武蔵国榛沢郡は東は幡羅郡、大里郡、南は男衾郡、西側は児玉郡、そして北は利根川を挟んで上毛国と接している。郡域はおおむね深谷市の明戸、原郷以西部分、岡部地区、寄居町寄居、藤田、末野、桜沢、用土地区というが詳細は不明である。有史以前から集落が発達し、深谷市緑ヶ丘にある桜ヶ丘組石遺跡は昭和三十年の発掘調査によって、八基の石組遺構が発見され、極めて珍しい遺跡として注目された。年代的には縄文時代後期と推定され、環状列石(ストーンサークル)のような県内では珍しい配石遺跡だそうだ。

 榛沢郡は古墳時代末には人口も増し、小規模ながら100基を越す古墳が分布する鹿島古墳群など、多数の古墳がある。その一方、延喜式神名帳には社名が載っておらず、平安時代には隣接する男衾郡や幡羅郡よりは小規模だったと見られているようだが、しかし郡衛である深谷市岡部の中宿(または仲宿)遺跡では、正倉と見られる大規模建物の跡が発見されている。武蔵国の郡衙跡として3ヶ所目、県内では初の発見例だそうだ。

 いわゆる小規模といわれる郡という従来の説に対して、大規模で立派な正倉の建物の存在・・・どうもすっきりしない
矛盾を感じる。

 目次
   大寄八幡大神社 / 小前田諏訪神社 / 荒川神社 / 本郷藤田神社




                          大寄八幡大神社
         
                                   地図リンク
                                                           五領の宮(御霊宮)児玉宮とも言われる由緒不明な社

                                                 


                                            所在地    埼玉県深谷市榛沢486

                                            主祭神    誉田別命(応神天皇)

                                            社  格    不明
       

                                            由  緒    
現在の社殿は江戸時代享保十三年第百十四代
                                                     中御門天皇の御代に建築されたと推定

                                            例  祭
   不明


 
  大寄八幡大神社は埼玉県道75号熊谷児玉線で児玉方面に向かい、針ヶ谷西の交差点を右折し、埼玉県道86号花園本庄線を本庄方向に北上する。県道86号線は最終的に352号線にぶつかるのでそこを左折し2kmほど直進すると、やがて右手側に大寄八幡大神社が見えて来る。駐車場はなかったので、周りを散策し神社の近くの公園に車を駐車し参拝した。


                                   

                          重厚な趣の正面鳥居(写真左)と鳥居の右側にある社号標(同右)
。個人的には朱の鳥居よりもこのような鳥居の方が好みである。


                     

 

                       手水舎 深谷市指定文化財                     神楽殿                  鳥居を潜りすぐ左側塚の上に石祠
                                                                                    富士塚なのか不明


                                   

          
                                      
  拝殿。正直、このような静かな地に鎮座していること自体不思議で立派な社殿であり(写真左)拝殿正面の扉には亀と鳳凰の彫刻が施され、その上には龍の絵が描かれていた(写真右)。


                                                

                                                 
       拝殿左側にある説明板

 大寄八幡大神社

 当社の祭神(誉田別命)は、社名に幾度かの変遷があった。江戸時代後期に編纂された「新編武蔵風土記稿」では、榛沢六郎成清の勧請により、十一面観音を安置すると記載されている。また昭和五年に編纂された大里郡神社誌では、祭神は、誉田別命(応神天皇)とされている。神社名称もはじめ、児玉宮、御霊宮と呼ばれ、次いで大寄大神社となり、現在の大寄八幡大神社と呼称されるようになったのは戦後のことである。
 本殿は、木造銅板葺で、回廊より上部は、内外とも総彫刻で彩色されている。礎石には、享保十三(1728)年八月施主武政郷助の刻銘がある。
 本殿は、破損が著しいため、昭和五八年に三方ガラス張りの覆屋をつくり、保存につとめている。この他に拝殿、水舎等は、江戸時代後期(文久年間頃)の建立と考えられている。
 また、当社は、祭礼の日には、武道の試合が行われ、遠近の武道者が集まったと伝えられている。拝殿内外に掲げられている奉納額は、これを物語っている。特に角力は、さかんに行われ、御霊宮(大寄八幡大神社の旧名)の角力と言えば、遠く秩父地方にまで鳴響いていたという。
                                                                                                       案内板より引用


