鴻巣市は歴史的に見ても大変興味が尽きない市であり地域である。この市名の由来はコウ(高)・ノ・ス(洲)」で「高台の砂地」の意とする説や、日本書紀に出てくる武蔵国造の乱で鴻巣郷に隣接する埼玉郡笠原郷を拠点としたとされる笠原直使主(かさはらのあたいのおみ)が朝廷から武蔵国造を任命され、一時この地が武蔵の国の国府が置かれたところ「国府の州」が「こうのす」と転じ、後に「鴻(こうのとり)伝説」から「鴻巣」の字を当てるようになったとする伝承もあり、どちらにしてもかなり古くから時の政府から認知された場所であったようだ。
 またこの地域は元荒川を挟んで笠原地区と正対する地域に生出塚古墳群が展開しており、生出塚、新屋敷、両支群の発掘調査により95基の古墳が確認され、未発見の古墳跡を含めると100基を越す元荒川右岸最大の古墳群と想定される。

 さらにこの生出塚古墳群は東日本最大であり、日本国内でも屈指の埴輪生産遺跡でもある生出塚遺跡をともなう古墳群で40基の窯跡や2基の埴輪工房跡が確認されており、埴輪生産は5世紀末から6世紀末まで継続されたものと推定され、丁度近隣の埼玉古墳群が築造された時期と合致し、両者の深い関連性が伺える。

 穿った意見を言わせてもらえば、この生出塚遺跡で造られた埴輪等を埼玉の津で各地に流通させていたことを知っていた埼玉古墳群の王者がこの地を領有し、交易等で得た膨大の富を背景に強大化してこの古墳群を築造させることができたのではないかと勝手に想像を膨らませてしまった。

 鴻巣市天神に鎮座する生出塚神社には埼玉古墳群と関連性の深いある人物が由来記に記されていている。この生出塚という不思議な地名の歴史はかなり古く、奥ゆかしいものだと参拝中考えさせられた。



 目次  生出塚神社  /  屈巣久伊豆神社 / 広田鷺栖神社 / 下忍愛宕神社


                                   生出塚神社
                                       地図リンク

                                                              武蔵国造の乱の一方の首謀者、笠原小杵を祀る社か 

                                                


                                              所在地   埼玉県鴻巣市天神1−6−14

                                              御祭神   菅原道真(?)

                                              社  挌   旧村社 旧生出塚村鎮守

                                              例  祭   不明


 生出塚神社は国道17号線を鴻巣市街地に進み、天神2丁目交差点を右折し、ガソリンスタンドのあるY字路の右側を進む。この道は変則的な十字路にぶつかりそこを右折し、17号線に合流する手前で左側にこの社は鎮座している。位置的には大体県立鴻巣女子高校の北隣にあると思えばいいと思う。駐車場は社の北側に2、3台停めることができるスペースがあり、そこに駐車して参拝を行った。

                    

                          道路沿いにある社号標                 生出塚神社正面参道               鳥居の先の右手には神輿庫

                                    

                                  参道の左側には石碑があり、右側には手水舎、それに真新しい生出塚神社改修記念碑がある。

 生出塚神社由来

 当社は、もとの生出塚村の鎮守として信仰されてきた神社である。創建の時期は不明で、元来は天満宮と称し、菅原道真公を祀ってきたが、明治四十年(1907年)に社号を生出塚神社と改めた。

 生出塚(おいねづか)という地名の由来は定かではないが、日本書紀安閑天皇元年(534年)に記述のある武蔵国造の乱において当地の豪族笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と争った同族の、笠原小杵(かさはらのおきね)と関わりのあることが推測される。この小杵を葬った古墳がこのあたりにあり、小杵塚(おきねづか)と称していたのが、いつの頃よりか「おいねづか」となり、現在の「生出塚」という字をあてるようになったのではないか。当社にまつわる古文書類がなく、その由来を確かめることもできないが、古墳の上に社を祀る事例は各地にあり、このことからすると、この小杵塚が削られて畑地になった後に社が残り、その社が後に天満宮となったのではないだろうか。
 この近辺からは埴輪窯跡や、その他多くの遺跡も発見されており、古代からこの地域の人々の生活の場であったことがわかるが、当社も、古くからこの地域の人々に崇敬されてきた社であったのではないたと思われる。

 平成十七年四月吉日 宮司 伊藤千廣

                                                                                           生出塚神社改修記念碑文より引用


                                  

                                             
比較的新しい生出塚神社拝殿(写真右)と本殿(同右)
                         

