古社への誘い 
 

 少名彦命
の真相
   
       

          少名彦命が御祭神である熊谷市三本地区に鎮座する渡唐神社

 渡唐神社の祭神は少彦名命でスクナヒコネ、スクナヒコ、スクナミカミともいい、多くの古代文献にみえる広い信仰圏をもった神である。またこの神は、後世の倭姫命の小虫生成説や一寸法師などの説話の祖型ともみられる不思議な神である。

 少彦名命は常世国(とこよのくに)から石(いわ)に示現する神と歌われ、粟茎(あわがら)に弾(はじ)かれて淡島(あわしま)より常世国に至ったとも語られる。またガガイモの舟に乗り、蛾(が)あるいは鷦鷯(さざき)(ミソサザイ)の皮を着て海上を出雲(いずも)の美保(みほ)崎に寄り着いたと説かれるので、この神は常世国より去来する小さ子神であったことがわかる。さらにこの神は、多くの場合、国造りの神として大己貴神、またの名を大国主命と並称されるが、その場合は種に関連し、農耕の技術や労働は大己貴神単独の行動として語られるため、その本質は粟作以来の穀霊であったと考えるべきであろう。

 
不思議とこの神の出自は、古事記において神産巣日神の子とされ、日本書紀では高皇産霊神の子とであり、いってみれば高天原生まれのエリートの神である。ところが生まれは高天原でも実際に住んでいるのはなぜか常世の国であり、あくまでも常世の国の住人としてこの世にやってきて、その優れた能力を発揮し、そして最後は常世の国に帰っていく。少彦名命は出生としては高天原の直系の神として主流派に属するのだが、その能力や機能という個性の面において国つ神の大己貴神に協力して国造りを協力している点で非主流の系統に属しているということになる。

さて少彦名命は国造りの立役者でありながら前段と何の脈略もなしにいきなり登場する。『古事記』によれば、大国主の国土造成に際し、天乃羅摩船に乗って波間より来訪し、大己貴大神の命によって国造りに参加したという。
 故、大國主神、坐出雲之御大之御前時、自波穗、乘天之羅摩船而、內剥鵝皮剥、爲衣服、有歸來神。爾雖問其名不答。且雖問所從之諸神、皆白不知。爾多邇具久白言、自多下四字以音此者久延毘古必知之、卽召久延毘古問時、答白此者神產巢日神之御子、少名毘古那神。自毘下三字以音故爾白上於神產巢日御祖命者、答告、此者實我子也。於子之中、自我手俣久岐斯子也。自久下三字以音故、與汝葦原色許男命、爲兄弟而、作堅其國。故、自爾大穴牟遲與少名毘古那、二柱神相並、作堅此國。然後者、其少名毘古那神者、度于常世國也。故、顯白其少名毘古那神、所謂久延毘古者、於今者山田之曾富騰者也。此神者、足雖不行、盡知天下之事神也。
口語訳
(この大国主神が出雲の御大の崎にいたとき、波間から、天の羅摩の船に乗り、鵝の皮を剥いで着物にしたものを着て、やって来た神があった。その名を尋ねたが答えない。お伴の神々に尋ねても、みな「知らない」と言う。だが多邇具久という神が、「これは久延毘古ならきっと知っているでしょう」と言った。そこで久延毘古を召して尋ねたところ、「これは神産巣日神の御子で、少名毘古那神という神です」と答えた。そこで神産巣日命に報告し、この神を見せたところ、「これは確かに私の子だ。私の子の中で、指の間から漏れた子だ。だからあなた、葦原色許男命はこの子と兄弟になって、この国を作り固めなさい」と言った。そこでこの後、大穴牟遲命と少名毘古那神の二柱は相並んで、この国を作り固めた。その後、少名毘古那神は常世の国に行ってしまった。この少名毘古那神の名を明らかにした、いわゆる久延毘古は、今は山田の曾富騰(そおど=かかし)という者である。この神は、歩くことはできないけれども、世の中のことをすべて知っている神だという。)

 少彦名命は常世の国から船を使用して出雲の地に来たという。ここでの最大のポイントは常世の国は何処か、ということだ。ウィキペディアには常世の国についてこのような記述をしている。