                              
 

                               
               ガラス越しから本殿を撮影。本殿も深谷市指定文化財 

                                                 

                                                改良区設立碑、外宇新築拝殿吹替記念碑、石燈籠

 外宇新築拝殿吹替記念

 大寄八幡大神社の社殿は奥院及び拝殿とによって成り御神体に應神天皇を奉る。
 今より凡そ二百五十四年前江戸時代享保十三年第百十四代中御門天皇の御代に建築されたと推定される。武州榛沢郡時代別名五領の宮とも稱ばれ、地元近隣領民の武運を守り崇拝の神として氏子によって尊厳が保たれ現代に及ぶ。
 しかるに近年に到り社屋の老化はげしく高度技術の粋を集めた建物が風雨に打たれ文化財に損傷のきざし有り。特に彫刻天上絵等無類の宝物保護の必要を感じ総氏子協議の結果奥の院全部に上屋をめぐらし更に観賞の立場から下見はガラス張りとなす。亦拝殿屋根は総吹替をなしいぶし銀の瓦瞳にまぶしく神殿の尊厳益々盛んなり。亦右工事に要した費用は神社の営繕費をこれに当て総工費壱阡壱百五拾参万七百拾五円にして昭和五十八年九月その工事の完成を看る。
 特に総氏子これを祝し祭詞奏上の九月二十五日御遷宮となす。
 昭和五十八年九月二十五日
                                                                                           外宇新築拝殿吹替記念碑より引用



                      

                                           
                        鳥居の左側にひっそりとある祠           高床式で流造の境内社 こちらも不明       合祀社と言うにはなかなか立派な社       
                             由緒は不明                                                   中に4神祀られている



 大寄八幡大神社は、今でこそ八幡神社だが、この名称は戦後に呼ばれたものである。かつては、児玉宮、御霊宮と呼ばれ、その後大寄大神社となり、現在の名称となったという。では、かつて名乗っていた児玉宮、御霊宮とはどのような神社だったか。少なくとも八幡神社ではない。



                                                 

                                              
         手水舎とその奥にある御神木


 
 
 埼玉県苗字辞典では榛沢に関していくつかの記述がある。

榛沢 ハンザワ 渡来人蕃族の居住地なり。和名抄に榛沢郡榛沢郷を載せ、波牟佐波と註す。
  

一 丹党榛沢氏 榛沢郡後榛沢村(岡部町)より起る。武蔵七党系図に「秩父黒丹五基房―榛沢三郎成房―六郎成清(重忠に属し元久二年六月誅せらる。弟に小太郎、四郎)―平六郎成長―七郎―三郎」。安保氏系図に「秩父黒丹五元房―榛沢三郎光経」と。中興武家諸系図(宮内庁書陵部所蔵)に「榛沢。丹治、本国武蔵」と見ゆ。保元物語に「義朝に相随う手勢の者共は、武蔵国には榛沢六郎成清」。源平盛衰記に「畠山が乳人に半沢六郎成清」と見ゆ。

二 鍛冶師榛沢氏 吾妻鑑文治五年八月条に「頼朝の陸奥国阿津賀志山(福島県国見町)の藤原泰衡攻めに、榛沢六郎成清の智謀によって、畠山重忠は連れて来た人夫八十人を使って、用意の鋤鍬で土石を運ばせ、一夜にして掘を埋め、突撃路を造った」とあり。常に先陣を勤める畠山重忠は工兵部隊であり、鍛冶木工頭領であった。其の配下の丹党は製鉄製錬や土木技術にたけていた集団であり、榛沢氏が率いていた。風土記稿・後榛沢村条に「榛沢六郎成清社、村の中程小名蔵屋敷にあり。東光寺、本尊は薬師にて開基は榛沢六郎成清なり。陣屋蹟、古へ賀美郡安保の領主たりし安保氏の陣屋蹟と云伝ふ」と見ゆ。蔵(くら)は古代朝鮮語で銅を指す。薬師はタタラ師の守護仏である。安保(あを)は下野国佐野天命鍛冶一派の青木氏屋敷跡で古は青木村と称す。安保氏は無関係なり。是等の鍛冶集団支配頭が丹党榛沢氏であった。畠山条参照。


