幡神社は、埼玉県道47号線深谷東松山線で三尻中学校のすぐ南側、三尻公民館の奥に鎮座する。北側には三尻小学校があり、丁度2つの学校に挟まれた場所にある。


                                  

                                    正面に位置する一の鳥居と社号標           寛永6年(1629年)の二の鳥居 

                                                         

                                      
  丘に向かって参道が続く。実はこの参道は南(正確には南西)方向で、社殿は北向き

 三ヶ尻八幡神社

 篆額 鶴岡八幡宮 宮司 吉田茂穂
 当社の創建は、第70代後冷泉天皇の御宇天喜4年、鎮守将軍源頼義・義家父子奥州出陣の砌、当地に旌旗を停め戦勝を祈願したことに溯る。寿永2年後の征夷大将軍源頼朝、当時の三ヶ尻郷を相模国鶴岡八幡新宮若宮御領として寄進されてより、当社は同宮の分祀として源家武士の崇敬篤く、更には三ヶ尻の里の総鎮守として庶民の尊崇を集めていたのである。
寛永6年びは時の領主天野彦右衛門深く当社を崇敬し、八幡型大鳥居一基と鷹絵額五枚を献上している。天保年間、三河田原藩家老華山渡辺登、故あって当地に滞在し著した訪甕録は、当時の深厳な境内と総彫刻極彩色の本殿の威容を記し、往時の地域住民の崇敬深きを伺わせているのである。下って昭和20年、郷社列格の栄に浴し、昭和63年嘗て華山も紹介した明和5年建造の本殿が熊谷市の文化財に指定された。
 かくして氏子はもとより、近郷近在からの崇敬弥増し、神威は益々高まった、平成4年には由緒深き本殿の尊厳を維持するべく、覆殿改築に着手、工事は順調に進捗していた。ところが同年10月20日夜半、突然原因不明の火災に遭い、完成を目前としていた覆殿はもとより本殿以下全ての社殿を焼失するところとなった。まさに青天の霹靂、関係者は茫然と自失寸するばかりであった。しかし一同悲しみを乗り越え社殿再建への思いに結集し、八幡神社御社殿復興準備委員会を結成、計画の立案にとりかかった、平成6年には予て要望していた第61回伊勢神宮式年遷宮の古殿舎撤去古材譲与も聞き届けられろところとなり、約56石の桧材が平成6年7月の佳日を卜し遙か伊勢路より搬送された、また、本社鶴岡八幡宮には物心両面に亙る支援を忝のうし、社殿再建への気運はいやが上にも加速した、平成7年八幡神社御社殿復興奉賛会を設立、伏して広く浄財を募ったところ、赤誠溢れる氏子崇敬者等の暖かい協賛を賜り、遂に平成10年5月15日天高く響く着工の槌音を聞いたのであった。幸いにも本社との御神縁により卓越せる技術を誇る建設業者に工事を依頼し、加えて地元建築業者の協力を仰ぎつつ、本殿・拝殿・透塀の改築につき、懸案の境内整備事業も完了した。時恰も皇紀2660年、御祭神応神天皇降誕1800年の佳年であった。
 社殿完成により早一年、新緑目にしみる神域に思いを新たにし、いささか慶事の経緯にふれその概略を石に刻し、併せて赤誠を捧げし各位の芳名を後世へ伝えんとする次第である。
 平成13年12月吉日
 八幡神社宮司 猿田宣久謹書
                                                                                                    社頭石碑より引用


                                               

 

 熊谷市三ヶ尻八幡神社社叢ふるさとの森

 昭和59年3月30日指定
 身近な緑が、姿を消しつつある中で、貴重な緑を私達の手で守り、次代に伝えようとこの社叢が、「ふるさとの森」に指定されました。
 この「ふるさとの森」八幡神社は、天喜4年(1156)、鎮守府将軍源頼義と、嫡男八幡太郎義家が、前九年の役出陣にあたり、特にこの地に兵をとどめ、戦勝を祈ったところであります。
 ここは、平成12年に新装となった本殿・拝殿を中心として、多くの大樹が緑豊かな社叢を形成し、中には、義家が愛馬をつないだといわれる杉の巨木も,神木として時を語っております。
 林相は、主に、スギ・ヒノキ・スダジイ・モミ・カシなどから構成されています。