常世国
 常世の国(とこよのくに)は、古代日本で信仰された、海の彼方にあるとされる異世界である。一種の理想郷として観想され、永久不変や不老不死、若返りなどと結び付けられた、日本神話の他界観をあらわす代表的な概念で、古事記、日本書紀、万葉集、風土記などの記述にその顕れがある。
 こうした「海のはるか彼方の理想郷」は、沖縄における海の彼方の他界「ニライカナイ」にも通じる。また、常世の国は沖縄や台湾、あるいは済州島などともいわれている。(中略)
 常世の国へ至るためには海の波を越えて行かなければならず、海神ワタツミの神の宮も常世の国にあるとされていることから、古代の観念として、常世の国と海原は分かちがたく結びついていることは明らかである。『万葉集』の歌には、常世の浪の重浪寄する国(「常世之浪重浪歸國」)という常套句があり、海岸に寄せる波は常世の国へと直結している地続き(海続き)の世界ということでもある。
 
しかしながら、常世の国には、ただ単に「海の彼方の世界」というだけでなく、例えば「死後の世界」、「神仙境」、永遠の生命をもたらす「不老不死の世界」、あるいは「穀霊の故郷」など様々な信仰が重層的に見て取れる。(中略)


 つまり、常世の国とは現世的な海の彼方の一地域の他に、「死後の世界」、「不老不死の世界」という観念的世界観も含まれるという。ただここではこの「死後の世界」、「不老不死の世界」という観念的世界観についての意見は述べない。何故ならこのような神の領域にも似た主張はこの取るに足らない一平凡人が話す内容ではないからだ。
 現世的な海の彼方の一地域として考えた場合、この常世の国は記紀において少彦名命、御毛沼命、多遲麻毛理が、そして万葉集や日本書紀において浦島子が常世の国に渡った、との記事が存在する。これらの人物の内容の説明は長くなるのでここではあえて紹介はしないが、この4人には全て共通する項目がある。その共通する項目とはこの4人は海岸線の近くに活動拠点を有している。という点だ。
 少彦名命は上記にて説明した通りだが、御毛沼命は神武天皇の兄で古事記において波の穂を跳みて常世の国に渡ったとある。多遲麻毛理は垂仁天皇の時代、不老不死の薬である時じくの香の木の実(ときじくのかくのこのみ)を常世の国に遣わした、との記事がある。この時じくの香の木の実とは時を定めずということから「いつでも香りを放つ木の実」を指すと解され、「今の橘なり」と言われる。橘は葉が常緑であることから、「永遠性・永続性」の象徴と考えられ、その橘という木は西日本、特に和歌山県、三重県、山口県、四国、九州の海岸に近い山地にまれに自生するという。浦島子は浦島太郎の別名。皆さんもご存じの人物で、ここから考えられることは、この4人は海洋民ではなかったか、ということだ。

 この渡唐神社で上記のような説明を長々としたか、不思議に思う方も多いと思うが実は理由がある。 この社の名前である「渡唐」といい、所在地である「三本」といい、全て海に関する地名、神社名なのだ。
渡部 ワタナベ 海(バタ、ハタ)の転訛で海(ワタ)の佳字に渡を用いる。
藤   フヂ  葛(ふぢ)は、葛(つつら、つづら)、管羅(つつら、くだら)の転訛にて、百済(くだら)を指す。山城国葛野郡(かどの)は韓人秦氏の本拠地である。葛野川(かどのがわ)は別名桂川(かつらがわ)を称す。桂は葛野(かつらの)の転訛なり。葛野(かどの、かつらの)は葛野(ふぢの)とも称す。
  ミ  三は未(み)の佳字にて、羊(ひつじ)族の集落という。
下  モト 浦の意味にて海洋民を称す。佳字に元、本を用いる


 この地名や苗字等が過去の歴史にすぐに直結することはない。ないどころかそれで全てを証明することは危険である。地名の変化、変遷は一千有余年という長い歴史には当然あることだし、自然災害や人的災害による一族の移動もある。またそれを冷静に証明する信憑性のある史書等の存在も欠かせない。だからといって否定する事もまたナンセンスである。残念ながら今回この熊谷市三本地域には古来から続く「渡部、渡辺、渡」姓の史書、文章等の発見はなかったが、地道に時間をかけてじっくり調べていきたい。


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