 この生出塚神社の場所は鴻巣市天神という地区で文字通りこの社の元の御祭神である菅原道真縁の地名なのだろう。しかし別の場所に生出塚地区は実際に存在していてその場所は中山道を渡り天神4丁目の先にある。この地域は上記に紹介した生出塚古墳群生出塚埴輪窯跡群が存在し、まさに古代遺跡の宝庫の地がそこにはある。さらに東から北へ進むと上谷総合公園の東が笠原の地であり、埼玉県道38号加須鴻巣線を北上するとすぐ左側に笠原久伊豆神社が鎮座している。


                                                

                                                 生出塚神社、手水舎から社務所方向を撮影

 生出塚神社は元天満宮と称していたと境内の「生出塚神社改築記念碑」に記された「生出塚神社由来」には記述されている。
 この天満宮は本来ならば大宰府に配流されて不遇の死を遂げた菅原道真の怨霊を鎮める為に建てられた社だが、反逆者の汚名を被って殺された笠原小杵の怨霊を鎮める為に、地元の人々が本来の御祭神である笠原小杵の名前を伏せ、敢えて菅原道真に換えて天満宮を祀ったとすると奇妙に話の辻褄が合うし、この生出塚=小杵塚説はなかなか面白い説であると思う。この推測は飛躍しすぎ、穿ち過ぎだろうか。







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 鴻巣市川里地区は、旧北埼玉郡川里町で、埼玉県の北東部、首都圏から約50kmの高崎線沿線に位置し、南は元荒川を境として鴻巣市と、東は星川(見沼代用水)を隔て騎西町と、西北は行田市と接していた。川里町は、昭和29年に屈巣村、広田村、共和村の3村が合併し、川里村が誕生。平成13年5月1日に町制を施行し、川里町となり、その後平成の大合併により、2005年10月1日に隣接する鴻巣市に編入された。

 屈巣久伊豆神社は旧川里町屈巣地区に鎮座している。屈巣とは変わった地名だ。この屈巣は「くす」と読み、嘗てこの地は久伊豆神社の御祭神である大己貴命、別名大国主命の「大国主命」の二字を取って「国主」と表記していたという口伝がある。ちなみに「国主」と書いてこれも「くす」と読むそうだ。

 折からの雨の中だの参拝だったが(逆に雨だったから良かったのかもしれないが)、不思議と不快な感覚はなく、社叢の静寂の中にも何か触れることのできない神聖さや荘厳さを感じてしまった。そんな雰囲気を漂わせる何かをこの社は持っていた。



                             屈巣久伊豆神社 
                                      地図リンク
                                                                           屈巣は国主か国栖か

                                                


                                              所在地   埼玉県鴻巣市屈巣2313−1

                                              御祭神   大己貴命

                                              社  挌   不明

                                              例  祭   10月15日 秋の例祭


 屈巣久伊豆神社は埼玉県道32号鴻巣羽生線を鴻巣市から羽生市方向に進み、左側に円通寺観音堂が見える先の交差点手前を左折すると正面にこんもりとした社叢が見えてくる。因みに円通寺観音堂は「大本山円覚寺百観音霊場」の札所42番の由緒ある観音堂で、慶長年間の建立といわれる総ヒノキ造りの堂々たるお堂で、本尊の馬頭観世音菩薩木像などとともに市の文化財に指定されている。

                                                 

                        
                                                   円通寺観音堂  県道沿いから撮影 

 このお寺、元々は「観音寺」という独立したお寺で、1690(元禄3)年開創とされる西国三十三観音うつしの「忍領三十三観音(忍新西国観音)霊場」の6番札所になっている。明治維新の廃仏毀釈が影響しているのか、現在は円通寺の飛び地境内にある観音堂としての扱いだそうだ。

                     

                         屈巣久伊豆神社参道正面           境内は思った以上に広く社叢も重々しい。      鳥居を過ぎてすぐ左側にある案内板          
                  束には「正一位久伊豆大明神」の額が架けてある。             

 屈巣久伊豆神社は境内の案内板によると、当地の地名は元来、「国主」と表記していたという。ちなみに国主と書いて同音の「くす」という。その昔、村社である久伊豆神社(ひさいず)の榎の大木に鷲が住み着き、村人に色々と悪さをして、迷惑をかけていたそうだ。そこで村人が鷲神社として祀ったところ、それ以降、鷲は巣の中に屈して外に出ることがなかったため屈巣と改められたという。

                                                

          
                                                            拝    殿

                                                