平成16年3月 埼玉県熊谷市
                                                                                                     社頭掲示板より引用

     

                                 

                                           拝    殿                        本    殿

 三ヶ尻八幡神社は鶴岡八幡宮と古くから交流があったらしい。

 天喜4(1056)年源頼義、義家父子は奥州争乱鎮定(前9年の役)に出陣の折、三ヶ尻に来て戦勝祈願を行っていることから始まる。今も境内には、義家が愛馬をつないだという杉の古木が神木として祀られている。続いて寿永2(1183)年、後の征夷大将軍源頼朝は当時の三ヶ尻郷を相模の国鶴岡八幡宮若宮御領として寄進し、同宮の分祀として尊崇を集める。所願成就のため武蔵國波羅郡内尻(みかじり)郷を相模國鎌倉郡内鶴岡八幡新宮・若宮御領として寄進する旨が記され、頼朝の花押のある寿永2年2月27日付の文書である。

 この縁で、三ヶ尻に奉納米を作るため神饌田を復活させ、三ヶ尻小学校、籠原小学校、鎌倉の鶴岡八幡宮子供会の子供たちが合同で田植えをし、稲刈りをし、刈り取った米は11月23日に鶴岡八幡宮で行われる新嘗祭に奉納される。三尻八幡神社の氏子さんたちもまた、毎年、大注連縄を編み鶴岡八幡神社に奉納している。このように、熊谷の三ヶ尻八幡神社と鎌倉の鶴岡八幡宮は深い絆で結ばれていた。

  *神饌(しんせん)
    神に供える飲食物。 ・米・酒・鳥獣・魚介・蔬菜(そさい)・塩・水など

   神饌田(しんせんでん)
    神様にお供えする米を作る田


                                               

         源頼義と八幡太郎義家が、前九年の役出陣にあたり、この地に兵を留めて戦勝祈願をしたとされ、境内には義家が愛馬をつないだとされる杉が神木としてのこっている


                                               

                                           拝殿手前にある祓戸大神  瀬織津姫命と何か関係があるか

 三ヶ尻八幡神社境内には数々の境内社が鎮座する。

                           

         琴平神社              浅間神社          琴平、浅間神社手前に鎮座している御嶽神社   合祀社 八坂社、雷電社、稲荷社等  奥に鎮座する社 不明


                                               

                                          
                     
                  三ヶ尻八幡神社、社殿横には社日と言われる不思議な石柱が存在する。

          五角形の各面には、五柱の神名が記されている、「天照皇大神、大己貴命、稲倉魂命、埴安媛命、少彦名命」天照皇大神が正面で、その右面から上記の順で並ぶ。

                                                社日に関しては、
こちらをクリック


 ところで三ケ尻八幡神社はかつて「甕尻郷が鶴岡八幡宮領となり、その遙拝のために勧請された社である」という。かつてこの地は三ヶ尻ではなく甕尻と呼ばれていた、ということだ。では「甕」とはなんという意味であろうか。

「甕
 貯蔵や運搬に用いられる容器としての日常生活道具と同時に、弥生時代中期には北九州、山口地方を中心に埋葬のために遺体を納める容器として甕が使用され、
甕棺墓の風習があったことが判っている。弥生時代の甕棺墓の特徴は、成人専用の甕棺が作られた点、青銅製武器類(銅剣・銅矛・銅戈など)や銅鏡などの副葬品が見られる点にあり、一般集落構成員の墓と有力者層の墓とは別に造られるようになった。青銅製品などの副葬品にも差が出てきたり、この地域社会にいくつかの階層ができあがっていったことがわかる。