 榛沢の地名に関しては多くは鎌倉時代の由来がほとんどだが、一部「渡来人蕃族の居住地なり。」という記述には興味深い。
 
 また榛沢は地名を分割すると榛+沢となる。沢に関しては①山あいの谷川。源流に近い流れ、②水が浅くたまり、葦(あし)・荻(おぎ)などの草の茂っている所、などある地域の地形の状態を表す助詞だ。すると本来の地名は「榛」ではなかったろうかと考えるのが普通ではないだろうか。「榛」に関して同じく埼玉県苗字辞典では不思議な記述がある。

蕃 バン 中国は北方の異民俗を蕃(えびす)と蔑称した。大和朝廷は中華思想により朝鮮半島の渡来人を蕃と称し、姓氏録には諸蕃と記した。日本書紀・神功皇后摂政前期に「百済王は、今後末永く西蕃と称して、朝貢を絶やしませんと申しあげた」とあり。多くは百済人を蕃と称す。羊(ひつじ)条参照。佳字に番、伴、坂、半、榛等を用いる。



 
高麗神社の項でも紹介したが

 「北武蔵への渡来人の移住は、6世紀の末頃までさかのぼることができるという。6世紀末、律令制下の武蔵國ができる前、それぞれ壬生吉志が男衾郡、飛鳥吉志が橘樹郡、日下部吉志が横見郡で活躍したと伝えられている。」

 
すべての渡来人が上記の特定の地域しか移住しなかったろうか。とても思えない。一部の人々は榛沢等に住み着いたとも考えられないだろうか。逆に言うと榛沢という地名はそれを証明しているのではなかろうか。









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 村上天皇の応和年中(961~964)、奥羽地方より藤田郷に移住した鈴木氏等は、「上の原」の地に祖神の諏訪神社を祭って、土着した。彼らの遠祖は、田村麻呂将軍に従って当国より奥州征伐に行ったものという。土着に際し、信州諏訪神社大前の水田にちなみ、社前の平野を御前田原と呼んだ。「御前田」または「小前田」の地名は、この時に始まる。

 
 文明年中(1469~87)花園城主・藤田掃部左衛門氏家公が、領地住民の為、信濃の国諏訪より正一位南宮法性大明神を分霊勧請し、社殿を整えた。その後藤田家の離散、鉢形北条氏の滅亡により神社は荒廃したが、永禄5年(1562)小前田の住人長谷部兵庫吉長が現在地に遷座し、小前田の鎮守となった。安政5年には現在の本殿が造立。


                         小前田諏訪神社

                                    地図リンク                 

                                                              小前田屋台まつりは市指定有形民俗文化財

                                             


 
                                         所在地    埼玉県深谷市小前田1

                                         主祭神    建御名方命・八坂刀売命・大国主命

                                         社  格    旧村社
 

                                         創  建    応和3年(963)

                                         例  祭
    10月第2土曜日、日曜日 
                                                  
諏訪神社祭礼(小前田屋台まつり)



 小前田諏訪神社は秩父鉄道・小前田駅の南西約200mの場所に鎮座している。久喜市鷲宮の鷲宮神社と同じく、住所が小前田1ということはこの神社を中心として町が形成されたのではないかと推測する。
 当社は
桓武天皇の御代、坂上田村麻呂の蝦夷征討に際し、当地から徴募された軍士の中には、彼地に永住するものもあった。その子孫が、応和3年(963)、同族と共に当国に戻り、安住するに当り、塚を築き、その上に自ら信仰する諏訪の神を祀ったのが、その始まりであるという。


                                  

                           
          鳥居の左側にある立派な社号標               入口にある靖国鳥居
                                            

                          小前田諏訪神社は鳥居を潜ってしばらく参道を歩くが,途中右に90度曲がっている。その曲がった先に社殿が存在する。


                                  

                                             拝    殿                     一間社流造の本殿

 文明年中(1469~87)この一帯を支配していた花園城主十一世藤田藤田掃部左衛門氏家が、領地領民の安寧の為に、信濃の国の諏訪大社、正確には諏訪神社上社より分霊を勧請し、お祀りしたのが始まりとされている。永禄5年(1562)小前田の住人長谷部兵庫吉長が現在地に遷座し、小前田の鎮守となった。安政5年には現在の本殿が造立される。明治15年には蚕影神社が合併されている。