                                                           本    殿

 前述の屈巣久伊豆神社の案内板によると、『明細帳』には「本社々殿ハ宝亀元年(770)九月の建立ニテ今ヲ距ル千有余年爾後数回再建ノ事記アル棟板等今二存在セリ、而シテ又土俗ノ口碑二前玉神社ノ一社ナリト伝ウ、蓋シ本社久伊豆神社祭神大己貴命ハ大国主命二シテ古へ村名ヲ国主村(今ハ屈巣村ト云ウ)ト唱へシハ即チ大国主ノ二字ヲ村名二呼ヒシ二原因セシナラン、以上土俗ノ口碑ト当事存在セル棟木ノ年号トニ依レハ古へ前玉神社二座ス其一ヲ祭リシモノ二テ式内ノ神社タルコト明ナリ(中略)と記載されている。

          
                             

 境内社は社殿の奥に鎮座している。明治42年に16社が合祀されたという。

                    


 また神社の西側で銀杏の大木の付近には、『従是北忍領』と刻まれた安永九年(1780)建立の忍領境界石がある。

                                  

 鴻巣市指定有形文化財
     忍領境界石標 昭和53年3月9日指定

 この石標は、忍藩が他領分との境界争いが起こらないよう安永9年(1780)に屈巣村(現川里村屈巣)と安養寺(現鴻巣市安養寺内)との境に建てたものである。忍藩内に16本建てられたものの一つである。明治の廃藩置県後、一時個人所有になったが、その後久伊豆神社に寄附されたもので、川里の歴史を語る貴重な資料である。
 「従是北忍領」と彫られている。
    高さ133cm 幅30cm 小松石
    平成7年7月
                                                                                                      川里村教育委員会
                                                                                                      案内板より引用


 ところでこの久伊豆神社が鎮座している「屈巣=クス」という地域名から筆者はある古代の名称を思い起こす。つまり「国栖」だ。

くず (国栖、国巣)   
1 古代、大和の吉野川上流の山地にあったという村落。また、その住民。宮中の節会(せちえ)に参り、贄(にえ)を献じ、笛を吹き、口鼓(くちつづみ)を打って風俗歌を奏した。くずびと。
2  古代、常陸(ひたち)国茨城郡に住んでいた先住民。つちくも。やつかはぎ。「―、名は寸津毘古(きつひこ)、寸津毘売(きつひめ)」〈常陸風土記〉

 
 本来国巣は、古事記の記載では吉野の山岳土着民であり、特に奈良・平安時代には天皇即位の大嘗祭などで食事を献上し、歌や笛を披露した。実際吉野には今も「国栖(くず)」の地名がある。古事記・日本書紀には、神武東征時、「尾が生えている」国巣の先祖が現れ、天皇を歓迎している記述があるが、どうやらこの山岳土着民は鉱山の坑道で働く人々のようで、天皇家が彼らを「国巣」や「土蜘蛛」、「穴居民」と蔑称したものであり、侮蔑名ではあるが決して逆賊ではなく、ましてや討伐の対象ではないのだ。
 ところが常陸風土記ではその土着民は征伐、討伐の対象と変化する。一例を紹介しよう。


『常陸国風土記』
 行方郡(なめかたのこおり)・当麻(たぎま)郷

  倭武(ヤマトタケル)天皇が巡行して、この郷を通られたとき、佐伯(さへき)の鳥日子という者があった。天皇の命令に逆らったため、すぐに殺された。
 行方郡・芸都(きつ)里
  昔、芸都里に国栖(くず)の寸津毘古(きつひこ)、寸津毘賣(きつひめ)という二人がいた。その寸津毘古は天皇の命令に背き、教化に従わず、無礼であった。そこで、御剣を抜いて、すぐに斬り殺された。寸津毘賣は恐れおのき、白旗を掲げてお迎えして拝んだ。天皇は哀れに思って恵みを垂れ、住むことをお許しになった。
 小城郡(おきのこおり)
  昔、この村に土蜘蛛(つちぐも)がいて、小城(城壁)を造って隠れ、天皇の命令に従わなかった。日本武尊が巡行なさった時、ことごとく誅罰した。