 他の利用例として

 (1)祈念祭の祝詞に「大甕に初穂を高く盛り上げ、酒を大甕に満たして神前に差し上げて、たたえごとを言った」とあり、祭祀用として重要な用具だったことが判る。

 (2)「播磨国風土記」に丹波と播磨の国境に大甕を埋めて境としたとも伝えている。

 これらの例から、大甕(おおみか)は、酒を入れた器で、神事に使われ、また何らかの境界に埋められることもあったことが知られている。


 弥生時代中期に甕棺墓は最盛期を迎え、弥生時代後期から衰退し、末期にはほとんど見られなくなる。このような変遷は、地域社会の大きな変貌があったと考えられる。


 「甕」は、古代日本において、生活の中だけでなく、埋葬、祭祀の際にも重要な役割を果たす用具だったことが窺わせる。また神話の世界の中でも「甕」を冠した神の存在がある。

槌命  
 雷神、刀剣の神、弓術の神、武神、軍神として信仰されており、鹿島神宮、春日大社および全国の鹿島神社・春日神社で祀られている。


 武(タケ)は美称、甕槌(ミカヅチ)は「甕ツ蛇(みかつち)」と訓む。香取の神は経津主 (ふつぬし)命で、フツヌシは「瓮ツ主(へつぬし)」と訓む。『常陸国風土記』のほ時臥山説話は、蛇神信仰   から甕の神(鹿島・香取神)信仰に移っていたことを物語る説話と考えられている。

速日神(ミカハヤヒノカミ)
 神産みにおいて伊弉諾がカグツチの首を切り落とした際、十拳剣「天之尾羽張(あめのおはばり)」の根元についた血が岩に飛び散って生まれた三神の一柱であり、火の神とされる。

 建御雷男神と同様に刀剣の神であるとも言われる。『日本書紀』には武甕槌神の先祖であるとも記されているが、その後に樋速日神、甕速日神、武甕槌神が同時に生まれたとも記されている。

之多気佐波夜遅奴美神(ハヤミカノタケサハヤヂヌミ)
 大国主神の 子孫で、天之甕主(あめのみかぬしの)神の娘、前玉比売(さきためひめ)を娶す。(* 前玉比売は前玉神社の祭神)



天之主神 (アメノミカヌシ)
 前玉比売の親神

主日子神(ミカヌシヒコ)
 大国主神の 子孫の速甕之多気佐波夜遅奴美神と前玉比売との間に生まれた神


津日女命(アマノミカツヒメノミコト)
 出雲風土記などに記載されている出雲神話の神という。


天津(アマツミカボシ)
 「日本書紀」にみえる神。高天原(たかまがはら)にいる悪神。経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)が葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定するためにつかわされる前に服従された。別名に天香香背男(あまのかかせお)。

 日本神話に登場する星神で、悪神と明記される異例の存在である。



このような「甕」を冠した神々と「甕尻郷」の甕とは何か関連性があるのか、それとも単なる偶然か。埼玉県美里町広木に鎮座する甕甕神社また近くに鎮座する延喜式式内社 田中神社の祭神、武甕尻命との関係にも興味が広がった。

                                

        



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 瀬山八幡神社が鎮座する深谷市瀬山地区は、熊谷市三ヶ尻地区と隣接し、律令時代には大里郡、幡羅郡、榛沢郡との境界地域であったという。この地域は地形的には荒川北岸に位置し、荒川という名称らしく時代によって流域の位置がしばしば変わったと思われ、その結果境界域もその都度変化があったと思われる。この瀬山地区も現在は深谷市に編入されているが、古代のある時期三ヶ尻地区内に組み込まれていた期間があったことは多くの文献からわかっている。

 またこの地域は荒川の度重なる氾濫によって肥沃な土地となり、早くから稲作が行われて、また人口も多かったと言われ古代から栄えていた地域だったようだ。

 瀬山八幡神社で10月10日、11日に行われる「八幡神社屋台囃子」「八幡神社庭場の儀」は深谷市無形文化財に指定されている。



                            瀬山八幡神社
                                    地図リンク
                                                                
瀬山の語源は「少間」からきているのか
 
                                               