                                             

 小前田諏訪神社には境内社も多数ある。

                             
 
                          八衢比賣神、久那斗神     浅間神社         天手長男神社        和魂神社        八坂、琴平神社
                             八衢比古神
                          
                                    

                                   境内社・蚕影神社       白山神社       神明社、春日神社      本殿の奥の祠群


 当社を支配していた花園城主藤田氏は、武蔵七党の猪股党の出で、猪俣野兵衛尉時範の子政行が武蔵国榛沢郡藤田郷に拠って藤田を称したことに始まる。
 武蔵七党は、武蔵国に本拠をおいた同族的武士団の総称で、坂東八平氏と称される平氏の一門とともに坂東武者と称され、弓馬に通じて武蔵・相模二州の兵は、天下の兵に匹敵すると賞賛された。 七党の数え方は一定しないが、野与党・村山党・横山党・児玉党・西党・丹党・私市党などが挙げられる。猪股党は横山党と同族で、小野篁の後裔で武蔵守として下向土着した小野孝泰の孫時範が児玉郡猪俣に居住したことに始まる。

 藤田氏の祖藤田五郎政行は平安時代末期、保元の乱源氏勢として戦に参加し、その嫡男三郎行康も源平合戦では源氏勢として参加して元暦元年(1184)の一の谷生田森の合戦で先陣をはたし戦死した。頼朝は行康の功を賞し、嫡男の能国に遺跡を安堵している。鎌倉時代を通じて常に藤田氏は時の幕府から信頼を受け、幕府問注所の寄人に召されて幕政にも参加、建治三年(1277)、問注所の寄人に召し出された藤田左衛門尉行盛は奉行人として活躍した。その後元弘元年(1331)、後醍醐天皇による元弘の変が起り、その後の動乱によって鎌倉幕府は倒れ北条氏も滅亡した。元弘三年のことで、後醍醐天皇親政による建武の新政が開始された。その間、藤田氏がどのように行動したのか、その動向は明確ではない。

 南北朝の争乱期に藤田氏がどのように行動したかは史料が少なく、必ずしも明確ではないが当初は新田義貞を大将とする尊氏討伐軍に藤田六郎左衛門、三郎左衛門、四郎左衛門らが従っていたが、尊氏方に属した者もいたようで藤田一族は二派に分かれたようだ。ただし、当時の武士団の一般的な傾向で、その背景には惣領制の崩壊がもたらした嫡庶の対立があり藤田氏もその例外ではなかったのである。その後、関東に幕府の出先機関ともいうべき鎌倉府が置かれ、藤田氏は上杉方として行動したものと見られる。

 応永二十三年(1416)、前関東管領上杉禅秀が関東公方足利持氏に反乱を起した。禅秀の乱で、上野・武蔵の武士の多くが禅秀に味方し、藤田氏一族と思われる藤田修理亮も禅秀方に属して所領を没収されている。関東は永享の乱、結城合戦と戦乱の時代を迎え、翌嘉吉元年(1441)ようやく終結する。

 藤田氏はそれ以降後北條氏の関東進出まで、山内上杉勢の四家老の一家として参加した。その勢力は現在の寄居町の天神山城を拠点として、最盛期には大里・榛沢・男衾・秩父・那珂・児玉・賀美に及ぶ広範囲であり、小前田諏訪神社もその所領内に入る。

                                                 

                                                  社の風景 静かな時間がゆっくりと経過する。



 戦国期、ついに後北條家の関東進出が顕著になる。北條氏綱・氏康親子による天文六(1537)年の川越城夜戦では、関東管領・山内上杉憲政、扇谷上杉朝定と、古河公方・足利晴氏の軍総勢八万の軍勢の一軍として参加し、敗北を喫する。これにより主家を失った藤田重利は北条氏の軍門に降り、氏康四男・氏邦を養子に迎え、その家督を譲った。同時に名も「康邦」と改めたという。北條氏邦は1560年(永禄3)以降、鉢形城(大里郡寄居町)を整備して天神山城から居城を移し、北関東の最前線の拠点として、また甲斐・信濃からの侵攻への備えとして重要な役割を担った。