 ところで国栖(くす)は別名・国樔(くず)・佐伯(さへき)・八束脛(やつかはぎ)・隼人(はやと)と言われいずれも土蜘蛛であり穴居民を意味しており、土蜘蛛の分布地と丹生(ニュウ)・砂金・砂鉄など鉱山資源の産地が合致する。不思議と荒川は、砂鉄の含有率が50%を超す日本一の砂鉄の採れる川であり、荒川の流域では古代から製鉄関係の遺跡が多く見つかっている。元荒川も同様だ。江戸時代初期以前は現在の元荒川の川筋を通っていたからだ。鴻巣市屈巣地区は元荒川左岸に位置し,砂鉄に関係する鍛冶集団の伝承が屈巣地域周辺にも残っており、国栖との関係が大いに連想される。
 鴻巣市は。「コウ(高)・ノ・ス(洲)」で「高台の砂地」の意とする説や、日本書紀に出てくる武蔵国造の乱で鴻巣郷に隣接する埼玉郡笠原郷を拠点としたとされる笠原直使主(かさはらのあたいのおみ)が朝廷から武蔵国造を任命され、一時この地が武蔵の国の国府が置かれたところ「国府の州」が「こうのす」と転じ、後に「鴻(こうのとり)伝説」から「鴻巣」の字を当てるようになったとする伝承もあるが、屈巣久伊豆神社を調べるとこの国栖の名称「くす、くず」が「鴻巣」の語源ともなったともいえるのではないか、と最近ふと推測した次第だが詳細は現時点では不明だ。







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 広田鷺栖神社は鴻巣市川里地区にあり、旧名広田村と称し、古くから田地として開発されている肥沃な土地であり、現在も白鷺の姿を多く見るところである。「埼玉の神社」によれば、白鷺が田に下り稲を荒らしても、農民は決して追い払うことをせず「お鷺様お立ちください」といって去ってもらうという。また、過っても鷺を殺すと口のきけない子供が出来るといわれている。

 コウノトリ伝説で有名な鴻巣市らしい説話だが、このような鷺の伝承、伝説がこの広田鷺栖神社周辺に少なからず存在している。




                                広田鷺巣神社
                                       地図リンク

                                                


                                              所在地   埼玉県鴻巣市広田3814

                                              御祭神   日本武尊

                                              社  挌
   旧村社

                                              例  祭   10月15日 秋季例大祭


 広田鷺栖神社は埼玉古墳群の南東方向にあり、県道313号北根菖蒲線に面して鎮座している。地図を見ると良く解るが、不思議とこの鷺栖神社から埼玉古墳群の丁度中間地点には小崎沼があり、何かしらの関連性を伺わせる位置関係にあると思われる。

                                                

                                                  埼玉県道の南側にある一の鳥居と社号標
                                      この参道を真っ直ぐ進むと県道にぶつかり、その先に鷺栖神社が鎮座している。 

                                    

                                         朱が鮮やかな二の鳥居           二の鳥居を過ぎてすぐ左側には神楽殿

 
神楽殿と参道の間には、土で盛った舞台があり、、『広田のささら』が行われる場所のように感じられた。

                                       

 鴻巣市指定無形民俗文化財

 広田のささら   昭和50年12月15日指定


 広田のささらは、別名「龍頭舞」といい、頭に龍頭をかぶって舞う獅子舞である。
 この獅子舞は、寛永十六年(一六三九)七月二十七日より地区内の諏訪神社で始められたと伝えられている。その後、明治四十二年に諏訪神社が鷺栖神社に合祀されてからは、獅子舞は鷺栖神社の神事として毎年十月十五日の大祭に、五穀豊穣と悪魔除けを祈願して奉納されている。
                                                                                                  境内案内板より引用


                                                

                                                            拝     殿

                     

                  拝殿の向背には芋粥神事の進行を記した目録           拝殿の上部にある扁額                    拝殿内部

                                                

                                                            本     殿

 広田鷺栖神社の総本社は久喜市鷲宮の鷲宮神社という。当社の創建については、社伝に「昔伊勢の国能保野(のぼの)を発ちし日本武尊の神霊白鷺の姿となり当地に飛来し翼を休める。当社是により祀る。社殿の造営は明応七年(1498)。”鷺の宮”と号す。」とある。


                                  

                                     社殿の左側にある境内社 榛名神社       社殿の奥には末社、石祠群が存在する。


 広田鷺栖神社が鎮座する旧川里町周辺は、一昔まではサギ山と言われる集団繁殖地(コロニー)を形成していたらしい。このサギ山は現在でも日本各地にあるが、全国各地に「鷺山」という地名がたくさん残っていることから、かつては現在よりもさらに多くのサギ山があったと考えられている。

 埼玉県内でもこのサギ山は20年前までは14か所あったらしいが、水田転作で田んぼが減ってしまったり、田んぼが近代化することで、サギのエサとなる魚やカエルにとって住みにくい場所に変わってしまったため、サギ類の数は以前よりは少なくなってしまい、サギ類の集団繁殖地サギ山も減少傾向にあり、現在では5か所と約3分の1になってしまったという。残念な現実だ。