                                            所在地    埼玉県深谷市瀬山398

                                            御祭神    誉田別尊(御神体乗馬木彫神像)

                                            社  挌    不明

                                            例  祭    10月10日八幡神社庭場の儀 


 瀬山八幡神社は秩父鉄道明戸駅の近くで、国道140号と140号バイパスとの間に鎮座している。この地域はすぐ西側から側にかけて櫛引台地の裾野が広がる。この櫛引台地は荒川によって作られた古い扇状地が浸食されてできた沖積台地で、寄居付近を頂部としているが、構造的には武蔵野面に比定される櫛引面(櫛引段丘)と、南東側の立川面に比定される寄居面(御稜威ヶ原(みいずがはら)段丘)とで段丘状に形成されていて、櫛引面は、JR高崎線沿いの崖線で比高差5~10mをもって妻沼低地と接しているとのことだ。瀬山地区は櫛引段丘との境界部の東側にあたり、荒川北岸の氾濫低地(沖積地)を形成していて、瀬山八幡神社はその沖積地の一角に鎮座している。


                                  

                                         鳥居より拝殿を撮影         社殿の隣には広場があり、子供たちが遊んでいた。

                                  

 
                                     社殿の手前左側にある神明社              鳥居の右側にある稲荷社

                                  

                                           拝    殿                        本殿覆屋

 瀬山八幡神社に関して「大里神社誌」で気になる箇所があり、ここに紹介したい。

 以前は、例祭日は、正月11日であった。この祭のあらましは大里郡神社誌によれば次の通りである。
 10日の晩の「前夜祭」には、当番宿から神社への行列がある。当番宿とは、祭の世話をする四人の当番の頭(当番頭)の家のことで、当番酒宿ともいい、1年間、幣帛(御幣)を預る。前夜祭には氏子は皆、当番宿に集まり、神職が幣帛を捧げ持ち、前後をお伴の村(大字)の役員や氏子が、堤燈を携えて厳かに行進をする。神社の前庭には庭燎が焚かれ、殿内には燈篭が点される。  明けて11日午前10時から祭事が執行される。早朝に年番は真新しい大莚を10枚持ち寄り、神事が終ってのち、前庭にこの莚を敷く。社殿を背に中央に神職が座り、神職の左が区長(大字の長)、右に氏子惣代、以下定められた位置に着座し、祝盃を挙げる。おもむろに前年度の当番が暇乞いを告げ、既に選ばれている新年度の当番が披露される。そこで神職は、半紙を四つに切り、そのうちの一枚に鋏で穴を切抜き、それらを折畳んで籤を作り、新年番4人に抽籤をさせる。穴のあいた籤を引いたものが新しい年番頭と決定する。年番頭が年番酒宿となり、これを氏子惣代が発表する。こうして祝盃の宴は盛り上がって行く。
 宴の行事に「御供の儀」というのがあり、餅を取りあう余興の行事らしい。正月7日に氏子から餅米の寄付が集まり、9日に(当番)酒宿で、よく身を清めて餅をつく。この餅は「的り餅」ともいひ、手に入れた者は五穀も養蚕も大当りとなるといわれる。  「莚かぶせ」という行事は、
境内入口付近の池に莚を浸しておき、これを余興の座へ運んできて、皆にかぶせて廻る。餅の争奪に関連する行事らしい。珍しい行事なので、近郷からの見物人も多かったというが、「非文明の行事」という理由で近年(大正頃か)に廃止になった。餅の争奪ともども詳細な説明が欠けているのは残念である。  宴が終ると、新年度の酒宿へ幣帛帰還の式がある。記載はないが、おそらく夕刻に行なはれ、前夜祭と同じ行列が組まれるものと思われる。「酒宿」という名からも、古くはどぶろくが造られて、神社に供進されたようだ。
 今は、例祭は10月11日となり、「庭場の儀」に引き継がれている。