 天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、後北条氏の重要な支城として、前田利家・上杉景勝等の北国軍に包囲され、激しい攻防戦を展開した。1ヶ月余りにおよぶ籠城の後、北条氏邦は、6月14日に至り、城兵の助命を条件に開城し北條小田原家は滅亡する。そして同時に藤田氏本流としての400年の歴史が終結することを意味していた。


                                                

                                                 諏訪神社の祭り屋台の案内板が道路沿いにある。


 諏訪神社で例年催される例祭は「小前田屋台まつり」別名「アルエット祭り」といい、その屋台は3台ながら秩父市の秩父神社に負けず素晴らしいものだ。     

 

諏訪神社祭礼(小前田屋台まつり)

 旧花園町小前田地区には3台の屋台があり、いずれも明治初期に造られたもので、その雄大な造りや彫刻により、昭和52年には有形民俗文化財に指定されています。この3台の屋台を毎年10月の第2土曜・日曜日に引き出し、国道140号線の秩父往還で屋台囃子を演じながら曳(ひ)き回します。また、祭礼期間以外でも「道の駅はなぞの」にて、常時屋台を展示しています。

                                                                                                 深谷市観光協会より引用






  




                                                もどる                 toppage







 埼玉県は新井、荒井、新居、荒居等「アライ」姓名が多い県として有名である。特に「新井」姓は埼玉県第一位の大姓であるという。この「アライ」は「アラ」+「イ」で「イ」は国、村、集落を意味し、本来の主語は「アラ」である。この「新」「荒」の語源は古代朝鮮半島の国「安羅」(アラ)から来ているという説もある。

荒 アラ 安羅の神を荒神社と称す。神無月(旧暦十月)に荒神様が馬に乗って出雲の社へ出かけるので絵馬を飾る伝承が東国にある。特に氷川社のある埼玉県南部に此の風習が残っている。また、荒は粗鋼で製鉄神となり、タタラのカマド神となる。奥州太平洋岸の鍛冶師・荒一族は此の荒神を祀っている。荒氏は、福島県相馬郡鹿島町三十戸、新地町百六戸、双葉郡浪江町二十四戸、原町市七十六戸、相馬市二百十三戸、宮城県伊具郡丸森町二十五戸、亘理郡山元町二十三戸、亘理町十二戸、遠田郡涌谷町十八戸あり。