 ところでこの広田鷺栖神社の南西すぐ近郊に「新井家の大榎」がある。主幹は損傷がひどく、また撮影日も3月であり、新緑の生える時期前の、見た目今にも朽ち果てる寸前の老木で、突っ支い棒でようやく生きながらえているようにも見える。しかし何しろ500年以上この地を見続けてきた生き証人でもあり、まさに神の木である。神妙な趣で撮影させてもらった。

                              
                                                

 

鴻巣市指定文化財天然記念物

 新井家の大榎       昭和五十一年九月ニ〇日指定

 天正十九年(一五九十一)に新井家の先祖新井弥左衛門が、広田村の開拓者としてこの地に定住するようになった。その頃すでに大木として同家の地内にあったものと思われる。
 広田村開発の歴史を見つづけてきた古木として、記念碑的存在である。

  樹齢 推定五百年
  平成七年 鴻巣市教育委員会
                                                                                                       案内板より引用


    


 
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 忍川は延長12Km、流域面積25Km2の中川水系の一級河川。河川管理上の起点は熊谷市平戸にあり、源流にあたる熊谷市中心市街地の区間(一級河川指定区間外)では星川と呼ばれるが、同市市街地北部を流れる星川とは別の川である。この起点である箇所から東へ向かって流れ、行田市の市街地を経由し、秩父鉄道を横断した付近から流路を南へ変え、最後は吹上町袋で元荒川の左岸に合流する。古い時代(中世あるいはそれ以前)には、忍川の流路は乱流していて不定であり、星川の派川だった時代を経て、流路は次第に荒川の派川へと移行していったと思われる。

 戦国時代には、忍城主 成田氏によって星川の水が忍沼(忍城の外堀)へ導水されている。これは新規に水路を開削したのではなく、星川の派川跡を改修したものだと思われる。取水口跡(行田市総合公園の南側、行田市谷郷)には、大樋跡の碑が建てられている。



                                 下忍愛宕神社
                                       地図リンク  
                                                                     
立体的な造形美のある不思議な社

                                                


                                               所在地    埼玉県鴻巣市下忍2842

                                               御祭神    八坂大神

                                               社  挌    不明

                                               例  祭    例祭日7月23・24日


 下忍愛宕神社は旧北足立郡吹上町の北東側で、埼玉県道148号騎西鴻巣線と上越新幹線が交差する近くに鎮座している。吹上町は中山道の熊谷宿・鴻巣宿間があまりにも遠距離であったため、ちょうど中間地点に位置していた吹上村が非公式の休憩所である間の宿として発展し始め、それがまた、城下町・(現・行田市)に向かう千人同心街道の設置に当たっては正式な宿場の一つ・吹上宿として認められることとなり、重要な中継地として発展したという。
 2005年(平成17年)10月1日に北埼玉郡川里町と共に鴻巣市に編入されて、市域の一部となった。

                                  

 下忍愛宕神社の創建年代は不詳。新編武蔵風土記稿には「天神社、明光寺持。愛宕社」と記載され、また近隣の下忍千手院が愛宕山と号し、寛永年間(1624-1643)以前の創建といわれることから、愛宕社は、江戸時代初期以前に鎮座していたものと思われる。

                                                

                                                           拝     殿

                    

                   社殿の左側には記念碑等の石碑が並ぶ。         石碑群の並びの先にある天神社            社殿の右側には日枝神社

                                                

                                                           本     殿

 この社の最大の特徴は拝殿の奥の本殿が愛宕山古墳、つまり墳頂上にあることだ。愛宕山古墳は、直径20〜30m、高さ3m程の古墳時代後期の円墳と推定されているが、出土品などが確認されていないため、塚の可能性もあるという。 墳頂には愛宕神社が祀られていて、周りはコンクリートで固められ墳形は大きく変形していて原形を留めていないように見える。ちなみにこの愛宕山古墳は昭和34年1月16日鴻巣市指定史跡に指定されている。

                                  

                                          愛宕山古墳 案内板                  拝殿から本殿を撮影

                                                 

                                                  下忍愛宕神社の遠景。まさにベストショット。

 下忍愛宕神社の規模は小さい社ではあり、新幹線の高架橋のすぐ北側にあるため、位置的に目立たなく遠目からは見えない。が高架橋を過ぎるとすぐ正面やや左側にこの社が現れる。何度も言うが規模は小さいし偶然だと思うが、うまい具合に遠近法を使い、実見すると大きな社に見える。鳥居と拝殿、そして奥にある本殿の3点の位置関係が斜めから見ると非常に趣のある形なのだ。古墳か塚かどうかの議論の余地はあるにしろ、この面白い配置故に見た目にも不思議な余韻を残してくれる、そんな社である。






                                             

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