古社への誘い 

埼玉古墳群の謎(7)

           
 太田天神山古墳は別名「男体山古墳」ともいう。全長約210m、後円部直径約120m、前方部前幅約126m、後方部長さ約90m、後円部高さ約16.8m、前方部高さ約12mで、平地に造営された東日本最大の前方後円墳である。墳丘は前方部が二段築成、後円部が三段築成で、渡良瀬川水系の川原石を用いた葺石をともない、周囲には二重の周濠を有する。5世紀中頃から後半の築造とされており、二子山古墳の王者にとってつい最近の出来事であり、もしかしたら自ら実見し、その大きさを肌で体感したかもしれない。 

  丸墓山古墳と二子山古墳の関係を考えるうえで一つ重要なポイントがある。丸墓山古墳は直径105mの円墳であり二子山古墳の長さには及ばないが、高さが約19mあり他の古墳に比べてもかなり突出している。しかもこの墳頂部は戦国時代の石田三成による忍城攻めの際に12m削られたため、当初はもっと高かったと思われる。この丸墓山古墳の墳頂から東側から南側方向を見ると稲荷山古墳や二子山古墳が一望に臨め、この2大古墳を見下ろす形となる。この丸墓山古墳と二子山古墳はほぼ同時に築造されたものという。またこの古墳は生前中から築造されている可能性が高いことから、間違いなく(獲)加多支鹵大王は築造中の二つの古墳を見ているはずだ。丸墓山古墳からは何度も言うが稲荷山古墳と二子山古墳はおろか小崎沼や埼玉地域全体を見通せる絶好の位置に築造されている。この埼玉古墳群は稲荷山古墳→二子山古墳→鉄砲山古墳のラインが埼玉一族の正統な継承ラインで軸線上に引かれているように思われるが、丸墓山古墳はその軸線からは西側に外れている。しかし外見的に見ても丸墓山古墳のほうが他の古墳よりはるかに目立ち、それは今も昔も地上からの風景は変わらない。

          
                  丸墓山古墳から見る稲荷山古墳

  この稲荷山古墳は埼玉地域、のちには武蔵国の地に一大勢力を築き上げた(獲)加多支鹵大王の先代にあたる大王の輝けるモニュメントである。もし仮に丸墓山古墳と二子山古墳の埋葬者が違うのであれば、このような二子山古墳の埋葬者である埼玉古墳群中最大の大王である(獲)加多支鹵大王が丸墓山古墳の築造を許すだろうか。心ある人ならこう思うに違いない。「偉大な先代の眠る陵のすぐ近くにこのような巨大な山(?)を築くとはなんという無礼。祟られても知らないぞ。」と。

現代でも「言霊信仰」や「祟り」という日本古来の考え方は日本人の心の中(又はDA)に浸透していている。この「言霊信仰」や「祟り」は「八百万の神」などと言われるように日本の神道などもアニミズム的な思想的背景を持ち、森羅万象に神を見る縄文時代以前から発生した原始的な考え方から枝別れした日本人が持つ一種の宗教観(*宗教に代わる言葉が見いだせないので敢えて書かせて頂いた)の一つで、言霊に関して言えば結婚式や葬式には言ってはいけない言葉(忌み言葉)は、霊というものがあるかないかではなく、多くの日本人が今でも信じているものである。例えば明日は運動会だということでみんなで準備に盛り上がっているときに、誰かが「明日は雨が降るだろう」といったとする。その時は、せっかくみんなが楽しみにしているのに水を差すいやなことを言う奴だ、という程度のものかもしれない。ところが、翌日本当に土砂降りの雨が思いがけなく降ったりすると、「おまえがあんな事を言ったからこんな天気になった」と冗談まじりにでも非難する者が大体出てくる。全く因果関係がないことなのに我々の心の中では、「誰かが縁起でもないことを言ったからそれが現実のものとなった」という思考回路が自動的に働いてしまう。