安羅 アラ 阿羅とも記す。安羅は、安邪(あや)、安耶(あや)、漢(あや)とも称す。また、安那(あな)、穴(あな)と称し、阿那(あな)はアダとも称す。韓半島南部の古代は、北方の燕(えん)が遼東方面に進出するにおよんで、遼河・遼東半島方面の辰韓(しんかん)と、鴨緑江・清川方面の弁韓(べんかん)の韓族が南下移動を開始し、辰韓・弁韓族が漢江以南に辰国を建てる。しかし、馬韓(ばかん)族が南下移動を開始した為に、辰国は半島東南部の慶尚道地方に移動して定着し、おのおの辰韓国(後の新羅)、弁韓国(後の伽耶諸国)を建てる。馬韓族は漢江西南に目支国(もくし)を建てた。後の馬韓国(全羅北道益山付近。後の百済)である。目支国の君長は代々辰王を称し、辰韓・弁韓の三韓連盟体を組織する。魏志東夷伝に¬辰韓は馬韓の東に在り。弁辰韓・合せて二十四国、其の十二国は辰王に属す。辰王・常に馬韓の人を用ひて之をなす。世々相継ぐ。辰王自ら立って王たる事を得ず」と見ゆ。後世、高句麗に追われた夫余族の温祚(おんそ)部族の伯済(はくさい)が広州(京畿道)に土着し、目支国を征服して馬韓を支配したのが百済王国の土台となった。梁書・百済伝に¬邑を檐魯(たんろ)と謂ふ。中国の郡県を言ふが如し。其の国、二十二檐魯あり」と見ゆ。百済のクはオオ(大)、ダラは檐魯で、クダラとは¬大邑、大国」と称した。大ノ国は辰王の支配下である韓半島南部の三韓を云う。オオ、オホ、オは阿(お)と書き、阿羅(あら)、安羅(あら)とも称した。此地の阿部(おべ)族渡来集団を阿部(あべ)、安部(あべ)と云う。日本書紀・神代上に¬天照大神、素戔鳴尊と天安河を隔てて相対ひ」。また、¬時に八十万神、天安河辺に会合し」とあり。天安河辺(あまのやすのかわら)の、天は朝鮮国、安(あ、やす)は安羅国、河辺は人の集まる都を云う。また、アラは安羅(あらき)と称し、荒木、新木(あらき)とも書く。新木(いまき)とも称し、今来(いまき)とも書く。安羅国(安耶)の漢(あや)族坂上氏は大和国に渡来して、居住地を母国の今来郡を地名にした。また、出雲国意宇郡出雲郷は、大ノ国の渡来地にて、意宇(おう)郡と地名を付ける。出雲郷は安那迦耶(あだかや)と称し、イヅモとは読まない。大穴持命の子阿陀加夜努志多伎吉比売命を祭る阿陀加夜社の鎮座地なり。安羅(安那)の迦耶人である阿陀族は此の地より、武蔵国へ移住し、居住地を阿陀地(足立)と名付け、其の首領は武蔵国造となり、大宮氷川神社の祭神に大穴持命(大巳貴命)を奉祭す。大穴持命の別名は大ノ国の大ノ神である大国主命である。前述の如く、大ノ国の別名である安羅国は馬韓・弁韓・辰韓の三韓である韓半島南部全域を称す。また、大和国は日本国を指す場合と、奈良県のみを指す場合とがある。是と同じで、三韓全域の安羅国の内に安羅迦耶と云う小国がある。今の慶尚南道の咸安の地で、任那(みまな)国と呼ばれた地方である。垂仁天皇二年紀に¬意富加羅(おほから)の王の子、名は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、本土(もとのくに)に返しつかはす。故、其の国を号けて彌摩那国(みまなのくに)と謂ふ」と。姓氏録に¬芦屋村主、百済国意宝荷羅支王より出づるなり」と見ゆ。意宝荷羅(おほから)王の任那国は百済国の内なり。また、継体天皇六年紀に¬任那国の上??、下??、娑陀、牟婁、四県を百済に賜ふ」とあり。全羅南道栄山江の東に??(たり)があり、西に牟婁(むろ)があり、娑陀(さだ)も近くにある。此の辺までの任那国は百済国と称す。また、応神天皇三十七年紀に¬阿智使主は都加使主を呉に遣し、縫工女(きぬぬいめ)を求めしむ。呉王、是に工女の兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)・呉織(くれはとり)・穴織(あなはとり)、四婦女を与ふ」と。雄略天皇十二年紀に¬身狭村主青等、呉国使と共に、呉の献れる手末(たなすえ)の才伎(てひと、技術職人)、漢織・呉織と衣縫の兄媛・弟媛等を率いて、住吉津に泊る」と。継体天皇二十四年紀に¬久礼牟羅(くれむら)の城(さし)」と見ゆ。呉は中国南部にあった呉国では無く、慶尚北道達城郡苞山の求礼の地にあった国である。呉織、穴織、漢織は同国の人で安羅国の出身である。また、阿羅の阿はクマと称し、阿部族は武蔵国へ移住して居住地を熊谷郷と称した。谷(がい)は垣戸で集落の意味。奥州へ移住した阿部族は熊谷氏を名乗り多く存す。武蔵国の阿部族安羅一族は、新(あら、あらい)を二字の制により新井と記す。


 荒川は通説では「流れの荒い川」という意味から「荒」が語源になっているというが真相はどうであろうか。荒川は奥秩父に源を発し、奥秩父全域の水を集めて、秩父盆地、長瀞を経て、寄居町で関東平野に出る。熊谷市久下で流路を南東に変え、さいたま、川越両市の間で入間川と合流し、戸田市付近で東に転じて埼玉県と東京都との境をなす。その後隅田川と本流の荒川に分かれて東京湾に注ぐ、延長169km、流域面積2940平方kmの関東第二の大河川であり、埼玉県民にとっていわば母なる川である。

 つまり荒川の本来の意味は
「アラ族が信奉する聖なる川」ではなかったのではないだろうか。埼玉県に非常に多い「アライ」姓と似通った名前の「荒川」にはなにか共通点があるように思える。


                                   荒川神社
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                                            所在地     深谷市荒川985