                                                                                                    
大里郡神社誌より引用          

 ここには瀬山神社の境内入り口付近に「池」があり云々と書かれている。この池はその昔「少間池」と言われ、飯玉神社の項でふれた片目のドジョウの伝説が今でも残っている。俗にいう古代鍛冶集団伝説である。
 
 
少間の池は、三尻(みかじり 熊谷市)の観音山から西南へ三○○メートル、瀬山の田圃の中にある。傍らに「少間様」という石宮が祀られている。昔は深い淵だったが、今は埋まって水もなく、ただ細長い池には葦が一面に茂っているのがみられる。
 伝えるところによると、この池に棲む魚はみな片目だったといい、瀬山の人々は「少間様」のお使いだといって、どこで捕まえても「少間様の池」に送りとどける(放つ)か、その場で逃がしてやったという。

                                                                                                   埼玉県伝説集成より引用

 瀬山八幡神社の「瀬山」も元々は少間が転じたものだという。また埼玉苗字辞典にも「狭山」について以下の記述がある。

狭山 サヤマ 入間郡勝楽寺村(所沢市)は狭山庄を唱える。同郡二本木村字狭山、木蓮寺村字元狭山、峯村字狭山、三ツ木村字狭山、高倉村字狭山(以上は入間市)あり。今の狭山湖(旧勝楽寺村)より宮寺郷(入間市)の附近一帯を狭山庄と称す。現在の狭山市は昭和二十九年の名称である。また、榛沢郡折之口村字狭山(深谷市)、瀬山村(川本町)一帯を狭山と称す。瀬山村条に「村の東に少間池あり、当国名所狭山の池は是なりと云々」見ゆ。

 
この瀬山八幡神社から国道140号バイパスに向かう道路のすぐ右側に「少間池跡」が存在している。現在は一面水田地帯となっていて石祠として残っているだけだが、元々は
鉄穴流し(かんなながし、砂鉄を含む土砂を水で流し、各所に堰を設けた樋に通して、砂鉄と土砂とを選り分ける方法)をしていた際の鉱物の沈殿池だったと言われている。

                                               

 
                                                        小間池跡の石祠

 この「少間」は「さやま」と読む。すると不思議な共通点がある場所に誘ってくれる。この瀬山地区からよく見える山、「三ヶ尻観音山」だ。

                                               

                                                        三ヶ尻観音山全景

 三ヶ尻観音山

 
 
平地である市内において独立した山で、眺望もよく、特に南方は視界が開けています。標高83.3メートル、周囲約850メートルで、松・なら・くぬぎ等で被われています。
カタクリやニッコウキスゲ、つつじなど四季折々の花が楽しめます。
 南麓にある龍泉寺は真言宗の寺で、渡辺崋山ゆかりの文化財(県指定絵画の松図格天井画・紙本淡彩双雁図、県指定古文書の龍泉寺本訪へい録)を所有しています。カタクリやニッコウキスゲ、つつじなど四季折々の花が楽しめます。
 「成人の日(1月の第2月曜日)」にだるま市が開かれます。

                                                                                                
熊谷市ホームページより引用

 
観音山は龍泉寺の裏にある山で熊谷市における景観地の一つです。周囲をとりまく豊かな樹林は人々の心に安らぎを与えるとともに野鳥の絶好の生息地伴っており、貴重な緑地として、ふるさとを象徴するものとなっています。
 林相としては主にアカマツ、コナラ、クヌギ、サクラなどから構成されています。

                                                                                          
熊谷市三尻観音山ふるさとの森より引用



 三ヶ尻観音山は残丘と言われている。残丘とは周囲の台地面に対して一段高くなっている丘陵地のことで、深谷市の仙元山、岡部町の山崎山なども同種である。埼玉県北部のこの辺りは、大昔から利根川、荒川が入り乱れて流れていて、川の流れでまわりだけがけずられていって、観音山の場所だけなぜか残った為、現在の形状となったらしい。