「祟り」は神仏や霊魂などの超自然的存在が人間に災いを与えることで、後に祟りの対象が非業の最期を遂げた特定人物を対象に「怨霊信仰」と転化する。ただ日本の神は本来、祟るものであり、タタリの語は神の顕現を表す「立ち有り」が転訛したものといわれる。流行り病い、飢饉、天災、その他の災厄そのものが神の顕現であり、それを畏れ鎮めて封印し、祀り上げたものが神社祭祀の始まりとの説がある。ちなみにこの「怨霊信仰」は通説において、平安時代以降に成立したものと言われているが、古代日本のアニミズム信仰から神道への成り立ちを考えると「祟り」は遥か昔、縄文時代以前から日本人の中にあったものである。今でも「○○様の祟りだ」とか諺にも「触らぬ神に祟りなし」とちゃんとこの信仰は日本の土壌に根付いている。

このように科学が進歩した現代でもこのような言霊信仰や祟りは生活の中に入り込んでいて、ましてや時代は6世紀。政治と祭祀が分離していない政治学的に未熟な時代においては言霊信仰や祟りを恐れる考え方は現代よりも遥かに顕著ではなかっただろうか。

前章において(獲)加多支鹵大王は女性であると述べた。
 またこの女王は3世紀の耶馬壱国の卑弥呼とその政治的なスタンスが同じではないかと考えた。実際の政務全般は実弟が行う卑弥呼に対して、(獲)加多支鹵大王には近い親族である乎獲居臣が行う。祭祀面でいうと魏志倭人伝では卑弥呼は
鬼道に事(つか)へ、能(よ)く衆を惑わす、つまり呪術(占いか)を行い、民衆を従わせるカリスマ性のある存在だったに対して、最初(獲)加多支鹵大王にも同じ能力があったかどうかの確証がなく、課題事項であった。しかし最近実はこの武蔵の女王も祭祀的な能力があったのではないかと思える事項を発見したので報告する。
 まず埋葬や祭祀の儀式が行われたのではないかと思われる「造出し」についてだ。この造り出しの性格については埋葬主体説、祭壇説などがあるが、後者が有力と思われる。造り出しはこの世における死者の霊の依代となる家形埴輪を置き、その霊に供物を捧げ、奉仕する儀礼がおこなわれる神聖な場であった。また、その行為を周囲の人々に見せるようになったために出現したと考えられる。造り出しの埴輪配列は古墳時代の葬送儀礼を考える上で重要な情報を与えてくれるものと考えられる。なにより古代日本人にとって祭祀とは「神や祖先を祭ること、儀式」であり、大型祭祀施設である古墳はなにより祖先崇拝の一大モニュメントであった。
 その古墳において神聖の場である「造出し」がこの埼玉古墳群のほとんどの古墳(愛宕山古墳は造出しがないといわれているが本格的な発掘調査をしていない現在詳細は不明で、今は何とも言えない)、そして全て同じ方角に存在するということは非常に重要だ。
 

埼玉古墳群の南東には小埼沼がある。現在は広い田畑の一角にポツンと樹木が生い茂り、その中に「武蔵小埼沼」と彫られた石碑があるだけだが、かつて『万葉集』に詠まれ、利根川と荒川の氾濫によって水路が発達し、船着場があったであろうと推測され、弥生、古墳時代の37世紀頃までは十分に陸地化されず、現在の東京都心部は武蔵野台地付近以外は内海の一部ではなかったかと考えられる。
 この地には今では小さな祠の宇賀神社がポツンと鎮座しているが、当社の創始についての言い伝えに、
@
 「いつのころかこの村に、おさきという娘がいた。ある時おさきが、かんざしを沼に落とし、これを拾おうとして葦で目を突いたあげく、沼にはまって死んでしまったため、村人たちは、おさきの霊を小祠に祀った」
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 「おさきという娘が、ある年日照りが続き百姓が嘆くのを見て、雨を願い自ら沼に身を投じたところ、にわかに雨が降り地を潤し百姓たちはおおいに助かり、石祠を立て霊を祀った」


とあり、このことから見て当初は霊力の強い神霊を祀ったものが時代が下がるに従いこの地が水田地帯であるところから農耕神としての稲荷信仰と神使のミサキ狐の信仰が習合し現在の祭神宇賀御魂神が祀られたと考えられる。
 この「当初は霊力の強い神霊を祭ったもの」とは一体何であろうか。宇賀神社の言い伝えAにはおさきという女性が自らを犠牲にして神に生贄を捧げて祈願したという人柱の伝説であろう。この言い伝えも尾ひれがついて今に至ったとみることができ、本来の伝承とは違った形で伝承されたものではないだろうか。
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