                                            御祭神     天児屋根命、 倉稲魂神、 菅原道真

                                            社  挌     旧村社

                                            例  祭     10月14日 例大祭  
                                                      7月14日 境内社八坂神社、八坂祭


 荒川神社は関越自動車道・花園ICを出てすぐの花園橋北信号で右折。300m先の寿楽院手前を右折すると、左手に鎮座している。大里郡神社史には、もと大明神社と呼ばれ、大里郡花園村大字荒川字寺ノ脇に鎮座していたという。

                     

 この社の一の鳥居前には寄居町の波羅伊門神社男衾の小被神社も以前はこんな造りだったが、鳥居の前が交通止めのように石垣造りになっている社はそれほど多くない。同じ一族の共通した建築方法だろうか。

 
                                   

                                            拝    殿                        本    殿

 明治43年、村内数社を字川端の地へ移転合祀して、土地の名により荒川神社とした。その地にあった天満天神社は境内神社となった。
 この天満天神社の御神体は、衣冠束帯の菅公座像という。もとは甲府城主 武田家に代々祭られたもので、武田信玄の自作ともいう。天正年間(1573~92)の天目山戦役の折り、武田勝頼から侍臣小宮山内膳正友信に賜わったもので、友信の弟の又七郎久太夫又一らが当所に落居し、天満天神社として祀ったものという。
 荒川神社は大正4年に字寺ノ脇の現境内へ移転され、同6年に天満天神社は本殿へ合祀された。当神社の通称を「天神様」ともいう。



                                   

                                      社殿左側にある境内社 山ノ神社            社殿右側にある八坂神社







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 藤田氏は武蔵七党の猪股党の出で、政行が同国榛沢郡藤田郷に拠って藤田を称した。行康は源平合戦の一の谷生田森の戦いで討ち死。その子能国・孫能兼は承久ので活躍した。このとき能国が院宣を読み上げ、文博士といわれた。一族は幕府の問注所寄人であった。

 南北朝期武蔵守護代であった大石氏と、藤田氏は姻戚関係があり、武蔵平一揆の乱で能員は勲功を挙げた。永亨のころ、宗員は藤田郷内の聖天堂を興隆している。その妻紀香は岩田氏の出身で、所領を鎌倉円覚寺に寄進。
 長亨の乱で山内・扇谷両上杉氏が同国須賀原・高見原で戦ったとき藤田三郎は長尾景春にくみして戦った。永正のころ、藤田虎寿丸が神奈川権現山合戦に山内上杉憲房に加わっている。その憲房と北武蔵に進出した北条氏綱が対陣したとき、藤田右衛門佐は憲房の使者をつとめた。
 天文初年藤田右金吾業繁は「郡主」を称し、藤田小三郎は「鉢形」にあった。同十五年、川越合戦で北条氏康に敗れた上杉憲政は、上野平井に逃れ、藤田右衛門佐は大石定久と氏康に降った。

 史料に拠れば右衛門佐は康邦とある。氏康の子氏邦はその女を妻とし、藤田氏を継ぎ、秩父郡天神山城から鉢形城に移り、鉢形領を支配した。後北条氏の上野進出では先鋒となり、沼田城代に猪股邦憲を置いた。家督を譲った康邦は用土村に移って藤田を用土に改姓したという。
 その用土地区北方で、旧岡部町本郷に藤田神社は鎮座している。



                               本郷藤田神社
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                                               所在地   埼玉県深谷市本郷1525

                                               御祭神   伊弉諾尊 伊弉冉尊

                                               社  挌   不明

                                               例  祭   10月14日(秋季大祭)


 本郷藤田神社は埼玉県道75号熊谷児玉線を児玉方向に進み、針ヶ谷地区を越えた本郷駐在所前交差点を左折し、そのまま道なりに行くと2、3分で右側に鎮座する。この社は道沿いにあり、境内は広く奥行きもある。境内北側には社務所があり、そのすぐ隣には駐車スペースもありそこに車を停めて参拝を行った。
 案内板、由緒等はないのが残念なほど境内は比較的広く、清掃等もいきわたっていて、清々しい気持ちで参拝を行うことができた。

         
                    

 
 道路沿いにある一の鳥居(写真左)、その奥には二の鳥居がある(写真中央)。一の鳥居の左側には社号標が屹立している。鳥居を越えると長い参道が続き(写真右)、拝殿に到着する。 