 この三ヶ尻観音山はその昔は「狭山」と呼ばれていたようで、文明18年(1486年)殼恵比国紀行には「弥陀(箕田)という所に明かして武蔵野を分侍るにの径の辺名に聞こえし狭山あり。朝の霜をふみわけて行くに僅かなる山の裾に形ばかりの池あり」と記されていて、この文中にある沙山池は三尻観音山の池であると推察される。また江戸中期に記された「江戸砂子」という書に「狭山は田夫瓶尻のはげ山といい、観音堂あり、力士門の額に狭山の2文字を顕す」とあり、古くから知られていた場所だった。
 また山頂には神名を刻んだ板碑がいくつも建てられ、昔は信仰の山でもあった時期もあったと思われる。延喜式内社、田中神社や、瀬山八幡神社から見る三ヶ尻観音山はまさにランドマークであり、戦略上にも押さえたい自然の要衝だ。

 ではなぜこの三ヶ尻観音山が昔「狭山(さやま)」と呼ばれていたか。この答えを考えてみると終始古代鍛冶集団がそのルーツであったのではないかと考えてしまう。つまり狭山の「サ」が朝鮮語の鉄を意味する「ソ」であり、またある説では「砂」つまり、砂鉄が取れる山という意味ではないかと推測する。観音山において鉄穴流しをした為に少間池はできたということだ。

 不思議なことにこの観音山直下には少間山観音院龍泉寺が存在し、この寺の御本尊は不動明王だが、別に観音山の中腹にある観音堂があり、そこには千手観音が祀られている。龍泉寺の宗派は真言宗豊山派に属し、本山は奈良県桜井市にある長谷寺(はせでら)で、開山開基は1590年であると渡辺崋山は著書の『訪瓺録』の(ほうへいろく)中に記しているが、この千手観音は今から約1200年前この近くの狭山池の水中より出現したとの伝承があり、少なくとも観音堂は龍泉寺の開山開基よりも古い歴史があり、また龍泉寺正統の御本尊である不動明王とは違う歴史の系図があったと見るほうが自然だし、元々観音堂がこの地にあって、後から龍泉寺が建てられれ、この観音堂を吸収、合併したと考える。
 この観音堂に祀られている千手観音は何を意味しているのだろうか。狭山池の水中より出現したという時期が奈良時代という事は少なくともそれ以前に存在していたという事になる。「発見された」という客観的な表現ではなく「出現した」という主体的な表記に隠れたその意味は大変大きい。もしかしたら観音山の鉄穴流しと関連があるのではないか、と想像を膨らましてしまう。


 この三ヶ尻観音山の西側には薬師如来を本尊とする田原薬師堂が存在する。別名踏鞴薬師堂。国道140号バイパス沿いなのでよく見える。この薬師堂は道路を隔てたすぐ西側に瀬山正福寺があり、その寺の管理下にあるが、歴史は古く、初代薬師如来は養老元年(717)春日仏師一夜の作と言われている。


                                 

         
                                        田原(踏鞴)薬師堂                薬師堂の左側にある案内板

                                    
 この案内板には興味深い一文が掲載しており、
「足でふいごを踏んで金物や和鉄をつくったところに建てた御堂」と書いてある。この地「田原」は「踏鞴」であり、「タタラ」、つまり製鉄に関係する物証が存在している。古代鍛冶集団がかつてこの地域に活動していた何よりの証拠ではないだろうか。







                                 

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 弓で的を射る弓神事は、現在も各地で行われているが、形式的には、主として乗馬した射手が馬を馳せながら射る流鏑馬、その場で射る歩射の二種類であろう。民間の弓神事として行われるのは、ほとんどが後者のほうであり、地域によりさまざまな言い方がある。
 関東地方では一般的にオビシャと称し、埼玉、千葉、茨城各県の利根川流域の各村落で行われる春の行事であり、特にこの3県において濃密に分布している。漢字では、「奉射」「奉謝」「奉社」「備射」「備社」「毘舎」「毘者」「毘沙」「御歩射」等いろいろ言われている。関東地方で現在も行われている弓神事は、新暦の1月あるいは2月に集中していて、元来は弓を射てその年1年の作物の作柄など、神意を占う予祝行事であったと思われる。
 深谷市菅沼地区に鎮座する天神社にもオビシャ神事の一形態である「的場の儀」が例年初午の日である2月25日に行われている。