                                   

                                      参道左側には神楽殿                                  右側には境内社、飯玉社か

 藤田神社の獅子舞は、例大祭に合わせ、7月第3土曜日及び、10月中旬に行われている。この獅子舞は法眼、男獅子、女獅子の3頭からなり、神社の夏祭りや秋祭りで奉納される。秩父の皆野­より江戸時代に伝授されたと伝わり、雨乞いや悪疫退散祈願を目的に奉納されてきたもの­である。またある説では慶長5年(1600)、地頭花井伊賀守が、疫病退散のため、左甚五郎作の獅子頭を藤田神社に奉納したことによるとも言われている。
 この藤田神社の獅子舞は、深谷市指定無形民俗文化財に昭和51年11月3日に認定を受けている。


                                               

                                                            拝    殿

                                               

                                                            本    殿

 延暦(782~806)の昔、坂上田村麿将軍の東夷征伐の途中、藤田社に詣でて武運を祈ったという。そのとき持っていた藤の鞭を地上に逆さまに挿し、「我が軍利あらば繁茂せよ」と誓うと、その藤の鞭に根や葉が生じ、やがて将軍に軍功をもたらしたという。逆藤の旧跡は、現在も伝わっている。
 用土は戦国時代に藤田重利が隠居の後に移り住んだ地でこの地に居城(用土城)し、鎮守の社として藤田神社を創立したともいい、康邦夫婦と祖先正行の三霊を祀ったとという説もある。藤田神社は現在深谷市本郷にあるが、古くは字藤の木にあったらしく、その後明治3年に字中村に遷祀、明治41年に飯玉大神社の境内だった現在地へ移転し、従来の飯玉大神社は境内神社とされた。

 藤田氏は戦国時代には関東管領上杉氏の重臣で鉢形城主だった。しかし、天文15年(1546)の川越夜戦に上杉方が敗北すると、多摩の豪族、大石氏と共に北条氏康に降伏し、氏康の三男氏邦を養子として家督を譲る。自らは鉢形城を出て当主の座を譲り、平野地で防御力の低い用土に館を構え、名も北条氏康の「康」、北条氏邦の「邦」の字を合わせ「康邦」と名乗った。(または名乗らせられた)
 その後康邦は用土城に入ると改名して用土新左衛門と名乗ったという。 

                                  

 社殿の右側にある合祀記念碑、社日、石祠群。石祠は右から外宮、内宮、天神社までは判別できるがその他は正面が削られて解らず(写真左)。また社殿右側にある合祀社群、その奥にある境内社(写真右)


 藤田神社の散策記を記していて、その途中から寄居町の地図を見ると、不思議に思うことがある。地図を見るとよくわかるが、この用土地区は、現在の寄居町行政区画でも寄居町の中心部から大きく北にかけ離れ、いわば「飛び地」のような形を形成しているのだ。

 上記の通り、藤田氏は武蔵七党の猪股党の出で、政行が同国榛沢郡藤田郷(現寄居町藤田)に拠って藤田を称したという。寄居町末野陸橋付近にあたる。歴史が下り、藤田氏はそれ以降後北條氏の関東進出まで着実に勢力を伸ばし、その勢力は現在の寄居町の天神山城を拠点として、最盛期には大里・榛沢・男衾・秩父・那珂・児玉・賀美に及ぶ広範囲であり、北武蔵国随一の豪族に成長する。その寄居町の英雄である戦国時代の藤田氏の因縁の地であり、また終焉の地が用土地区なのだ。


                                         

   
                                                      静かな佇まいの藤田神社境内


 藤田康邦は重連・信吉という二人の子を連れて用土城に引退し、名を用土新左衛門尉と改め、氏邦の命令を家臣に伝達する立場となったが、その地位も次第に低いものとなったであろう。北条氏側から見ても藤田氏は邪魔者でしかなかったようで、康邦は天文24年(1555年)に亡ったが、その長男であり、名目とはいえ藤田家直系当主でもあり、北条氏邦の義兄である沼田城代、用土重連は天正6年(1578年)氏邦によって毒殺されたといわれる。

 用土地域は藤田氏の起源からその終焉を語る上においても重要な地であり、この地を寄居町側は決して手放したくない、そんな思いがこの行政上の区画割にも伝わる。









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