                                   菅沼天神社
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                                                                    「的場の儀」は深谷市指定無形文化財

                                               


                               所在地   埼玉県深谷市菅沼480

                               御祭神   菅原道真

                               社 挌   不明

                               例 祭   2月25日「的場の儀」含む春の例大祭


 菅沼天神社は国道140号線を熊谷警察署から旧川本町方向に進み、知形神社がある植松橋の下流約1kmの荒川の段丘崖上に鎮座している。国道140号から左折した先に鎮座しているが、手作りの看板があるので見落とさなければこの小さな社に着くことができる。社叢に接して社務所があり、そこには駐車スペースがあるのでそこに停めて参拝を行った。

                   

 菅沼天神社正面参道。この参道を真っ直ぐ進む先に天神社は鎮座しているが、社殿は南側、つまり進行方向に対して横を向いている為、鳥居からは左側90度曲がって進むことになる。その曲がった先に天神社社殿が存在する。

                   

 参道を進むと左側に「的場の儀」の案内板と石像がある(写真左)。「的場の儀」は深谷市指定無形文化財(写真中央は「的場の儀」の案内板、そして同右の写真はおそらくその儀式に関係する石像だろう。)。
 天神社の「的場の儀」を始め、関東3県(千葉、茨城、埼玉)に多く民間伝承されている「オビシャ」神事は、淵源を辿ると「射日神話」にたどり着く。菅沼天神社のように白い紙に同心円を描いた一般的な的もあるが、中には、墨で「鬼」の宇を書いた的や、三本足の烏や兎などを描いた的もある。古来、中国や朝鮮半島、日本では、三本足の烏は太陽を、兎や蛙は月を象徴する動物として描かれてきた。この三本足の烏は八咫烏とも言われ、日本神話において神武東征の際、高皇産霊尊 によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされる神聖な烏であり、賀茂氏が持っていた「神の使いとしての鳥」の信仰と、中国の「太陽の霊鳥」が習合したものともされる。このためオビシャは、「日射」すなわち象徴的に太陽を射て、新たな年の活性化を図る行事であったのではないか、とする考え方もある。
(*写真右の石像は、丑年丑の日生まれの菅原道真にちなんだ牛天神の石像という。)

                                 

                                                

                                                          天神社社殿

『隋書』倭国伝の一節にこのような記述がある。

 
毎至正月一日、必射戲飲酒、其餘節略與華同。好棋博、握槊、樗蒲之戲。氣候温暖、草木冬青、土地膏腴、水多陸少。以小環挂鸕○項、令入水捕魚、日得百餘頭。俗無盤俎、藉以檞葉、食用手餔之。性質直、有雅風。女多男少、婚嫁不取同姓、男女相悅者即為婚。婦入夫家、必先跨犬、乃與夫相見。婦人不淫妒。

(現代語訳  
毎回、正月一日になれば、必ず射撃競技や飲酒をする、その他の節句はほぼ中華と同じである。囲碁、握槊、樗蒲(さいころ)の競技を好む。気候は温暖、草木は冬も青く、土地は柔らかくて肥えており、水辺が多く陸地は少ない。小さな輪を河鵜の首に掛けて、水中で魚を捕らせ、日に百匹は得る。俗では盆や膳はなく、檞葉を利用し、食べるときは手を用いて匙(さじ)のように使う。性質は素直、雅風である。女が多く男は少ない、婚姻は同姓を取らず、男女が愛し合えば、すなわち結婚である。妻は夫の家に入り、必ず先に犬を跨ぎ、夫と相見える。婦人は淫行や嫉妬をしない。)

 
ここで書かれている「射戯」とはオビシャ神事ではないかという人もある。とすると、このオビシャ神事の淵源は考えられている以上に太昔に遡るかもしれない。

  


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